「第10課 クラス準備資料:主の生ける預言者に従う」『回復の礎 クラス準備資料』
「第10課 クラス準備資料」『回復の礎 クラス準備資料』
第10課 クラス準備資料
主の生ける預言者に従う
生ける預言者たちの影響や教えがなければ,あなたの人生はどう違っていたか,考えてみてください。学びながら,以下の主の預言者が,あなたの人生にどれほど大きな導きと祝福をもたらしているか,考えてください。
セクション 1
主の預言者に従う選びは,生活にどのような祝福をもたらすだろうか
イエス・キリストの教会が組織された日,主は預言者ジョセフ・スミスを「聖見者,翻訳者,預言者,イエス・キリストの使徒,教会の長老と呼〔ぶ〕」と告げられました(教義と聖約21:1)。
その後,主は,主の預言者に従うことについて,聖徒たちに戒めを与えられ,もし彼らがそうするなら,祝福にあずかるだろうと語られました。
翌年,主は,神の声と神の預言者たちの声のつながりを繰り返されました。のちに教義と聖約となる戒めの書の序文にある啓示で,主は再びこう説明されました。「たとえ天地が過ぎ去っても,わたしの言葉は過ぎ去ることがなく,すべて成就する。わたし自身の声によろうと,わたしの僕たちの声によろうと,それは同じである。」(教義と聖約1:38)
十二使徒定員会のウリセス・ソアレス長老は次のように証しています。
「預言者がいることは,神がその子供たちを愛しておられることのしるしです。預言者は,主の民に神とイエス・キリストの約束を知らせ,御二方がどのような御方なのかを教えてくれます。……
〔主の預言者〕の教えに従うならば,幸せになり,煩いが少なくなり,困難や問題に耐えるのが容易になります。また,霊的なよろいで身を固めて,今の時代の敵の攻撃から自分を守ることができるようになります。」(ウリセス・ソアレス「預言者は聖霊の力によって語る」『リアホナ』2018年5月号,99)
セクション 2
「忍耐と信仰」の中で主の預言者の言葉をどのように受け入れることができるだろうか(教義と聖約21:5)
時折,主の預言者の勧告や教えを受け入れ従うことが困難に感じることもあるかもしれません。これは,彼らの言葉の背景にある理由を完全には理解していないときに生じ得ます。あるいは彼らの教えが,通説や社会通念と一致していなかったり,あなた個人の考えや家族の伝統と矛盾しているのかもしれません。
十二使徒定員会のニール・L・アンダーセン長老は,以下の勧告や約束を挙げています。
「時折,自分の見解が主の預言者の教えとはじめから一致しなくても,驚かないでください。ひざまずいて祈るなら,それはわたしたちにとって,学び,へりくだる機会となります。わたしたちは神を信頼し,信仰をもって前進します。やがて天の御父から,霊的により明瞭な教えを受けられると知っているからです。……
神の預言者の言葉を祈りの気持ちで研究し,注意深く,そして忍耐強く,自分の心を預言者の霊感された教えに霊的に沿わせるとき,主イエス・キリストを信じる信仰が強められることを……知りました。預言者の勧告を無視して自分の知恵に頼ることを選ぶなら,わたしたちの信仰は揺らぎ,永遠の観点は曇ってしまいます。皆さんが断固として預言者に従い続けるなら,救い主を信じる皆さんの信仰は増し加えられると約束します。」(ニール・L・アンダーセン「神の預言者」『リアホナ』2018年5月号,26-27)
中央若い女性会長会第一顧問を務めたキャロル・F・マッコンキー姉妹は,次のように教えています。
「預言者の言葉に耳を傾け,それを守り,支持するとき,わたしたちは主の御心と英知に,そして主の時に,へりくだって自らを委ねる信仰があることを証明するのです。
それが不合理で,不都合で,居心地悪く感じられても,わたしたちは預言者の言葉に聞き従います。世の標準から見れば,預言者に従うのは不人気だったり,不適切だったり,あるいは社会的に受け入れられないことだったりするかもしれません。しかし,預言者に従うことは常に正しいのです。……
預言者の言葉に従うとき,わたしたちは永遠に変わることのない確かな土台の上に家庭と生涯を築くことができます。その土台は『神の御子でありキリストである贖い主の岩の上〔の〕基』(ヒラマン5:12)〔です。〕」(キャロル・F・マッコンキー「預言者の言葉に従って生活する」『リアホナ』2014年11月号,77,79)
教会歴史の次の例は,主の生ける預言者の言葉を信仰と忍耐のなかで受け入れることが何を意味するのか理解するのに役立つでしょう。栄光の王国の示現について,教義と聖約76章(「示現(教義と聖約第76章)」,ChurchofJesusChrist.orgも参照)に記されているとおり,ブリガム・ヤング大管長は次のように述べています。
「神がジョセフ・スミスとシドニー・リグドンに対して,人々が受けた光に応じて,また彼らが悪を退け,善を行う程度に応じて備えられた場所があることを明らかにされたとき,それは多くの人々にとって大きな試練でした。一部の人々は背教しました。それは,神が異教徒と幼児に永遠の罰をお与えにならず,全員のためにそれぞれの時に応じて救いを得る場所を用意しておられ,いずれの教会に属しているかあるいは属していないかにかかわらず正直で,徳高く,誠実な人々を祝福されるためでした。それはこの世代にとって新しい教義でした。多くの人々にとっては受け入れるのが難しい教えでした。」(『歴代大管長の教え—ブリガム・ヤング』292)
ブリガム・ヤング自身,最初はこの教義を受け入れるのが困難でした。ブリガムは次のように話しています。「わたしの伝統とはそのようなものでした。示現が最初にわたしにもたらされたとき,それはまったく相いれないもので,わたしのそれまでの教育に反するものでした。わたしは,少し待ってくださいと言いました。わたしはそれを拒否したわけではありませんでしたが,それを理解することはできませんでした。……自分でよく理解できるようになるまで,考えては祈り,読んでは考える必要がありました。」(Journal of Discourses,6:281)
セクション 3
真実の教義を教える預言者の役割とは何だろうか
教会歴史の初期,ジョセフ・スミスは,誤った教義に欺かれた教会の会員について,主の助けを求めました。
〔教会を組織して数か月して,ジョセフ・スミスは,〕〔モルモン書の〕八人の証人の一人で,アロン神権の教師であるハイラム・ページが,彼が聖見者の石と考えていたものを通じて,教会のために啓示を求め始めたことを知りました。多くの聖徒たちが,……それらの啓示が神から与えられたものだと信じました。
ジョセフは,自分が危機に直面していることを知りました。ハイラムの啓示は,聖文の言語を真似たものでした。彼らは,シオンの設立と教会の組織について語りましたが,新約聖書や主がジョセフを介して啓示した真理と矛盾していました。
ジョセフはどうしてよいか分からず,ある晩,遅くまで寝ずに導きを祈り求めました。(『聖徒たち—末日におけるイエス・キリスト教会の物語』第1巻「真理の旗」1815-1846年,97)
ジョセフ・スミスの祈りにこたえて,主は教義と聖約28章に記録されている啓示を与え,教会の預言者としてのジョセフの唯一の役割を明らかにされました。
また主は,ハイラム・ページが書いたことは神についてではないと宣言されました(教義と聖約28:11参照)。この啓示が与えられた直後,「聖徒たちはハイラムの示現を否定し,教会のために啓示を受けることのできるただ一人の人として,全会一致でジョセフを支持しました(『聖徒たち』第1巻,95)。
主の生ける預言者は,教会のために啓示を受ける鍵を有しているため,彼らは教会の会員に対して教義を教え,明らかにする責任も有します。十二使徒定員会のD・トッド・クリストファーソン長老は次のように教えています。
「今日の教会において,キリストの教義を確立したり教義的な逸脱を正したりする際には,昔と同様に,主から使徒の権能を授かった人々が受ける神の啓示によって行われます。……
彼らは教会の大管長が持つすべてにわたる力と権能のもとで,神の思いと望みをその民に宣言する権利と力と権能を持っています。……
救い主はその御心と教義を,預言者,聖見者,啓示者にどのように示されるのでしょうか。主は使者を通して,あるいは御自身で行われます。御自身の御声により,あるいは聖なる御霊の声によって語られます……(1ニーファイ17:45;教義と聖約9:8参照)。主は一人の僕に,あるいは評議を行う僕たちに語りかけられます(3ニーファイ27:1-8参照)。……
……過去や現在の教会指導者が語ったことが必ずしもすべて教義となるわけではないことを覚えておく必要があります。教会では一般に,一人の指導者がある特定のときに語ったことは,熟慮されたものではあっても個人的な意見であることが多く,教会の公式な見解あるいは教会全体に対して拘束力を持つ言葉ではないと理解されます。」(D・トッド・クリストファーソン「キリストの教義」『リアホナ』2012年5月号,86-88)
アンダーセン長老は,主の選ばれた生ける預言者によって,真実の教義は一貫して教えられていると説明しています。
「何十年も前に教会の指導者が語ったことが教会の教義と一致しないのを見つけて,自分の信仰に疑問を抱く人もいます。教会の教義を総括する重要な原則があります。教義は大管長会と十二使徒定員会の15人全員によって教えられるということです。一人の説教の中の,目立たない段落に隠れているものではありません。真の原則とは,何度も,そして多くの人によって教えられるものです。わたしたちの教義は,見つけやすいのです。」(ニール・L・アンダーセン「信仰の試し」『リアホナ』2012年11月号,41)