すべての事物には反対のものがある
反対のものはわたしたちを成長させ,天の御父が望んでおられるような人物へと近づけてくれます。
イエス・キリストの福音の中心を成すのは,御父がその子供たちの永遠の進歩のために定められた救いの計画です。その計画は,現代の啓示で説明されているように,わたしたちが死すべき世で直面する多くのことを理解する助けになります。今日わたしは,その計画において不可欠な役割を持つ,反対のものに焦点を当てて話します。
I.
死すべき世の目的は,神の子供たちが「完成に向かって進歩して,最終的に永遠の命を受け継ぐ者としての神聖な行く末を実現する」ために必要な経験を与えることにあります。モンソン大管長が今朝力強く教えたように,わたしたちは選択することによって進歩します。選択することによって,神の戒めを守ることを示すかどうかを試されるのです(アブラハム3:25参照)。試されるには,選択肢の中から選ぶという選択の自由が必要です。選択の自由を行使する際の選択肢を備えるには,反対のものがなければならないのです。
この計画の残りの部分も欠かせないものです。選択を誤ると―人に誤りはつきものですが―わたしたちは罪によって汚れてしまい,永遠の行く末に向かって進むために清めが必要となります。清めの方法は御父の計画に用意されていて,正義の永遠の要求を満たします。救い主がわたしたちを罪から贖うために代価を払ってくださるのです。その救い主こそ,永遠の御父である神の独り子,主イエス・キリストです。わたしたちが罪を悔い改めるなら,主の贖いの犠牲―主の苦しみ-が,わたしたちの罪の代価を払ってくれるのです。
反対のものが果たす計画された役割を最もよく説明しているものの一つが,モルモン書にある,リーハイが息子ヤコブに説いた教えです。
「すべての事物には反対のものがなければならない……。もし……反対のものがなければ,義は生じ得ないし,邪悪も,聖さも惨めな状態も,善も悪も生じ得ない。」(2ニーファイ2:11。15節も参照)
そのために,「主なる神は思いのままに行動することを人に許された。しかし人は,一方に誘われるか他方に誘われるかでなければ,思いのままに行動することはできなかった」とリーハイは続けています(16節)。同様に,現代の啓示でも主は次のように宣言しておられます。「悪魔が人の子らを誘惑するのは必要である。そうでなければ,人の子らは自ら選択し行動する者とはなれない。」(教義と聖約29:39)
エデンの園でも反対のものは必要でした。もしアダムとエバが死すべき状態を生じさせる選択をしなかったら,「罪を知らないので善も行わず,罪のない状態にとどまっていたであろう」とリーハイは教えています(2ニーファイ2:23)。
初めから,選択の自由と反対のものは,御父の計画と,その計画に対するサタンの謀反の中核を成すものでした。主がモーセに明らかにされたように,天上の会議においてサタンは「人の選択の自由を損なおうと」しました(モーセ4:3)。選択の自由を損なうことが,サタンの提案の意図するところだったのです。サタンは御父の御前に出て言いました。「御覧ください。わたしがここにいます。わたしをお遣わしください。わたしはあなたの子となりましょう。そして,わたしは全人類を贖って,一人も失われないようにしましょう。必ずわたしはそうします。ですから,わたしにあなたの誉れを与えてください。」(モーセ4:1)
このようにサタンは,御父の目的が成就するのを妨げ,自分に御父の誉れが与えられるような方法で御父の計画を遂行しようと提案したのです。
サタンの提案は完全な平等を確約するものでした。「全人類を贖って」,誰一人失われないようにするのです。誰にも選択の自由がなく,選択権もないので,反対のものは必要ありません。試されることもなく,失敗も,そして成功もないのです。御父がその子供たちに望まれた,目的を達成するうえでの成長もありません。聖文には,サタンが反対した結果,「天では戦いが」起こり(黙示12:7),神の子供の3分の2がサタンの背きを退け,御父の計画を選んだことによって,死すべき世を経験する権利を得たと記されています。
サタンの目的は,御父の誉れと力を自らが得ることでした(イザヤ14:12-15;モーセ4:1,3参照)。御父は言われました。「サタンはわたしに背い〔た〕ので,……わたしは……彼を投げ落とさせた。」(モーセ4:3)サタンに従うことを選択の自由を使って選んだ全ての霊も,ともに投げ落とされました(ユダ1:6;黙示12:8-9;教義と聖約29:36–37参照)。肉体を持たない霊として投げ落とされたサタンとそれに従う者たちは,神の子供たちを誘惑し,欺き,とりこにしようとします(モーセ4:4参照)。したがって,御父の計画に反対し,それを損なおうとした悪しき者が,実際は,計画を進めたのです。なぜなら,反対のものがあることで選択が可能になり,正しい選択をする機会こそ,御父の計画の目的である成長につながるからです。
II.
大切なのは,罪への誘惑だけが死すべき世における反対のものではないということです。父リーハイは,堕落がなければアダムとエバは「不幸を知らないので喜びもなく……罪のない状態にとどまっていたであろう」と教えています(2ニーファイ2:23)。死すべき世において反対のものを経験しなければ,幸福も不幸もなく,「すべての事物は混じりあって一つとならざるを得」ません(11節)。父リーハイは続けて言いました。それであるから,「人の行く末にかかわる永遠の目的を達するために」神が全ての事物を創造された後,「反対のものが備えられなくてはならなかった。すなわち,禁断の実に対しては命の木というようであって,一方は甘く他方は苦かった。」(15節)救いの計画のこの部分についてのリーハイの教えは次の言葉で終わっています。
「見よ,すべての物事は,万事を御存じである御方の知恵によって行われてきた。
アダムが堕落したのは人が存在するためであり,人が存在するのは喜びを得るためである。」(24-25節)
死すべき世で直面する,困難な状況という形で現れる反対のものは,死すべき世においてわたしたちの成長を促すというこの計画の一部でもあるのです。
III.
わたしたちは皆,さまざまな形で現れる反対のものによって試されます。このような試しの中には,罪への誘惑も含まれます。また,個人の罪とは関係のない,死すべき世の試練も含まれます。きわめて重大なものもあれば,ささいなものもあります。ずっと続くものもあれば,一時的なものもあります。誰も免れることはできません。反対のものはわたしたちを成長させ,天の御父が望んでおられるような人物へと近づけてくれます。
ジョセフ・スミスはモルモン書の翻訳を終えた後,出版社を見つける必要がありましたが,これは容易なことではありませんでした。この長い原稿の複雑さと,何千冊も印刷して製本するための代価には,おじけづくほどでした。ジョセフはまず,パルマイラの印刷業者E・B・グランディンと交渉しましたが,断られました。次に,パルマイラの別の印刷業者のもとに行きましたが,そこでも断られました。次に25マイル(40キロ)離れたロチェスターまで行き,ニューヨーク州西部最大手の出版社と交渉しましたが,そこにも断られてしまいます。ロチェスターの別な出版社が前向きに対応してくれましたが,諸事情により,これもかなわなくなりました。
数週間がたち,神から受けた責務の達成を阻む反対のものに,ジョセフは当惑したに違いありません。主はその責任を軽くしてはくださいませんでしたが,達成できるようにしてくださいました。ジョセフの5回目の試みで,パルマイラの出版業者グランディンへの2度目の交渉が成功したのです。
数年後,ジョセフはリバティーで何か月もの間つらい監獄生活を余儀なくされました。助けを求めて祈った彼に,主は「これらのことはすべて,あなたに経験を与え,あなたの益となるであろう」と言われました(教義と聖約122:7)。
わたしたちは誰でも,病気,障がい,死など,個人の罪によらない,死すべき世の反対のものをよく知っています。トーマス・S・モンソン大管長はこのように説明しています。
「皆さんの中には苦しみのあまり泣き叫んだことがある人がいるかもしれません。どんな試練であれ,天の御父がなぜあなたにこのような経験をさせるままにしておかれるのだろうと思ったかもしれません。……
しかし,死すべき世は楽な,常に心地よいものとなるように用意されたわけではないのです。天の御父は……わたしたちが困難な試練やつらい悲しみ,難しい選択を経験することで学び,成長し,精錬されることを御存じです。人は皆,愛する家族を失った暗い日々や,病気になった苦しい時期,そして愛する人が離れていったように思えるときに見捨てられた悲しみを経験します。このような試練は全て,わたしたちの堪え忍ぶ力を真に試すものです。」
安息日の過ごし方を改善しようと努力することは,反対のものの中でもストレスの少ない例でしょう。わたしたちには安息日を尊ぶという主の戒めが与えられています。わたしたちの選択の中には,その戒めに反するものがあるかもしれませんが,安息日の過ごし方の他の選択肢としては,単に,良いもの,より良いもの,最も良いものうち,何を選ぶかという問題にすぎません。
誘惑という反対のものについて,モルモン書には,悪魔が終わりの時に用いる3つの方法が記されています。第1に,悪魔は「人の子らの心の中で荒れ狂い,人の子らをそそのかして善いことに対して怒らせ」ます(2ニーファイ28:20)。第2に,「〔教会員〕をなだめ,彼らを欺いて現世での安全を確信させるので,彼らは,『……シオンは栄えており,すべてが良い』と」言います(21節)。第3に悪魔は,「『地獄はない』と告げ,『悪魔はいないので,わたしは悪魔ではない』」(22節),したがって善と悪もないと言います。このように反対のものがあるために,わたしたちは「シオンでのんきに暮らす」ことのないよう警告されているのです(24節)。
今日,神聖な使命を携える教会と,わたしたちが私生活で直面する反対勢力はますます力を増しているように思われます。それは,教会が強さを増し,会員の信仰と従順の度合いが高まっているからかもしれませんが,サタンは敵対する力を強め,そのために,わたしたちはこれからも「すべての事物に〔対して〕反対のもの」を受け続けるでしょう。
時には教会員の中からでさえ反対のものが生じます。個人的な論理や知恵を用いて預言者の指示に抵抗し,政治家の言葉を借りて自らを「忠実な野党」と名乗る人もいます。そのようなことが民主主義においてどれほど適切であっても,神の王国の政体において,その概念が認められることはありません。神の王国にあって疑問は尊重されても,敵対することは尊重されないからです(マタイ26:24参照)。
別の例を挙げましょう。初期の教会歴史記録には,さまざまな状況でジョセフ・スミスが行ったこと,行わなかったことなどに関する多くの記述があり,それを反対の論拠に利用する人がいます。皆さんに申し上げます。どうぞ信仰を働かせ,救い主の教えを信頼して,「その実によって彼らを見わける」ようにしてください(マタイ7:16)。教会は,所蔵する記録の透明性を保つ多大な努力を払っていますが,公開できる記録を全て公にしたとしても,研究では解決できない基本的な疑問が会員に残ることもあります。それは「すべての事物には反対のものが〔ある〕」ことの教会歴史バージョンです。信仰によってしか学べないことが幾つかあります(教義と聖約88:118参照)。わたしたちが最終的に頼るべきは,聖霊から受けた証を信じる信仰なのです。
神が他の人を助けるために誰かに干渉することによって,神の子供たちの選択の自由を侵害されることはほとんどありません。しかし神は,へラムの地のアルマの民になさったように,わたしたちの苦難の重荷を軽くし,それに耐える力を与えてくださいます(モーサヤ24:13-15参照)。神は全ての災害を防ぐことはなさいませんが,フィジーで神殿奉献式の開催を脅かしたとてつもないサイクロンが襲来したときのように,わたしたちの祈りにこたえて惨事を遠ざけてくださいます。あるいは,ブリュッセル空港で爆弾テロによって多くの人命が奪われながらも,わたしたちの宣教師4人は負傷するにとどまったように,災害の影響を軽くしてくださいます。
死すべき世のあらゆる反対のものについて,神は「〔わたしたちの〕苦難を聖別して,〔わたしたちの〕益としてくださる」と保証しておられます(2ニーファイ2:2)。またわたしたちは,死すべき世の経験と神の戒めを,偉大な救いの計画に照らして理解するように教えられてきました。救いの計画は人生の目的を教え,救い主への確信を与えてくれます。これらの事柄が真実であることを,イエス・キリストの御名によって証します,アーメン。