ワールドワイド・ディボーショナル
光を経験する


61:17

光を経験する

リン・G・ロビンズ長老との夕べ ヤングアダルト対象のワールドワイド・ディボーショナル,2015年5月3日,ソルトレーク・タバナクル

兄弟姉妹の皆さん,ヤングアダルト対象のワールドワイド・ディボーショナルへようこそ。今年セミナリーを卒業する皆さんを特に歓迎します。称賛すべき達成であり,皆さんの主への信仰と愛の証です。皆さんに,今晩出席している他の多くの人の模範に倣い,地元の宗教教育インスティテュートあるいは教会の大学で引き続き霊的な学習を目指すようお勧めします。皆さんにお約束します。皆さんは,人生の他の重要な決断をするための重要な導きを継続して受けるでしょう。また,人生に大きな影響を与える人々にも出会うでしょう。

今晩,皆さんは,わたしが主イエス・キリストと主の福音について証をするのを聞くことになります。皆さんは,わたしが「わたしは知っています」という言葉を使うのを耳にします。皆さんに,わたしがどのようにして,キリストが文字どおり神の御子であり,贖い主,世の救い主であることを知り,主の福音が真実であることを知ったのか説明したいと思います。

また,皆さんの主イエス・キリストとその福音に対する自分自身の証が,自分が思っている以上に強いことを発見できるよう助けたいと思います。

自分の証は,信仰スペクトルのどこにあるでしょうか。

まずは,皆さんが自分の心の自己評価をすることから始めたいと思います。このグラフにある線を見て,自分の証がこの信仰スペクトル線上のどこにあるかスコアをつけてください。

Slide from a Powerpoint presentation given by Elder Lynn G. Robbins for May 3, 2015 CES Devotional.

一番下は,神を信じていない状態です。神を信じていない状態の場合,スコアは0点にしてください。一番上は,10点,つまり,イエス・キリストとその福音に対する完全な知識を持っている状態です。皆さんはこのスペクトルのどこにいますか。ほとんどではないかもしれませんが,皆さんの多くが自分のスコアを実際より低く評価すると思います。

このプレゼンテーションの中で,証には信仰を築くうえで様々な局面があることを話し合い,また,それぞれの局面が信仰スペクトルのスコアを上げ,より大きな平安と幸福を経験するうえでどのような助けとなるか話し合う際,自分のスコアがどう上がっていくのか分かるよう,自分がつけたスコアを覚えておいてください。

アルマは,一人一人にこの信仰スペクトルを進むための第一歩を次のように踏むよう勧めています。「わたしの言葉を試し,ごくわずかな信仰でも働かせようとするならば,たとえ信じようとする望みを持つだけでもよい。」(アルマ32:27。強調付加)

Slide from a Powerpoint presentation given by Elder Lynn G. Robbins for May 3, 2015 CES Devotional.

望み

次の洞察は,なぜ人が信じようという望みだけでも持つべきかを教えてくれる知恵です。

1623年,フランスの天才数学者であり発明家であったブレーズ・パスカルは生まれました。彼の発見したものの中に,数学の確率論がありました。その理論は,合理的な選択,すなわち,最適な選択を行うための論理的方法の科学的根拠となりました。選択理論により,パスカルは,人生というゲームにおいて,人間は,神が存在するか否かについての最大の賭けを避けることはできないことを鋭く観察しました。それは「パスカルの賭け」として知られています。人の人生,もっと具体的に言えば,人の永遠の命がかかっている賭けは次の図に示されています。

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縦列には,「神が存在する」,あるいは「神は存在しない」という二つの選択肢の見出しが入ります。横列には,「信じることを選ぶことができます」,あるいは「信じないことを選ぶことができます」という二つの選択肢の見出しが入ります。

結果として考えられる組み合わせは次のとおりです。

  • もし神が存在し,信じ,それに従って行動するならば,わたしは永遠の命を受け継ぐことができる。

  • もし信じるとして,神が存在しない場合,わたしは何も失わない。

  • もし神を信じず,敬わず,神に従わず,かつ神が存在する場合,わたしは永遠の命を放棄している。

  • もし神を信じず,神が存在しない場合,わたしは何も得ない。

  • 「パスカルの賭け」は,最適な選択は神の存在を信じることであると説いている。そして,愚か者のみが神が存在しないことに賭けると説いている。なぜなら,愚か者は全てを失い,何も得ないからである。

放蕩息子は,「飲み食いし,楽しむ」(2ニーファイ28:7)機会を失うというでしょう。何が懸かっているか考えるとそれはつまらない残念賞です。彼は「しばらくの間は〔自分〕の業を楽しむが,やがて最後が来」(3ニーファイ27:11)るのです。夢みていた楽しみやお祭り騒ぎは,この世で自分がしてきたことが霊的な二日酔いであると気づき,また,「悪事は決して幸福を生じたことがない」(アルマ41:10)ということに気づき,後に,裁きの日に,「神の裁きが公正であることを神の御前で認める」(モーサヤ16:1)ことになるのに気づくとき,鮪実際の悪夢になるのです。やがて,自分が快楽に見せかけた一見良さそうなものを操る悪魔に騙されていたことを知るのです。従って,「心に罪びとをうらやんではならない」(箴言23:17)のです。

ありがたいことに,放蕩息子には2度目の機会がありました。これは救い主がこのたとえ話(ルカ15:11‐32)から学ぶように期待しておられる大切な教えの一つです。

種を植える―学び始める

アルマは次の段階を説明しています。

「わたしの言葉の一部分でも受け入れることができるほどの信仰になるまで,その望みを育ててゆけ

さて,御言葉を一つの種にたとえてみよう。さて,もしあなたがたが心の中に場所を設けて,種をそこに植えるように〔しなさい〕。」(アルマ32:27‐28。強調付加)

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種を植えるとは皆さんが試してみたいという霊的に鼓舞された望みに基づいて行動を起こしているという意味です。皆さんは学びの過程を歩み始めたのです。

聖文によれば,これを学ぶには二つの方法に従う必要があることを教えています。「また,すべてが信仰を持っているわけではないので,あなたがたは知恵の言葉を熱心に求め,互いに教え合いなさい。まことに,最良の書物から知恵の言葉を探し求め,研究によって,また,信仰によって学問を求めなさい,。」(教義と聖約 88:118。強調付加)

また,聖文によれば,御霊は二つの学びの経路を通じてわたしたちを教えると教えています。

「まことに見よ,あなたに降ってあなたの心の中にとどまる聖霊によって,わたしはあなたの思いとあなたのに告げよう。

さて見よ,これは啓示の霊である。」(教義と聖約 8:2‐3。強調付加)

学ぶ方法と学びの経路を一致させる

信仰スペクトルの話に戻る前に,二つの学ぶ方法と二つの学びの経路の相互関係について説明したいと思います。これらを相互に結び合わせると,わたしたちが信仰スペクトルに沿ってどのように成長し続けることができるかについていくらか助けとなる洞察となるでしょう。

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ジョセフ・スミスが研究によって祈りについて学んだとき,聖書の次の聖句を読んでいました。「あなたがたのうち,知恵に不足している者があれば,その人は,とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に,願い求めるがよい。」(ヤコブの手紙1:5

ジョセフは,自分の信じることに基づいて行動し,「聖なる森」に行き祈ったとき,信仰によって祈りについて学びました。

図の一番上にあるのは,二つの学びの経路,すなわち,思いと心です。

研究によって学ぶことを思いと結びつける

研究によって学問を求めるとき,主は霊感を受けた考えを与えて,わたしたちの思いに語りかけられます。「研究」と「思い」が交差する点について考えられる言葉として,次の言葉を加えても良いでしょう―考え,興味,好奇心,研究,学習,調査,熟考,疑問,深く考える。

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霊感を受けた質問は,人に深く考えさせます。そして,御霊の影響を受けて深く考えると,皆さんは学びの次の段階に進むことができます。そこで,研究が心と交差するのです。

研究によって学ぶことを心と結びつける

深く考えることで種に栄養を与え,種はが出始めます。そして,皆さんは,御霊によって霊感を受けた気持ちを感じ始めます。考えを信じることに変えるのは,心あるいは霊感を受けた気持ちです。

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アルマはこのように述べています。「見よ,それがほんとうの種,すなわち良い種であり,またあなたがたが主の御霊に逆らおうとする不信仰によってそれを捨てるようなことがなければ,見よ,その種はあなたがたの心の中でふくらみ始めるであろう。そして,あなたがたは種がふくらみつつあるのを感じると,心の中で次のように思うであろう。『これは良い種,すなわち御言葉は良いものに違いない。これはわたしの心を広げ,わたしの理解力に光を注ぎ,まことに,それはわたしに良い気持ちを与え始めている。』」(アルマ32:28。強調付加)

わたしたちは通常,理解するという言葉を思いと結びつけますが,いくつかの聖文は,この聖句のように,理解力を心と結びつけています。「彼らの心は開かれ,彼らはイエスが祈られた御言葉を心の中で理解した。」(3ニーファイ19:33ヤコブの手紙第1章5節について,若いジョセフは次のように言っています。「この聖句が,かつて人の心に力を与えたいかなる聖句にも勝って,わたしの心に力強く迫ってきたのであった。」(ジョセフ・スミス―歴史1:12

そうした類の気持ちについて,アルマは次のように述べています。「さて見よ,これによってあなたがたの信仰は増さないであろうか。わたしはあなたがたに言う,信仰は増す,と。にもかかわらず,まだ完全に知るというところまでは行かない。」(アルマ32:29。強調付加)

それはまだ完全な知識ではありません。しかし,心まで届き,信仰スペクトルをもう一歩進むように啓発してくれます。ジョセフにとって,それは行動を起こし,祈るという聖文の勧めを受け入れるように霊感を与えました。ジョセフは,「信仰が試されてからでなければ,証は得られな〔かったのです〕。」(エテル12:6

信仰によって学ぶことを思いと結びつける

信仰によって学ぶとは感じたことや信じていることに基づく行動が必要です。1救い主は次のように述べて,信仰によって学ぶようまさに進めておられます。「神のみこころを行おうと思う者であれば,だれでも,わたしの語っているこの教えが神からのものか,それとも,わたし自身から出たものか,わかるであろう。」(ヨハネ7:17。強調付加)この聖句で救い主は,行いとは信じることを知識に変える信仰の行使であると教えておられます。信じない者に対して,救い主は次のように説かれました。「たといわたしを信じなくても,わたしのわざを信じるがよい。そうすれば,父がわたしにおり,また,わたしが父におることを知って悟るであろう。」(ヨハネ10:38。強調付加)

知ることについて言うと,アルマは次のように述べています。

「さて見よ,あなたがたはすでに試して種を植え,その種がふくらんで芽を出し,生長し始めているので,その種が良いものであることを知るに違いない。

さて見よ,あなたがたの知識は完全であろうか。そのとおり,あなたがたの知識はそのことに関しては完全であるが,あなたがたの信仰は眠ったままである。この理由はあなたがたが知っている……あなたがたの理解力に光が注がれ,あなたがたの心が広がり始めているのを知っているからである。」(アルマ32:33‐34。強調付加)

信仰の行いにより知識を得たのです。

信仰によって学ぶことと思いを結び付ける言葉として,次の言葉を加えても良いでしょう―(そのことに関する)完全な知識,祈り,悔い改め,行いを変える,従う,経験,味わう。

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アルマは「味わう」という動詞を非常に特有な形で,光を経験するというように使っています。こう言っています。

「おお,それならば,このことはほんとうではないだろうか。わたしはあなたがたに言う。確かにほんとうである,と。なぜなら,それは光だからである。光は何であろうと善である。というのは,そのように見分けがつくからであり,こうしてあなたがたは,それが善であることを必ず知るようになる。さて見よ,この光を経験した後,あなたがたの知識は完全であろうか。

見よ,そうでないとあなたがたに言おう。あなたがたは信仰を捨ててはならない。あなたがたは,種が良いものかどうかを知ろうとして,ただ信仰を働かせてその種を植えてみただけだからである。」(アルマ32:35‐36。強調付加)

そのこと,すなわち種が良い種であるかどうかを知ること,について完全な知識を得たのは光を経験し味わったからです。光は皆さんをイエス・キリストのもとに来るよう招いているのです。「〔皆さん〕を通じて数々の奇跡を行われた神の力によって……〔皆さんは〕主に帰依〔するのです〕。」(アルマ23:6

信仰によって学ぶことを心と結びつける

アルマは次のように続けています。「そして見よ,木が生長し始めると,あなたがたは,『この木が……実を結ぶように,十分注意して…』…非常な熱意と,忍耐を〔もって〕,その実を期待しながら養いを与えよう〔と言うであろう〕……

…見よ,やがてその実を得る〔または味わう〕であろう。その実は最も価値があ〔る〕。」(アルマ32:37,41‐42。強調付加)

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実を味わうことによって,わたしたちは信仰によって学ぶことと心が交差するところまで前進することができます。ここで,わたしたちは自分で,本当に,その実が甘くて価値のあるものであることに気づきます。イエス・キリストに従い,主の御心を行うことにより,わたしたちは主の贖いと福音をいろいろな形で味わうことができるのです。この過程の初期の段階で,わたしたちの心は動かされました。今,アルマが説明した(アルマ5:12)「心の中に大きな変化」が生じています。そして,御霊によって経験と知識が改心へと変わるのです。

わたしたちが「主に帰依した」(アルマ23:8)とき,バプテスマを受け,聖霊の賜物を受けることにより主に従うのです。福音の「実を味わう」とき,わたしたちは祝福喜び,幸福を経験し,リーハイがしたようにわたしたちはそれを他の人々と分かち合いたくなるのです。「そしてその木の実を食べると,わたしの心は非常に大きな喜びに満たされた。それでわたしは,家族にも食べてほしいと思い始めた。その実が,ほかのどんな実よりも好ましいことが分かったからである。」(1ニーファイ8:12

主に帰依するとは文字どおりの意味では,「聖なる御霊の勧めに従い,主なるキリストの贖罪により,生まれながらの人を捨てて聖徒となる」(モーサヤ3:19)ことにより,イエス・キリストのようになるという力強い変化と変革を意味します。この言葉のより包括的な意味としては,わたしたちの改心は,わたしたちが「キリストの満ちみちた徳の高さにまで」(エペソ4:13)霊的に成長するまでは完了しないのです。これは,主への信仰をもって主の恵みと神の助けを受けて,生涯続ける努力の旅路となります(2ニーファイ25:23参照)。

この生涯をかける改心には,アルマが次のように述べている破滅的な影響を避けるために自分たちに対する継続した養いが明らかに必要です。「しかし,もしあなたがたがその木を構わず,養い育てることに心を配らなければ,見よ,それが根付くことはないであろう。そして,太陽の暑さが及んでその木を熱すると……枯れてしまうであろう。」(アルマ32:38)

「したがって,あなたがたはこれからもキリストを確固として信じ,完全な希望の輝きを持ち,神とすべての人を愛して力強く進まなければならない。そして,キリストの言葉よく味わいながら力強く進み,最後まで堪え忍ぶならば,見よ,御父は,『あなたがたは永遠の命を受ける』と言われる。」(2ニーファイ31:20。強調付加)

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この力強い変化と改心をすれば疑問がなくなるという意味ではありません。しかし,光を経験すると,信仰の成長を阻害する疑いを持つのではなく,むしろ続けて学びたいという望みが湧くのです。「何も疑わないでわたしの名を信じる者に,わたしは自分の言葉が確かであることを証明する。」(モルモン9:25

疑問を持つことは良いことです。わたしたちは深く考え,探求し,祈るからです。ジョセフ・スミスは,生涯を通じて疑問を持ち続けました。教義と聖約のほぼ全ての章は,ジョセフが祈りを通じて主に質問した結果明らかにされたものです。教えに教え,訓戒に訓戒を与えられたのです。これは,救い主が学ばれた方法と同じものです。「彼は最初から完全は受けず,恵みに恵みを受け続け,ついに完全を受けられた。」(教義と聖約93:13

完全な知識

信仰スペクトルの話に戻りますが,右端を「イエス・キリストと主の福音の完全な知識」としました。

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「完全な知識」という語句を調べてみましょう。「光を経験する」ことについて,アルマは「あなたがたの知識はそのことに関しては完全である」(アルマ32:34)と教えています。次の聖句で,預言者モルモンがその同じ光についての自分の証を述べる際に使っているこれと同じ「完全な知識」という語句を探してください。

「見よ,わたしの同胞よ,善悪をわきまえることができるように,物事を判断することはあなたに任されている。そして,その判断の方法は明らかであり,善悪の違いは昼が夜と違うように,完全に理解,してわきまえることができる。

見よ,善悪をわきまえることができるように,すべての人にキリストの御霊が与えられているからである。さて,その判断の方法をあなたがたに教えよう。善を行うように誘い,またキリストを信じるように勧めるものはすべて,キリストの力と賜物によって送り出されているのである。したがってあなたがたは,それが神から出ていることを完全に理解してわきまえることができる……

さて,わたしの同胞よ,あなたがたは判断する際に用いる光,すなわちキリストの光について知っているので,誤って裁かないように注意しなさい。」(モロナイ7:15‐16,18。強調付加)

この二人の預言者はともに真理の完全な知識を与えるのは「キリストの光」であると証しています。世の人々であっても善悪の感覚が心の中にあることに気づいています。世の人々は「キリストの光」を良心という言葉を用いて認めています。この言葉は,ラテン語のコンシエンシア,すなわち,「内なる知識」2という言葉が語源です。

真理の印であるその光に従って,わたしたちは信仰スペクトルを教えに教え,訓戒に訓戒を受けながら前進し続けるのです(2ニーファイ28:30教義と聖約 98:12128:21参照)。「そして聖霊の力によって,あなたがたはすべてのことの真理を知るであろう。」(モロナイ10:5。強調付加)

この後すぐ,光を経験するとはどのようなものか,またそれがどのように完全な知識を与えてくれるか思い起こせるように,アルマが言ったことを実際に試してみます。

反対のものが真理を明らかにする

これを試す前に,この過程においてもう一つの不可欠な要素を認識することが重要です。第2ニーファイ2章で,わたしたちは「すべての事物には反対のものがなければならない」(2ニーファイ2:11)と教えられています。人間は,「善を尊ぶことを知るために,苦さを味わ〔い〕」(モーセ6:55)ます。例えば,健康は主に病気の研究から,自由は,抑圧や奴隷制の研究から,幸福は悲しみの研究から得られてきたと言ったようにです。そして,小さなホタルのように,光は暗くなければその価値がわからないのです。

反対のものはわたしたちの教育と幸福には欠かせないものです。反対のものがなければ,息ができなくて初めて空気の大切さに気付かないように,真理はあっても見えないままなのです。「キリストの光」は常に存在しているため,多くの人が生活において御霊に気づかないのです。ちょうど,第3ニーファイ9章20節のレーマン人のようにです。彼らは,「火と聖霊によるバプテスマを受けた。しかし,彼らはそれを知らなかった。」

反対のものは真理を明らかにするだけでなく,真理に備わっている力と喜びと美しさも明らかにします。例えば,放蕩息子は,みじめな生活を経験して,自分が捨てた家での生活がいかに素晴らしいものであったか,若い時はそれを当たり前のものと考えていたことに気づいたのです。

痛みや病気になって初めて,わたしたちは健康を大切にするようになります。不正直の犠牲者になると,わたしたちは誠実さを大切にします。不公平や残酷を経験すると,わたしたちは皆,内にある光によってそれぞれの実を経験し,「完全に知り」,愛と優しさを大切にするのです。完全な知識は,すべての事物にある反対のものを通じて,その実を一つ一つ経験して得られるのです。神の戒めに従順であれば,反対のものを避けてではなく,反対のものを通して,究極の幸福,成長,進歩が約束されています。「平穏な海では熟練の船乗りは育たない」3のです。

預言者ジョセフ・スミスの次の洞察に満ちた言葉について考えてください。「反対のものを証明すれば,真理は明らかになります。」4

そして,ブリガム・ヤングの次の言葉について考えてください。「全ての事柄は,その反対のものによって証明され明らかにされます。」5

信仰の実験

では,皆さん,いくつかのキリストのような徳質である「~になる」という戒めについて,それぞれ反対のものに照らして考えることを試してみてください。それぞれの徳質について考えると,皆さんの内にある「キリストの光」が思いと心に,キリストの徳質がそれぞれ望ましいものであり,反対のものは好ましくないということの確証を与えてくれるでしょう。

  • 愛。それに対して,憎しみ,敵対心,反対。

  • 正直。それに対して,うそ,だますこと,盗み。

  • 赦し。それに対して,仕返し,恨み,敵意。

  • 優しさ。それに対して,意地悪,怒り,不親切。

  • 忍耐。それに対して,短気,怒りっぽい,我慢できない。

  • 謙遜。それに対して,高慢,言うことを聞かない,傲慢。

  • 平和を創り出す人。それに対して,争い好き,不和にする,怒らせる。

  • 勤勉。それに対して,うんざりする,あきらめる,頑固。

キリストのような特質は数多いですが,ほんのいくつかを挙げれば,種の実験の有効性をはっきりと示すには十分です。

このリストについて深く考えると,皆さんは,証明となる経験を通して,一つ一つ,その徳質の力と真理,美しさが分かるようになったことに気づきます。良い実は,それ自体が証明と実証,つまり,その味を持っているのです。実を一つずつ味わい,教えを一つずつ試すことにより,確かめることができ,「完全な知識」が得られます。おそらく,それが,使徒パウロが,「すべてのものを識別して,良いものを守り〔なさい〕」(1テサロニケ5:21。強調付加)と述べたときに意味していたことだと思います。これらとその他の徳質を自分の生活に取り入れるならば,皆さんは自分たちが考えているよりはずっと先の信仰スペクトルの線上にいます。

しかし,これはまだ,月の栄えの証にすぎないものです。どの宗教であれ,神を恐れる善人であれば,これと同じ証を持っています。何故なら,彼らもまた,モルモンの言う「キリストの光」を持っており,主の福音の一部分を受け入れているからです。

信仰の実験―次の段階

日の栄えの証は,「御父の完全」(教義と聖約 76:75‐7893:19参照)を求めるときに受けます。人が,バプテスマを受けて,聖霊の賜物を受けるふさわしさがあるとき,「キリストの光」のより大きなものを受けるのです。モルモン書には次のように記されています。「あなたがたが心からこれを望んでいるのであれば,主からますます豊かに御霊を注いでいただけるように……主の御名によってバプテスマを受けるのに何の差し支えがあろうか。」(モーサヤ18:10。強調付加)

ディーター・F・ウークトドルフ管長は,わたしたちが「心と思いを神に向ければ向けるほど,天の光が与えられます」と教えています。6

「光を受け,神のうちにいつもいる者は,さらに光を受ける。そして,その光はますます輝きを増してついには真昼となる。」(教義と聖約 50:24

より豊かな光が視界を良くすることについては言うまでもありません。皆さんは,預言者ジョセフ・スミスが次のように言っているのを知っています。「人は完全に近づけば近づくほど,視野がよりはっきりとし,喜びが増す。」7

より大きな光で見ながら,日の栄えの段階の実験をし,末日聖徒イエス・キリスト教会に特有のいくつかの教義を,他のところでは暗がりの中にあるものと比べてみましょう。

  • 神はわたしたちの御父であり,わたしたちは神の形にかたどって創られている。それに対して,神はわたしたちの文字どおりの御父ではない。神は理解できない,知ることのできない存在である。

  • 預言者と使徒のいる,主の組織である。それに対して,主が制定された方式を廃止している。

  • 主は秩序の神であり,神権の鍵を持つ神権者を通して管理しておられる。それに対して,混乱,様々な意見,「偽りの霊」(教義と聖約50:2)。

  • 神権の権能があり,神から召されている。それに対して,神学学位を必要とし,人選により雇われているか自称である。

  • 儀式と聖約。それに対して,単に良い生活を送るのみ。

  • 幼児は罪がない。それに対して,幼児のバプテスマを行う。

  • モルモン書という2番目の証。それに対して,聖書の証のみ。

  • 死者のための神殿の業。それに対して,ろうそくに火を灯して,死者のために祈る。

  • 永遠の結婚と家族。それに対して,死が分かつまで。

真理とその反対のものと比較してみると理解しやすいです。明らかにあるのに見えないものがはっきり見えるようになります。自分が思うよりも多くのことを知っていることに気づきます。わたしたちを啓発して続けて「キリストの光の中で熱心に求め……善いものをことごとく手に〔するようにしてくれます〕」(モロナイ7:19)。

「見ないで信ずる者は,さいわいである」(ヨハネ20:29

では,証についてのもう一つの興味ある局面を調べてみましょう。

聖句ガイドでは,「人を救いに導く〔真の〕信仰は,イエス・キリストを中心としたものでなければならない」と述べられています。

「それには,まだ見ていない本当のことを待ち望む(ヘブル11:1参照)ことが含まれます。」8

イエス・キリストに対する真の信仰とは「見ないで信じる」ことである一方,世の中はその反対で,「見なければ信じられない」と信じているのは,興味深いと思いませんか。

生まれながらの人は,世の中を五感を通して見て,証拠としてしるしを求めます。しかし,聖文には,神の現れや五感を通して力を感じても永続する改心をしなかった人々の例がたくさんあります。

  • レーマンとレムエルは天使を見ました1ニーファイ3:29参照)。彼らは,「彼らをひどく懲らしめられた」(1ニーファイ16:39)主の声を聞きました。彼らは,ニーファイが彼らに手を伸ばし,「主は……彼らの身を震えさせられた」(1ニーファイ17:54)とき,神の力を感じました。彼らは味わいにおいも嗅ぎました―「わたしがあなたがたの食物の味を良くするので,煮炊きするには及ばない。」(1ニーファイ17:12)五感の全てを通して何度も現れを受けましたが,レーマンとレムエルは背きました。彼らは見ることで信じたでしょうか。

  • モーセがイスラエルの民をエジプトから導いたとき,彼らは疫病や火の柱,紅海が分かれるのを目にし,マナを味わいました。すなわち,五感の全てで経験しました。「彼らの神であり贖い主である主は,彼らに先立って進み,昼は彼らを導き,夜は彼らに光を与え,人が受けて益になるあらゆることを彼らのためにしてくださいました……にもかかわらず,彼らは心をかたくなにし,思いをくらまして,モーセとまことの生ける神をののしりました。」(1ニーファイ17:30

  • 聖文には他にも多くの似たような例がありますが,その中で最も驚くのは,救い主御自身を実際にその前で拒んだ霊的に無能な人々です。「このように多くのしるしを彼らの前でなさったが,彼らはイエスを信じなかった。」(ヨハネ12:37教義と聖約 138:26も参照)

反対に,見れば信じるというふうに言う例は非常に多くあります。証を得るためにただ一つの目覚ましい経験を求める人々は,より強い証や御霊の証は,日々,例えば前回聖文に引いた下線といった多くの小さな方法で得られるということに気づいていません。考えてみてください。皆さんが下線を聖文に引いたのは,何か印象や洞察,「そうか」といったものを受けたからです。それが啓示です。霊感を受けて心に残るものは啓示と同じです。

啓示のもう一つの例は,親切にするよう,あるいは善い行いをするよう促しを受けるときのものです。「善を行うように誘〔う〕……ものはすべて,キリストの力と賜物によって送り出されているのである。」(モロナイ7:16)「キリストの光」は絶えずあります。毎日味わっているのです。そして,これらのささやきから,これらの「小さなことから大きなことが生じる」のです。(教義と聖約64:33

「聖霊の力によって,あなたがたはすべてのことの真理をしるであろう」(モロナイ10:5

皆さんは,モルモン書の中で天使を見て信じた人を思い起こすことができますか。皆さんはおそらくアルマの息子アルマのことを考えているかと思います。一人の天使がアルマとモーサヤの息子たちに現れ,「まるで雲に包まれて来たかのように降って来て,さながら雷のような声で語り〔ました〕。」(モーサヤ27:11)その後の話,すなわち,アルマの改心とそれに続く教導の業については,皆さんよく知っています。

アルマは見て信じましたか。違います。なぜでしょうか。それは,アルマはまだ,研究と信仰によって学ぶために選択の自由を行使しなければならず,また,真理を知るためにまだ祈ってはいなかったからです。先ほど述べた例で証明されているように,見ることは信仰や証への近道とはなりません。アルマ自身,自分がどのように証を得たか説明していますが,それを天使の現われたためとは言っていません。事実,アルマの証の中には,天使については何も述べていません。

「そしてこれだけではない。あなたがたは,わたしがい自分でこれらのことについて知っていることに気づかないのか。見よ,わたしは,自分で語ってきたこれらのことが真実であることを知っている。あなたがたは,わたしがどのようにしてこれらのことが確かであるのを知ったと思うか。

「見よ,わたしはあなたがたに言う。これらのことは,神の聖なる御霊〔光〕によってわたしに知らされているのである。見よ,わたしはこれらのことを知ることができるように,幾日もの間,断食をして祈ってきた。そして,これらのことが真実であるのを,わたしは今,自分自身で知っている。主なる神が神の聖なる御霊によってこれらのことをわたしに明らかにされたからである。わたしの内にある啓示の霊によって知らされたのである。」(アルマ5:45‐46。強調付加)

「注意喚起」,あるいは短期の行動の変化は,五感を通して来る外部から影響かもしれませんが,そうしたものは,レーマンやレムエルのように長続きしません。持続する証は,研究と信仰によって,福音を「彼らのうちに置き,その心にしるす」(エレミヤ31:33)聖霊を受けて学ぶときに,内から以外に来ることはありません。その理由で,救い主が訪れられたとき,救い主を見て,聞いて触れ,また,主によって奇跡的に与えられたパンを味わい,そのにおいも嗅いだ3ニーファイ20:3‐9参照)にもかかわらず,ニーファイ人は,「自分たちが最も望んでいるものを求めて祈った。聖霊が授けられるようにと望んでいたのである。」(3ニーファイ19:9

何年か前,ある年配の宣教師がわたしに次の話をしてくれました。それは1960年代,彼が若かったときに起きたことです。それはまた研究と祈りによってのみ,聖霊は真理の証を伝えてくれるということを表すものです。

「わたしはユタ州プロボの町の中心近くの小さなアパートに独りで住んでいました。わたしはプロボの小さな家具店の営業員として働いていました。この出来事が起きたのは,新年を迎える長い祝日の週末のことでした。

「長い祝日を迎えていました。それは,大晦日の12月31日,木曜日でした。木曜日から日曜日まで仕事は休みでした。わたしは自分のアパートにいて,とくにお祝いする予定もありませんでした。夕食を用意しながら,料理がオーブンで焼けるのを待っていました。何か読もうと思いました。アパートには何もなかったので,隣りに行ってそこに住んでいた若い男性(BYUの学生)の何人かに,Field & Stream(釣り雑誌)といったたぐいのものがあったらいいと思いながら,何か読むものがないか尋ねました。彼らは,雑誌はないが,わたしが読みたいかもしれない本があると言いました。彼らは,わたしにモルモン書を手渡してくれました。

わたしはモルモン教会(ユタ州にいるなら誰もが知っていた教会でしょう)について聞いたことはありましたが,その本は知りませんでした。わたしはお礼を言ってその本をアパートに持ち帰りました。夕食の間,その本を見ながら,読み始めました。どんな話なのか分かるよう,わたしはいくつかの部分を斜め読みしました。これまで耳にしたことのない名前や地名が書いてありました。それで読む気になれませんでした。そこで,夕食後,その本を返しに行き,『ありがとう。でも結構です』と言って本を戻しました。

『それについて祈りましたか』と一人の若い男性が尋ねました。『祈るって』とわたしは返答しました。『わたしは何か読むものが欲しかったので,祈る必要があるものが欲しかったわけではありません』。こうして,モルモン書の内容についての興味深い会話が始まりました。彼らはそれは聖典,つまり,もしわたしがまずそれについて祈り,それからその本が真実かどうか知りたいという心からの望みをもって読むならば,神が聖霊の力によってその本が真実であることをわたしに示してくださる,と言いました。

わたしはカトリックとして育ち,当時は活発ではありませんでしたが,カトリックしか知りませんでしたので,カトリック教会の会員として固持していました。わたしが行った唯一のお祈りは主の祈り,マリアへの祈りでカトリックのミサの祈りを読むもので,長い間行ってはいませんでした。そして今,数人の若い男性がわたしに自分がよくわからない神に祈り,その本が真実かどうか教えてもらえるように頼むよう求めているのです。やれやれ,なんてこった。他にすることもなく,長い長い週末でした。わたしはその本を持ち帰り,ビール瓶の栓を開け,たばこに火をつけ,ひざまずき,神にこの本が真実かどうか教えてくださるように求めました。それから読み始めました。『わたしニーファイは良い両親から生まれたので』。

名前と地名はわたしが2時間ほど前に読んだときと同じでした。今回唯一違ったのは,疑いの心を脇に置いて読み始めたことでした。わたしは文字どおり本の中にいました。わたしはニーファイに会い,ニーファイの兄たちに会い,彼らがニーファイに酷いことをしたときに怒りを覚えました。わたしはニーファイが気に入りました。わたしはいいやつを励まし,悪いやつらに関して気の毒に感じました。何時間も読み,読むのを止めることができませんでした。ついに時計を見たときは,朝の5時近くになっていました。わたしは自分に向けて『あけましておめでとう』と言って寝ました。

8時30分頃に起きて,本能的にその本に手を伸ばしました。そのようにして週末の残りを過ごしました。パーリーP・プラット兄弟のように,食事のことを考えるのは煩わしいものでした。何にも邪魔されたくありませんでした。電話線をジャックから抜き,一日中読みました。唯一の中断は時々の軽食でした。最初の夜と同様,早朝になってやっと気づき,数時間寝て,再び本を手に取り,自分で課したマラソン読書を続けました。ついに,月曜日の朝5時頃,わたしは本を読み終え,疲れ果て寝入りました。

その年のクリスマスの前に,アメリカンフォーク地域でわたしは大量のじゅうたんの注文を取りました。それは特別な様式のじゅうたんで,上司はわたしがじゅうたんをしくときの監督をするように求めていました。上司はプロボ地域で以前ビショップを務めていて何度か教会の話をわたしにしましたが,わたしは興味がありませんでした。彼は良い上司でしたが,短気なので怒らせたくない人でした。わたしがじゅうたんの設置の監督をするはずだったのは,この月曜日の朝8時30分でした。約束の時間になりましたが,わたしは現れませんでした。9時になっても10時になってもです。

ついに,10時30分頃,上司は,非常に怒って,わたしのアパートを訪れ,叱りつけるつもりで扉の中に入りました。ソファーの上でモルモン書を胸の上に置いたまま寝ているわたしを見て,上司の気持ちが変わりました。上司はそっと扉を閉めて,じゅうたんを敷く作業は自分でできると思い,店に帰りました。ちょうど11時30分過ぎに(上司が訪問したとは知らずに)わたしは起きて,時計を見て,比較的に短い期間に二度目となるお祈りしました。(おそらく着いた頃には何も仕事は残っていないだろうと思いながら)すぐに着替えて,車に乗り,仕事場に急いで行きました。 

その場所に上司がいたので,謝るために上司のところに行きました。上司は振り返り,にこっと笑顔を見せました。そして,『モルモン書はどうだったか』と尋ねました。何が起きたか気づき,わたしの思いは先週末のことを思いながら,目にいっぱいの涙を浮かべて,わたしは唯一言うことのできたこと『その本は真実です。モルモン書は神の言葉です』と言いました。それからわたしは泣き始めました。上司はわたしのところにやってきて,腕を回し抱きしめました。わたしは1965年1月22日,バプテスマを受けて末日聖徒イエス・キリスト教会の会員となりました。」

わたしは,このすばらしい兄弟に,彼が改宗してから何十年かたち,奥さんと一緒にサンディエゴ・モルモンバタリオン訪問者センターで伝道しているときに会いました。わたしがこの改宗談がとても好きな理由は,彼がモルモン書を読もうとした2回の試みの対比です。彼が最初に読み始めたときは,心からではなく祈りもしていませんでした。2回目の試みでは,望みと祈りをもって読みました。それはまったく異なる経験でした。

モルモン書と福音が真実かどうか知る方法は一つしかありません。それには,好奇心や五感からではないものが必要です。選択の自由を心から行使して,知りたいという望みに基づいて行動することが必要です。

「また,この記録を受けるとき,これが真実かどうかキリストの名によって永遠の父なる神に問うように,あなたがたに勧めたい。もしキリストを信じながら,誠心誠意問うならば,神はこれが真実であることを,聖霊の力によってあなたがたに明らかにしてくださる。

そして聖霊の力によって,あなたがたはすべてのことの真理を知るであろう。」(モロナイ10:4‐5

その約束には,「かもしれない」や「おそらく」あるいは「多分」といった言葉は含まれていません。その約束は,「神はこれが真実であることを,聖霊の力によってあなたがたに明らかにしてくださる」とあります。

この改宗談にあるもう一つの洞察ある原則は,証を得るのにモルモン書を全部読む必要はないということです。この改宗談の人物は,最初のページで光を経験しました。彼は,ピザがおいしいかどうか知るのにピザ全部を食べる必要はありませんでした。人によっては,その光がより好ましいものになるにつれて,より深い経験ができるようになるかもしれません。それが,アルマが次のように述べているもののようです。「これは……わたしの理解力に光を注ぎ,まことに,それはわたしに良い気持ちを与え始めている。」(アルマ32:28

自分が思う以上に皆さんの証は強いです

この話を始めたとき,わたしは皆さんに信仰スペクトル上で自分の証にスコアをつけるようにお願いしました。自分が想像していたより自分の証がずっと前進していることに皆さんが気づかれたことを願っています。聖霊を教師として,皆さんは,福音の多くの実について完全な知識を得てきています。教えに教えを加え,皆さんの証は日に日に強くなってきています。

Slide from a Powerpoint presentation given by Elder Lynn G. Robbins for May 3, 2015 CES Devotional.

福音を学び,それに従って生活すればするほど,より光を受け,御父の計画はより意味のある福音となります。わたしたちは自分の経験を通して,永遠の命の実が本当に貴重なもので,「今までに味わったどんな実よりもずっと甘〔い〕」ことと,「非常に大きな喜び」でわたしたちの心が満たされることを学びます(1ニーファイ8:11‐12)。祝福と喜びのため,そして人生における前向きな結果をもたらすための制御を与えてくれ,そして,永遠の家族として終わりのない幸福を望むことができるので,わたしたちは成長するとともに福音が好きになります。

わたしは,聖霊によって,モルモン書が真実であり,神の言葉であることを確かに知っていることを証します。それは甘く価値のある味があります。わたしはその味が大好きで大切にしています。わたしはイエス・キリストが神の御子であること,主が世の罪のために十字架にかかり,苦しまれたことを証します。キリストはわたしたちの救い主であり,生ける預言者と使徒を通して,この地上にある主の教会と主の王国を引き続き導き指示を与えておられます。わたしは,主の御名とこれらが真実であることをイエス・キリストの聖なる御名によって証します,アーメン。

  1. デビッド・A・ベドナー「信仰により学ぶ望みを持つ」『リアホナ』2007年9月号,17-24参照

  2. Wordsense.eu Dictionaryのconscientiaの項を参照。www.wordsense.eu/conscientia/

  3. アフリカのことわざ

  4. ジョセフ・スミス,History of the Church, 6:428より引用

  5. Discourses of Brigham Young,ジョン・A・ウィッツオー選(1954年),433

  6. ディーター・F・ウークトドルフ,「光と真理の証を受ける」『リアホナ』, 2014年11月号,22

  7. ジョセフ・スミス,History of the Church,2:8。

  8. 聖句ガイド「信仰」の項。scriptures.lds.org