「何よりも」
教会教育システム訓練放送・2019年6月12日・教会本部ビルメインフロア大ホール
また,皆さんが福音を学び,教えるときに,救い主に焦点を当てるよう努力してくださり感謝します。クラスにおいて,主の称号や役割,人格,属性を研究し,主の完全な模範から学ぶのを見てきました。1 愛する御子について皆さんが証していることを天父が感謝しておられるのを感じました。皆さんがクラーク長老の勧告に従い,生徒が主を知り,主から 学ぶ2ようにしたことにより,クラスでより多く聖霊を感じられるようになりました。ある教師は,「イエスを中心に教えることで,クラスの中で再び喜びを感じられるようになった」と言いました。毎日効果的に行えるよう,その方法を引き続き尋ね求めてください。
今日お勧めしたいことは,生徒が聖文の中だけでなく,皆さんの中にも救い主を見い出すことができるように,主の模範と愛に倣おうと努めていただきたいとうことです。このことについて述べたパッカー会長の話を皆さんは覚えているかも知れません。非常に奥深いものです。
「長年わたしが皆さんに見いだしてきた特質は,卓越した教師である主が示された姿そのものです。受けたチャレンジや務めに従って皆さんが働くその度合いに応じて,皆さんの顔にキリストの面影が刻まれると信じています。その瞬間,その教室にあって,その言葉により,その霊感により,事実上,皆さんは主であり,主は皆さんなのです。」3
救い主の多くの属性のうち,ほかのすべての属性の動機と土台となるのは,天父とわたしたちへの完全な愛です。
使徒パウロはこのように書いています。「たといまた,わたしに預言をする力があり,あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても,また,……信仰があっても,もし愛がなければ,わたしは無に等しい。」4セミナリーとインスティテュートの教師に,パウロはこう言ったかもしれません。「たとえわたしにカリスマ性があり,教授法に通じていても,物を使ったレッスンが上手であっても,もし愛がなければ,わたしは無に等しい。」かと言ってこれを言い訳にして,教授技術を磨くことを怠らないでください。しかし,理解と知識,信仰を求めて祈ったとしても,慈愛がなければ,「やかましい鐘や,騒がしい饒鉢」と同じです。5
「愛は寛容であり,愛は情深い」
使徒パウロはこのようにも書いています。「愛は寛容であり,愛は情深い。」6
救い主の思いやりの一例が ルカ19章に記録されています。ザアカイはローマ人の下で取税人として働いたため裕福になりましたが,ユダヤ人には嫌われていました。ある日,ザアカイはイエスを一目見ようと思いましたが,背が低いうえに,群衆に遮られて見ることができませんでした。そこで,いちじく桑の木に登ってイエスが通られるのを見ようとしました。
聖文にはこうあります。「イエスは,その場所にこられたとき,上を見あげて言われた,『ザアカイよ,急いで下りてきなさい。きょう,あなたの家に泊まることにしているから』。
そこでザアカイは急いでおりてきて,よろこんでイエスを迎え入れた。」7
排除されている自分に目を留めてもらい,招きを受けたザアカイの気持ちを想像してみてください。主のささやかな思いやりは,ザアカイに大きな影響を及ぼしたことでしょう。
生徒はわたしたちの 忍耐と思いやりを必要としています。生徒の問題行動のために教えるのが難しいことがありますが,言動ではなく人を見てください。時間を取って,「この行動の原因は何だろうか」と自問してください。
ジェフリー・R・ホランド長老が教えたように,「反応を示さない生徒には教えることはできないかもしれませんが,愛することはできます。そして,今日,愛することができるなら,あしたは教えることができるかもしれません。
……愛することは 相手に左右されません。終始,生徒を愛するなら,奇跡が起きるでしょう。」8
では,愛しにくい人をどのように愛せるでしょうか?ホランド長老はこのように述べました。「まず神を愛し,その愛を必要としている人にも向けられるよう助けを求めてください。」9わたしたちは「この愛で満たされるように……熱意を込めて御父に祈」ることができます。」10主の目で生徒を見られるように祈り,耳を傾け,理解しようと努めます。アイリング管長はこのように述べました。「生徒のためにできる小さなことを見つけてください。奉仕という代価を支払うと, 神はそれを尊重してくださると約束します。愛するのが大変な生徒だと感じることがあっても心配しないで ください。彼らのために何かしてあげると,もう少し愛し易くなります。それは神からの賜物です。」11
生徒の音楽の発表やスポーツの試合を訪れたり,または,密に生徒に仕えてくださっている皆さんに感謝します。生徒たちは皆さんの愛が強まっていることを感じることでしょう。生徒に仕えている皆さんに主が慈愛を祝福してくださるからです。12
救い主の思いやりのもう一つの例がマルコ第5章に記録されています。
イエスが長血をわずらう女性に何をされたか考えてみましょう。イエスは肉体的に癒す以上のことをされました。女性は痛みや社会的拒絶,金銭的困難によって疲れ果てていたことでしょう。力が出て行ったことに気づかれたイエスは,「さわった者を見つけ ようとして,見まわしておられ〔まし〕た。」13すでに肉体的な癒しは完了していましたが,もう一つの必要を満たすためにイエスは足を止められたのです。イエスは女性の信仰を認め,「娘」と呼ばれました。14病気ではなく女性自身に目を留められたのです。問題や業務にではなく,愛と助けを必要としている人に目を留められました。15
しなければならないことや教えなければいけないレッスン,クラスの規律の問題などすべてが,人を高める機会です。
また,クラスに参加していない生徒にも愛の手を差し伸べてください。この女性やザアカイのように,人の陰で待っている人が大勢います。救い主のように,彼らを探しに行ってください。16よく祈り,評議しながら,さらに多くの若者が救い主とその教えを学べるよう何ができるか霊感を求めてください。生徒が登録し,修了するように尽力することは,御父の子供たちをさらに祝福するための優先事項であり,熱意を持って行うべきです。
「何よりも,完全と平和のきずなである慈愛のきずなを,外套のように身にまといなさい。」
主はジョセフ・スミスに,「何 よりも,完全と平和のきずなである慈愛のきずなを,外套のように身にまといなさい」と語られました。17慈愛のきずなを外套のように身にまとう,とはどのようなことでしょうか。
ヨハネ8章 の中で,パリサイ人がある女性をイエスの前に連れて来てこのように言いました。
「先生,この女は姦淫の場でつかまえられました。
モーセは律法の中で,こういう女を石で打ち殺せと命じましたが,あなたはどう思いますか」。
イエスは身をかがめて,指で地面に何か書いておられました。彼らが問い続けるので,イエスは身を起して「あなたがたの中で罪のない者が,まずこの女に石を投げつけるがよい」と言い,また身をかがめて,地面に物を書きつづけられました。
身に覚えのあるパリサイ人たちは,ひとりびとり出て行きました。主は,「女よ,みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」とお尋ねになりました。
「女は言った,『主よ,だれもございません。』イエスは言われた,『わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように。』」18
この主の完全な模範から学べる3つの教訓について考えてみましょう。
まず,イエス・キリストの贖罪のおかげで,人は過ちから学ぶことができ,悔い改めにより赦されます。生徒の中には過ちをおかした人もいるでしょう。天父が喜んで赦してくださることと悔い改めがもたらす喜びについて,思いやりをもって教えるとき,19 生徒は贖罪が自分にも及ぶことを確信するでしょう。
ちなみに,この勧告はわたしたちにも当てはまります。わたしたち も,贖罪を通して赦しと癒しを受ける必要があります。そして,自分が悔い改めの喜びを経験すると,心から招くことができ,救い主に頼るよう生徒を感化できるでしょう。
次に,愛は正義を行うための動機です。デール・G・レンランド長老が述べたように,「確かに,救い主は姦淫を大目に見られたわけではありません。しかし,主がその女性をとがめられることはありませんでした。主は生活を改めるよう,彼女を励まされたのです。主の思いやりと憐れみにより,彼女は変わろうとする気持ちを抱きました。聖書のジョセフ・スミス訳は,この経験を経て彼女が弟子になったことを証しています。『女はそのときから神を賛美し,主の御名を信じた。』」〔訳注—欽定訳聖書ヨハネ8:11(英語)の脚注Cから和訳〕20
教師あるいは親として,愛を示すと罪や過ちを大目に見ていると混同させるのではないかと思い,愛を示すのを差し控えることがありますが,生徒や子供たちはわたしたちが主とその戒めについてどう感じているかを知っています。必要なのは,生徒が愛され,尊重されていることを再確認することです。この女性が救い主の「慈愛のきずな」により感じた愛と希望を,すべての生徒が福音を学ぶときに感じてほしいとわたしたちは願っています。
第3に,救い主は御父の教義を愛されますが,こん棒を振り回すように教義をお使いになったことはありません。パリサイ人はモーセの律法をよく知っており,それ引用して訴えることもありました。しかし,その律法をお与えになった方は,「心のいためる者をいやし,捕われ人に放免を告げ」,憐れみをかけることを選ばれました。21パリサイ人の非難と罰から女性を守り,自分たちこそ変わる必要があることをパリサイ人 が気づく機会をお与えになりました。
時折,生徒や教師が教義を使って非難めいた雰囲気を招き,人をおとしめ,打ち砕くことさえあります。主の模範に従うとは,希望と癒しをもたらす教え方をすることです。
罪以外でも,心を痛めている生徒がいます。つらい状況にあって,自分が人に愛され,尊重されているかを疑っている生徒もいるでしょう。不安や完全主義に苦しみ,希望を持てない人もいるかもしれません。性別に関する問題のために,自分は主の教会の中に居場所も未来もないのではないかと不安を抱いている人もいます。
教師として,わたしたちはそのような生徒の気持ちを理解しようと努める必要があります。以前の生徒が話してくれた,セミナリーでの経験を一つ紹介します。彼はこのように言いました。「人々は,隣人を愛しなさいという戒めに,『ゲイでなければ』という条件をつけているように感じます。そうだとすればほんとうに最悪の事態で,自分には天父に愛される価値がないと思ってしまうのです。」
生徒が直面するチャレンジが何であれ,彼らを理解し,心からの愛と共感を示すために耳を傾ける必要があります。敬意と思いやりをもって疑問や問題について話し合えるクラス作りが必要です。生徒が,愛に満ちた天の両親の子供であることを認識できるよう助けなければなりません。22独りではないことも伝えなければなりません。生徒に愛と理解を示すなら,聖霊を招き,学習が深まり,心が癒されることでしょう。23
ダリン・H・オークス管長はこのように教えました。「わたしたちはには『重荷が軽くなるように,互いの重荷を負い合う』〔モーサヤ18:8〕という義務があります。教会の教義は変えられませんが,教会員と教会の方針が現世の試練と闘っている人々に対して思いやりのあるものとなるように願っています。より多くの理解と思いやりと愛を示すという教会員の努力によって,善意を持ったすべての人々に対する敬意と理解が増〔し〕……今日頻繁に見られる嫌悪や対立を減らすことを願っています。……これがまさしくわたしたちが願うことであり,教会員とその他の人々にご協力をお願いします。」24
すべての教師は教義を理解し,そのテーマに関する預言者の現在の言葉と,思いやりをもって対処する方法を知る必要があります。25わたしたちはその分野の進歩に全力で取り組んでおり,さらに訓練とリソースを提供する予定です。
自分や生徒の言葉のせいで,ほかの人を「自分は歓迎されていない」という気持ちにさせてしまったら,非難がましくならないように力と理解を求めて祈っていただけますか。だれもが成長の過程にあり,救い主の慈悲を必要としていることを生徒に思い出させてください。ルシフェルは「夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者」でした。26対照的に,主の愛の御手は常に差し伸べられています。
神の愛のもう一つの特徴は,あらゆる祝福を受けて,御自分のようになってほしいとわたしたちに望んでおられることです。
天の御父はわたしたちに大きな期待を寄せておられる
D・トッド・クリストファーソン長老はこう述べています。「天の御父はわたしたちに大きな期待を寄せておられます。」27天父はわたしたちを諦められません。過ちに忍耐しながら,成長を信じて待ってくださいます。生徒を愛する教師も大きな期待を寄せ,授業の出来や好かれることよりも,生徒の永遠の進歩に関心を寄せます。
イエスは弟子の進歩に大きな関心を寄せられました。
例えば,イエスはペテロが自分では気づいてない内面をご覧になり,ペテロに信仰を持って行動するように招かれました。ペテロがつまずくと助け起こし,将来の姿に目を向けられました。
高い期待を寄せられた生徒は信仰をもって行動し,主が約束された祝福を受けます。ニール・L・アンダーセン長老は,愛も期待も持たずに教え導くことは,反抗心を招くと教えました。愛のない高い期待では,本来の道から外れやすくなります。愛はあっても期待が低いと,仲間意識は生まれますがあまり進歩しません。しかし,愛と高い期待があるとき,奇跡が生まれます。28生徒に影響を与えるためには,そのような救い主の愛を抱かなければなりません。
わたしがセミナリーやインスティテュートの生徒たちに教師から受けた愛について尋ねたときの感謝を込めた回答を幾つか紹介します。
ある若い女性の言葉です。「セミナリーに行って,教師の明るい笑顔を見るのが好きです。教師の愛にどんなに助けられたか,言い表せません。先日,教師に褒められたことがとてもうれしくて,泣かないように建物の外に出ました。彼女のささやかな褒め言葉は,わたしにとって非常に大きな意味がありました。毎日セミナリーに行くのが楽しみです。その日でいちばん最高の時間なんです。教師の愛のおかげで,人を神の子として愛することを学びました。」
もう一人の言葉です。「今日のレッスンは自分を変えてくれました。勇気を出して難しい質問をしたら,教師は真剣に耳を傾け,理解しようとし,質問について話をする時間を取ってくれました。今まで考えたこともなかった考察を聞き,目が開かれました。」
最後に,若い男性の言葉です。「セミナリーが始まったとき,やる気がありませんでした。福音も自分自身もどうでもいいと思っていました。親にセミナリーを辞めたいと言いました。でもクラスに行くと,教師は参加したことのないぼくの名前を知っていました。セミナリーがその日一日の雰囲気を決め,毎日が少し良くなりました。習慣を変え,もっと教会に出席し,聖典を読み,考えるようになりました。愛ある教師の中にキリストの光を見い出し,ぼくもそうなれるよう努力しました。教師が毎日御霊によって教えてくれたので,ぼくはセミナリーを卒業し,伝道に出て,神殿結婚したいと思うようになりました。」
最後に,主と皆さんへの感謝をお伝えします。すべてを包みこむ主の愛がすぐそばにあることに感謝します。今日話された教訓をわたしが学ぶまで忍耐してくださる主に感謝します。主の愛と憐れみは,もっと良い自分になろうと思わせてくれます。皆さんをとても愛しています。生徒やともに責任を果たす人たちに対するたゆみない奉仕に感謝します。皆さんは,彼らのために熱心に祈り,ともに苦しみ,成功を喜んでくださいます。また,皆さん自身重荷を負い,日々主に頼って強さを得ています。皆さんを愛し,皆さんのために祈っています。
生徒が聖文研究と皆さんの中に主を見いだし,救い主とその愛を知ることができますように。わたしたちが思いやり深くあって,問題ではなく人に目を向けられるよう祈ります。今までより多くの天父の子供たちに手を差し伸べ,非難の声を控え,だれもが主の教会で居場所を得られるよう助けられますように。生徒がイエス・キリストの弟子として救い主の教えに従い,聖約の道にとどまってすべての祝福を受けるように励ますことができますように。生徒が御父と御子の愛を感じ,それに頼るよう助けられますように。忘れないでください。「キリストの面影〔は〕皆さんの顔に刻まれ〔ます〕。その瞬間,その教室にあって,その言葉により,その霊感により,事実上,皆さんは主であり,主は皆さんなのです。」29
イエス・キリストの御名によって,アーメン。
© 2019 Intellectual Reserve, Inc.All rights reserved.バージョン:2019年5月。原題: “Above All Things.”JapanesePD60009021 300