イエスは彼らに言われた,「わたしが命のパンである」
ジェリット・W・ ゴング長老との夕べ
CES宗教教育者を対象とした説教,2017年2月17日,ソルトレーク・タバナクル
愛する兄弟姉妹,今晩ここに集えるのは特権です。優しい愛と励ましを届けてくださる大勢の皆さんに感謝しています。今晩,わたしたちがキリストのことを話し,キリストのことを喜び,1キリストについて学ぶときに,敬虔な気持ちでキリストにもっと近づけるよう祈ります。
家族ならびに伴侶の皆さん,皆さんとご一緒できて光栄です。伴侶を意味する英語のスパウスという言葉は,発音がスパイスに近く,伴侶はわたしたちの人生のスパイスです。皆さんは朝早くから夜遅くまで,信仰を込めて一歩ずつ人生を歩んでいます。皆さんの人となりとすべての行いに感謝しています。
この中央幹部との夕べの割り当て は,手紙で受け取りました。手紙には,トーマス・S・モンソン大管長,ヘンリー・B・アイリング管長,ディーター・F・ウークトドルフ管長の署名がありました。この会に祝福があり,霊感を受けて会を準備できるよう主にお願いするという言葉に,皆さんに対する大管長会の愛を感じます。
わたしは最初にこの割り当てを受けたときに,全世界のセミナリーとインスティテュートの教師,宣教師,教会教育システムの職員である皆さんのことを教えてほしいと,キム・クラーク長老とチャド・ウェッブ兄弟にお願いしました。
133か国で4万5,731人がセミナリーとインスティテュートの教師や宣教師として召されており,そのうちの3万4,527人がアメリカ合衆国以外で,1万1,204人が合衆国内で教えているということを知りました。皆さんは全体で2,080万7,605時間を福音の業にささげています。ありがとうございます。
また,宗教教育セミナリー・インスティテュートの職員として129か国に2,878人がおり,そのうちの1,849人がアメリカ合衆国内,1,029人が合衆国以外で働いています。文字どおりA(のアルバニア)からZ(のザンビア)まで,ボツワナ,ブルガリア,ハンガリー,リトアニア,モザンビークなどの国々で働いています。ありがとうございます。
長期にわたって教えている人たちがいます。例えば,ブリティッシュ・コロンビア州のエニッド・メイ姉妹は35年間セミナリーを教え,最近解任されました。メイ姉妹は自身の10人の子供のうち9人と,2人の孫,それに,彼女の現在のビショップも教えました。セミナリーの学年末まで車が動いてくれるように毎年祈ったそうです。セミナ リーを最後に教えた日,自宅のドライブウェイに車をバックさせていたとき,トランス ミッションがついに壊れたのでした。
皆さんの中には,教えるのが初めてという人たちもいます。例えば,韓国のチャン・ダングラン姉妹とドミニカ共和国のヨハンナ・メルカデル姉妹は,教会員になってわずか6週間で,今年教えることになりました。
ケニアのマーガレット・マサイ姉妹がセミナリーを教えるようになったのは,教会に 入ってわずか数週後のことでした。生徒の多くは教会員の家庭で生まれており,自分を教え,自分が福音の土台を築けるように助けてくれたと,マサイ姉妹は謙虚に言っています。その土台のおかげで,17年間セミナリーを教えるという祝福にあずかりました。
皆さんはあらゆる地域,あらゆる状況の下で,あらゆる事情を抱えた生徒を,大きいクラスや小さいクラスで教え,奉仕しています。
ベンジャミン・ハドフィールド兄弟はアラスカ州ノースポールで教えていますし,ロレナ・トッセン姉妹は南極点のある南極大陸に近いウシュアイアで教えています。
ソルトレークの大学のインスティテュートでは,水曜日に,ジェレド・ハルバーソン兄弟が400人ほどの生徒を教えています。どのようにしているのかと尋ねると,「グループとして教えていますが,携帯メールで一人ずつ連絡を取っています」と言っていました。
ポーランドのダグマラ・マルティニーク姉妹は,自身もヤングシングルアダルトですが,朝早くからパン屋で働いた後,夜遅くまでインスティテュートで教えています。
ホンジュラスにある,ミラ・フロレス・アギラール姉妹のセミナリークラスは,朝5時に始まります。また,アルゼンチンのサンフアンでは,レウベン・アドロべール兄弟のインスティテュートクラスは,夜10時に始まります。
皆さんはまた,メキシコやキリバス,フィジー,トンガ,サモアで,小学校や中学校のクラスを教え,運営しています。
皆さんのおかげで,聖文や生ける預言者の言葉を読んでいる青少年やヤングアダルトが,かつてないほど増えています。
皆さんのおかげで,学んで霊的な知識を得,教義を理解して疑問の答えを見いだす青少年が増えています。
そして,皆さんのおかげで,教会の運営する学校とインスティテュートでコーナース トーン・コースが開かれ,隅のかしら石であられるイエス・キリストに生徒を近づけています。
重ねて言いますが,わたしたちは皆さんの人となりと奉仕に敬意を抱いています。どこにいようと,どんな環境にあろうと,今晩,胸を開き,心を開いて一人または二人,またはそれ以上が主の御名によって集まっていることに感謝します。2
以前,時間のかかる割り当てを果たした後にソルトレーク空港に降り立とうとしたとき,ボイド・K・パッカー会長がうれしそうにこう言いました。「ジェリット,妻のドナが今,パンをオーブンに入れています。わたしが家に着くころに焼き上がりますよ。」
おいしいパンを想像したり思い出せますか。焼き立てのパンの香りをかげますか。それを味わえますか。少し甘いパンや少し塩気のあるパンを。
パンは世界共通の主食です。あらゆる時代や環境で食されてきました。もちろん,全世界でパンの大きさ,形,材料,さらに呼び方は様々です。
救い主はこう言われたのは,万人がパンを理解し,パンに頼っていたからではないでしょうか。「わたしが命のパンである。」3
この世でわたしたちは,アダムとエバのように,いばらとあざみの中で顔に汗してパンを食べます。道徳的な選択の自由を行使して,現実の物事を選びます。霊的な成長をもたらすのは,現実の様々な問題です。しかし,救い主はわたしたちがこの世の棒切れと石,限界と欠乏を目の当たりにするのを放ってはおかれません。マナ,日々のパン,主の聖餐の約束を祝福として与えてくださり,それによってわたしたちは,命と希望,喜びを得ることができ,さらに豊かに得ることができるのです。4
主はこう宣言しておられます。
「主なるわたしは天を広げ,また地を築いた。これらはまことにわたしの手の業である。そして,その中にある万物はわたしのものである。
……わたしが意図しているのは,聖徒たちに必要なものを与えることである。……
地は満ちており,十分にあり余っているからである。」5
言い換えれば,救い主の世界は棒切れと石の世界ではなく,パンと魚の世界です。
イエスがほんの少しのパンと魚で群衆に必要な食物を与えられたことを覚えていますか。ビデオを見て,その場にいると想像してみてください。
〔ビデオ〕
イエス:「群衆を見なさい。」
弟子1:「ここは寂しい所でもあり,めいめいで何か食べるものを買いに,周りの部落や村々へ行かせてください。ここには何もありません。」
イエス:「あなたがたが食物をやりなさい。」
弟子2:「二百デナリものパンを買ってきて,食べさせるのですか。」
イエス:「パンは幾つあるか。」
弟子1:「5つあります。それに魚が2匹。」
イエス:「ここに持ってきなさい。人々を50人ずつに分け,食物を与えなさい。……天と地の主であられる父よ,豊かな恵みに感謝します。アーメン。」6
〔ビデオ終了〕
新約聖書の4か所に,救い主が5,000人の群衆に食物を与えられた話があります。7そのほか,救い主が別の折に4,000人の群衆に食物を与えられた話が,新約聖書の2か所に述べられています。8この大群衆の中には,成人男性だけでなく,女性や子供もいたようです。9
神は細かいことに気を配っておられると,よく言われます。最近わたしは,救い主が5,000人の群衆に食物をお与えになった詳細について,マタイ,マルコ,ルカ,ヨハネの各福音書の記述をつなぎ合わせ,一つの話にまとめました。
聖文を研究し,救い主の模範に見られる福音の原則を学ぶ際に,どうぞ理解の目が開かれるよう聖霊を招いてください。
救い主の教導の業について理解を深めることによって,わたしたちや家族,生徒が救い主にもっと近づけるよう祈ります。
聖文をつなぎ合わせた話を紹介しましょう。
「さて,使徒たちはイエスのもとに集まってきて,自分たちがしたことや教えたことを,みな報告した。
するとイエスは彼らに言われた,『さあ,あなたがたは,人を避けて寂しい所〔人気のない場所,または静かな場所〕へ行って,しばらく休むがよい。』それは,出入りする人が多くて,食事をする暇もなかったからである。……
ところが,多くの人々は彼らが出かけて行くのを見,それと気づいて,方々の町々からそこへ,一せいに駆けつけ,彼らより先に着いた。
イエスは舟から上がって大ぜいの群衆をごらんになり,飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで,いろいろと教えはじめられた。」10
そして,「これを迎えて神の国のことを語り聞かせ,また治療を要する人たちを癒された。」11
「夕方になったので,弟子たちがイエスのもとにきて言った,『ここは寂しい所でもあり,もう時もおそくなりました。群衆を解散させ,』12『めいめいで何か食べる物を買いに,まわりの部落や村々へ行かせてください。彼らは食べ物を持っていませんので。』」13
「するとイエスは言われた,『彼らが出かけて行くには及ばない。あなたがたの手で食物をやりなさい。』」14
「弟子たちは言った,『わたしたちが二百デナリものパンを買ってきて,みんなに食べさせるのですか。』」15
「弟子のひとり,シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った,
『ここに,大麦のパン五つと,さかな二ひきとを持っている子供がいます。しかし,こんなに大勢の人では,それが何になりましょう。』」16
「イエスは言われた,『それをここに持ってきなさい。』」17
「そこでイエスは,みんなを組々に分けて,青草の上にすわらせるように命じられた。」18「その場所には草が多かった。」19「人々は,あるいは百人ずつ,あるいは五十人ずつ,列をつくってすわった。」20
「イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り,天を仰いでそれを祝福してさき,」21「感謝してから,」22「パンを……弟子たちに渡された。弟子たちはそれを群衆に与えた。」23「また,二ひきの魚もみんなにお分けにな〔り,〕」24「彼らの望むだけ分け与えられた。」25
「人々がじゅうぶんに食べたのち,イエスは弟子たちに言われた,『少しでもむだにならないように,パンくずのあまりを集めなさい。』」28
「残りを集めると,」29「五つの大麦のパンを食べて残ったパンくず」30と「魚の残り」31で,「十二のかご〔は〕いっぱいになった。」32
「食べた者は,女と子供とを除いて,おおよそ五千人であった。」33
「そして〔イエスは人々に別れを告げ〕てから,祈るために山へ退かれた。」34
「人々はイエスのなさったこのしるしを見て,『ほんとうに,この人こそ世にきたるべき預言者である』と言った。」35
イエスがわたしたち全員を一人ずつ,5つのパンと2匹の小さい魚で養われることについて,皆さんは何に気づき,何を感じ,あるいは何を学びましたか。そのパンはマナのようで,コエンドロや蜜のように甘かったでしょうか。36 そして2匹の小さい魚がわたしたち全員をどのように満たしたのでしょうか。
わたしが気づき,感じた,9つのことを紹介します。これは,わたしたちが救い主をさらによく理解し,もっと救い主に近づき,もっと救い主に似た者になるのに助けとなるでしょう。
テーマ1――救い主は深く憐れまれる。
救い主の奇跡の多くは,理解と憐れみから始まります。救い主はわたしたちの心と状況を御存じであり,わたしたちの望みや心の傷,願いや必要なものに対する憐れみに満ちておられます。
それは苦しい時期でした。バプテスマのヨハネは首を切られ,その首が大皿に載せて運ばれました。冷酷な母親の娘が舞を舞うのを見て喜んだ王が,意に反した結果となる約束をしてしまったからです。救い主と弟子たちは,人気のない所へ行って休みました。しかし,大勢の人々を見て,救い主はどう感じられたでしょうか。「深くあわれんで」37彼らを受け入れ,教え,癒されたのです。そして,非常に現実的に,彼らが食べ物を持っていないことを御存じでした。38
救い主は,教導の業を進めるに当たって人々に深い憐れみを示しておられます。重い皮膚病にかかった人に,39ある人の悪霊につかれている息子に,40一人息子を亡くしたやもめの母親に,41憐れみを示されました。救い主は,瀕死の傷を負って放置された人を気の毒に思った良いサマリヤ人(びと)のようになりなさいと教えておられます。42
同様に,放蕩(ほうとう)息子の父親は「まだ遠く離れていたのに」息子を哀れに思って走り寄りました。43おもしろいことに,食物について言えば,放蕩息子は「本心に立ちかえ〔る〕」と,「父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに,〔自分〕はここで飢えて死のうとしている」44ことに気づいたのです。
救い主はまず深い憐れみから始めて,最後に,恵み深く思いやりを示されます。
福音書には,イエスは群衆に食べさせると「群衆を解散させ〔られ〕」たと書かれています。しかし,マルコによる福音書の脚注によると,「解散させ」たのではなく,「人々に別れを告げた」45となっています。人々に食べさせた後,深い憐れみをもって彼らに別れを告げておられるイエスの声が聞こえますか。
テーマ2――救い主は彼らが持っているものから始められる。
群衆に食物を与えたいと思われた救い主は,まず,彼らが何を持っているかお尋ねになります。救い主は世界の創造主であり,天地の主ですが,彼らが持っているものと彼らの状態から始められるのです。
「ここに,大麦のパン五つと,さかな二ひきとを持っている子供がいます。」46
救い主は彼らが持っているものから始められます。「それをここに持ってきなさい。」47
皆さんは,自分がどのような教師か,何を,だれに教えるのか確認して,果たして自分の能力でできるのだろうかと疑問に思ったことはありませんか。恐らく,この弟子たちのように,手もとにある少しの小さいパンと魚を見て不安になります。「しかし,こんなに大ぜいの人では,それが何になりましょう。」48
教師としてわたしたちは,すべての生徒にクラスで貢献してもらおうとします。大きな貢献をする生徒もいれば,そうでない生徒もいます。学習者また教師として(その両方であるわたしたちは),今あるもの,今の状態から始めます。そうすれば主はわたしたちを大いなる者とし,努力に報いてくださいます。今の状態から成長するという原則は,モルモン書に出てくる,「自分の行えることをすべて行った後に」49主の恵みによって救われるという真理を反映しています。
持っているものを携えてありのままの状態で主のもとへ行くわたしたちに,主はほほえみかけてくださいます。
テーマ3――救い主は物事を秩序正しく行われる。
大勢の人々が押し合いへし合いして何かをつかみ取ろうとしている場面に出くわしたことはありませんか。わたしはあります。前の方にいる人は後ろの人のことを気に掛けません。だれかが倒れたら踏みつけられてしまうのではないかと心配しました。
これとは対照的に,救い主は,「みんなを組々に分けて,青草の上にすわらせるように〔弟子たちに〕命じられ〔まし〕た。」50それらの組は,「あるいは百人ずつ,あるいは五十人ずつ,列をつくって」51組織されました。
教会では開拓者の隊,すなわち組について話します。神殿で礼拝するグループすなわち組について話します。わたしたちにとって「組」とは,高い目標を共有する,秩序ある集団を指します。
そして,寂しい所と言われていますが,主は,群衆を土ぼこりの立つ地面にじかに座らせることはせず,「青草の上に」52 座らせられました。「草が多〔い〕」53場所を選ばれたのです。
テーマ4――救い主は感謝を述べられる。
救い主はパンと魚を手に取ると,「天を仰いでそれを祝福してさき〔ました。〕」54
天地の創造主であり,王の王である御方が,自ら感謝をささげてからパンと魚を裂き,全員が「彼らの望むだけ」55食べられるようにそれを増やされました。
テーマ5――救い主は食物を弟子たちに与えてから,群衆に与えるように言われる。
これは順序ですが,順序以上のものです。羊飼いたちを強めて,羊飼いたちが羊を強めることができるようにします。教師に教えて,教師が生徒を教えられるようにします。これは,聖書にもモルモン書にも,主の回復された教会にもある規範です。主は「パンを……弟子たちに渡され〔,〕弟子たちはそれを群衆に与え〔まし〕た。」56
これは,与え,受けるという大いなる霊的な賜物です。後で自分が教えるということが分かっていれば,学ぶ助けになります。学ぶことを教えると,教えることを学びます。学び,教えるというわたしたちの模範は,自分たちも学び,教えることができるのだということを生徒にも知ってもらうのに役立ちます。
テーマ6――救い主は5,000人に一人ずつ,食物をお与えになる。
奇跡的な方法でパンと魚が分けられ,群衆の一人一人に行き渡るように増やされました。そして「みんなの者は食べて」57「満腹し〔まし〕た。」58
これは,わたしたち教師が求める奇跡です。クラス全体と,クラスの一人一人を教えるのです。そのためには5,000人にも,一人一人にも注意を向けなければなりません。全体的な問題と個人の必要に対処します。そして,バランスの問題を超えて,始めにあったもので足りるという霊的な奇跡が求められます。
テーマ7――救い主は何も失われないようにされる。
「人々がじゅうぶんに食べたのち,イエスは弟子たちに言われた,『少しでもむだにならないように,パンくずのあまりを集めなさい。』」59
自分の持っているものに感謝して始めると,終わったときに少しも無駄にならないようにします。天の経済には無駄がありません。最初にすべてが引き出され,何も無駄になることなく終わります。
リチャード・G・スコット長老は,心に感じたことを記録するともっと何かあるか分かるようになると言っています。60尋ね,答えを受け,記録し,深く考え,従い,まだ何かあるか尋ねるというプロセスの繰り返しには,「その上になお増し加えられる」61という救い主の宣言が反映されています。
それだけではありません。救い主は御自身を「命のパン」と称し,こう言っておられます。「わたしをつかわされたかたのみこころは,わたしに与えて下さった者を,わたしがひとりも失わ〔ない〕……ことである。」62救い主は御父から与えられた人々を一人も失われないように守られます。教師,宣教師,職員として,自分に任された人をあらゆる信仰と力を尽くして守り,一人も失われないようにします。
テーマ8――救い主とともにいれば,終わりには始めよりも多くなる。
弟子たちは一人も失われないことに感謝し,もう一つの奇跡に気づきます。「残りを集めると」,63「五つの大麦のパンを食べて残ったパンくず」64と「魚の残り」65で,「十二のかご〔は〕いっぱいになった」66のです。
霊的に増し加わるという奇跡は,救い主とともにいれば,始めよりも多くなるということです。終わりには始めたときよりももっと多く愛や学び,霊感,優しさが増します。御霊に満ちた教えは,水の上に投げられたパンのようであり,パンと魚のように,始めたときよりも大きくなって戻って来るのです。
これまでの話をまとめましょう。
救い主はわたしたちの心と状況を理解しておられます。深い憐れみに満たされて,わたしたちをあらゆる方法で祝福し,満たしてくださいます。
わたしたちの今の状態,今持っているものから始めてくださいます。子供が持っている少しのパンと魚でも受け入れてくださるのです。
物事を秩序正しく行われます。
感謝を表されます。祝福して裂く前に,天に目を向けられます。
弟子たちに魚を与え,それを人々に与えるように弟子たちに言われます。
5,000人と同時に,その一人一人を世話し教える方法を御存じです。
わたしたちが持っているものを集め,一つも失われないようにされます。
終わるときには始めたときよりも増えるということをわたしたちが理解できるように助けてくださいます。
それだけではありません。救い主が群衆に食物を与えておられるのは,パンと魚を使って御自分の豊かさを教え,証する最初の機会ではなく,最後の機会でもありません。
そこで,9番目の最後のテーマです。
テーマ9――見る目と聞く耳を持つ者に,救い主は聖餐の豊かさを教え,証される。
「人々はイエスのなさったこのしるしを見て,『ほんとうに,この人こそ世にきたるべき預言者である』と言った。」67
後に,特にパンと魚について,救い主は弟子たちにこう尋ねておられます。
「『思い出さないのか。
五つのパンをさいて五千人に分けたとき,拾い集めたパンくずは,幾つのかごになったか。』弟子たちは答えた,『十二かごです。』
『七つのパンを四千人に分けたときには,パンくずを幾つのかごに拾い集めたか。』『七かごです』と答えた。」68
繰り返します。救い主の世界はパンと魚の豊かな世界です。
救い主は,井戸のそばにいる女性に向かい,乾燥した土地で持つ特別な意味を込めて,御自身を命の水であると宣言されました。イエスは彼女に言われました。「わたしが与える水を飲む者は,いつまでも,かわくことがないばかりか,わたしが与える水は,その人のうちで泉となり,永遠の命に至る水が,わきあがるであろう。」69
イエスに「わたしたちの先祖は荒野でマナを食べました。あなたは天よりのパンを食べさせてくださいますか」70と尋ねる人々に,イエスはこう答えておられます。「天からのまことのパンをあなたがたに与えるのは,わたしの父なのである。」71「わたしが命のパンである。」72「信じる者には永遠の命がある。」73
パンと水ほど基本的で,必要で,普遍的なものはありません。命のパンと生ける水がともにかかわるのは,何を受けるときでしょうか。もちろん,聖餐を受けるときです。
この世での教導の業を終えるとき,弟子たちが前に見た方法で,救い主は,「パンを取り,感謝してこれをさき,弟子たちに与えて言われ〔まし〕た,『……わたしを記念するため,このように行いなさい。』」74
救い主は復活後の教導の業の始めに,再びおなじみの方法を示して,他の羊であるニーファイ人の中に聖餐を定められました。
弟子たちにパンと水を持って来るように命じ,
群衆を地面に座らせ,
パンを取り,それを裂いて祝福すると,
弟子たちに与えて食べるよう命じられます。
そして,弟子たちが食べて満たされると,群衆に与えるよう弟子たちに命じられます。
群衆は食べて満たされます。75
後に,主は再びニーファイ人とともに聖餐を執行されますが,そのときには奇跡的な方法でパンとぶどう酒をお与えになります。
「ところで,……パンもぶどう酒も持って来ていなかった。
しかしイエスは,実際に彼らにパンを与えて食べさせ,ぶどう酒を与えて飲ませられたのであった。」76
自分のためにこのパンを食べ,ぶどう酒を飲む者は,「決して飢えることも渇くこともなく,満たされるであろう」77と救い主は約束しておられます。
実に,「群衆は皆食べ終え,飲み終えると,見よ,彼らは御霊に満たされ〔まし〕た。」78
これは,あらゆる時代,あらゆる状況の男女,その命がパンと水に支えられているわたしたち全員に与えられる大いなる聖餐の約束の成就です。「義に飢え渇いている人々は皆,幸いである。彼らは聖霊に満たされるからである。」79
兄弟姉妹,霊的な飢えと渇きの世の中で,皆さんがすばらしい学習者であり教師であることに感謝します。パンと魚という霊のごちそうのようなレッスンと生徒とのやり取りを毎回準備してくださり,ありがとうございます。
兄弟姉妹の皆さん,わたしには,生ける水の源からの救い主の満ちみちる愛に満たされた気持ちを感じたことがあります。
最近,パンと水を配る機会があったときに,この神聖な象徴を頂く人々に対する救い主の大いなる愛を感じました。また,聖餐の儀式を定められた救い主に深い感謝の念を抱きました。
時々,(安息日を含めて)じっくり考えていると,現時点でできることをすべて行っていると認めていただいているという静かな確信を感じることがあります。もっと頻繁に感じるのは,自分の至らなさにもかかわらず「キリストのもとに来て,キリストによって完全にな〔る〕」80ことができるという希望と励ましです。
皆さんが新たな見方でパンと魚,パンと水を見るようになることを望みます。81
生徒が救い主のことをさらによく知るようになって,敬虔な気持ちで救い主のもとに来ることができるように助けるという,神聖な務めを皆さんが果たし,聖文の記述や福音の原則,生ける預言者と使徒の言葉の中に喜びと冒険心,霊感を見いだすようになれば幸いです。
「地とそれに満ちるものが主のものである」82ことを思い出してください。主の世界はパンと魚の世界であり,主の聖餐の約束には,満ち足りて余りあるほどのものがあるということです。
永遠の父なる神とその聖なる御子であり救い主であられるイエス・キリストと聖霊について,感謝を込めて証します。回復された真理と,預言者ジョセフ・スミスから現在のトーマス・S・モンソン大管長まで途切れることなく続く神権の権能と,聖文について,またいつも主を覚えて主の御霊を受けるときに得られる慰めと導きと喜びについて,感謝し,証します。
皆さんがどこにいようと,どんな状況にあろうと,どんな喜びや問題を経験していようと,今晩,この集会で,皆さんが主と主の教会からいかに愛されているかを感じていただけたでしょうか。主は確かに皆さんを愛しておられます。わたしたちもです。主なる救い主イエス・キリストの聖なる御名により,アーメン。
© 2017 Intellectual Reserve, Inc. All rights reserved. 英語版承認:12/16,翻訳承認:12/16。原題:“And Jesus Said unto Them: I Am the Bread of Life.” Japanese PD60003279 300