CES宗教教育者大会
真理は変わることがない


真理は変わることがない

D・トッド・クリストファーソン長老との夕べ

CES宗教教育者へ向けた説教・2018年1月26日,ソルトレーク・タバナクル

今宵,皆さんとともに過ごせることを天の御父に感謝いたします。キム・B・クラーク長老,チャド・H・ウェッブ兄弟に感謝します。今日紹介された方々,またプログラムに名前が挙げられている方々を尊敬しています。教会教育システムに,セミナリーおよびインスティテュートに,深く感謝します。奉仕してくださっている,すべての同僚,ボランティアの皆さん,貢献してくださっているすべての方々を心から称賛します。皆さんがしてくださっている奉仕の業は,教会員にとって,とりわけ若い世代にとって,きわめて大切で有益なものであると確信しています。皆さんに感謝いたします。

今晩わたしは真理について話したいと思います。教会教育システムは,真理,特に永遠の命の基盤となる最も重要で基本的な真理を繰り返し教え,植えつけることに力を注いでいます。真理を教えるだけでなくそれを擁護することはこれまで常に重要でしたが,その必要性はこの時代にますます高まっているように思えます。

ヨハネ書の中で,イエスがピラトの尋問を受けたとき,御自分は「真理についてあかしをする」ために世に来たと宣言されたことを覚えておられるでしょう。「だれでも真理につく者は,わたしの声に耳を傾ける」とイエスは言われました。1ピラトは冷ややかな声で,「真理とは何か」と答えました。2答えを求めて発せられた質問ではないことは明らかです。ピラトは真理の存在を信じていなかった,あるいは恐らく政治的な陰謀に満ちた人生を過ごしてきたために,何が真理であるかを知ることができるという望みを失っていたのかもしれません。それでも,彼の質問は的を得た質問であり,わたしたちが考えてみるべき質問です。

最後の晩餐における崇高な取りなしの祈りの中で,主は御父の言葉は真理であると証されました。3聖なる御霊に関する記録や証は真実であり,「真理はとこしえにいつまでも変わらない」と宣言されたのです。4また御父と御子は「恵みと真理に満ちておられる」とも宣言されました。5預言者ジョセフ・スミスへの啓示により,救い主は,恐らく可能な限り最も簡潔に,真理の定義を示されました。「真理とは,現在あるとおりの,過去にあったとおりの,また未来にあるとおりの,物事についての知識である。」6

この定義はまさに文字どおりですが,それが暗に意味しているのは,天の助けがなければ,死すべき人間の真理に対する理解はごく限定されたものになる,ということです。BYU名誉教授のチョーンシー・C・リドル教授はこのように説明しています。

「物事の現在と過去と未来のあり様に関する真理について,その小さなかけらでさえも理解することができる人間は一人もいない。わたしたち人間は様々な関係により物事を理解するため,総体的に知っている〔真理の〕ひとかけらを理解することができない。そのひとかけらは,ほかのすべてのものおよび,それらの過去,〔現在〕,未来と関連付けられて初めて,完全にその意義を持つようになるからである。

従って,真理はすべてを見通し,過去,現在,未来の万事を知り尽くしておられる神のみが完全に理解することがおできになる。」7

リドル教授はさらにこのように記しています。

「真理を識別する能力に限りのある人類を救うために,御父は救い主イエス・キリストと聖霊を与えてくださった。救い主は,この世に生を受けるすべての男女にキリストの光を授け,これにより各人が善悪を識別できるようにしてくださる。……キリストの光を受け,それを愛し,善悪を識別するに当たって常にそれを用いるようになるならば,その人は聖霊の証を受ける備えができるであろう。……〔聖霊の賜物〕を持つ人は,常に聖霊を伴侶とする資格を得る。常に聖霊を伴侶とする人はだれでも,すべての真理を手に入れることができる。『そして聖霊の力によって,あなたがたはすべてのことの真理を知るであろう。』〔モロナイ10:5〕」8

救い主はこのことを,最後の晩餐における説教で確約されました。「 けれども真理の御霊が来る時には,あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。」9主はジョセフ・スミスにこのように言い添えておられます。「神の戒めを守る者は真理と光を受け,ついに真理によって栄光を受けて,すべてのことを知るようになる。」10

真理についてまず理解しなければならないことは,どの程度であれ真理を知るためには,キリストの光または聖霊の助けのいずれかの神の助けが必要だということです。人間の能力と情報源は限られているため,啓示の助けなしには,物事の過去,現在,未来におけるあり様について,また,過去,現在,未来における,あるものとそのほかのあらゆるものとの関係について広範な知識を得ることはできません。

それでも,主は預言者ジョセフ・スミスに,「研究して学び,すべての良い書物に通じ,またもろもろの言語と国語と民族に通じるようにしなければならない」と勧告されました。11主はこの勧告をわたしたちすべてにあまねく与えておられます。「あなたがたは……最良の書物から知恵の言葉〔あるいは『真理』と言ってもよい〕を探し求め,研究によって,また信仰によって学問を求めなさい。」12また,これらを「熱心に」行うべきだと言われました。13わたしたちは最善を尽くさなければならず,そうした最善の努力には,信仰を働かせることも含まれます。積極的に尋ね求め,探し,叩くことで真理の扉が開かれ,神からもたらされる光を得るように努めるのです。14今晩キム・クラーク長老が述べたように,これが「深く学ぶ」ということなのです。

人が見いだすことのできる真理のほぼすべては,人が気づくか否かにかかわらず,神の助けを通してもたらされます。ボイド・K・パッカー会長はキリストの光とキリストの御霊についてこのように記しています。

「キリストの御霊には啓発する力があり,発明家,科学者,画家,彫刻家,作曲家,演技者,建築家,作家などが,偉大で霊感に満ちたもの,全人類に祝福と善をもたらすものを造り出せるようにするのです。

この御霊は畑にいる農民や船に乗っている漁師を鼓舞することができます。教師が教室にいるとき,宣教師が福音を教えているときに霊感を与えることができます。教えに耳を傾ける生徒に霊感を与えることができます。さらに非常に重要なことに,夫と妻,父親と母親に霊感を与えることができるのです。」15

わたしたちは皆,十分にへりくだり,また現実的になり,「わたしたちが自分にできることをすべて行った後に」,神の恵みによって救われるだけでなく,真理についても同様に「わたしたちが自分にできることをすべて行った後に」,恵みによって理解できるようになることを認める必要があります。16「主の言葉は真理であり,また真理であるものはすべて光であり,光であるものはすべて御霊,すなわちイエス・キリストの御霊だからである。」17

救い主の宣言を思い起こしましょう。「真理はとこしえにいつまでも変わらない。」18教義と聖約98章において,主はこのように宣言しておられます。「すべての真理は,神がそれを置かれた領域において独立し,それ自体で作用する。すべての英知も同様である。そうでなければ,存在というものはない。」19わたしはこれについて,自分が存在する領域を司る真理を含め,あらゆる真理は,それぞれが独立して別個に存在するという意味に解釈しています。わたしの好みやあなたの意見によって左右されることはないのです。制御したり,変えたりしようとするどのような働きからも独立して存在し,どのような圧力,あるいは影響力も及ぶことのない,確固たる真実なのです。

この確固たる真実である真理がなければ,「存在というものはない」と救い主は言われました。20リーハイはこのことを念頭にこう教えたのではないかと思います。

「もし律法〔ここで言う律法とは,『神が置かれた領域において独立(している)』真理〕がないと言うならば,罪〔律法に不従順であるという罪〕もないと言わなければならない。もし罪がないと言うならば,義〔律法に従順であるという義,言い換えると,律法がない,あるいは従ったり従わなかったりする真理がまったく存在しない状況〕もないと言わなければならない。そして,もし義がなければ,幸福〔義の結果もたらされる幸福〕はない。そして,義も幸福もなければ,罰も不幸〔罪の結果もたらされる罰と不幸)もない。そしてこれらのものがなければ,神は実在しない。神が実在しなければ,わたしたちは存在せず,大地もない。なぜならば,作用するものも作用されるものもなく,事物の創造はあり得なかったからである。そこで,すべての事物は消えうせていたに違いない。」21

これらの事柄により,真理が存在し,それは確固とした不変の真実であることが分かります。人が助けなしに識別できる真理の量は比較的少なく,わたしたちは「すべてのことの真理」22を知るために天の啓示の助けに依存していること,またわたしたちも神も真理に基づいて作用し,創造するのであって,「そうでなければ,存在というものはない」23ことも分かります。ほかの聖句からは,真理と真理が矛盾することはなく,すべての真理は一つの大きな真理に包み込まれることも分かります。

さて,今日の世において,真理,とりわけ霊的な真理について教え,表明しようと努めるに当たり,わたしたちはどこに身を置いているでしょうか。

世の中には,相対主義的な考えがはびこっています。ここで言う相対主義とは,倫理上,または道徳上の真理は相対的なもので,人の考え方や感情に左右されるため,だれもほかの人の「真理」の正当性を判断することはできない,という意味です。今日,「わたしの真理」「彼または彼女の真理」について語る声を頻繁に耳にします。こうした考え方について,コラムニストのデビッド・ブルックスは,ノートルダムの社会学者,クリスチャン・スミスほかによる共著『ロスト・イン・トランスレーション』(Lost in Transition)を評して,次のように記しています。

「〔スミス氏の取材相手〕のほとんどが繰り返し立ち返る基本姿勢は,道徳的な選択は個人の好みの問題だということである。一般的に回答者たちは,『個人の問題ですから』『人それぞれでしょう。だれについて言えばいいんですか』と言う。

若者の多くは権威に盲目的に従うことを拒否して対極に走る。 『自分がいい気分になれると思うことや,思いどおりのやり方をしたい。心に感じるままにする以外,ほかのやり方は知らないし。』

多くの人は自分の道徳的な感情についてすぐ口にするものの,そういった感情を,共通の道徳的な枠組みや義務に関するより幅広い考えとはなかなか結びつけようとしない。ある人はこう言う。『何が正しいかは,それについて自分がどう感じるかじゃないかな。でも,人それぞれ感じ方は違うから,何が正しくて何が間違っているかを,ほかの人に代わって言うことはできない。』」24

わたしたちの時代に,道徳に関する相対主義的な考え方が深く浸透していることに異論はないと思います。「判断しないこと」が会話や行動の標準になっていることについては,ほとんど議論の余地がありません。しかし実際のところ,人は皆,自分自身についてのみならず,周囲の人や社会についても,善悪の判断をしています。法律および法体系,そして政治制度さえ,道徳的価値観や認識されている真理を具現化したものです。多元的な社会において,わたしたちはどの価値観を法制化するか,また何が正しく何が間違っているか,何が真理かについて議論しますが,結局のところ,どの問題についても,真理に関する,だれかまたは一部の団体の考え方が優勢となり,だれもがそれに縛られるのです。

社会に秩序と正義を求めるならば,道徳上の相対主義は功を奏しません。大部分の人にとって悪である殺人が,一部の人にとっては義となり得るでしょうか。盗みは悪いことではないと信じている人が,特に恵まれない環境で育ったからといって,盗んだ物を自分のものにしたり,盗みを続けたりする権利があるでしょうか。あるいは,今日のニュースで注目されているように,自分個人の道徳観念に矛盾しないからといって,男性には女性に性的な嫌がらせをする権利があるのでしょうか。

こう言う人がいるかもしれません。「今話しているのは,一般的に悪とされている事柄についてだ。人間の内には,元来備わっている価値観があって,それが,殺人や性的暴行,窃盗,またそのほかの,人を傷つけたり,正当な幸福の追及を妨げたりする行為を禁じる法律の基盤となっている。これらは,それに相対するどのような個人の権利をも否定する,本質的かつ普遍的な人権だ。道徳的な相対主義が適用されるのは,こうした一般に承認されている人権の範囲を超えた領域に限られ,その領域において,各個人が自分で何が善で何が悪かを決めればよい。」しかし,こういった理論は,普遍的人権と呼ぼうが,別の言い方をしようが,現に絶対的道徳観が存在することを示唆するものです。少なくとも幾つかの真理と道徳的概念は,個人の気まぐれや好みから一線を画して存在します。唯一の争点は,実に,絶対的道徳とは何であり,どこまで適用されるかということです。実のところ,道徳的相対主義とは,今まさに交わされている許容範囲に関する議論です。社会と人間関係において,どのような行動および差異が容認されるか,ということなのです。

わたしたちの召しは,道徳概念に関する真理について,それが何であり,どこまで適用されるかを教えることです。現代の環境にあって,その緊急性は増す一方です。わたしたちはあらゆる分野に関する真理を重んじますが,特に人生の意味と目的,生き方にかかわる真理については,神から得なければなりません。道徳的相対主義者は一般的に,この議題における神の役割や関連性を理解しませんし,大抵は神の存在さえ疑っています。神が存在し,さらには人に語りかけられるとすれば,彼らにとって最も不都合なことでしょう。神が実在されないなら,真理を相対的なものとして考えればよいからです。

最近のピューリサーチによる世論調査によると,今回初めて,アメリカ国民の半数以上(56パーセント)が,善い人になるために宗教上の信条は必要ないと答えています。「調査結果に関する自身の記事において,ピューリサーチの副ディレクターであるグレッグ・スミスは,『神は,優れた価値観と道徳観の必要条件ではない』と述べています。」25

わたしは,無神論者,また信仰や宗教上の信条を告白していない人々が,善良で高潔な人になり得ること,また多くが現にそのような人であることを確かに認めます。しかし,神の存在なくして,そうなれるという意見には同意できません。先ほど述べたように,好むか好まざるか,信じるか信じないか,気づいているかどうかにかかわらず,人はキリストの光で満たされており,そのためしばしば良心と呼ばれる善悪にかかわる共通の感覚を持っています。救い主は言われました。「わたし〔は〕世に来るすべての人を照らすまことの光である。」26またこうあります。「御霊は世に来るすべての人に光を与え,また御霊はその声を聴く全世界のすべての人を照らす。」27

ボイド・K・パッカー会長は先ほど引用した記事でこう教えています。

「あらゆる男性,女性,子供は,国,信条,肌の色を問わず—どこに住んでいようと,何を信じていようと,どんな職業に就いていようと—だれでもその内に不滅のキリストの光を持っています。その意味ですべての人は平等に造られているのです。すべての人の内にキリストの光があることによって,神が人を偏り見ない御方であられることが証明されています(教義と聖約1:35参照)。神は,キリストの光を授けることに関して,あらゆる人を平等に扱っておられるのです。」28

すべての人の内にあるキリストの光を念頭に置いて,リーハイはこのように宣言しました。「人は善悪をわきまえることを十分に教えられている。……人の子らは堕落から贖われているので,すでにとこしえに自由となり,善悪を知るようになって〔おり〕,……思いのままに行動でき〔る〕。」29モルモンはこのように勧めています。「善悪をわきまえることができるように,キリストの光の中で熱心に求めることを切に勧める。もしあなたがたが善いものをことごとく手にして,それを非難しなければ,あなたがたは必ずキリストの子となる。」30

道徳的相対主義は,良心を弱めるという害をもたらします。良心を認め,それに従うならば,さらに大きな光と真理に導かれますが,良心を無視したり,抑制したりすれば,明らかに光と真理から遠ざかり,否定や誤り,後悔が待ち受けています。確固とした実在する真理がないよう装うことは,責任を回避しようとしているにすぎません。幸せを得る秘訣とは言えません。

20年前,テキサス州オースティン大学の政治学および哲学の教授であるJ・ブジスゼースキー教授は,カトリック系の新聞『ファースト・シングス』(First Things)に,「良心の報復」(“The Revenge of Conscience”)という興味深い記事を寄せました。彼は,良心は生まれながらの律法,つまり「あらゆる人の心に記された律法」の一つだと述べています。わたしたちはこれをキリストの光と呼んでいます。いずれにしても,良心を抑え込もうとする試みに関する教授の洞察は示唆に富んでいます。

教授はこう記しています。「核となる原則〔十戒に盛り込まれているような原則〕に関する我々の知識は,拭い去ることができない。人はこれらの律法を知らないとは決して言えない。」31道徳的な相対主義は,こうした核となる原則の存在を否定し,たとえ存在したとしても万人に当てはまることを認めません。道徳的な現実主義の主張は,自分たちは実際のところ真理を知らないが,誠心誠意真理を探求し,あたかも霧の夜に目をこらして見ようとするかのように,できるかぎり最善を尽くしている,ということです。ブジスゼースキー教授は,このように宣言しています。「人はさらに知識を深めているが,最善を尽くしているわけではない。……概して善悪を見分けることを知ってはいるが,知らなければよかったと思っている。過ちを犯したり,悪事を容認したり,過去の過ちに対する後悔の念を抑圧したりできるように,真理を求めているように見せかけているにすぎないのだ。……わたしたちの堕落は,道徳的な無知ではなく,道徳心の抑圧によるものだ。教えられていないのではなく,『現実から目を背けて』おり,道徳的な知識に欠けているのではなく,それを抑制しているのだ。」32

アルマが息子のコリアントンに説明した「良心のとがめ」33は実在しますが,悔い改めに至らず,良心を抑制して後悔の念を和らげようとしても,結局は失敗に終わる,とブジスゼースキー教授は指摘しています。そうした態度は,悪だと分かっていることを悪ではないかのように装う人々の姿に見られます。彼らは良心の声をかき消そうとして,意図的に何度も罪を繰り返すことがあります。中には,良心が語りかける静寂を避けるために,ソーシャルメディアやビデオゲームに没頭したり,絶え間なく音楽を聴き続けたりして,絶えず自分の気をそらすものを追い求める人もいます。無数の言い訳を際限なく次々と考え出すのです。ブジスゼースキー教授は,こう引用しています。「婚外交渉についての様々な言い訳を自分に言い聞かせています。相手と結婚するから,相手に結婚してほしいから,結婚生活がうまくいくかどうかを知りたいから,……愛があれば約束はいらないから。これが暗に意味しているのは,当然,約束を〔求めている,あるいは〕必要とする人の愛は不純であるということです。」34

人々は自分を装い,気をそらし,正当化するだけでなく,自分を正当化するために,ほかの人にも罪を犯させようとすることがあります。「ひそかに罪を犯すのではなく,誘いかける」のです。35サタンは熟練のスカウトマンだと言えます。「すべての人が自分のように惨めになることを求めているから」です。36最も問題なのは,次のような主張をする人々です。「これ以上ひどい裁きを受けることのないように,社会を変えなければならない。それには,法律を変え,学校に侵入し,押しつけがましい社会福祉制度を作り出すのだ。」37イザヤはこのように警告しています。「わざわいなるかな,彼らは悪を呼んで善といい,善を呼んで悪といい,暗きを光とし,光を暗しとし,苦きを甘しとし,甘きを苦しとする。」38

ブジスゼースキー教授は最後に,力強い良心の働きを抑圧し,社会を道徳的などん底へと落としめるような罪を正当化しようとするのはわたしたち自身にほかならないと述べています。39わたしはそれに加えて,少しでも社会の標準や規範に関連する議論をしようとするとますます噴出する怒りもその一因であると思います。

イエスはニコデモにこう言われました。

「そのさばきというのは,光がこの世にきたのに,人々はそのおこないが悪いために,光よりもやみの方を愛したことである。

悪を行っている者はみな光を憎む。そして,そのおこないが明るみに出されるのを恐れて,光にこようとはしない。

しかし,真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの,神にあってなされたということが,明らかにされるためである。」40

良心を抑制しようとする試みはむなしいだけではありません。もし内なる真実の光に照らして物事を理解するならば,だれもそのような試みをしたいと思わないでしょう。冒頭で,罪の実在を否定することにより罰と不幸から逃れようとすることについて,リーハイの教えに触れました。「もし律法がないと言うならば,罪もないと言わなければならない。」41良心と闘う人が試みているように,律法,つまり真理を消し去ることができるならば,罪悪感も罰も不幸も実際に取り除くことができるでしょう。しかし,リーハイが警告したように,律法がなければ,わたしたちが存在する価値もないのです。義と幸福の可能性がなくなり,創造も存在も消え去ってしまうことになります。真理を消し去ろうという考えは明らかにくだらないことですが,幸福の機会を保ちながらも不幸を排除する方法があります。それがキリストの教義であり,福音です。すなわち,キリストを信じる信仰と悔い改め,水と御霊によるバプテスマなのです。42

キリストが言われたように,わたしたちは生徒が「真理を行〔う〕」43のを助けなければなりません。すなわち,内なるキリストの光を心から受け入れ,聖霊を通してもたらされる光と真理を喜んで迎え入れるように助けるのです。抵抗したり,正当化したり,装ったりすることは無益です。多くの人が切望する「確実性」をもたらし得る道は,悔い改めと真理に従うこと以外にありません。悔い改めと,真理に従うことによってのみ,幸福と自由を保ち,増し加えることができるのです。

法律関係の仕事を始めたころ,良心を無視することによる,ある悲劇的な結末を目の当たりにしました。当時わたしはワシントンD.C.で,アメリカ合衆国地方裁判所の裁判官であるジョン・J・シリカの法務書記を務めていました。書記として働き始める少し前に,国家スキャンダルとして知られるウォーターゲート事件が起きました。シリカ判事もわたしも,翌年のほぼ2年半にわたり,その事件に関連した公判に多大な時間を費やすことになりました。詳細は省きますが,1972年,リチャード・ニクソン大統領の再選運動の秘密諜報活動の一環として,大統領の再選委員会は不法侵入と盗聴という手段を用いて,民主党全国委員会から情報を盗もうとしたとだけ申し上げます。逮捕者が出た後,一連の違法行為と,ニクソンの選挙運動やホワイトハウス高官とのかかわりを覆い隠すべく,ただちに隠蔽工作が始まりました。この隠蔽行為は,司法妨害という犯罪に当たり,追及の手がニクソン大統領にまで及びました。

その後,ニクソン大統領が辞職するまでの2年間に,ニクソンが良心に目覚め,「これは間違っている。結果がどうなろうとも,もうここでやめよう」と言って停止を命じる機会は何度もあったように思います。そうすれば,彼は政治的な屈辱や当然待ち受ける批判を免れて任期を終えられたかもしれません。しかし,彼は停止を命じるどころか,自ら隠蔽工作の深みにはまっていったのです。最悪の出来事は,シリカ判事とわたしが,1973年3月21日に大統領執務室で,大統領とホワイトハウスの顧問弁護士ジョン・ディーンの間で交わされた会話の録音を聞いたときのことです。

ディーンはホワイトハウス内での隠蔽工作を主導していましたが,それが露見しつつあると感じ,大統領に指示を求めるためにやって来たところでした。この録音された会話の中で,ディーンはそれまでの数か月間に行ってきたこと,すなわち,ウォーターゲートの不法侵入について罪を弁明してきた人たちの家族に金銭を届けるよう手配したことについて説明しています。この金は,不法侵入を計画し命じた,大統領の再選委員会の高官に関する口止め料として渡されたものでしたが,家族らは支払いが遅れたことや,約束した金額より少ないと感じたことで,今や口外すると脅すようになっていたのでした。

シリカ判事とわたしは,ニクソンが「いくらかかるのか」と尋ねる穏やかな声を聞いて衝撃を受けました。ディーンの口調からすると,彼自身もこの返答には驚いたようで,恐らく適当と思われる数字を上げ,「100万ドル」と答えています。ニクソンは,その金額に異存はないようでしたが,どうすれば追跡されずに届けられるかを心配していました。判事もわたしも耳を疑いました。信じたくなかったのです。判事は,テープを巻き戻してもう一度聞くことを提案するメモをわたしに手渡しました。会話を聞き終わったわたしたちは,ほとんど口を開くことなく,テープを片付けて早々と家路に就きました。今でもわたしは,そのとき感じた幻滅と悲しみを覚えています。これは,ニクソンが辞職する数か月前のことでしたが,もし大統領が先に辞任していなければ弾劾されたことでしょう。

当時も,それ以後も,わたしはニクソンはなぜこのスキャンダルがますます深みにはまっていくままにしまったのだろうと考えてきました。時を経てもなお,わたしは,ウォーターゲートの不法侵入者による合衆国大統領への恐喝に際してもなお,ニクソンが憤りを抱かないまでにその良心を麻痺させてしまったことに,驚きを覚えます。わたしが彼の経験から得た人生の教訓は,人生にこうした破綻を招きたくないならば,決して例外を作らないということです。常に変わらず良心の命じる声に従うのです。人が誠実さを棚上げするなら,一見小さな事柄における小さな行為であっても,最終的に利益も良心による守りもともに失う危険にさらされることになります。職業や専門分野,政治活動における不正直または違法な行為に手を染め,責任を問われることもなく(少なくともこの世においては),「逃げおおせる」人もいることでしょう。しかし,良心が弱かったり,麻痺したリしていると,大事であれ小事であれ,また組織的であれ個人的であれ,「ウォーターゲート」への,すなわち,罪を犯した人と潔白な人の双方を傷つけ破滅させ得る大惨事への門が開くことになります。

ヨハネは,救い主の次のような力強い約束を記しています。イエスは「自分を信じたユダヤ人たちに言われた,『もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら,あなたがたは,ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は,あなたがたに自由を得させるであろう』」。44真理を知り,それに従うなら,最も確実に自由を得ることができます。まず無知と罪の束縛から逃れ,45次いで御父の王国と御父が与えてくださるすべてのものを受けるまで,あらゆる良いものを追い求める自由を得ます。46イエス御自身が「道であり,真理であり,命」であられる47ことを知ると,わたしたちを自由にしてくれる真理の最大の意義とは,主がその恵みにより,わたしたちを死と地獄から解き放ってくださることであると言えるでしょう。48

主は宣言されました。「光と真理はあの悪しき者を捨て〔,罪の縄目を解く〕。……〔しかし〕,あの邪悪な者が来て,人の子らから,不従順によって,また先祖の言い伝えによって,光と真理を取り去る。」49

モルモン書の中には,サタンが誤った言い伝えと不従順によって,光と真理を取り去ることについての深遠な例が見られます。キリストが来られる約150年前,レーマン人の民は誤った言い伝えのため「主について……まったく知らなかった」と記されています。50モーサヤの息子たちが驚くべき伝道の業に着手するまで,大勢のレーマン人は,救いの計画について聞いたこともなく,真理を学んだこともなかったのです。51

ラモーナイ王は,偽りの暗闇から驚くべき真理の光の中に入り,喜びに圧倒されました。「その心を照らす光,神の栄光の光……が,まことに,王自身の中に大きな喜びを注ぎ込んで暗黒の雲が消え去り,永遠の命の光が王自身の中にともされた〔。〕 まことに,……これが王の肉体に打ち勝って,王が神によって意識を失っていた……のである。」52

選択肢は二つしかありません。一つは,キリストの言葉に心を向けて真理を求めることです。「神の戒めを守る者は真理と光を受け,ついに真理によって栄光を受けて,すべてのことを知るようになる。」53もう一つは,サタンに欺かれ,不可能な試みをする,つまりサタンの虚構の中に幸福を見いだそうとすることです。この世でも次の世でも,真理が実在することを無視して成功することはできませんが,実に多くの人がそうしようと試みます。悔い改めをするよりもずっと容易に見えるからです。しかし,悔い改めと神の真理に従うことによってのみ,わたしたちは「その倒れ方はひどい〔であろう〕」と言われる空想の世界から解き放たれるのです。54

わたしたちが純粋な確信と,神から与えられる力のすべてを尽くして繰り返し教える必要のある核となる真理,すなわち人の存在に関する中核となる真実は次のとおりです。55

  1. 天の父なる神は生きておられ,唯一まことの生ける神であられる。

  2. イエス・キリストは神の独り子であられる。

  3. イエス・キリストは,御自分の民を贖うために地上に来られ,彼らの罪を贖うために苦しみ,死なれた。

  4. イエスは死からよみがえり,復活をもたらされた。

  5. 最後の裁きの日に,すべての人はその働きに応じて裁かれるために主の前に立つ。

これらの真理を愛し,それらに従って生きることができますように。これらのことが真理であることを心から証します。わたしたちが積極的に,また熱心に真理を求め,教え,それに従って生活できますように。 イエス・キリストの御名により,アーメン。

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