自分の命を救う
ヤングアダルトを対象とするCESファイアサイド・2014年9月14日・ブリガムヤング大学
イエスは,その弟子とピリポ・カイザリヤにおられたとき,次のように尋ねられました。「あなたがたはわたしをだれと言うか」1ペテロは,畏敬の念を込め,雄弁に,また力強く,こう答えました。「あなたこそ生ける神の子キリストです。」2この言葉を読むと,またこの言葉を口にすると,わたしは胸の高鳴りを覚えます。しかし,この神聖な出来事の直後,イエスは弟子たちに差し迫る御自分の死と復活について語り,ペテロは主に反論します。その結果,ペテロは主から,神のことを「思わ」ないで,「人のことを」を思っていると厳しく叱責されます。3その後イエスは,「〔御自分〕の責めた人……にいっそうの愛を示し」4,豊かな永遠の命を得るために,自分の十字架を負って,自分の命を捨てることについて,また御自分がその完全な模範となることについて,ペテロとその兄弟たちに優しく教えられます。教会が制作した「聖書ビデオ」の中で,この出来事がどのように描かれているか見てみましょう。
イエス:人の子は必ず長老,祭司長,律法学者たちから多くの苦しみを受け,殺され,そして三日目によみがえるべきである。
ペテロ:主よ,とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません。
イエス:サタンよ,引き下がれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで,人のことを思っている。だれでもわたしについてきたいと思うなら,自分を捨て,自分の十字架を負うて,わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い,わたしのために自分の命を失う者は,それを見いだすであろう。たとい人が全世界をもうけても,自分の命を損じたら,何の得になろうか。また人はどんな代価を払って,その命を買いもどすことができようか。人の子は父の栄光のうちに,御使たちを従えて来るが,そのときには実際の行いに応じて,それぞれに報いをえるであろう。5
以下の逆説的とも思える主の宣言についてお話ししたいと思います。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い,わたしのために自分の命を失う者は,それを見いだすであろう。」6そこにはわたしたちが理解し,応用すべき教義が教えられています。
ある思慮深い教授がこのように述べています。「天が地よりも高いように,皆さんの人生において神の業は,皆さんが語り継がれたいと思う自分の人生よりも偉大なのです。神の生涯は,皆さんの計画,目標,あるいは恐れよりも偉大なのです。自分の命を救うために,皆さんは,分ごとに,日ごとに自分の物語を捨て,自分の人生を主にささげる必要があります。」7
この件について考えれば考えるほど,イエスがどれほど一貫して御自分の人生を御父にささげられたか,生きるも死ぬも,どれほど完全に御自分の人生を御父の御心のために捨てられたかに驚きます。これは今日の自己中心的な世界で幅広く取り入れられてきたサタンの態度や方法とは全く反対です。前世の会議で,御父の神聖な計画の中にあって,率先して救い主の役割を満たそうとしたイエスはこう言われました。「父よ,#あなたの#御心が行われ,栄光はとこしえに#あなたのもの#でありますように。」8一方,ルシフェルは次のように言いました。「御覧ください。わたしがここにいます。わたしをお遣わしください。#わたしは#あなたの子となりましょう。そして,#わたしは#全人類を贖って,一人も失われないようにしましょう。必ず#わたし#はそうします。ですから,#わたしに#あなたの誉れを与えてください。」9
神に従うというキリストの戒めは,悪魔的な戒めをもう一度拒み,わたしたちの命,すなわちミラー兄弟が述べた「わたしたちの物語」を捨てるという戒めです。神が私たち一人ひとりのために想定された真の人生,本物の人生,日の栄えの王国を可能にする人生を選ぶという戒めです。そのような人生は,わたしたちが接触する全ての人を祝福し,わたしたちを聖徒にしてくれます。しかし,わたしたちの限られた視点や意識では,理解を超えた人生です。実際,「目がまだ見ず,耳がまだ聞かず,人の心に思い浮びもしなかったことを,神は,ご自分を愛する者たちのために備えられた」のです。10
主と主の福音のために自分の命を捨てるとはどういうことかについて,もっと主と弟子とのやり取りがあったなら,それがどういう意味なのかについてさらに理解が得られたのではないかと思います。しかし,わたしが良く考えていると,救い主のこの宣言の前後に与えられたコメントは,貴重な指針を提供してくれるということに気づきました。三つの文脈的なコメントについて考えてみたいと思います。
自分を捨て,自分の十字架を負う
最初は,「自分の命を救おうと思う者はそれを失〔う〕」11と言う寸前に言われた主の言葉です。四福音書のそれぞれに記録されているように,イエスはこう言っておられます。「だれでもわたしについてきたいと思うなら,自分を捨て,自分の十字架を負うて,わたしに従ってきなさい。」12ルカは「日々」という言葉を付け加えています。マタイの福音書では,「自分を捨て,日々自分の十字架を負うて,……きなさい。」13ジョセフ・スミス訳,マタイの福音書では,この言葉をさらに拡大し,自分の十字架を負うという言葉を主がどのように定義しておられるか明らかにしています。「そして,自分の十字架を負う者は,すべての不信心とあらゆる世の欲を捨て,わたしの戒めを守らなければならない。」14
この記録はヤコブの宣言と一致します。「父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは,困っている孤児や,やもめを見舞い,自らは世の汚れに染まずに,身を清く保つことにほかならない。」15それは日常の生活ですべての清くないものを避け,すべての戒めがかかっている二つの大切な戒めである神と人とを愛するということを守るために,積極的に行動するというということです。16したがって,主がわたしたちのために計画してくださったより偉大な生活のために自分の命を捨てる一つの要素は,日々,自分の十字架を負うということにあるということなのです。
わたしを受けいれる者を,わたしもまた,天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう
付随する二つ目の言葉は,主のため,また主の福音のために自分の命を捨てることで,わたしたちは喜んで自分が主の弟子であることを世に知らしめるということを明らかにしています:「邪悪で罪深いこの時代にあって,わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては,人の子もまた,父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに,その者を恥じるであろう。」17
マタイの福音書にも,対をなすような言葉が記されています。
「だから人の前でわたしを受けいれる者を,わたしもまた,天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。
しかし,人の前でわたしを拒む者を,わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう。」18
キリストを認めることで自分の命を捨てるということには,明白な意味,もっと正確に言えば現実的な意味があります。文字通り,肉体的に命を捨て,キリストに対する信仰を支持し,擁護するということです。わたしたちは,いにしえの使徒たちのほとんどを含んでいる過去の殉教者について読み,この極端な条件を歴史的に当てはまると考えることに抵抗がありません。しかし,過去の出来事は,今,現実のものとなりつつあります。イラクやシリアからのニュース報道は,大勢のキリスト教徒や少数派の人々が,イスラム過激派のために,故郷を追われたり,殺されたりする様子を伝えています。テロリストは,こうしたクリスチャンに対し,過去数か月にわたって,イスラム教への独自の改宗を強要したり,自分たちの住む町を追い出したり,殺害したりしているのです。キリスト教徒はキリストを否定しないために,多くの人が逃亡し,中には殺された人もいます。19確かに,そのような人々は,救い主が将来,御父の前で恥じることなく受け入れられる人々の中に名を連ねることでしょう。将来,何が起こるのかわたしたちには分かりませんが,もしわたしたちの誰かが主の大義のために文字通り自らの命を捨てるというトラウマに直面しているとしたら,きっと同じ勇気と忠誠を示すことでしょう。
しかし,救い主の教えの,より一般的な(また時としてより難しい)応用は,わたしたちの日々の生き方と関係があります。わたしたちの語る言葉,わたしたちの示す模範と関係があります。わたしたちの生活が,キリストを告白するものでなければなりませんし,言葉とともに,キリストに対するわたしたちの信仰と献身を証していなければなりません。また,この証は,「邪悪で罪深いこの時代にあって」20,キリストに反対する人々の嘲笑,差別,中傷に遭っても,擁護されなければなりません。
別の機会に,主は御自分への忠誠に関する次の言葉を付け加えられました:
「地上に平和をもたらすために,わたしがきたと思うな。平和ではなく,つるぎを投げ込むためにきたのである。
わたしがきたのは,人をその父と,娘をその母と,嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。
そして家の者が,その人の敵となるであろう。
わたしよりも父または母を愛する者は,わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は,わたしにふさわしくない。
また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。」21
キリストが,平和ではなく,つるぎを投げ込むためにきたと言っておられるのは,キリストを「平和の君」と述べている聖文,22「いと高きところでは,神に栄光があるように,地の上では,み心にかなう人々に平和があるように」23というキリスト降誕時の宣言,「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。」24といったその他の有名な参照聖句と,一見,矛盾するように思えます。「キリストが平和,信じる者と神との間,そして人々の間に平和をもたらすために来られたというのは真実です。しかし,キリストの降臨に伴う避けられない結果としての対立は,キリストと反キリスト,光と闇,キリストの子と悪魔の子との間に起こります。この対立が同じ家族の一員の間に起こることもあるのです。」25
今宵,世界中でこの放送を聞いている人々の中には,主がこれらの聖文で説明しておられることを個人的に経験している人がいるに違いありません。イエス・キリストの福音を受け入れ,主と聖約を交わしたことで,両親や兄弟姉妹から拒絶され,仲間外れにされた人もいるでしょう。何らかの形で,人知を超えたキリストの愛により,自分にとって大切な関係を犠牲にしなければならないこともあります。涙を流すような経験もするでしょう。しかし,色あせることのない愛を抱き,この十字架のもとで揺らぐことない人は,神の御子を恥としないことを証明するのです。
3年ほど前のこと,ある教会員がオハイオ州に住むアーミッシュの友人にモルモン書をあげました。この友人は,モルモン書を読み始めると,止めることができなくなりました。3日間,モルモン書以外の書物を読む気になりませんでした。彼は妻とともにバプテスマを受けました。それから7か月とたたないうちに,3組のアーミッシュの夫婦が改宗し,バプテスマを受けて会員となりました。その数か月後,彼らの子供もバプテスマを受けました。この3組の家族は,アーミッシュの信仰を捨てたものの,自分たちの社会に居残り,アーミッシュの生活様式を守り続けることにしました。しかし,バプテスマを受けた結果,彼らは結束の強いアーミッシュの隣人から「共同絶交」を受けました。「共同絶交」とは,アーミッシュ社会の人々が誰も,いかなる形でも,彼らと話さない,協力しない,取引をしない,付き合わないということです。友人だけでなく,家族も,すなわち兄弟も,両親も,祖父母ともそのような関係になるのです。
最初,これらのアーミッシュの聖徒は,深い孤独感と疎外感を抱きました。バプテスマを受け,末日聖徒イエス・キリスト教会の会員になったことで,子供たちも共同絶交を受け,アーミッシュの学校から退学させられたからです。子供たちは,祖父母,いとこ,親友からの共同絶交に耐えました。これらのアーミッシュの家族の中で,福音を受け入れなかった年上の子供たちの中には,自分たちの両親と付き合わず,親子の関係を認めないものさえいました。これらの家族は共同絶交からもたらされる社会的,経済的影響から立ち直ろうと努力してきましたが,今も負けずに頑張っています。
彼らの信仰は揺らぐことがありません。共同絶交による逆境と反対が彼らの信仰を不動のものにしたのです。バプテスマから1年たって,これらの家族は神殿で結び固められ,週1回,神殿に忠実に参入し続けています。儀式を受け,栄誉ある聖約を交わすことで力を得ています。全員が教会の集会に活発に出席し,思いやりに満ちた行いと奉仕を通じて,親族や仲間たちに福音の光と知識を伝える方法を探し続けています。
確かにイエス・キリストの教会に加わる代価は非常に大きいのですが,何にも増して,親しい家族にも増して,キリストを選ぶという勧告は,聖約の下に生まれる者にも適応されます。わたしたちの多くは,子供のときに,何の反対を受けることもなく,教会員となりました。わたしたちが直面し得るチャレンジは,両親,親族,兄弟姉妹,あるいは自分たちの子供の行い,信仰,選択によって,主と彼らの両方を支持することができなくなったような場合にも,救い主とその教会に忠実であり続けるということです。それは愛の問題ではありません。わたしたちは,イエスがわたしたちを愛されたように,互いに愛し合いことができますし,そうしなければなりません。主が言われたように,「互に愛し合うならば,それによって,あなたがたがわたしの弟子であることを,すべての者が認める〔のです〕。」26しかし,主は次のことを思い起こすように言っておられます。「わたしよりも父または母を愛する者は,わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は,わたしにふさわしくない。」27したがって,家族間の愛は続きますが,家族の関係が妨げられたり,状況によっては,わたしたちのより高度の愛のゆえに,支持や忍耐が一時中断されたりすることもあるのです。
実際,愛する人々を助ける最善の方法,彼らを愛する最善の方法は,救い主を優先し続けることなのです。愛する人が苦しんでいるからと言って同情心から,キリストとの関係を断つならば,わたしたちは彼らを助ける手段を失ってしまいます。しかし,信仰に堅く根ざし続けるならば,神の助けを受けることもできるし,与えることもできるのです。愛する家族がどうしようもない状態に陥り,唯一正しい,永続する援助の源に頼りたいと思ったとき,導き手として頼れる人は誰かをわたしたちは知っているのです。やがて,聖なる御霊の導きにより、許される限り、堅実な方法で仕え,教え,導き,誤った選択がもたらす痛みを和らげ,傷を治すことができます。さもなければ,わたしたちは愛する者にも,自分自身にも仕えることができなくなります。
人が全世界をもうけても,自分の命を損したら,なんの得になろうか。
主のために自分の命を捨てる3番目の要素は,主の次の言葉の中に見つかります。
「わたしのためにこの世において自分の命を失う者は,来るべき世においてそれを見いだすであろう。
それであるから,世を捨てて,自分の命を救いなさい。たとい人が全世界をもうけても,自分の命を損したら,なんの得になろうか。また,人はどんな代価を払って,その命を買いもどすことができようか。」28
ジョセフ・スミス訳にはこう記されています。「人が全世界をもうけても,神が任命した人を受け入れず,自分自身の命を失い,自分自身が捨てられたら,なんの得になろうか。」29
今日の世界において「神が任命した人」を受け入れるために世を捨てるということは反体制文化的と言われるかもしれません。しかし,これは,まさに控えめな表現なのです。周囲を見渡せば,数々の利己的な優先や興味があふれているからです。その例を幾つか挙げれば,世に認められることへの飢え,権利は尊重すべきとする執拗な要求(決して傷つけられない権利も含まれる),金銭,物質,力への飽くなき欲求,快適で享楽的な生活に対する権利意識,責任を最小限にとどめて他の人の益のために払う個人的犠牲を一切回避しようとする目標などがあります。
教育や誉れある仕事などの分野で成功しようとしたり,ふさわしい努力を払って他に抜きん出ようとしたりしてはならないと言っているわけではありません。今年の初めに,エール法科大学の教授であるジェッド・ルーベンフェルドとエイミー・チュアは,“The Triple Package: How Three Unlikely Traits Explain the Rise and Fall of Cultural Groups in America.”(『3重のパッケージ:アメリカにおける文化グループの盛衰を解く鍵となるあり得ない3つの特性』)と題する本を出版しました。彼らの論文はこの本で説明されていますが,3つの文化的特性に基づいて,アメリカにおける幾つかのグループが,他のグループよりも優位に立ち,よりよい結果を出していると主張しています。チュアとルーベンフェルドは,アメリカでこれらの特性を有するグループとして,モルモン教徒,ユダヤ人,アジア人,西アフリカからの移住者,インド系アメリカ人,キューバ系アメリカ人を特定しています。30
こうしたグループを,例えば,「収入,学業成績,企業における指導能力,職業上の業績,その他の伝統的測定基準」などの尺度でアメリカ社会全体と比較するとどうなるか,チュアとルーベンフェルドは次のように語っています:
「今日の合衆国に傑出したグループがあるとすれば,それはモルモン教徒です。
プロテスタントは合衆国人口の約51%を占める一方で,5百万,6百万のモルモンが総人口に占める割合はたったの1.7%です。しかし,アメリカの財界,政界の頂点に昇り詰めている人々の数は驚くべき数に昇ります。31
確かに,そのような業績も賞賛すべきことですが,自分の霊を守ろうと望むなら,そのような業績はそれ自体が目的ではなく,より高い目的に到達するための手段であるということを決して忘れてはなりません。わたしたちのキリストへの信仰において,政治,職業,学問,その他の分野における成功は,わたしたちを決定づける目的ではなく,家庭のみならず,できるだけ広範囲に及ぶ社会で,神と同胞への奉仕を可能とする手段であると考えなければなりません。個人的な成長は,それがキリストのような特質を養ううえで役立つ限り,価値があります。成功の度合いを測る際に,わたしたちは他のすべての真理の根幹を成す次の深い真理を認めます。すなわち,わたしたちの生活が永遠の父なる神と贖い主イエス・キリストを中心に回っているという真理です。成功とは,御二方の御心と調和した生活を送ることを意味するのです。
自己愛的な生活と比較して,スペンサー・W・キンボール大管長は,より優れた道について,次のような簡潔な説明を加えています:
「人に奉仕することによって,今の生活を充実した美しいものとすると同時に,より良い世界で生活する備えをすることができます。 ……同胞に仕えるとき,その行為によって彼らを助けるだけでなく,自分自身の問題を新しい観点から眺めるようになります。人に関心を向けるようになるとき,自分のことを気にする時間が少なくなります。仕えるという奇跡の中にこそ,自分を失うことによって自分を得る,すなわち自分自身を見いだすというイエスの約束があるのです〔マタイ10:39参照〕。
自分の生活の中に神の導きを認めることによって,自分自身を『見いだす』ことになります。しかしそれだけではありません。適切な方法で同胞に仕えれば仕えるほど,人は豊かになります。人に仕えるとき,わたしたちは存在意義を増すことになります。人に仕えるとき,いっそう価値のある人物になります。――自分の中に見いだすものが多いので,実際に自分自身を『見いだす』のが容易になるのです。32
キリストとその福音のために自分の命を捨てる例
最後に,日常生活の中で,キリストとその福音のために命を捨て,真の(最終的には永遠の)生活を見いだすことの意味について,幾つかの例を挙げましょう。
ヘンリー・B・アイリング管長は,1976年6月,レックスバーグからほど遠からぬところにある完成したばかりのテトンダムが決壊したとき,現在のブリガムヤング大学アイダホ校,リックスカレッジの学長でした。「3千万立法メートルの水が,轟音とともに時速65キロの勢いでレックスバーグに押し寄せ,その行く手にあったすべてを流し尽くしました。」33地域住民の多くが,英雄的行動をとり,自分たちの住宅や家財が洪水で破壊されたにもかかわらず,周囲の人々を助けました。しかし,中には自分の愛する者すら見捨て,自分だけ助かった人もいました。
アイリング管長は,彼自身,大学の援助手段を使って,救助活動の指揮に携わりましたが,「一部の英雄的な反応と……一部の裏切り行為の違い」の原因は何なのかを把握したいと思いました。そして,小さいながらも科学的に重要な意味を持つ研究を委託しました。『一つだけ発見したことがありました。』アイリング管長は,後になって,卒業を間近に控えた高校3年の生徒達に話しました。
英雄的行動をとったのは,小さなこと,日々の事柄に関して約束を守る人々でした。……教会の食事会が終わったらあと片づけをする,あるいは隣人を助ける土曜日プロジェクトに参加するといった約束です。
困難に遭遇したときに家族を捨てたのは,大したことが起こってないときも、往々にして,自分の義務を果たさなかった人たちでした。そのような人たちは,小さなことをするという約束を守らない傾向がありました。自分にとって,その犠牲がわずかであり,自分がやると言ったことをやるのが簡単であってもそうだったのです。そのような彼らは,代価が大きかったときに,その代価を支払うことができませんでした。」34
クリストファーソン姉妹とわたしには,法科大学時代に知り合った友人がいました。ノースカロライナ州ダラムにあったわたしたちのワードの会員でした。彼女と彼女の夫は,理想的な夫婦で,幼い子供がいました。彼女は知性的かつ魅力的で,明るい性格の女性でした。誰もが彼女を敬愛し,一緒にいるのが楽しみでした。しかし,25年ほどたって,まだ40代の頃に,彼女は悪性で不治の胃がんに侵されました。そのがんは肝臓と肺にも広がっていました。余命幾ばくもないというショックと苦痛にもかかわらず,彼女は心から別れを惜しみつつ,次のような思いやりにあふれる言葉を自分の家族と友人に書き残しました。「わたしは神が生きておられることを知っています。神の計画は神聖で,一部の狂いもなく実行されます。この試練を経験するよう選ばれたので,それがわたしにとって最大の益となり,最高の喜びをもたらすものであると知っています。すでに,わたしはあふれるほどの霊的な祝福にあずかっており,この世を去る前に,わたしの救い主に会う備えをするために必要なすべてのことを経験するのだと感じています。主の力がこの地上に注がれています。すべては完全なのです。……今,この時点で,試練は多く,心に重くのしかかってきます。誰もが自分独自の苦しみを受けていると思います。主を仰ぎ見て,主の助けを受けてください。自分に与えられた試練を受け入れることです。そうすれば,苦痛から解放され,平安がもたらされます。」
あるヤングアダルトの姉妹が,専任宣教師となる決心をしました。この姉妹は,すでに大学の学位と大学院の学位を取得し,国内外の一流大学のインターンシップや研究プログラムにも参加した姉妹でした。ほとんどのありとあらゆる宗教,政党,国籍の人々との関係を築く能力を伸ばしました。ただ,毎日,1日中,宣教師の名札をつけることで,それが宣教師の身分を識別する道具となり,人々との関係を築く自分の並外れた能力の妨げにとなるのではないかと心配しました。伝道に出て数週間経った頃,彼女は家族に,小さいながらも有意義な経験について手紙を書きました。「リー姉妹とわたしは,それぞれ両脇に座って,リウマチを患っている年配の女性の手に軟膏を擦り込みました。彼女は,言葉のメッセージには耳を傾けたがりませんでしたが,歌うことを許してくれました。わたしたちの歌を気に入ってくれたのです。黒い名札に感謝しています。まったくの見知らぬ人と親密な経験をするライセンスがもらえたからです。」
数多くの苦しみを経験したため,預言者ジョセフ・スミスは主や友人のために命を捨てることができるようになりました。彼はかつてこう語っています。「わたしは,活力とと絶え間ない努力から成る自分の人生で,次の規則に従うようにしています。『主が命じられるなら,行いなさい。』」35わたしたちは,皆,彼のように忠実なら満足すると思います。それでも,彼はミズーリ州の監獄で何か月も苦しい生活を余儀なくされました。肉体的に,しかし,恐らく情緒的,霊的に苦しみました。なぜなら,虐待と迫害を受けている自分の愛する妻,子供たち,聖徒たちを助けることができなかったからです。彼の啓示と導きはシオンを築くべく聖徒たちをミズーリ州に導きました。しかし,今度は,冬のさなかに家を追い払われ,州を渡り歩きました。ジョセフは,監獄の中で,劣悪な状況に置かれ,ありとあらゆる苦しみを受けていたにもかかわらず,教会宛てに最も格調高く,心を鼓舞する,また霊感にあふれる手紙を書きました。その一部が,現在,教義と聖約の121章,122章,および123章となり,このような言葉で締めくくられています。「わたしたちの力のかぎりすべてのことを喜んで行おう。そして願わくは,その後,わたしたちがこの上ない確信をもって待ち受けて,神の救いを目にし,また神の腕が現されるのを見ることができるように。」36
言うまでもなく,自分の命を捨てることで自分の命を救う最も偉大な実例は次の言葉に表れています。「わが父よ,この杯を飲むほかに道がないのでしたら,どうか,みこころが行われますように。」37自分の命を捨てることによって,キリストは自分の命を救い,全人類の命を救われました。主のおかげで,わたしたちは限られた,最終的にはむなしく死すべき命を永遠の命と交換することができるようになったのです。
証
皆さんが「わたしは,いつも〔御父〕のみこころにかなうことを〔する〕」38という救い主と同じ人生のテーマを掲げるよう祈っています。そうすることで,皆さんは自分の命を救うことができます。
愛する若き友人の皆さん,あらゆる努力,あらゆる達成において,御父の御心を優先することに満足を見いだしてください。己を捨て,御父の完全な御心に従ってください。御父と望みを共有してください。人生のあらゆる局面で,御父を認めてください。キリストあるいはキリストの福音を恥とせず,キリストのために,大切なもの,大切な関係,そして必要とあらば,命すらも喜んで捨ててください。生涯を通じ,自分の人生を主にささげてください。日々,主の十字架を負い,従順,奉仕を旨としてください。これこそがわたしたちの信仰によってもたらされる報いなのです。イエス・キリストの御名によって,アーメン。
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