「ウィリー・ビネネーコンゴ民主共和国」,聖徒たちの物語(2024年)
ウィリー・ビネネーコンゴ民主共和国
中央アフリカの若い男性が神の時刻表を信じることを学ぶ
どんなハエに刺された?
1992年8月,23歳のウィリー・サブウェ・ビネネは電子工学分野の仕事に就くことを目指していました。中央アフリカの国ザイールの都市ルブンバシにある高等技術商業学院での訓練は順調でした。ちょうど最初の学年を終えたところで,彼は引き続き学校教育を受けることをすでに楽しみにしていました。
学期の間の休みに,ウィリーはルブンバシの北西約320キロのところにある故郷のコルウェジに帰りました。彼と家族は,教会のコルウェジ支部に所属していました。1978年に神権に関する啓示が与えられてからというもの,回復された福音はナイジェリア,ガーナ,南アフリカ,ジンバブエから,さらにアフリカのほかの十数の国々,すなわちリベリア,シエラレオネ,コートジボワール,カメルーン,コンゴ共和国,ウガンダ,ケニヤ,ナミビア,ボツワナ,スワジランド,レソト,マダガスカル,モーリシャスへと広がっていました。最初の末日聖徒の宣教師がザイールに到着したのは1986年のことで,そのころ(1992年ごろ),国内に約4,000人の聖徒たちがいました。
コルウェジに着いて間もなく,ウィリーは支部会長から呼ばれて面接を受けました。「わたしたちは,あなたに専任宣教師になって伝道に出てもらう必要があります」と支部会長は言いました。
「わたしは学業を続けなければなりません」と,驚いたウィリーは答えました。自分が学んでいる電子工学プログラムはあと3年あることを説明しました。
「まず伝道に出るべきです」と支部会長は言います。会長は,ウィリーは専任宣教師となる資格を持つ,支部で初めての若い男性であることを指摘しました。
しかし,ウィリーは「いいえ,無理です。 まずは学校を卒業します」と答えました。
彼が支部会長の招きを断ったと知ったとき,ウィリーの両親はうれしくありませんでした。生来控えめな母親が,「なぜ遅らせるの?」と単刀直入にウィリーに尋ねました。
ある日,おじのサイモン・ムカディのもとを訪れるよう,御霊がウィリーを促しました。おじの家の居間に入ったとき,テーブルの上の本に気づきました。まるでその本は,彼に何かを呼びかけているようでした。近づいて,題名を読みました。Le miracle du pardon,スペンサー・W・キンボールの『赦しの奇跡』のフランス語訳です。興味をそそられて,ウィリーは本を手に取り,たまたま開いた箇所を読み始めました。
偶像礼拝について書かれてあり,ウィリーはすぐに夢中になりました。人々は木や石や粘土で造られた神々にひれ伏すばかりでなく,自分自身の財産をも礼拝すると,キンボール長老は書いていました。また,偶像の中には目に見える形を持たないものもあるとも説いています。
これらの言葉を読んで,ウィリーは木の葉のように震えました。主が直接自分に語っておられると感じたのです。一瞬のうちに,伝道の前に学校を終えたいという望みが消えました。支部会長を探し出すと,考えが変わったことを告げました。
「何があったのですか」と支部会長は尋ねました。
ウィリーが自分の身に起きたことを話すと,支部会長は宣教師の申請書を取り出しました。「それではここの,最初の項目から始めましょう」と会長は言いました。
ウィリーが伝道の準備をしていたとき,住んでいる地域で暴動が起きました。ザイールはアフリカのコンゴ盆地にあり,そこでは様々な民族や地域の集団の間で何世代にもわたって紛争が続いていました。最近,ウィリーの住む州では,知事が多数派カタンガ族をけしかけて,少数派カサイ族を追放させるように仕向けていました。
1993年3月,暴動はコルウェジにまで拡大します。カタンガの武装集団が,なたや棒,鞭やほかの武器を振り回して通りをうろつき回っては,カサイ族の家族を脅し,家を焼き,中にあるわずかな財産を略奪しました。身の危険を感じて,多くのカサイ族が略奪者から隠れたり,町から逃げ出したりしました。
カサイ族であるウィリーは,自分たち家族が武装集団に追い詰められるのは時間の問題だということを知っていました。危害を避けるために,伝道に出るための貯金を一部取り,家族が約560キロ離れた親族の住むカサイ族の町,ルプタに行くための逃走資金の足しにしました。
カタンガから出る列車の便は少なかったため,数百人のカサイ族難民は,コルウェジの鉄道の駅の周りに,延々と続く野営地を作っていました。ウィリーと家族はこの野営地に着きましたが,泊まる場所が見つかるまで野宿をするほかはありませんでした。教会と赤十字,そのほかの人道支援組織が野営地で食物と水,医療を難民に提供していました。それでも,きちんとした衛生施設がなかったため,キャンプには排泄物と,焼かれているごみの悪臭が立ち込めていました。
この野営地で数週間過ごした後,ビネネ家族は,野営地にいる女性と子供の一部が列車で地域外へ脱出できるという知らせを聞きました。ウィリーの母親と4人の姉妹は,ほかの家族と一緒に列車で出発することに決めました。それと同時に,ウィリーは,父親と兄が壊れた無蓋貨車を修理するのを手伝いました。移動に使える状態になると,彼らは貨車を出発する列車につなぎ,野営地を出ました。
数週間後,ルプタに着くと,ウィリーは思わずコルウェジと比べずにはいられませんでした。その町は小さく,電気が通っていません。それは,自分が就職のために受けてきた電子工学の訓練を生かす職場がないことを意味していました。それに,教会の支部もありませんでした。
「ここでどうやって暮らしていけばよいのだろうか」とウィリーは思いました。
ルプタで忠実であり続ける
ルプタでの生活は,ルブンバシで電気工学を学んでいたウィリー・ビネネが想像していたようなものではありませんでした。ルプタは農業のコミュニティーであり,故郷のコルウェジの近くで民族紛争が続くかぎり,彼と家族はルプタにとどまって農作業をすることになるでしょう。
幸い,ウィリーは少年のころに父親から農作業の仕方を教わっていたため,豆やトウモロコシ,キャッサバ,ピーナッツの栽培の基本はすでに知っていました。しかし,最初の豆の収穫があるまで,家族には食べるものがほとんどありませんでした。彼らは生きていくために耕し,わずかな余剰の農作物があればそれを売って塩や油,石けん,そして幾らかの肉を買いました。
安全を求めてコルウェジを逃れた聖徒たちのうち,約50人がルプタに落ち着いていました。村に支部はありませんでしたが,彼らは毎週,礼拝のために広い家屋に集まりました。前コルウェジ地方部会長を含め,数人の男性が神権を持っていましたが,自分たちに聖餐会を開く権能は与えられていないと感じていました。代わりに,日曜学校のクラスを開いて,それぞれの長老が交代で集会を導きました。
この時期,ウィリーと仲間の聖徒たちは,キンシャサにある伝道本部と連絡を取ろうと何度も試みましたが,うまく行きませんでした。それでも,聖徒たちは収入があればいつも什分の一を取っておき,権能を持つ教会指導者に渡すことができる時を待ちました。
1995年のある日,ウィリーの家族は以前住んでいた家を売るために,ウィリーをコルウェジに帰らせることを決めました。コルウェジでは地方部会長に会えると知っていたので,ルプタの聖徒たちは什分の一を納める絶好の機会だと考えました。封筒にお金を入れ,ウィリーと,一緒に旅するもう一人の教会員に渡して,二人を送り出しました。
コルウェジまでの4日間の鉄道の旅の間,ウィリーは什分の一の封筒が入ったかばんを服の下に隠していました。ウィリーと同行者は旅の間,緊張し,恐れを感じていました。彼らは列車で眠り,下車するのはフフやほかの食物を駅で買うときだけでした。また,依然としてカサイ族に敵対的なコルウェジに入るのも不安でした。しかし二人は,真鍮の版を取りに行ったニーファイの話に慰めを見いだしました。主が自分たちと什分の一を守ってくださると信頼しました。
ついにコルウェジに着くと,地方部会長の自宅を探し出しました。会長は家に滞在するよう招いてくれました。数日後,ザイール・キンシャサ伝道部の新しい指導者であるロベルト・タベラとジェニーン・タベラがコルウェジに来たため,地方部会長はウィリーと同行者を彼らに紹介しました。
「この二人はコルウェジ支部の会員でした」と地方部会長は説明しました。「ここでの出来事のために,ルプタに移ったのです。今,戻って来ています。あなたに会いたかったそうです。」
「詳しく聞かせてください」とタベラ会長は言いました。「ルプタから来たのですか?」
ウィリーは会長に,ここまでの長い旅について話しました。それから,什分の一の封筒を取り出して,「これはルプタにいる会員たちの什分の一です」と言いました。「どこへ持って行けばよいか分からず,取っておいたのです。」
一言も発することなく,タベラ会長とタベラ姉妹は泣き出しました。「何という信仰でしょう」と,伝道部会長は声を震わせ,やっとのことで言いました。
喜びと平安がウィリーを包みました。神は什分の一を納めたルプタの聖徒たちを祝福してくださるとウィリーは確信しました。タベラ会長は彼らに忍耐強くあるように助言し,「向こうに戻ったら,わたしが皆さんを愛していることを伝えてください。皆さんは永遠の御父によって祝福されるでしょう。このような信仰は見たことがありません。」と言いました。
タベラ会長はできるだけ早く顧問の一人をルプタに送ると約束しました。「どのくらいかかるかは分かりませんが,顧問が行きます。」
わたしの使命はここにある
1997年5月,ザイール政府は長年の戦闘状態と政治的混乱の後に崩壊しました。30年以上にわたって国を支配したモブツ・セセ・セコ大統領は死の床にあり,今や体制の崩壊を止める力はありませんでした。ザイールの東の隣国ルワンダから,内戦を逃れて亡命した反政府勢力を追って軍隊が国境を越えて入って来ました。ほかの東アフリカ諸国もすぐにこれに続き,最終的にはほかのグループと手を結んで,弱体化した大統領を追放し,新しい指導者を立てると,国名をコンゴ民主共和国(DRC)に変えました。
教会は紛争が猛威を振るう間も,この地域で活動を続けました。コンゴ民主共和国には約6,000人の聖徒たちがいました。キンシャサ伝道部は5つの国を担当し,17人の専任宣教師がいました。1996年7月,この地域から数組の夫婦が2,800キロを旅して,南アフリカ・ヨハネスブルグ神殿で神殿の祝福を受けました。数か月後の11月3日,教会の指導者たちはキンシャサステークを組織しました。コンゴ民主共和国で最初のステークであり,アフリカで最初のフランス語ステークでした。また,伝道部には5つの地方部と26の支部がありました。
ルプタでは,そのころには27歳になったウィリー・ビネネが,国内の騒乱にもかかわらず,依然として伝道に出たいと望んでいました。しかし,その希望を伝道部会長会の顧問であるンタムブエ・カブウィカに伝えると,失望するような知らせを聞きました。
「兄弟」とカブウィカ会長は切り出しました。「年齢制限は25歳までです。あなたを伝道に召すことはできません。」それから,慰めの言葉としてこう続けました。「あなたはまだ若いです。学校に行けますし,結婚もできます。」
しかし,ウィリーは慰めを感じませんでした。失望でいっぱいでした。年齢のために伝道に出られないなんて不公平に思えました。自分に起こってきたことを考えれば,例外を設けてくれてもよいのではないだろうか。そもそも主はなぜ伝道に出たいという気持ちを自分に与えられたのだろうかと疑問に思いました。その促しに従うために,教育とキャリアを先延ばしにしてきたのです。何のためだったのでしょう。
「このことに心を悩ませてはいけない」と,ウィリーは最終的に自分に言い聞かせました。「神を責めることなどできないのだ。」今いる場所にとどまり,主から求められることをすべて行おうと決意しました。
その後,1997年7月,ルプタの聖徒たちは正式に支部に組織されました。財政担当書記と支部宣教師に召されたウィリーは,自分が住んでいる場所で教会を確立するよう,主は自分を備えてこられたのだと理解しました。「そうだ,自分の伝道地はここなんだ」とウィリーは言いました。
ルプタ支部のほかの数人の聖徒たちも,支部宣教師に召されました。週に3日は,ウィリーは作物の世話をしました。それ以外の日は,家から家へと訪問し,人々に福音について話しました。その後,たった1本のズボンを翌日のために洗濯するのでした。ウィリーはなぜ自分がこれほど熱心に福音を宣べ伝えているのかよく分かりませんでした。空腹のまま出かけなければならないときは特にそうでした。しかし,自分が福音を愛していることを知っており,同胞に,そしていつの日か先祖にも,自分が受けている祝福を受けてほしいと望んでいました。
その業には困難が伴いました。支部宣教師を脅す人たちや,宣教師を避けるようほかの人々に警告する人たちがいました。数人の村人が集まってモルモン書を破壊することさえありました。「モルモン書を焼き払えば,教会も消えてなくなるだろう」と彼らは言いました。
それでも,ウィリーは主が彼の努力を通じて奇跡を行われるのを見ました。あるとき,彼と同僚がある家のドアをノックすると,開いたドアから悪臭が漂ってきました。中から,自分たちを呼ぶ小さな声が聞こえました。「どうぞ」とその声は言いました。「わたしは病気です。」
ウィリーと同僚は家に入るのをためらいましたが,それでも足を踏み入れると,衰弱した様子の男性がいました。「祈ってもいいでしょうか」とウィリーたちは尋ねました。
男性が同意したので,彼らは祈りをささげ,病気が治るように男性を祝福しました。「明日また来ます」と二人は男性に言いました。
翌日,ウィリーたちは男性が家の外にいるのを見ました。「あなたがたは神の人です」と彼は言いました。二人が祈ってから,体調が好転したのです。男性は喜びで跳び上がりたい気持ちでした。
その男性はまだ教会に入る準備はできていませんでしたが,準備のできている人たちもいました。毎週,ウィリーとほかの宣教師たちは,聖徒たちと一緒に礼拝することを望む人々と会い,時には家族全員と会いました。土曜日には,最も多いときで30人にバプテスマを施しました。
ルプタの教会は成長し始めていました。
主は別の計画をお持ちだった
2006年の初頭,ウィリー・ビネネは電子工学の訓練を再開するためにコンゴ民主共和国の首都キンシャサに引っ越すつもりでいました。首都から約1,500キロ離れたルプタという村で13年間農夫として働いてきました。
支部宣教師として奉仕していたときにバプテスマを施した,リリーという名前の若い女性と結婚しています。子供が二人いますが,過去2年間,リリーと子供たちはキンシャサにいて,ウィリーは学校に戻るのに必要なお金をためていました。
3月26日,伝道部会長のウィリアム・メイコックがルプタで最初の地方部を組織し,ウィリーを地方部会長に召しました。ウィリーは,自信はありませんでしたが,引っ越すのをやめて召しを受けました。間もなく,リリーと子供たちもルプタに戻り,ウィリーは家族とともに,この新しい責任に取り組み始めました。
神殿で天を見いだす
2008年6月,ウィリー・ビネネとリリー・ビネネは3人の子供を連れて,ムブジマイの空港に行くバスに乗りました。彼らの暮らすコンゴ民主共和国のルプタから北に160キロのところにある空港です。そこからキンシャサに飛び,そこで一泊し,南アフリカ行きの飛行機に乗りました。長旅でしたが,子供たちは幸せで,旅行を楽しんでいました。一家は永遠に結び固められるために,ヨハネスブルグ神殿に向かっていたのです。
ウィリーがルプタ地方部の会長に召されたことで家族が再び一緒に暮らすようになってから,2年が過ぎていました。ルプタに戻ってから,リリーは保育園を開きました。すぐに成功を収めた彼女は,間もなく事業を小学校へと拡大しました。ウィリーは電気技師になる夢を一旦棚上げにして,地元の病院で看護師としての研修を始めました。仕事と召しで求められる事柄のバランスを取り,地方部会長会の顧問たちの支えに頼りました。会長会は自分たちの新たな責任を学び,地元の指導者を訓練し,聖徒たちを訪問しました。
そのころ会長会は新たな務めとして,ルプタにきれいな水を引く3年間の教会出資のプロジェクトの支援に着手していました。町の住民は長年,水を手に入れるために様々なため池や泉,排水路に頼ってきました。1日に2回,女性と子供たちは2キロまたはそれ以上の距離を歩いて水が手に入る場所に行き,持って来た容器に水を汲んで家まで運んでいたのです。このような水源には危険な寄生虫がうようよいて,汚染された水を飲んで死んだ人を見たことがない人などまずいないほどで,亡くなるのはたいてい子供でした。また,女性が水源への行き帰りの道で襲われることも,時々ありました。
コンゴ民主共和国の人道支援組織であるADIRは,ルプタ周辺に住む26万人にきれいな水を提供したいと,長年にわたって考えていました。しかし,最適な水源は34キロ離れた丘の中腹にある泉であり,ADIRには,パイプラインを引くのに必要な260万ドルの資金はありませんでした。その後,ADIRの最高責任者が末日聖徒チャリティーズのことを耳にして,協力してプロジェクトを行わないかと,地元の人道支援宣教師に連絡してきたのです。
大管長会の指示の下に1996年に創設された末日聖徒チャリティーズは,毎年世界各地で教会の何百もの人道支援プロジェクトを支援していました。その活動内容は必要に応じて異なりましたが,近年の中心的なプロジェクトは,ワクチン,車椅子,眼科治療,乳児のケア,そしてきれいな水の供給でした。ルプタに水のパイプラインを引く必要性についての話が出ると,末日聖徒チャリティーズは必要な資金を寄付し,ルプタとその近郊のコミュニティー出身のボランティアたちが労働力を提供することで合意しました。
地方部会長会として,ウィリーと顧問たちはADIRと,現地の監督者として雇われた地元の末日聖徒,ダニエル・カザディとともに働きました。また彼ら自身もボランティアの労働者となって働きました。
さて,ヨハネスブルグに降り立ったビネネ家族は,多忙な生活を脇に置いて,主の宮に意識を向けることができました。空港で,ある家族が出迎えてくれ,神殿の敷地内にある参入者用の宿泊施設まで車で送ってくれました。その後,ウィリーとリリーは神殿に入り,教会が用意した託児室に子供たちを預けると,白い服に着替えました。
ルプタをたつ前に,ビネネ夫妻は教会が出版している神殿参入に備えるためのテキストである『高い所から力を授けられ』を研究し,使徒ジェームズ・E・タルメージの『主の宮居』を読んでいました。それでも,神殿に到着すると,少しうろたえてしまいました。初めてのことばかりでしたし,フランス語を話す人がだれもいなかったからです。しかし,身振り手振りで,どこへ行って何をすればよいかが分かりました。
その後,結び固めの部屋で3人の子供たちと再び一緒になり,ビネネ夫妻は歓喜しました。白い服をまとって部屋に入って来た子供たちは,まるで天使のようでした。ウィリーは腕に鳥肌が立つのを感じました。自分も家族も,もはやこの地上にはいないかのように思えました。神のみもとにいるかのようだったのです。
「すばらしい」とウィリーは言いました。
リリーもまた,天国にいるような気持ちでした。永遠にわたって結ばれていることが分かると,家族の互いへの愛が何倍にも膨らむような気がしました。離れることのない家族になったのです。死でさえも彼らを引き離すことはできません。
きれいな水の奇跡
2010年9月,コンゴ民主共和国のルプタの住民たちは,教会が出資するきれいな水を引くパイプラインの敷設をほぼ完了していました。ジャーナリストの取材に答えて,地方部会長のウィリー・ビネネはパイプラインの重要性を強調しました。
「電気がなくても人は生きられます。しかし,きれいな水がないことは,耐え難いほどの重荷です」と彼は言いました。
記者が気づいたかどうかは別にして,ウィリーはこれまでの人生経験から語っていました。電気工学を専攻する学生であるウィリーは,電気のない町であるルプタに住むことは決して望んでいませんでした。そんな彼の計画は変わりましたが,ウィリーは電気がない生活でもうまくやっていました。それどころか,かなりの成功を収めていました。しかし彼と家族,そしてこの地域に住むすべての家族が,水を媒介とする病気に非常に苦しめられていました。教会では自分たちを守るために,聖餐式のためにきれいなボトル入り飲料水を購入するという犠牲さえ払っていました。
今,あと少しの作業で,ルプタの人々の生活は大きく変わろうとしていました。プロジェクトの開始以来,町と周辺のすべての地区がパイプラインの作業日を割り当てられていました。その日には,プロジェクトを管理する組織であるADIRからのトラックが,ボランティアを乗せるために早くからその地区に到着し,彼らを作業現場まで運びました。
地方部会長として,ウィリーは模範となる指導者になりたいと思いました。自分の地区の労働割り当て日が来ると,彼は看護の仕事を脇に置いて,掘る作業を始めるのでした。ルプタと水源の間には,何キロにもわたって丘や谷があります。パイプラインの動力源は重力なので,ボランティアたちは水がうまく流れるように正しく溝を掘り,パイプを埋めなければなりません。
ウィリーとボランティアたちは,すべて手で掘りました。溝は幅が約45センチ,深さが約1メートルでなければなりません。地面が砂地で作業がはかどる場所もあれば,木の根と岩が絡まっていて,作業に骨が折れる場所もありました。ボランティアたちは,山火事や害虫の巣のために作業の進行が遅れることのないようにと祈るだけでした。作業がはかどった日には,150メートル近くの溝を掘ることができました。
ルプタ地方部の聖徒たちは,通常の地区ごとの割り当てに加えて,特別シフトでも働きました。そのような日には,教会の男性たちが通常のボランティアに加わって溝を掘り,扶助協会の女性たちが働く人々の食事を準備しました。
聖徒たちが献身的にプロジェクトに参加したことで,人々が彼らの信仰についてより深く知るようになりました。地域の人々は,教会はその会員だけではなく,より広くコミュニティーの世話をする組織なのだと思うようになりました。
2010年11月にパイプラインの建設が終わると,水が来るのを見るために多くの人がルプタにやって来ました。パイプから運ばれて来た水をためるために,高床式の巨大なタンクが町に建造されていました。しかし,ほんとうにタンクがいっぱいになるほどの水がパイプラインで運ばれてくるのだろうかと疑問に思っている人々もいました。ウィリー自身も半信半疑だったのです。
そのとき水門が開き,皆がタンクに流れ込む水の轟音を耳にしました。大きな喜びが人々の間に広がりました。それぞれに複数の蛇口が付いた何十もの小さなコンクリートの給水所で,ルプタ中の人々にきれいな水を供給することが可能になったのです。
完成を記念して,町では祝賀会が開かれました。ルプタと近隣の村から1万5,000人が集まりました。来賓の中には,政府と部族の要人,ADIRの職員,そして教会のアフリカ南東地域会長会の一員がいました。貯水タンクの一つには,水色の文字でこう書かれた横断幕が張られていました。
来賓が到着して,特別に建てられたガゼボ(西洋風のあずまや)に着席すると,若い末日聖徒たちの聖歌隊が賛美歌を歌いました。
皆が席に着き,群衆のざわめきが静まると,ウィリーはマイクを持ち,教会の地元の代表として聴衆に語りました。「イエスが多くの奇跡を行われたように,今日ルプタに水が通ったこともまた奇跡です。」彼は群衆に,教会がコミュニティー全体のためにパイプラインに出資したことと,これをすべての人に有効に利用してほしいことを話しました。
そして,なぜ教会がルプタのような場所に関心を持ったのだろうかという問いに対して,彼は簡単な答えを与えました。
「わたしたちは皆,天の御父の子供です。すべての人に善を行わなければなりません」と彼は言いました。
ルプタで共に喜ぶ
2011年10月2日,コンゴ民主共和国ルプタの集会所では,ガソリン発電機が音を立てて稼働し始めました。集会所の中では,ウィリー・ビネネとリリー・ビネネを含む約200人の聖徒たちが礼拝堂のテレビの前に着席しようとしていました。間もなく,教会の第181回半期総大会の日曜午後の放送が,フランス語の通訳音声で始まります。この大会はフランス語を含め,51の言語で世界中の聖徒たちに提供されるのです。ルプタの教会員がシオンのステークの会員として享受することになる初めての総大会でした。
その3か月前にルプタステークが組織されたことは,教会がこの町で急速に成長していることを知っている人々にとっては驚きではありませんでした。ビネネ家族が神殿で結び固められた2008年には,ルプタには1,200人余りの末日聖徒が住んでいました。当時,その地で奉仕する専任宣教師はいませんでした。しかし,次の3年間,ウィリーとほかの教会指導者たちは,忠実な支部宣教師とともに努力し,地方部の聖徒の数を倍増させたのです。教会がきれいな水を町にもたらすプロジェクトを支援したことが一役買ったのは間違いありません。地方部からは,コンゴ民主共和国のほかの地域,アフリカ,そして世界へと,34人の専任宣教師を送り出してもいました。
それでも,七十人のポール・E・コーリカー長老とアルフレッド・キョング長老によって新しいステークの会長に召されたとき,ウィリーは驚きました。ルプタの教会には幾人かの経験豊富な神権指導者がおり,そのだれもがステーク会長を務める能力を備えていたからです。だれかほかの人が導く番ではないだろうか。
ステークが組織された6月26日,ウィリーはコーリカー長老とキョング長老がステークの15人の若い女性と男性に伝道の召しを渡す手伝いをしました。その後,ウィリーは皆と一緒に笑顔で写真に収まりました。20年前,民族紛争と流血により彼は故郷を追われ,主のために専任宣教師となる機会を奪われました。しかし,長年ルプタで献身的に教会で奉仕することで,次の世代の聖徒たちに,自分が得られなかった機会を与える助けができたのです。
総大会の放送が始まると,ウィリーはくつろいで話者の話に耳を傾けました。普段はモンソン大管長が大会の最初の部会で最初の話者を務めますが,健康上の理由でカンファレンスセンターへの到着が遅れていました。しかし,中間の賛美歌の後,大管長は説教壇に立って明るい声であいさつし,聖徒たちを大会へ歓迎しました。
「多忙を極めていると,時は瞬く間に過ぎていきます。この6か月間も,実に忙しいものでした。」
モンソン大管長は,エルサルバドルの神殿の奉献とアメリカ合衆国南部のアトランタの神殿の再奉献について話しました。「兄弟姉妹,神殿の建設は妨げられることなく続きます。今日,幾つかの新しい神殿を発表できる特権があることに感謝しています」と大管長は言いました。
ウィリーは注意深く耳を傾けました。最近,ルプタの教会指導者たちは神殿のことを考えていました。実際,この町で開かれた最初のステーク大会では,多くの話が聖徒たちを主の宮への参入に備えることに重点を置いたものでした。ビネネ家族を除けば,ルプタでこれまでにヨハネスブルグ神殿に行くことができた聖徒はほんの数名だけでした。コンゴ民主共和国では,パスポートの取得は比較的容易でしたが,南アフリカへの渡航ビザはそうではありませんでした。このため,コンゴ民主共和国の多くの聖徒たちは,ビザを取得して神殿に参入する前にパスポートが失効するのではないかと心配しながら待たなければならなかったのです。
最初にモンソン大管長が発表した神殿は,ユタ州プロボ市で二番目の神殿でした。少し前,プロボの歴史あるタバナクルで火事があり,外壁を除くほとんどの部分が焼け落ちてしまいました。そこで教会はこの建物を再建し,主の宮として用いることにしたのです。
「さらに,以下の場所に新しい神殿が建設されることをお知らせできることをうれしく思います」とモンソン大管長は続けました。「コロンビア・バランキージャ,南アフリカ・ダーバン,コンゴ民主共和国・キンシャサ,……」
「キンシャサ」という言葉を耳にした瞬間,ウィリーも周りの人たちも全員が立ち上がり,歓声を上げました。この知らせに,彼らは心底驚きました。もうすぐ,コンゴの聖徒たちは渡航ビザやパスポートの期限切れを心配しなくても済むようになるのです。預言者の簡潔な発表が,すべてを変えました。
これまで教会がコンゴ民主共和国に神殿を建設する計画があるといううわさも気配もまったくありませんでした。あったのは希望だけでした。いつか主が御自分の家をこの地に建ててくださるという希望です。
それが今,実現しようとしているのです!ついに現実になるのです!
時を神にゆだねる
2017年5月28日,ウィリー・ビネネは自分が所属するルプタのワードの集会所で,証を述べるために立っていました。彼の家族にとって,そこでの最後の日曜日でした—少なくともしばらくの間は。ウィリーとリリーは最近,大管長会から,アフリカ西海岸のコートジボワール・アビジャン伝道部の指導者としての召しを受けたのです。若いころに専任宣教師として奉仕する機会を逃していたウィリーは,いつかリリーと一緒に伝道に出たいとずっと願っていました。しかし,その召しがこれほど早く来るとは,二人とも予想していませんでした。
1年前,十二使徒定員会のニール・L・アンダーセン長老が,キンシャサ神殿の鍬入れ式のためにコンゴ民主共和国を訪れました。滞在中,アンダーセン長老と妻のキャシーは,ルプタの北約145キロにある町ムブジマイに行き,その地域の聖徒たちと会いました。ウィリーはアンダーセン長老と会い,自分のストーリーを話しました。
アンダーセン長老の訪問から数か月後,長老からウィリーとリリーにビデオ通話が入り,彼らを驚かせました。アンダーセン長老は,主が彼らに別の割り当てを準備しておられることを話し,彼らの生活と仕事における責任について幾つか質問しました。その後,アンダーセン長老はリリーに尋ねました。「自国を離れて,別の場所で主に仕えることに同意なさいますか。」
「はい。喜んで」とリリーは答えました。
約1週間後,ディーター・F・ウークトドルフ管長から,伝道部指導者として奉仕するよう召されました。彼らは喜びと恐れの入り交じった気持ちで,その召しを受け入れました。二人とも,新たな責任を果たせる自信はありませんでした。しかし,主から難しいことを求められたのはこれが初めてではなく,彼らは主の務めに全力を尽くしたいと望んでいました。
「もし神がわたしたちを召されたのなら,神だけが御自身を現して,わたしたちをその業にふさわしい者としてくださるにちがいない」とリリーは考えました。
5歳から16歳までの彼らの4人の子供たちは,この知らせを前向きに受け止めました。しかしルプタの聖徒たちは,ウィリーとリリーの召しが発表されたとき,悲しみを隠すことができませんでした。20年以上の間,ウィリーがルプタにおける教会の繁栄を支えてきたおかげで,行き場を失っていた信者の小さなグループが力強いシオンのステークに成長したのです。聖徒たちは彼を単に地方部とステークの元会長として見ていたのではありませんでした。回復された福音によって互いを兄弟姉妹と見るように学んでいた彼らにとって,ウィリーとリリー,そしてビネネ家の子供たちは,彼らの家族だったのです。
ウィリーはワードの会員たちに証を述べながら,彼らに対する計り知れない愛を感じていました。それでも,リリーと聖歌隊のメンバーと,周りのすべての人たちがすすり泣いているのに,彼は涙を流しませんでした。これまでの人生で,物事が期待どおりに運んだことはほとんどありませんでした。学校のことも,伝道のことも,仕事のことも,計画を立てる度に何かが起きて,自分を別の方向へ進ませようとしました。しかし,人生を振り返ってみると,主が常に自分のために計画を用意しておられたことが理解できました。
集会の後,ついに感情に圧倒されたウィリーの目から,大粒の涙がこぼれました。ウィリーは自分が何か特別なことを成し遂げたとは思っていませんでした。実際,自分は大海の一滴の水のように,取るに足らない存在だと感じていました。しかし,計画がよりはっきりと明確になるにつれ,主が自分を導き,促してくださっていることが分かりました。
自宅で,ウィリーとリリーと子供たちは,友人たちに別れを告げました。その後,一家は次の奉仕の地へと向かうべく,待っていた車に乗り込みました。
「決して急いではならない。タイミングについては神におまかせすることだ」とウィリーは悟ったのです。