主を信頼しているでしょうか?困難は益となります
どのようなことであっても,信仰をもって前進し,主とその計画を信頼する人にとって,困難は益となります。
わたしの話を始める前に,最近のハリケーンや地震の被害に遭ったすべての人々を代表して,「ヘルピング・ハンズ」と彼らを取りまとめてくださった方々に心からの感謝をお伝えします。彼らはわたしたちに助けと希望を与えてくれました。
2006年10月,わたしは初めて総大会で話をしました。そのとき,「主はわたしたちを信頼しておられる」と明言することを含め,全世界の教会員に向けた大切なメッセージを感じました。
実に様々な形で,主は確かにわたしたちを信頼しておられます。主はイエス・キリストの福音を,この神権時代に,完全な形で与えてくださっています。御自分の神権の権能を,それを正しく用いるための鍵とともに,わたしたちに託してくださっています。その力によって,わたしたちは祝福を授け,仕え,儀式を受け,聖約を交わすことができます。主は御自分の回復された教会を,聖なる神殿を含めて,わたしたちに任せてくださっています。御自分の僕たちに,地上でつなぐものを天でもつなぐための結び固めの力を託してくださっています。さらには御自分の子供たちの地上における親や教師,世話をする者とするほどに,わたしたちを信頼してくださっています。
中央幹部として世界各地で何年も奉仕してきた今,わたしはさらなる確信をもって宣言します。主はわたしたちを信頼しておられます。
さて,この大会での問いかけはこれです。「わたしたちは主を信頼しているでしょうか。」
主を信頼しているでしょうか?
トーマス・S・モンソン大管長は度々次のことを思い起こさせてくれます。「心をつくして主に信頼せよ,自分の知識にたよってはならない。
すべての道で主を認めよ,そうすれば,主はあなたの道をまっすぐにされる。
自分を見て賢いと思ってはならない。」(箴言3:5-7)
わたしたちは主の戒めが自分たちに益をもたらすものであることや,主の指導者が,たとえ不完全であっても,正しく導いてくれること,主の約束が確かなものであることに信頼を寄せているでしょうか。天の御父とイエス・キリストが実際にわたしたちを御存じであって,わたしたちを助けたいと望んでおられると信じているでしょうか。試練や問題,困難な時期のただ中にあるとき,それでもなお主を信頼しているでしょうか。
振り返ってみると,最も大切な教訓の幾つかは最も困難な時期に学んできました。青少年のころや伝道中もそうでしたし,新しい仕事を始めたときや,召しを尊んで大いなるものとしようと努力し,大家族を養い,自立しようと奮闘していたときも同様です。明らかに,困難は益となるようです!
困難は益となる
困難はわたしたちを強くし,謙遜にし,自分の能力を発揮する機会を与えてくれます。わたしたちの愛する手車の開拓者たちは,窮地にあって神を知るようになりました。ニーファイと兄たちが真鍮の版を手に入れるのに2章を要しましたが,イシマエルの家族を荒れ野へ同行するよう招く際はわずか3節で済んでいます。なぜでしょうか(1ニーファイ 3-4章;7:3-5)。主は苦労して版を手に入れる経験を通してニーファイを強めたいと望んでおられたように思われます。
人生で困難が訪れるのは何ら驚くべきことではありません。わたしたちが主と最初に交わす聖約の一つは,犠牲の律法に従って生活することです。犠牲には当然のこととして何か好ましいものを諦めることが伴います。経験を通して,わたしたちは後に受ける祝福に比べればそれがわずかな代価であることを理解します。ジョセフ・スミスは次のように教えています。「すべてのものを犠牲にささげることを求めない宗教は,人を命と救いに導くのに必要な信仰を育む十分な力を得ることができません。」
神会の方々は困難についてよく御存じです。父なる神は,十字架による死を含め,贖罪の恐ろしい苦しみを受ける者として御自分の独り子をささげられました。聖文には,イエス・キリストが「さまざまの苦しみによって従順を」学んだと記されています(へブル5:8)。主は贖罪の苦痛を進んでお受けになりました。聖霊は寛容な御方であるに違いなく,時に無視され,誤って解釈され,忘れ去られながらも,わたしたちに促しや警告や導きを与えてくださいます。
計画の一部
困難は福音の計画の一部です。わたしたちにとって,この人生の目的の一つは試しを受けることです(アブラハム3:25参照)。アルマの民ほど不当な苦しみを受けた人々はそうはいないでしょう。邪悪なノア王から逃れた彼らは,次にレーマン人の奴隷となってしまいます。これらの試練を通して,主は御自分の民を懲らしめられることと,民の忍耐と信仰を試されることを,彼らにお教えになりました(モーサヤ23:21)。
リバティーの監獄での悲惨な日々に,主はジョセフ・スミスに「それをよく堪え忍ぶ」ように教え(教義と聖約121:8),そうすれば「これらのことはすべて,あなたに経験を与え,あなたの益となるであろう」と約束されました(教義と聖約122:7)。
トーマス・S・モンソン大管長は次のようにわたしたちへの願いを語っています。「わたしたちが安易な悪ではなく,困難な善をいつも選べますように。」そして神殿に関して,次のように述べています。「〔神殿〕の祝福を受けるためにはいかなる犠牲,いかなる代価,いかなる苦労もいといません。」
自然界では,困難は命の誕生から死までのサイクルの一部です。ひな鳥にとって,卵の固い殻を破って出るのは大変なことです。しかし,出やすいようにしてあげると,ひな鳥は生きていくのに必要な強さが身につきません。同様に,蝶は繭から抜け出そうともがくことで,その後生きていくための強さを得ます。
これらの例から,困難はだれもが経験するものであることが分かります。だれもが問題に直面します。変えられるのは,困難にどのように対応するかです。
モルモン書の民が「ひどい迫害」と「多くの苦難」に遭ったことがありました(ヒラマン3:34)。彼らはどのように対応したでしょうか。「彼らは,しばしば断食して祈り,ますます謙遜になり,ますますキリストを信じる信仰を確固としたものにしたので,喜びと慰めで満たされ〔た〕。」(ヒラマン3:35)もう一つの例は,何年にも及ぶ戦争の後に生じました。「ニーファイ人とレーマン人の間の戦争が非常に長期に及んだため,多くの者がかたくなになった。……しかし,苦難を受けたために柔和になった者も多く,彼らは神の前に……へりくだった。」(アルマ62:41)
わたしたちはそれぞれが困難にどのように対応するかを選ぶのです。
安易な道に気をつける
この召しを受ける前,わたしはテキサス州ヒューストンで財務コンサルタントをしていました。業務の大半は,自分の会社を所有する大富豪が相手でした。彼らはほぼ全員が,何もないところから多大な努力によって事業を成功させていました。わたしにとって何より悲しいのは,一部の人たちから,子供には楽をさせてあげたいという言葉を聞くことでした。彼らは自分が味わった苦労を子供にはさせたくなかったのです。言い換えると,まさに自分に成功をもたらしてくれたものを子供から奪おうとしていたのでした。
その一方で,異なる方法を取った家族を知っています。両親は,8歳になったときに経済的に自分の力でやっていくよう父親に言われたJ・C・ペニーの経験に感化されました。家族で自分たちの方針を作り,子供はそれぞれ高校を卒業したら経済的に独立し,その先の教育(大学や大学院など)や生活は自分の力でやっていく(まさに自立する)ことにしました(教義と聖約83:4参照)。幸い,子供たちは賢く対応しました。全員が大学を卒業し,大学院を修了した子供たちもいて,皆が自力で達成しました。安易な道ではありませんでしたが,成し遂げました。勤勉さと信仰をもって成し遂げたのです。
主を信頼する信仰
「わたしたちは主を信頼しているでしょうか」という質問は,「わたしたちは主を信頼する信仰を持っているでしょうか」と言った方がよいかもしれません。
什分の一について,収入の90パーセントに主の助けが加わることで,年収のすべてを使って自分の力だけで生活するよりも暮らし向きが良くなるという主の約束を信頼する信仰を持っているでしょうか。
主が苦難の中にいるわたしたちを訪れ(モーサヤ24:14参照),わたしたちと争う者と争い(イザヤ49:25;2ニーファイ6:17参照),わたしたちの苦難を聖別して益としてくださると信頼する十分な信仰を持っているでしょうか(2ニーファイ2:2参照)。
物質的にも霊的にも主に祝福していただけるように,戒めを守るのに必要な信仰を働かせるでしょうか。主のみもとに迎えていただけるように,最後まで忠実であり続けるでしょうか(モーサヤ2:41参照)。
兄弟姉妹,わたしたちは主を信頼する信仰を持つことができます!主はわたしたちに最も良いものを与えたいと望んでおられます(モーセ1:39参照)。わたしたちの祈りにこたえてくださいます(教義と聖約112:10参照)。約束を守ってくださいます(教義と聖約1:38参照)。それらの約束を果たす力をお持ちです(アルマ37:16参照)。すべてのことを御存じです。そして何より大切なこととして,主は何が最も良いかを御存じです(イザヤ55:8-9参照)。
危険な世界
今日の世の中は困難に満ちています。悪が蔓延し,あらゆる国に腐敗が見られ,安全な場所にもテロ行為が及び,経済破綻,失業,病気,自然災害,内戦,独裁的な指導者などが見られます。わたしたちは何を行うべきでしょうか。逃げるか,戦うか,どちらが正しいのでしょうか。どちらの選択肢にも危険が伴い得ます。ジョージ・ワシントンとその軍隊にとって戦うことには危険が伴い,開拓者であったわたしたちの先祖にとっても逃げることには危険が伴いました。ネルソン・マンデラ氏にとって自由のために戦うことには危険が伴いました。悪の勝利に必要なのは善人が何もしないことだけである,と言われています。
恐れてはならない
何をするときにも,恐れから決断したり行動したりするべきではありません。実に,「神がわたしたちに下さったのは,臆する霊ではな〔い〕」のです(2テモテ1:7)。(「恐れてはならない」という概念が聖文の至る所で強調されていることを認識しているでしょうか。)主はわたしに,落胆と恐れは敵対者の道具であると教えてくださいました。困難な時期に対する主の答えは,信仰をもって前進することです。
どのようなことが困難か?
どのようなことが困難かは,人によって意見が異なるかもしれません。経済的に余裕がないときに什分の一を納めるのは難しい,と考える人がいるかもしれません。時折,指導者は,貧しい人に什分の一を納めることを期待するのは難しいと思うことがあります。結婚や子供をもうけることに関して,信仰をもって前進するのが難しいという人がいるかもしれません。「主から与えられたもので満足す〔る〕」のが難しいと思う人たちがいます(アルマ29:3)。現在の召しに満足するのが難しいかもしれません(アルマ29:6参照)。教会宗紀が非常に厳しいと思えるかもしれません。しかし,ある人々にとって,それは真の悔い改めの過程の始まりとなります。
どのようなことであっても,信仰をもって前進し,主とその計画を信頼する人にとって,困難は益となります。
わたしの証
わたしの兄弟姉妹である皆さん,わたしの後ろに座っているこれらの指導者たちが神から召されていることを証します。彼らの望みは,主によく仕え,わたしたちが心の中に福音をしっかり根付かせるように助けることです。わたしはこの方々を愛し,支持しています。
わたしは救い主イエス・キリストを愛しています。御父とわたしたちに対する主の愛に驚きます。その愛はわたしたちの救い主,贖い主となられるほど深く,それによって主はひどい苦しみをお受けにならなければならず,「苦痛のためにおののき,あらゆる毛穴から血を流し,体と霊の両方に苦しみを受け」られたのです(教義と聖約19:18)。この恐ろしい状況と,それが必要であるという事実に直面しながらも,主は御父に「わたしの思いではなく,みこころが成るようにしてください」とおっしゃいました(ルカ22:42)。「もうここにはおられない。……よみがえられたのである」という天使の言葉に,わたしは喜びを感じます(マタイ28:6)。
主の模範はまさに「道であり,真理であり,命」です(ヨハネ14:6)。その模範に倣うことによってのみ,わたしたちは「この世において平和を,また来るべき世において永遠の命を」見いだすことができます(教義と聖約59:23)。わたしは,主の模範に従い,主の教えを実践するときに,主の「尊く,大いなる約束」(2ペテロ1:4)の一つ一つが真実であることを身をもって学んできました。
わたしの最大の望みは,モルモンとともにイエス・キリストのまことの弟子として立ち(3ニーファイ5:13参照),いつの日か主の口から「良い忠実な僕よ,よくやった」という言葉を聞くことです(マタイ25:21)。イエス・キリストの御名によって,アーメン。