19世紀の大部分の期間,末日聖徒 イエス・キリスト教会の多数の会員が多妻結婚,つまり一人の男性と複数の女性との結婚を行っていました。この慣習は,神の預言者たちの啓示によって始まり,同じく啓示によって終わりました。多妻結婚を行う最初の指示は,教会を創設した預言者であり大管長でもあるジョセフ・スミスを通して与えられました。1890年,ウィルフォード・ウッドラフ大管長は「声明」を発表し,教会における多妻結婚に終止符を打ちました。
多妻結婚を中止するには大きな信仰が必要でした。複雑で極めて個人的な痛みを伴う決断に迫られる会員や教会指導者もいました。教会で多妻結婚が始まったときと同じように,多妻結婚が終わるときも,一度に行われたのではなく,幾つかの段階を経て行われました。「教えに教え,訓戒に訓戒」を重ねるようにして啓示が与えられました。1
多妻結婚禁止法と市民的不服従
1840年代の始めから半世紀にわたり,教会員は多妻結婚を神の戒めであると信じていました。主のために義にかなった子孫を「起こ〔す〕」助けとなる命令であると信じていたのです。2すべての教会員が多妻結婚を行うよう期待されていたわけではありませんが,多妻結婚を行っていた人々は,そのことにより祝福を受けると信じていました。1850年代から1880年代にかけて,末日聖徒 は多妻結婚の家庭の中で,夫,妻,子供として暮らしていました。3
世界の多くの地域で,一夫多妻制は社会的に容認され,法律上許されていました。しかし合衆国の大半の国民は,その慣習は道徳的に誤っていると考えていました。そのような反対意見は,多妻結婚禁止法を制定する動きにつながりました。1862年初頭,合衆国政府は末日聖徒 に多妻結婚を止めさせることを目的とした法案を次々に可決しました。4
そのような法的手段に直面しても,末日聖徒側は「多妻結婚は合衆国憲法により保障されている宗教的原則の一つであるという」立場を変えませんでした。教会は自らを法的に弁護するために努力し,最終的にこの問題を連邦最高裁判所に持ち込みました。Reynolds v. United States(1879年の連邦最高裁判所事件)で,最高裁は末日聖徒側の訴えを退けました。宗教的信条は法律により保障されるが,宗教上の慣習は保障されない,という裁決を下したのです。裁判所は,結婚は国が規定する市民契約であるという見解を示しました。国が認める結婚の形態は,一夫一妻制のみでした。「多妻結婚はヨーロッパ北西部の国々において常に醜悪なものとされてきた」5と裁判所は説明しました。
末日聖徒は合衆国の忠実な国民でありたいと心から望んでいました。合衆国は神によって築かれた国であると聖徒たちは考えていました。しかし,彼らはまた多妻結婚を神の戒めとして受け入れていました。そのため彼らは,神の戒めに従う権利を裁判所が不当に奪ったと考えました。
神と国に対する忠誠心の板ばさみになった教会の指導者たちは,人ではなく神に従うよう会員に勧めました。多くの末日聖徒 は1880年代に市民的不服従の道を選びました。多妻結婚は継続され,新たに多妻結婚をする人もいました。6連邦政府はこれに対し,さらに厳しい罰を科す法律を制定しました。
1850年から1896年にかけて,ユタは合衆国政府の自治的領地(準州)であったため,ワシントンDCの連邦役人は同地の問題に大きな影響力を行使していました。1882年,合衆国議会はエドマンズ法を可決し,違法な共同生活者(複数の妻と暮らす男性を指す)に対して懲役6か月または罰金300ドルが科されることとなりました。1887年,議会はエドマンズ-タッカー法を可決し,会員のみならず教会自体を罰することを定めました。この法律は教会に対する解散命令であり,5万ドル以上もの教会資産が全額政府に没収されるというものでした。
政府がこのような措置を取った結果,教会員は不当な法律に抵抗する決意をさらに強固にしていきました。多妻結婚を行う男性は友人や親戚の家を転々とし,時には数年も身を隠すこともありました。あるいは,名前を変え,ユタ南部やアリゾナ,カナダ,メキシコなどの人里離れた地域に移る人もいました。7多くの人は起訴を免れましたが,逮捕されて罪を認め,罰金や懲役を科せられた人も大勢いました。
この反多妻結婚運動はモルモン社会に大きな混乱を招きました。夫が家を離れ,農場や家業が妻と子に託されたため,収入が減り,不況に陥りました。この運動は家族にも負担を強いました。新たに多妻結婚の妻のなった女性は夫と離れて生活しなければならず,その結婚はほとんど誰にも知られませんした。妊娠した女性の多くは,裁判所から呼び出されて夫に不利な証言をさせられるのを恐れて,人里離れた場所で身を隠すことを選びました。子供たちは,家族がばらばらになることや,両親に不利な証言をするよう迫られるのではないかと恐れていました。隠れて生活し始める子供や,偽名を使う子供もいました。8
数知れぬ困難にもかかわらず,多くの末日聖徒は反多妻結婚運動は神の目的の成就に役立つと信じていました。神は昔と同じように,聖約を交わした自分たちをへりくだらせ清めておられるのだという信仰を言い表しました。ユタ州プロボでビショップを務めたマイロン・タナーはこう述べています。「わたしたち親に襲い掛かっている抑圧の手は,何にも増して子供たちにモルモニズムの真実性を教えるものとなっている。」9「良心に従うがゆえに」獄に入るという行為は,多くの人を教化しました。ユタの刑務所での5か月の服役を終えて出所した大管長会顧問のジョージ・Q・キャノンは,すっかり元気を取り戻しました。「わたしの独房はまるで天国のようでした。天使たちがそばにいるのを感じました」と書いています。10
教会は反多妻結婚運動が展開されている期間に二つの神殿を建設して奉献するという偉業を達成しました。11しかし,連邦政府の圧力が激しさを増し,教会運営に欠かせない側面が次々と崩されていくにつれて,市民的不服従を長期的に続けることが困難になっていきました。1885年から1889年にかけて,ほとんどの使徒とステーク会長は身を隠すか,投獄されていました。連邦官がエドマンズ-タッカー法に従って教会の資産を没収し始めると,教会の運営はさらに困難になりました。12
「声明」
20年間,法律を変えるために交渉し,法律がもたらす悲惨な結果から逃れる道を歩んだ後で,教会の指導者たちは別の道を模索し始めました。1885年と1886年,教会は合衆国の法域外のメキシコとカナダに共同社会を築き,多妻結婚の家族が平和に暮らせるようにしました。教会が対抗姿勢を和らげることにより人々の敵対心が弱まるように望んだ教会の指導者たちは,多妻結婚を行っている男性に表向きは一人の妻とのみ生活するように勧告し,多妻結婚を公の場で教えないよう勧めました。1889年,教会指導者はユタで新たに多妻結婚を行うことを禁止しました。13
指導者たちはよく祈り,主の導きを求め,進むべき道を理解するために苦闘しました。ジョン・テーラー大管長とウィルフォード・ウッドラフ大管長は,方針を変えず多妻結婚を続けるよう主が指示されていると感じました。14
そのような霊感を受けたのは,この慣行が法的に認められる可能性がまだ残されているときでした。しかし,1890年に合衆国最高裁判所がエドマンズ-タッカー法を合憲とする裁定を下し教会の財産の没収を許可したときに,最後の望みが絶たれました。ウッドラフ大管長は,今や教会の神殿とその儀式が危険にさらされていることを悟りました。その危機に心を悩ましたウッドラフ大管長は,この件について熱烈に祈りました。彼は後にこう述べています。「わたしたちがこの行為(多妻結婚)をやめなければまさに何が起こるかを,主は示現と啓示によってわたしに示してくださいました。わたしたちはすべての神殿を手放〔すことになるでしょう〕。また,神は「何をすべきか,またそれをしなければどうなるかを具体的に教えてくださいました。」15
1890年9月25日,ウッドラフ大管長は日記に,「教会をこの世において救うために行動する必要」があったと記しています。「主に祈り,御霊の霊感を感じながら,わたしは……一つの『声明』を発表しました。」16現在「公式の宣言1」として教義と聖約に収められているこの宣言は,9月25日に発表され,「声明」として知られるようになりました。17
合衆国政府との直接的な対立に対処するために,「声明」は言葉を慎重に選んで書かれました。「わたしたちは現在一夫多妻制,すなわち多妻結婚を教えておらず,だれにもそれを実施することを許していない。多妻結婚を禁じる法律が議会によって制定され,それらの法律が最高裁判所により合憲であると宣言された以上,わたしは,それらの法律に従い,またわたしが管理する教会の会員にもわたしの影響力を行使して同様にそれらの法律に従わせるようにすることを,ここに宣言するものである。」18
この「声明」に対する十二使徒定員会の会員の反応は様々でした。フランクリン・D・リチャーズは,それが「主の業」だと確信しました。フランシス・M・ライマンは,「初めて『声明』を聞いたときに,それを支持した」と言っています。19しかし,十二人の使徒全員がすぐにこの文書を受け入れたわけではありません。ジョン・W・テーラーは最初,「それが正しいこととは確信できなかった」と言っています。20ジョン・ヘンリー・スミスは率直にこう述べています。「『声明』により気分を害されました。」また,そのことについてまだ「確信を持て〔ませんでした〕。」21しかし,1週間以内に十二人の使徒は皆「声明」を支持することを挙手により表明しました。
「声明」は,1890年10月にソルトレークのタバナクルで開かれた半期総大会において正式に教会全体に提示されました。10月6日の月曜日,ソルトレーク・シティーでビショップを務めていたオーソン・F・ホイットニーが壇上に立ち,信仰箇条を読み上げました。そこには,末日聖徒はが「法律を守り,尊び,支える」ことを信じる,という一文が含まれていました。これらの信仰箇条は挙手により支持されました。ホイットニーはその後「声明」を読み上げ,十二使徒定員会会長のロレンゾ・スノーはその文書を「権威と拘束力のある」ものとして受け入れることを提議しました。集まった人たちはこの提議について挙手により賛成か反対かを表明するよう求められました。Deseret Newsは,棄権した一部の人を除き,「全員一致」で賛意が表明されたと報告しています。22
一般の末日聖徒は「声明」を受け入れましたが,人それぞれにさまざまな不安を抱いていました。多く会員は,多妻結婚を止める備ができていませんでした。中央扶助協会会長ジーナ・D・H・ヤングは,「声明」が教会に提議された日の日記の中で,そのときの苦しみについて書き記しています。「今日,みんなの心が試されたが,皆神に頼って従いました。」23「声明」を受け,人々は今後の自分たちの関係について不安を感じました。ユージェニア・ウォッシュバーン・ラーセンは,最悪の事態を想像し,「暗闇」の中にいるかのように感じたと言っています。彼女は自分やほかの妻たち,子供たちが夫たちに「棄てられる」ことを想像したのです。24しかし,多妻結婚をしていた妻たちの中には,「声明」を聞いて「大きな安堵」を覚えた人たちもいました。25
「声明」後
末日聖徒 は,主は御自分の御心を「規則に規則,ここにも少し,そこにも少し」というふうに段階的に明らかにされると信じています。261890年に生きていた教会員は概して,フランクリン・D・リチャーズの言葉のように,「声明」は「主の業」であると信じていました。しかし,「声明」がどのように適応されるかは最初は明確にされていませんでした。適応範囲が定められていなかったため,指導者たちは様々な見解を持っていました。「現在の形に落ち着くように,少しずつ導かれてきました」と使徒ヒーバー・J・グラントは説明しています。27長年にわたり絶えず啓示を受ける努力を通して,教会員は「声明」をどう解釈すべきかを「少しずつ」理解してきました。
最初,多くの教会指導者は,「声明」は,期間を定めずに多妻結婚を「一時的に中止する」ものだと考えていました。28多妻結婚を行い,多妻結婚を教えられ,多妻結婚のために長い間苦しんできた会員にとって,多妻結婚のない世界を想像するのは容易ではありませんでした。大管長会顧問のジョージ・Q・キャノンは,「声明」を,1830年代に聖徒 がミズーリ州から追放されたときに主が同州に神殿を建てる命令を猶予されたことにたとえました。「声明」が総大会で支持された直後の説教の中で,キャノン管長は聖句を引用し,神から与えられた戒めを行おうと熱心に努めながらも敵に妨げられるときには,神はその人々をお赦しになると教えました。「見よ,わたしは当然のこととして,もう人の子らの手にその業を求めることはなく,彼らのささげ物を受け入れる。」29
それでも,幾つもの現実的な問題を解決する必要がありました。「声明」は,既存の多妻家族がどうするべきかについて言及していませんでした。「声明」を受けて,自分たちの判断により,別居や離婚をした夫婦もいました。また,一人の妻とのみ同居し,ほかの妻と扶養家族に経済的,情緒的な支援を与える夫もいました。30地元の指導者との非公開の集会の中で,大管長会は,「声明」を言い訳にして妻たちのもとを去る夫を非難しました。「わたしは,妻と子供を見棄ててよいなどとはいうことは,これまでに言ったこともありませんし,今言うこともできませんし,言うつもりもありません。」ウッドラフ大管長は男性たちにそう語りました。「皆さんは自分の名誉にかけて,そのようなことはできないはずです。」31
神と妻たちと交わした聖約を何よりも敬うべきだと信じていた多くの夫(教会の指導者も含む)は,20世紀に入っても何年にもわたり複数の妻たちと同居を続け子供をもうけました。32同居を続けた夫婦は,起訴の恐怖にさらされました。それは「声明」前の状況と同じでした。しかし1890年以降,この恐怖は著しく減少しました。「声明」を契機に連邦政府および国家との新たな関係が生まれました。特に合衆国大統領ベンジャミン・ハリソンが1893年にモルモンの一夫多妻実施者に対して大赦を与えてからは,多妻結婚実施者への起訴は減少し,身を隠していた一夫多妻の妻たちは表に出てきて結婚後の名前をまた使うようになり,夫たちはより自由に家族と交わるようになりました。333年後ユタは州となり,一夫多妻制を禁止する州憲法が制定されました。
「声明」は,合衆国の法律に従うというウッドラフ大管長の意図を宣言していました。しかし,「声明」にはほかの国家の法律については記載がありませんでした。メキシコおよびカナダに植民地ができると,教会指導者たちはそれらの国で多妻結婚を執行するようになり,1890年10月以降もこれらの地域では多妻結婚が静かに行われていました。34これらの結婚は通常,教会指導者から奨励されたものではなく,簡単に承認を得られるものではありませんでした。通常,多妻結婚をする夫婦のいずれか一方または両方がカナダまたはメキシコに残ることに同意しなければなりませんでした。1890年から1904年にかけて,特別な事情がある場合に限り,ごく少数の多妻結婚が行われました。とはいえ,合衆国内でそのような結婚が認められるかどうかは不確実でした。35
この期間,合衆国の内と外で新たに多妻結婚をした夫婦の正確な人数は不明です。この期間の結び固めの記録には,多妻結婚かどうかの区別は記されていません。そのため,正確な計算は困難です。しかし,教会の書記が年代順に記録した結婚と結び固めの記録から,大体の規模が分かります。1880年代の終わりから1900年代初頭にかけては,神殿の数が少なく,神殿までの移動が長く困難なものであったため,神殿から離れたところに住んでいた末日聖徒 は,神殿以外で結び固めを受けることが認められていました。
「神殿以外で行われた結婚と結び固め」の記録(包括的な記録ではない)によると,1890年10月17日から1903年9月8日の間に315組の結婚が行われたと記録されています。36記録されている315組のうち25組(7.9%)が多妻結婚で290組(92.1%)が一夫一妻結婚であったことが,調査から明らかになりました。記録されているほぼすべての一夫一妻結婚はアリゾナまたはメキシコで執り行われました。25組の多妻結婚のうち,18組はメキシコで,3組みはアリゾナで,2組はユタで,1組はコロラドで,さらに1組は太平洋の船の上で執り行われました。この記録から,多妻結婚の慣習は全般的に減少しつつあり,教会指導者は「声明」の内容を自分が理解したとおりに,良心に従って守っていたことが分かります。37
これらの結婚が具体的にどのような手順で承認されたかは,いまだ不明です。「声明」後の多妻結婚には大管長会の一員の承認が必要な時期がありました。しかし,大管長会全員でその決定を行っていたことを示す確かな証拠はありません。例えば,ウッドラフ大管長は新たな多妻結婚の許可申請が来ると,たいていキャノン管長に一人で検討するように依頼しました。381890年代後半までに,結び固めを執行する権能を持つ男性の少なくとも数人は,結び固めの申請を許可するか否かは自分の裁量に任されていて,大管長会の許可を得る必要はないと考えていたようです。例えば,使徒ヒーバー・J・グラントは,1900年にメキシコのモルモン共同体を訪れた際に1日に10組の多妻結婚の申請を受けたと報告しています。彼は全ての申請を却下しました。グラントは友人にこう話しています。「あのような文書〔「声明」のこと〕に違反する行為は,わたしにはどうしてもできないのです。」39
2つ目の「声明」
当初,「声明」後も新たに多妻結婚を行っていることは,教会外の人にはほとんど知られていませんでした。1899年にジョージ・Q・キャノン管長がNew York Herald紙のインタビューで,カナダとメキシコで多妻結婚が行われている可能性があることを示唆し,多妻結婚が続いていることが公になると,多くのアメリカ人が困惑しました。40七十人第一定員会会員のB・H・ロバーツは,連邦議員選挙に当選しましたが,彼には3人妻がいて,そのうちの1人は「声明」後に結婚した妻であることが発覚しました。ロバーツの議会入りに反対する700万人の署名入り嘆願書が提出されました。連邦議会は嘆願書を受け入れ,ロバーツの議会入りは拒絶されました。41
B・H・ロバーツが議会を追放されたことを受けて,モルモンの結婚の慣習に対する批判が再燃しました。ロレンゾ・スノー大管長は,教会は新たに多妻結婚を行わないことと「声明」は全世界に適用されることを明示する声明を出しました。スノー大管長はこのことを個人的に繰り返し勧告しました。それでも,わずかながら新たな多妻結婚が(おそらく,スノー大管長知らないところで,大管長の承認を得ずに)行われ続けました。1901年にジョセフ・F・スミスが大管長になった後も,その在任期間の初期には新たな多妻結婚がわずかに行われました。42
1903年に使徒のリード・スムートが合衆国上院議員に選出されると,このような結婚に教会がどのような役割を果たしているかが激しい論争の的となりました。スムート自身は一夫一妻制でしたが,使徒という立場から国への忠誠心を疑われたのです。一方では教会の指導者の中に新たな多妻結婚を執行し,承認し,自ら行っている人たちがいて,もう一方では政府が多妻結婚を違法としているという状況の中で,スムートはどのようにして教会の律法と政府の法律に従うことができるのでしょうか。この問題について,議員たちは4年にわたる長い公聴会で議論しました。
上院は何人もの証人喚問を行いました。大管長であるジョセフ・F・スミスも1904年3月に上院会議場で証言をしました。委員会から質問を受けた大管長は,自分の家族関係を擁護しました。彼は1890年以降複数の妻と同居を続けていて,子供をもうけてきたと伝えました。神と妻たちと自分との間で交わした神聖な聖約を破ることは不名誉なことであると,彼は述べました。1890年以降に新たに執行された多妻結婚について問われると,スミス大管長は,教会に認可され教会の評議会や大会において承認された行為と,個々の教会員が取っている行為とを慎重に区別しました。「『声明』以降に行われた多妻結婚のうち,教会として認知し,同意や許可や承認を与えたものは一つもない」と大管長は証言しました。43
この公式な場で,スミス大管長は事実を述べながら教会を擁護しました。スミス大管長の証言は,教会の指導者がこれまでこの件をどのように理解してきたかを明らかにしました。「『声明』は,多妻結婚を支持し擁護するという教会全体に対する神の命令を解除」するものであり,「教会は,個人が宗教的道義上,多妻結婚の実践や執行を続けることを禁じてはいない」ということです。
このような理解を変える時が来ました。このときまでに,モルモンの結婚はその大半が一夫一妻制になっていましたが,一夫一妻制のみが承認された形であるとするまでには長い時間を必要としました。1889年,生涯を通じて一夫一妻制であった会員が十二使徒に召されました。1897年以降,新たに使徒職に召された男性は任命時には一人を除く全員が一夫一妻制でした。441890年代以降,教会指導者は,それまでのようにユタ州に移住するのではなく,地元に残って地元に「シオンを築く」よう会員に強く勧めるようになりました。そのため,一夫一妻制の法律に従うことは重要になりました。
上院での証言中,スミス大管長は多妻結婚に対する教会の立場を公の場で明確にすることを約束しました。1904年4月の総大会で,スミス大管長は「第2の声明」として知られる力強い声明を出しました。それには,今後多妻結婚を行う人には罰が科さられるという内容が含まれていました。「多妻結婚の儀式を執り行う,あるいは多妻結婚を実施する教会の指導者や会員は,教会に背いたものとみなされ,その規則に従い処分を受け,破門される。」45この声明は教会の上層部の評議会で承認され,教会の内部で権威と拘束力を持つ規定として,教会の総大会において全員一致で支持されました。46
「第2の声明」は重要な分岐点となりました。新たに多妻結婚を行うことは神からも教会からも承認されないことが始めて教会員に知らされたのです。「第2の声明」は,最初の「声明」の適用範囲を広げました。十二使徒定員会会長のフランシス・M・ライマンはこう説明しました。「最初の〔声明〕は今後は多妻結婚を行う必要はないことを聖徒に知らせるものでしたが,1904年4月6日にソルトレーク・シティーで開かれた総大会での発表〔『第2の声明』〕は,最初の『声明』を禁止命令に変えるものとなりました。」47
教会の指導者たちはこの宣言の重大性を,あらゆる層の指導者や会員に伝えるために力を尽くしました。ライマン会長は大管長会の指示により,十二使徒定員会の各会員に手紙を送り,「第2の声明」を「厳密に実行する」よう勧告しました。48その指示に反し,二人の使徒,ジョン・W・テーラーとマサイアス・F・カウリーは「第2の声明」後も新たに多妻結婚を執行し,奨励し続けました。二人はやがて定員会から除名されました。49テーラーは,引き続き多妻結婚を執行する権利に固執したため,教会から破門されました。カウリーは神権の行使を制限されましたが,のちに自分が「まったく誤っていた」と認めています。50
1890年から1904年にかけて多妻結婚を行った一部の夫婦は,「第2の声明」後に別れましたが,多くの夫婦は1930年代になっても,さらにはその後もひそかに同居を続けました。51「第2の声明」を拒み,多妻結婚を公に支持し続けた教会員や新たに多妻結婚を行った教会員は教会宗紀評議会に召還されました。破門された人たちの中には独立運動を起こしたグループもいます。彼らは現在「原理主義者」と呼ばれることもあります。これらのグループは,末日聖徒イエス・キリスト教会の関連団体ではなく,教会は彼らを支援していません。教会および教会員は現在新たに多妻結婚を行うことを承認されていないということを,ジョセフ・F・スミス以降の教会の歴代大管長は繰り返し強調してきました。また,彼らが真摯であることを強調するために,これに従わない会員を教会宗教評議会に召喚するよう地元の指導者たちに要請しました。
結論
一人の男性と一人の女性の間の結婚は神が定められた結婚の標準です。神が預言者ジョセフ・スミスに対して行われたように,神が別の指示を宣言されない限り,それが神の標準なのです。「声明」を境にに,一夫一妻制への回帰が始まり,それが今日の教会の標準となっています。52「声明」が与えられた直後に総大会で語ったジョージ・Q・キャノン管長は,「声明」が出されるまでの啓示のプロセスについて述べました。「教会の大管長会も皆さんと同じように現世で経験を積まなければなりません。皆さんと同じように一歩ずつ前に進む必要があるのです。大管長会は神から啓示が与えられるときにその啓示に頼らなければなりません。主のように始めからすべてを見通すことはできないのです。」また,キャノン管長は大管長会についてこう述べました。「わたしたちにできることは,神の御心を求めることです。それが明らかにされたときには,たとえそれが今までに抱いていた自分の感情に反するものであっても,神が示された道を歩み,神を信頼する以外にわたしたちの選択肢はないのです。」53
資料
- 教義と聖約98:12
- モルモン書ヤコブ2:30; 「カートランドとノーブーにおける多妻結婚」
- 「初期のユタにおける多妻結婚と家族」
- サラ・バーリンガー・ゴードン,The Mormon Question: Polygamy and Constitutional Conflict in Nineteenth Century America (チャペルヒル: University of North Carolina Press, 2002年)
- Reynolds v. United States,98 U.S. 145 (1879年): 164
- J・デビッド・パルシファー,“‘Prepared to Abide the Penalty’: Latter-day Saints and Civil Disobedience,” Journal of Mormon History39, no. 3 ( 2013年夏): 131–162末日聖徒 は合衆国では伝統的な手段であった市民的不服従を用いました。市民的不従順は,アメリカ革命の発端となる騒動で初めて用いられました。
- 例えば,ベンジャミン・ジョンソン,My Life’s Review: Autobiography of Benjamin Franklin Johnson (ユタ州プロボ: Grandin Book, 1997年), 276–325; In the Whirlpool: The Pre-Manifesto Letters of President Wilford Woodruff to the William Atkin Family, 1885–1890年, リード・L・ニールソン編 (ノーマン, OK: Arthur H. Clark Company, 2011年), 45–49などを参照
- ジェシー・L・エンブリー, Mormon Polygamous Families: Life in the Principle (ソルトレーク・シティー: University of Utah Press, 1987年), 17–22; “A Mormon ‘Widow’ in Colorado: The Exile of Emily Wells Grant,”ロナルド・W・ウォーカー, Qualities That Count: Heber J. Grant as Businessman, Missionary, and Apostle ユタ州プロボ: Brigham Young University Press, 2004年)で引用( 175–193; キンバリー・ジェンセン・ジェームズ, “‘Between Two Fires’: Women on the Underground of Mormon Polygamy,” Journal of Mormon History 8 (1981年):49–61;マーサ・ソンタグ・ブラッドリー “‘Hide and Seek’: Children on the Underground,” Utah Historical Quarterly 51, no. 2 (1983年春): 133–153
- ユタステーク扶助協会, General Minutes, 1886, 11月26日付,ソルトレーク・シティー,教会歴史図書館
- Within These Prison Walls: Lorenzo Snow’s Record Book, 1886–1897年アンドリュー・H・ヘッジズとリチャード・ナイツェル・ホルツアフェル共編(ユタ州プロボ:ブリガムヤング大学宗教研究センター , 2010年);デービス・ビットン, George Q. Cannon: A Biography (ソルトレーク・シティー:Deseret Book,1999年), 296
- 1884年にはユタ州ローガンに,1888年にはユタ州マンタイに,神殿が奉献されました。
- “Crisis in Zion: Heber J. Grant and the Panic of 1893,” ウォーカー, Qualities That Count, 116で引用
- ジョージ・Q・キャノンの日記,1888年5月29日付:1889年8月15日,9月9日付, ソルトレーク・シティー,教会歴史図書館;ヒーバー・J・グラントの日記,1890年1月1日付,ソルトレーク・シティー,教会歴史図書館;トーマス・G・アレクサンダー, “The Odyssey of a Latter-day Prophet: Wilford Woodruff and the Manifesto of 1890,” ニールソン,In the Whirlpool, 72–73で引用
- アレクサンダー, “The Odyssey of a Latter-day Prophet,” 77–78ジョン・テーラー大管長の息子の使徒ジョン・W・テイラーは後に,大管長の死後,遺された書類の中から「主が彼〔テーラー大管長〕に与えられた啓示」が見つかったと報告しました。「テーラー大管長はそれ〔多妻結婚〕を中断したいと望みましたが,主はそれをお許しになりませんでした。」(アブラハム・H・キャノンの日記,1892年4月1日付,ソルトレーク・シティー,教会歴史図書館)何年も後に,多妻結婚の執行を継続していた使徒テーラーは破門の審理を受けている場で,この啓示の写しを提示しました。十二使徒定員会会長のフランシス・M・ライマンはその日の日記に,その「啓示とされるものは神権評議会にも教会にも提示されたことがなく」それゆえ,教会に対して拘束力がなかったと,記しています。(フランシス・M・ライマンの日記,1911年2月22日付)たとえその啓示が本物であったとしても,その後ウィルフォード・ウッドラフ大管長に啓示として与えられ,総大会で承認された「声明」に取って代わられていたとになります。
- “Remarks Made by President Wilford Woodruff,” Deseret Evening News, 1891年11月7日付, 4; および教義と聖約「公式の宣言1」に付属する抜粋
- ウィルフォード・ウッドラフの日記,1890年8月25日付,ソルトレーク・シティー,教会歴史図書館
- ジョージ・Q・キャノンの日記,1890年9月23-25日付
- 「公式の宣言1」; “Official Declaration,” Deseret Evening News, 1890年9月25日付
- ヒーバー・J・グラントの日記,1890年9月30日付ヒーバー・J・グラントはこう述べました。「わたしは『声明』を承認する。『声明』は,わたしたちがすでに評議会で決定した方向性を公に発表するにすぎないと感じている。」(アブラハム・H・キャノンの日記,1890年10月1日付)
- アブラハム・H・キャノンの日記,1890年9月30日付
- ヒーバー・J・グラントの日記,1890年10月1日付
- President Woodruff’s Manifesto: Proceedings at the Semi-Annual General Conference of the Church of Jesus Christ of Latter-day Saints, Monday Forenoon, October 6, 1890 (ソルトレーク・シティー, 1890年), 1–3;“Third Day,” Deseret Evening News, 1890年10月6日付; Marriner Wood Merrill journal, 189010月6日付, ソルトレーク・シティー,教会歴史図書館;アブラハム・H・キャノンの日記,1890年10月6日付;ジョセフ・H・ディーンの日記,1890年10月6日付,ソルトレーク・シティー,教会歴史図書館
- ジーナ・D・H・ヤングの日記,1890年10月6日付,ソルトレーク・シティー,教会歴史図書館;綴りは標準化されています
- ラーセンは間もなく大きな心の変化を経験しました。彼女は当時を思い出してこう語っています。「筆紙に尽くしがたい輝きを放つ光を見ました。」そして,その経験により彼女は「声明」が正しいと知りました。(Autobiography of Lorena Eugenia Washburn Larsen〔ユタ州プロボ: Brigham Young University Press, 1962年〕,105–106)
- アニー・クラーク・タナー, A Mormon Mother: An Autobiography by Annie Clark Tanner (ソルトレーク・シティー:Tanner Trust Fund and University of Utah Library, 1991年), 130;リサ・オルセン・テート,“The 1890s Mormon Culture of Letters and the Post-Manifesto Marriage Crisis: A New Approach to Home Literature,” BYU Studies 52, no. 1(2013年):98–124.
- イザヤ28:10,13;2ニーファイ28:30;教義と聖約98:12も参照
- アブラハム・H・キャノンの日記,1892年4月1日付
- ヒーバー・J・グラントの日記,1890年9月30日; “Amnesty Petition,” 1891年,12月19日, ジェームズ・R・クラーク編, Messages of the First Presidency of The Church of Jesus Christ of Latter-day Saints,全6巻(ソルトレーク・シティー:Bookcraft,1965–1975),第3巻230で引用
- President Woodruff’s Manifesto, 3;教義と聖約124:49
- エンブリー,Mormon Polygamous Families,13–14;フランシス・M・ライマンの日記,1893年12月15日付,ソルトレーク・シティー,教会歴史図書館;ユタステーク高等評議会議事録,1892年8月5日付,ソルトレーク・シティー,教会歴史図書館
- アブラハム・H・キャノンの日記,1890年10月7日付,1891年11月12日付
- ケネス・L・キャノン II, “Beyond the Manifesto: Polygamous Cohabitation among LDS General Authorities after 1890,” Utah Historical Quarterly 46, no. 1 (1978年冬):24–36
- ハリソン大統領の大赦の宣言により,1890年11月1日以降法律違反である同居を慎んだもののエドモンズ法およびエドマンズ-タッカー法への違反を宣告されたすべての人たちが赦免されました。
- 多妻結婚はメキシコでは違法であり,1890年以降カナダでも違法でしたが,両国の政府はモルモンの一夫多妻者を積極的に起訴しようとしませんでした。メキシコの場合,モルモンの指導者はメキシコ政府の役人と口約束を交わし,同植民地内での多妻結婚の実施を許されていました。(B・カーモン・ハーディー, Solemn Covenant: The Mormon Polygamous Passage 〔ウルバナ: University of Illinois Press, 1992年〕,173–182)
- 例として,マサイアス・カウリー, Marriages Solemnized, 1898–1903年, ソルトレーク・シティー,教会歴史図書館を参照
- Marriages and Sealings Performed Outside the Temple, 1853–1857年, 1873–1903年, ソルトレーク・シティー,教会歴史図書館記録には,1890年代から1900年代前半にかけて,アンソニー・W・アイビンズやマサイアス・F・カウリー,アブラハム・O・ウッドラフが多妻結婚や一夫一妻結婚を執行していたという記述はありません。1890年から1904年にかけて,十二使徒定員会の会員として奉仕した19人の中で8人は新たに多妻結婚を行っていますが,その結婚はこの記録に記載されていません。この中には,ブリガム・ヤング・ジュニアやジョージ・ティーズデール,ジョン・W・テーラー,アブラハム・H・キャノン,マリナー・W・メリル,マサイアス・F・カウリー,アブラハム・オーウェン・ウッドラフ,ラジャー・クローソンなどが含まれます。ウィルフォード・ウッドラフ大管長は1897年にさらに妻を迎えたと言われていますが,そのことについて歴史記録にははっきりと記されていません。(トーマス・G・アレクサンダー, Things in Heaven and Earth: The Life and Times of Wilford Woodruff, a Mormon Prophet〔ソルトレーク・シティー:Signature Books,1991年〕,326–328参照)
- 「声明」の前でも,神殿内で執り行われる多妻結婚は劇的に減少していました。例えば,ローガン神殿で最も多妻結婚の結び固めが執り行われたのは1885年の188組でした。1888年には51組,1889年には4組にまで減少しました。1890年から1903年(多妻結婚の結び固めの記録を中止した年)にかけて,神殿内で行われた多妻結婚の記録はありません。この期間に,ローガンまたはその周辺で6組が多妻結婚したことが記録されています。Logan Temple Sealings, 1884–1903年,ソルトレーク・シティー, 教会歴史図書館
- フランシス・M・ライマンの日記,1901年4月18日付;Joseph F. Smith to Reed Smoot, 1911年4月1日付, Joseph F. Smith Papers, 協会歴史図書館;B・H・ロバーツからヒーバー・J・グラントへの手紙, 1929年7月9日付,B. H. Roberts Collection, ソルトレーク・シティー,教会歴史図書館;ジョセフ・T・ベントレー,Life and Letters of Joseph Charles Bentley: A Biography(ユタ州プロボ: By the author, 1977年),77–81ジョセフ・F・スミスは後に,スミス大管長とウッドラフ大管長,スノー大管長は,大管長として「『声明』以降,多妻結婚を執行したり行ったりする権能を与えたことは一切ない」と断言しました。(フランシス・M・ライマンの日記,1905年12月14日付)
- ヒーバー・J・グラントからフランク・Y・テーラーへの手紙,1904年4月28日け, Heber J. Grant Letterpress Copybook, 38:591, Heber J. Grant Collection, ソルトレーク・シティー,教会歴史図書館
- ユージーン・ヤング, “Polygamy Is Reviving,” New York Herald,1899年2月5日付,2
- デービス・ビットン, “The Exclusion of B. H. Roberts from Congress,” The Ritualization of Mormon History and Other Essays (ウルバナ:University of Illinois Press, 1994年),150–170で引用
- “Polygamy and Unlawful Cohabitation,” Deseret Evening News, 1900年1月8日付; ル・アン・フェイラーとフィリップ・A・スナイダー, Post-Manifesto Polygamy: The 1899–1904 Correspondence of Helen, Owen, and Avery Woodruff(ユタ州ローガン:Utah State University Press, 2009);トーマス・G・アレクサンダー,Mormonism in Transition: A History of the Latter-day Saints, 1890–1930(ウルバナ:University of Illinois Press,1996年),62–63多妻結婚の数は,教会で執行される一夫一妻結婚と比較すると少数にとどまりました。新たな多妻結婚を行うことの積極的な支持者であった使徒マサイアス・F・カウリーは,自分が執行した多妻結婚の記録を小さな手帳につけていました。手帳には,1898年に3組,1899年に4組,1900年に9組,1901年に20組,1902年に18組,1903年に3組の記録が残っています。(カウリー, Marriages Solemnized, 1898–1903年)
- 合衆国上院, Committee on Privileges and Elections, Proceedings before the Committee on Privileges and Elections of the United States Senate: In the Matter of the Protests against the Right of Hon. Reed Smoot, a Senator from the State of Utah, to Hold His Seat,全4 巻(ワシントン D.C.: Government Printing Office, 1904–1906年),第1巻:129–130ワシントンD.C.におけるスミス大管長の証言については,キャスリーン・フレーク, The Politics of American Religious Identity: The Seating of Senator Reed Smoot, Mormon Apostle(チャペルヒル:University of North Carolina Press,2004年),56–81を参照
- 例外は,1904年7月に召されたチャールズ・W・ペンローズ。彼には,数十年前に結婚した二人の妻と,さらに1886年に結婚した妻がいました。1889年に十二使徒に召された一夫一妻主義のアンソン・H・ランドは,1901年にジョセフ・F・スミス大管長の顧問になりました。
- “Official Statement by President Joseph F. Smith,” Deseret Evening News, 1904年4月6日付,1
- フランシス・M・ライマンの日記,1904年4月6日付
- “President Lyman Very Emphatic,” Deseret Evening News, 1910年10月31日付,1
- フランシス・M・ライマンからジョン・W・テーラーへの手紙, 1904年5月3日付, Francis Marion Lyman Papers,ソルトレーク・シティー,教会歴史図書館;フランシス・M・ライマンからマサイアス・F・カウリーへの手紙,1904年5月6日付, フランシス・M・ライマンの日記,1904年5月6日付で引用
- テーラーとカウリーが定員会から除名されたのは単にワシントンDCの世論を満足させるためであったという主張がなされることがあります。しかし,当時の文書には,二人が1905年から1906年にかけて定員会と「一致していなかった」と記されています。1904年10月,大管長会は神殿外で結び固めを執行する慣習を廃止しました。にもかかわらず,カウリーとテーラーは神殿外で多妻結婚を執行し続けました。その中には,自分自身のものも含まれていました。カウリーは1905年に多妻結婚をしました。テーラーは1909年に多妻結婚をしました。(マチアス・F・カウリーの日記,1906年7月5日付け,ソルトレーク・シティー,教会歴史図書館; 大管長会からジョージ・ティースデールへの書簡1904年10月26日付け,教会歴史図書館,フランシス・M・ライマンの日記,1904年9月29日付け; 1905年10月28日付け,1906年4月10,12日,7月3日付け)
- フランシス・M・ライマンの日記,1911年3月28日; “Reconciliation,” Deseret News, 1936年4月3日, 4.1904年に多妻結婚をした十二使徒のラジャー・クローソンは,教会指導者から罰を受けることはありませんでした。その理由の一つは,新たに多妻結婚を執行する権利に固執しなかったためと考えられます。クローソン自身の多妻結婚は,別離により終わりました。デビッド・S・フープスとロイ・フープス,The Making of a Mormon Apostle: The Story of Rudger Clawson(メリーランド州ランハム:Madison Books, 1990年),215–220,225–227,287–288
- 例として,キャロライン・オバギー・デイビス,The Fourth Wife: Polygamy, Love, & Revolution(アリゾナ州タクソン:Rio Nuevo, 2011年)参照
- 「家族―世界への宣言」『リアホナ』2010年11月号,129
- ジョージ・Q・キャノン,1890年10月5日 Collected Discourses: Delivered by President Wilford Woodruff, His Two Counselors, the Twelve Apostles, and Others, ブライアン・H・スタイ編, 全5 巻(カリフォルニア州バルバンク: B.H.SPublishing, 1987–1992年),第2巻:115–116
本記事で紹介された歴史的な内容が研究者の厚意によって提供されたことに,教会は感謝の意を表します。これらの著述は許可を得て使用しています。