2010–2019
4階の最後のドア
2016年10月


21:33

4階の最後のドア

神は,「心から求める者に報いて下さ」います。ですから,たたき続けなければなりません。姉妹の皆さん,諦めないでください。心を尽くして神を求めてください。

愛する姉妹の皆さん,友人の皆さん,わたしたちの愛する預言者であるトーマス・S・モンソン大管長の指示と指導の下,この世界規模の大会に再び集まることができるのは,何という祝福でしょうか。大管長,わたしたちはあなたを愛し,支持しています。大管長が教会の姉妹たちを愛していることを知っています。

教会の姉妹たちのために開かれる,総大会のこのすばらしい部会に出席するのが大好きです。

姉妹の皆さん,わたしは皆さんを見るときに,わたしの人生に大きな影響を与えてくれた女性たちに思いをはせずにはいられません。教会がどのような所か来て見るようにとの招待を最初に受け入れた祖母と母,わたしが一目ぼれした愛する妻のハリエット,がんで夫を亡くして間もなく教会に入った,ハリエットの母,わたしの姉,娘,孫娘,ひ孫たち。彼女たち全員がわたしに影響を与え,わたしを高めてくれました。ほんとうに,わたしの生活を輝き照らしてくれます。より善い人,より思いやりに満ちた教会指導者となれるよう励ましてくれます。彼女たちがいなければ,わたしの人生はどれほど違っていたことでしょう。

恐らく,何よりも謙遜な思いにさせられることは,皆さんのような信仰深い女性たちの能力や才能,知性や証を通して,その影響が教会全体で何百万倍にもなって及ぶということです。

でも中には,そのような高い賞賛を受ける資格は自分にはないと思う人もいるかもしれません。人に大きな影響を与えられるほど自分は大した人物ではないと思うかもしれません。疑いや恐れと闘っている自分は「信仰の女性」でさえない,と思うかもしれません。

今日わたしは,そのような思いを一度でも感じたことのある人,恐らくわたしたち全員に向けてお話ししたいと思います。信仰について―信仰とは何か,信仰によってできることとできないこと,生活の中で信仰の力を発揮するためになすべきことについてお話しします。

信仰とは

信仰とは,信じる事柄に関する強い確信です。確信が非常に強いため,それなしにはなし得なかった事柄を行うようにわたしたちを突き動かします。「信仰とは,望んでいる事がらを確信し,まだ見ていない事実を確認することで〔す〕。」

これについて,信仰を持つ人々は納得できますが,信者でない人々は困惑し,首を横に振ってこう尋ねるのです。「どうやって見えないものを確信できるのですか」と。これこそ,彼らにとって宗教は合理的でないと思える理由です。

彼らが理解できないのは,目以外に見る方法があり,手以外に感じる方法があり,耳以外に聞く方法があるということです。

おばあさんと散歩していたある少女の経験をお話ししましょう。少女の耳に聞こえる鳥の声はどれもすばらしく,少女は一つ一つの声についておばあさんに伝えました。

少女は「おばあちゃん,聞こえる?」と何度も聞きましたが,耳の遠いおばあさんには,よく聞こえませんでした。

ついにおばあさんは,ひざをついて言いました。「ごめんね。おばあちゃんにはよく聞こえないのよ。」

少女は怒って両手でおばあさんの顔をはさむと,その目をじっと見詰めて言いました。「おばあちゃん,もっと一生懸命聞いて!」

この話には,信じる者,信じない者両方にとって学ぶべきことがあります。何かが聞こえないからといって,聞くべきものが何もないというわけではありません。二人の人が同じメッセージを聞いたり,同じ聖文を読んだりしても,一人は御霊の証を受け,もう一人は受けない可能性があります。

一方で,愛する人々が御霊の声を感じ,イエス・キリストの福音の,壮大であり,永遠で深い美しさを実感できるように助けようと努力する中で,「もっと一生懸命聞いて」と伝えるのは,あまり効果的ではないかもしれません。

信仰を強めたいと思っている人へのより良いアドバイスは,違う方法で聞くことです。使徒パウロは,耳だけでなく霊に語りかける声に耳を傾けるようにと励ましています。パウロは教えました。「御霊を受けていない人は神の御霊から来るものを受け入れず,愚かなものと考える。これらのことは御霊によってしか識別できないため,彼らには理解できないのである。」あるいは,サン=テグジュペリ作『星の王子さま』の次の言葉を考えるべきかもしれません。「ものごとはね,心で見なくてはよく見えない。いちばん大切なことは,目に見えない。」

信仰が持つ力と限界

物理的な世に住みながら霊的な事柄に対する信仰をはぐくむのは簡単ではありません。でも,努力する価値はあります。生活の中で発揮される信仰の力は深遠だからです。聖文は,信仰によって多くの世界が創られ,水が分けられ,死者がよみがえり,川の流れや山の位置が変えられたと教えています。

中にはこのように尋ねる人もいるでしょう。「これほど強い信仰があるのに,なぜ心からの祈りに答えを受けられないのですか。海を分けたり,山を動かしたりする必要はありません。ただ,病気が治り,両親が互いに赦し合い,片手には花束を,もう片方の手には婚約指輪を持った永遠の伴侶が玄関先に現れてくれさえすればいいのです。わたしの信仰ではそれがなぜできないのですか。」

信仰は確かに力強く,奇跡を起こすこともよくあります。しかし,どれほどの信仰を持っていても,できないことが二つあります。まず,人の選択の自由を侵すことはできません。

ある女性は,道を外れた娘がキリストの群れに戻るよう何年も祈り続けましたが,祈りがこたえられなかったと思い,落胆しました。放蕩息子や娘がその生き方を悔い改めたという話を周りから聞くのは,特につらいことでした。

彼女の問題は,祈りや信仰が足りなかったということではありません。天の御父にとってもつらいことですが,神はだれにも義の道を選ぶように強制なさらないことを,彼女はただ理解する必要があったのです。前世においても,神はその子供たちに御自分に従うよう強制されませんでした。そうであるなら,今この現世を旅するわたしたちを強制されることがないのは当然でしょう。

神は招き,説得してくださいます。たゆまず,愛と霊感と励ましをもって手を差し伸べてくださいます。しかし,決して無理強いされることはありません。永遠の進歩をもたらす主の偉大な計画を台なしにしてしまうからです。

信仰でできない二つ目のことは,神にわたしたちの思いを無理強いすることです。自分の望みをかなえてくださるよう神に強要することはできません。たとえどんなに正しいと思えても,どれほど心から祈ったとしてもです。パウロが「肉のとげ」と呼んだ,個人的な試練から逃れさせてくださるように何度も主に願い求めた経験について考えてみてください。しかし,それは神の御心ではありませんでした。やがてパウロは,試練が祝福であったことに気づき,自分が望んだようには神がおこたえにならなかったことを感謝しました。

信頼と信仰

そうです。信仰の目的は,神の御心を変えることではなく,神の御心に従って行動する力を受けることです。信仰とは信頼です。わたしたちには見えないことを神は御覧になり,わたしたちが知らないことを神は御存じであると信頼することです。自分の見方や判断を信頼するだけでは十分ではないことがあります。

わたしは航空機のパイロットとしてこれを学びました。数メートル先も見えないほど,濃い霧や雲の中に入ったことが何度かありました。自分の位置や進んでいる方向を教えてくれる機器に頼らなければなりませんでした。航空交通管制官の声に耳を傾ける必要がありました。自分よりも正確な情報を持っている人の指示に従わなければなりませんでした。目には見えないけれども信頼を寄せるようになった人,わたしには見えないものが見える人です。目的地に安全に到着するためには,その人を信頼し,従わなければなりませんでした。

信仰とは,神の知恵だけでなく,神の愛を信頼するということです。神は完全にわたしたちを愛しておられ,神がなさるすべての事柄,与えてくださる祝福も,しばし与えずにとどめておかれる祝福もすべて,わたしたちの永遠の幸福のためだということです。

このような信仰を持つとき,ある事柄が起こる理由や祈りがこたえられない理由は理解できなくても,最終的にはすべての意味が明らかにされると知ることができるのです。「万事は神を愛する者たちの益となる」のです。

すべてが正されます。すべてがよくなります。

答えは必ず来ると確信できます。わたしたちはその答えに満足するだけでなく,天の御父がその子供であるわたしたちに抱いておられる恵みや憐れみ,寛大さと愛に圧倒されるでしょう。

とにかくたたき続ける

そのときまでは,信仰を増し加えられるよう常に求めながら,今持てるかぎりの信仰によって歩くのです。時に,この探求は簡単ではありません。忍耐強くない人,決意が弱い人,注意深くない人にとって,信仰は捉えどころがないように思えるかもしれません。すぐに落胆し,注意散漫になる人は,信仰を経験することがほとんどないかもしれません。信仰は,謙遜で勤勉で堪え忍ぶ人に与えられます。

忠実さという代価を払う人に与えられるのです。

改宗者のバプテスマがほとんどないヨーロッパのある地域で伝道していた二人の若い宣教師の経験が,この真理を物語っています。彼らが,何をやっても何も変わらないと考えたとしても無理はなかったと思います。

しかし,この二人の宣教師は信仰を持ち,献身的に働きました。たとえだれもメッセージを聞かないとしても,それは自分たちが最善の努力を払わなかったからではないという態度で臨みました。

ある日二人は,ある4階建てのアパートの住民に伝道しようと心に感じました。1階から始めて,すべてのドアをたたき,イエス・キリストの救いのメッセージと主の教会の回復を伝えようとしました。

ウークトドルフ姉妹が子供のころ住んでいたアパート

1階の人はだれも話を聞きませんでした。

「やってはみた。ここでやめて,ほかの建物に行って伝道しよう」と言うのは,どんなに簡単だったことでしょう。

しかし,この二人の宣教師には信仰があり,働く望みがあったので,2階のすべてのドアをたたきました。

またもや,だれも聞いてはくれませんでした。

3階も同じでした。4階も同様でした。ただし,4階の最後のドアをたたくまでは。

ドアが開き,一人の少女がにっこりして,お母さんと話すから待ってほしいと言いました。

最近夫を亡くし,まだ36歳であった母親は,モルモン教の宣教師と話したい気分ではないから,帰るように伝えなさいと娘に言いました。

しかし,娘は母親に懇願しました。「すごくいい人たちだし,ほんの少しの時間しかかからないから。」

そこで,母親はしぶしぶ折れました。宣教師はメッセージを伝え,母親にこの本を読んでほしいと言って,モルモン書を渡しました。

二人が帰った後,数ページだけでも読んでみようと母親は決めました。

そして,数日でその本を1冊読み終えたのです。

ウークトドルフ姉妹の家族と宣教師

間もなく,このすばらしいひとり親の家族がバプテスマの水に入りました。

この小さな家族がドイツのフランクフルトのある支部に集ったとき,一人の若い執事が娘の一人の美しさに気づき,こう思いました。「この宣教師たちは,なかなかいい仕事をしているなあ。」

この若い執事の名前は,ディーター・ウークトドルフでした。母親に宣教師のメッセージを聞くように懇願した魅力的な少女は,ハリエットという美しい名前を持っていました。彼女はこれまでわたしの旅に付き添ってくれ,出会うすべての人に愛されています。そして,福音に対する愛と,輝くように明るい人柄によって多くの人の人生に祝福を与えてきました。彼女はわたしの人生にとってまさに太陽の光です。

ノルウェーで話すウークトドルフ姉妹

1階でやめなかった二人の宣教師に,わたしは何度感謝で胸を熱くしたことでしょう。二人の信仰働きに何度,心からの感謝を感じたことでしょう。4階の最後のドアまで続けてくれたことに,何度感謝したことでしょう。

あけてもらえるであろう

たゆまぬ信仰を求め,神とその目的とつながりたいと求めるとき,「門をたたけ,そうすれば,あけてもらえるであろう」という主の約束を覚えましょう。

わたしたちは,ドアを一つか二つ,あるいは1階か2階のドアをたたいただけで諦めますか。

それとも,4階の最後のドアにたどり着くまで求め続けますか。

神は,心から「求める者に報いて下さ」いますが,大抵の場合,報いは最初のドアの向こうにはないのです。ですから,たたき続けなければなりません。姉妹の皆さん,諦めないでください。心を尽くして神を求めてください。信仰を働かせてください。義の中を歩んでください。

皆さんが,4階の最後のドアに至るまで求め続けるなら,その答えを受けるでしょう。信仰を見いだすでしょう。そしていつの日か,光に満たされ,その光は「ますます輝きを増してついには真昼となる」でしょう。

キリストにあってわたしの愛する姉妹である皆さん,神は実在しておられます。

御父は生きておられます。

皆さんを愛しておられます。

皆さんを御存じです。

みなさんを理解しておられます。

皆さんの声にならない心の叫びを御存じです。

見捨ててはおられません。

見放されることもありません。

すべての人が心と思いによって自分でこの崇高な真理を知ることができるという証と,使徒としての祝福を皆さんに残します。友である皆さん,姉妹の皆さん,どうか信仰に生きてください。そうすれば,神は約束されたように,あなたの祝福を千倍にも増してくださることでしょう。

わたしの信仰,確信,揺るぎない確かな証を皆さんに残します。これは神の御業です。このことを,わたしたちの愛する救い主であるイエス・キリストの聖なる御名によって証します,アーメン。