大胆かつ気高く,悠然と
ヤングアダルトのためのワールドワイド・ディボーショナル・2022年9月11日・ソルトレーク・タバナクル
デール・G・レンランド長老:ありがとうございます。わたしたちは,歴史的なソルトレークのタバナクルに集まっていますが,この模様は世界中に配信されています。聖典の至る所で,主はわたしたちに覚えることを求められます。先人が残してくれた信仰,献身,忍耐の遺産を心に留めることで,今日困難に遭うときに,物事を見る力と強さを得ることができます。
「主が人の子らにどれほど憐れみをかけてこられたかを」1覚えていられるようにという願いを込めて,わたしたちはこの『聖徒たち—末日におけるイエス・キリスト教会の物語』を世に出しました。既に3つの巻が出版されています。この歴史物語には,過去に生きた信仰深い末日聖徒の物語が収められています。イエスキリストの福音を愛し,聖約を交わし,救い主イエスキリストを知るために聖約の道を進んだ人たちの実例が書かれています。
ルース・L・レンランド姉妹: シリーズ第3巻の『聖徒たち—大胆かつ気高く,悠然と』に記されている実体験を中心に話せることをうれしく思います。この巻には,1893年のソルトレーク神殿の奉献と1955年のスイス・ベルン神殿の奉献の間の歴史が年代順に記録されています。この時期,主の預言者を通して啓示が絶えず教会と会員に与えられました。『聖徒たち』第3巻は,わたしたちの歴史,当時の人々,そして救い主を理解する助けになります。
レンランド長老: この時期,わたしの両方の祖父母が教会に入りました。両親はソルトレークシティーに移住しました。神殿で結婚すると約束していたからです。1950年当時,ヨーロッパには神殿がありませんでした。祖父母はソルトレーク神殿で自身のエンダウメントを受けましたが,英語だったため少ししか理解できませんでした。祖父母は結婚し,結び固めを受け,永遠に幸せになるのだと思いました。祖父母が神殿で結び固めを受けるために様々な選択をしてくれたおかげで,わたしも永遠にわたる影響を受けました。
『聖徒たち』第3巻は,レンランド姉妹のような初期の開拓者の子孫にとっても,わたしのようなその後の開拓者の子孫にとっても,自分自身が信仰の開拓者である人たちにとっても,これは共通する受け継ぎです。皆さんは,この教会の歴史の大切な一部なのです。皆さんと先人が築いた信仰の土台の上に築くために行ってくださるすべてのことに感謝しています。「わたしたちは,皆さんがこの本〔『聖徒たち』〕を通して,過去に対する理解を深め,信仰を強められるように,また昇栄と永遠の命へと導いてくれる聖約を交わし,それを守る助けを得られるようにと心から祈っています。」2
レンランド姉妹: 『聖徒たち』の第3巻を分かち合いたくてたまりません。では始めましょう。
レンランド長老:今なお続く教会の回復の例から始めましょう。ラッセル・M・ネルソン大管長は,回復は「一回の出来事ではなく,一連の過程であり,主が再び来られるまで続く」と教えています。3ジョセフ・F・スミス大管長の生涯の終わりに起こった出来事は,それを非常にうまく物語っています。
1918年,スミス大管長は体調が思わしくなく,自分ももう先が長くないことを知っていたようです。大管長は死に取り囲まれていました。第一に,長男のハイラムが虫垂破裂で亡くなりました。スミス大管長は深い悲しみを日記につづりました。「わたしの心はずたずたに引き裂かれ〔ている〕。……ああ,神よ,わたしを助けたまえ。」4第二に,それから間もなく,ハイラムの妻アイダが心不全で亡くなり,悲しみはいっそう深まりました。
第三に,スミス大管長は世界大戦の恐ろしい報告を読みました。戦時中,2,000万人の兵士と市民が亡くなりました。第四に,インフルエンザが猛威を振るい,世界中で人々が命を落としました。死者は全世界で5,000万人以上に上りました。このような死は,家族に,言いようのない悲しみをもたらしました。スミス大管長は人々の死を悼みました。さらに,大管長は5か月も寝たきりの状態でした。きっとこの預言者の念頭には死があったことでしょう。
これはスミス大管長の聖書です。このような聖書を読みながら鍵となる啓示を求めていたかもしれません。
レンランド姉妹:1918年10月3日,スミス大管長は,ちょうどここから1ブロック離れたビーハイブハウスの自室に座り,「イエス・キリストの贖罪と世の贖いについて深く考えていました。ペテロの第一の手紙を開き,救い主が霊界にいる霊たちに教えを説かれたことについて読みました。……〔スミス大管長〕は御霊が自分のうえに降り,理解の目を開いてくださるのを感じました。」スミス大管長は霊界を見ました。そこでは,「救い主が地上で務めを果たされる前に亡くなった義にかなった男女が,主がそこに来て死の縄目からの解放を宣言されるのを喜んで待っていました。
救い主は……御姿を現され,義人の霊たちは……喜びました。彼らは主の前にひざまずき,主を救い主,および死と地獄の鎖からの解放者として受け入れたのです。
〔スミス大管長はまた〕,救い主は不従順な霊たちのもとへ自ら行かれたわけではないことを理解しました。代わりに,主は義人の霊たちを組織し,……暗闇の中にいる霊たちのもとへ福音のメッセージを伝えるように命じられました。このようにして,背きのうちに死んだり真理を知らずに死んだりしたすべての人たちが,神を信じる信仰,悔い改め,罪の赦しのための身代わりのバプテスマ,聖霊の賜物,そのほかの不可欠な福音の原則について学ぶことができるのです。」
レンランド長老: 「次に預言者は,この神権時代の忠実な〔聖徒たち〕が次の世でも自らの働きを続け,暗闇と罪の束縛の下にいる霊たちに福音を宣べ伝えることを知りました。『悔い改める死者は,神の宮の儀式に従うことによって贖われるであろう』と〔スミス大管長〕は述べています。『彼らは自分の背きの代価を支払い,洗われて清くなった後,その行いに応じて報いを受けるであろう。彼らは救いを受け継ぐ者だからである。』」
レンランド姉妹: 「翌朝,ジョセフは健康状態が思わしくないにもかかわらず,10月の総大会の最初の部会に出席し〔,それを見て驚いた人々もいました〕。会衆に向けて話をすると心に決めたジョセフは,大きな体を震わせながら,おぼつかない姿勢で〔この建物の〕説教壇に立ちました。……感情に圧倒されることなく自分の示現について話すだけの力がなかったので,ジョセフはそれについて暗に言及するにとどめました。『この5か月の間,わたしは独りではありませんでした』とジョセフは会衆に語りました。『祈りと,嘆願と,信仰と,決意の精神をもって生活し,絶えず主の御霊と交わっていたのです。今朝の集会を迎えられてうれしく思います』とジョセフは言いました。『全能の神の祝福がありますように。』」5
総大会の後,スミス大管長は息子のジョセフ・フィールディング・スミスに啓示を書き取らせました。これは,スミス大管長が署名して大管長会と十二使徒定員会に提出した二枚のコピーのうちの一枚です。二人はこの示現の記述を読み,承認しました。6この示現は,教義と聖約138章として標準聖典に収められています。こうしてわたしたちは,神が幕の向こう側の人々を心にかけておられることが理解できるようになったのです。神は彼らの贖いを心にかけておられます。「死者」はほんとうに死んでいるのではありません。今なお続く回復により,わたしたちはこのことが分かり,慰めを得,次の世についてはっきりと知ることができました。
レンランド長老: 多くの点で,個人の啓示にも同じ過程が必要です。わたしの場合,まず問題に焦点を絞り,よく思い図り,様々な解決策を考えます。個人の啓示というものは,このようにして初めて受けられるもののようです。わたしの場合,啓示は,「進みなさい」「行いなさい」「言いなさい」といった,短い命令形で与えられることがよくあります。
レンランド姉妹: わたしもです。深く考え,研究し,祈った後で,明らかに自分の考えではない考えやアイデアが思い浮かぶことがよくあります。神がわたしを御存じで,善を行うよう聖霊を通して促しておられるのだと思うと,うれしくなります。
レンランド長老:時々,具体的な必要があるために啓示が与えられることもあります。そのすばらしい例が,1894年4月の総大会で起こりました。神殿の結び固めについての啓示を受けたと,ウィルフォード・ウッドラフ大管長が顧問と十二使徒定員会に宣言したのです。「主はわたしに,子供がその両親に,そして両親がその両親に,記録を入手できる限りさかのぼって結び固められることは,義にかなっていると言われました。」7この啓示が与えられたのは,エリヤがカートランド神殿で結び固めの権能を回復してから50年以上たってからのことでした。
レンランド姉妹: 1894年の総大会の日曜日に,ウッドラフ大管長はこう宣言しました。「『啓示は終わっていません。……神の業は終わっていません。』そして,ブリガム・ヤングがジョセフ・スミスの業を引き継いで神殿を建設し神殿の儀式を組織的に行ってきたことについて語りました。『しかし,この業に必要なすべての啓示を受けたわけではありませんでした』とウッドラフ大管長は集まった人々に述べています。『テイラー大管長もそうですし,ウィルフォード・ウッドラフもそうです。この業は完成するまで,終わることなく続くのです。』」8
ノーブーの時代以来,会員らは亡くなった先祖のためにバプテスマを行っていました。しかし,自身の先祖と結び固められることの重要性はまだ明らかにされていませんでした。ウッドラフ大管長はこう説明しています。「わたしたちは末日聖徒に,今からできるかぎり自分たちの系図をたどり,自分たちの父親や母親に結び固められてほしいと思います。…… 子供たちを両親に結び固め,この鎖をできるかぎり長くつないでください。」9
ウッドラフ大管長は,「ジョセフ・スミスがカートランド神殿で兄アルビンを見た示現について聴衆に語りました。『この福音を知らずに死んだ者で,もしとどまることを許されていたらそれを受け入れたであろう者は皆,神の日の栄えの王国を受け継ぐ者となる。……
皆さんの先祖も同じです』と,ウッドラフ大管長は霊界にいる人々について語りました。『福音を受け入れない人は,もしいたとしても非常にわずかでしょう。』
説教を終える前に,ウッドラフ大管長は……亡くなった先祖を探し求めるようにと聖徒たちに強く勧めました。『兄弟姉妹,……記録の作成を続けましょう。主の前に義にかなって記録を埋めていきましょう。この原則を実践しましょう。そうするならば,神の祝福が常にともにあるでしょう。そして将来,贖われた人々がわたしたちを祝福してくれるでしょう。』」10この啓示は,亡くなった先祖のための代理の聖任や儀式を行うという目的で,会員たちが神殿に頻繁に戻る理由をもたらしました。様々な家族がこれらの儀式を小まめに記録し始め,このような書籍にまとめました。ここには,ジェンズ・ピーターおよびマリー・デーム家族の儀式が記録されています。
レンランド長老: 今日では,世代をつなぐ結び固めの教義は当然のように思えますが,家族の結び固めを正しく組織するには,主の啓示が必要でした。この啓示は,フィンランドの西海岸のすぐ近くに位置するラルスモ島に住んでいたわたしの先祖に直接影響を与えました。この話は『聖徒たち』第3巻には収められていませんが,わたしの家族の大切な物語です。1912年に,父方の祖父母のレナ・ソフィアとマッツ・レアンダー・レンランドは,スウェーデンから来た宣教師が回復された福音を述べ伝えるのを聞いて,翌日バプテスマを受けました。二人は新たな信仰に喜びを見出し,フィンランドに初めてできた小さな支部に集いました。しかし,残念ながら,不幸な出来事により人生は大きく変わります。
1917年にレアンダーが10番目の子供を身ごもっていたレナ・ソフィアを残して,結核で亡くなったのです。その子供がわたしの父で,レアンダーの死の2か月後に生まれました。さらに家族が結核で亡くなりました。レナはレアンダーを亡くしただけでなく,最終的に10人のうち7人の子供を亡くしました。貧しい農民だった彼女は,残された子供たちを失わないようにするため,大変な苦労をしました。
20年近く,夜もろくに眠れませんでした。日中は,家族を食べさせるために,どんな仕事でも懸命にこなし,夜には,亡くなっていく子供の看病をしました。レナ・ソフィアがどうやって対処したのか,想像もできません。
わたしは1963年12月に一度,レナ・ソフィアに会いました。わたしが11才,彼女が87才のときでした。祖母の腰は長年の重労働でひどく曲がっていたので,顔と手の皮膚は荒れていて,使い古しの皮のように固くざらざらでした。祖母は立ち上がって,レアンダーの写真を指さし,スウェーデン語で,「Det här är min gubbe.( 今も わたしの夫よ)」と言いました。
「今も」という言葉は誤りだとわたしは思いました。レアンダーが亡くなってから46年たっているのですから。わたしがその誤りを母に指摘すると,母は,「あなたは分かってないわ」と言いました。確かにわたしは分かっていませんでした。祖母は,ずっと昔に亡くなった夫が永遠に自分の夫であることを知っていたのです。永遠の家族の教義を通して,祖父は祖母の中で生き続け,将来への大きな希望の一部となっていたのです。
フィンランド・ヘルシンキ神殿が2006年に奉献される前に,わたしの妹が,父方の家系でどの儀式が必要かを確認していました。分かったことは,祖母が結び固めの権能を信じていた,という燃えるような証でした。祖母は,亡くなった当時8歳以上だった子供たちの記録を提出し,1938年に神殿儀式を行えるようにしていたのです。それは,フィンランドから神殿に提出された最初の儀式の中にありました。
レナは救いの教義を心に留めて乗り越えました。祖母は,様々な不幸が襲い掛かる前に,家族が永遠だと知ることができたことは,神の偉大な奇跡の一つだと捉えていました。イエス・キリストの回復された福音に対する祖母の深い改心は,家族歴史の探求に表れていました。預言者ジョセフ・スミス,ウィルフォード・ウッドラフ,ジョセフ・F・スミスを通して明らかにされた業です。祖母も「信仰をいだいて死〔にました〕。まだ約束のものは受けていなかったが,はるかにそれを望み見て喜び,……地上では旅人であり寄留者であることを,自ら言いあらわし〔まし〕た。」11
レンランド姉妹: 回復は今もなお続いていますから,今後も色々なことが起こります。まだ1年経たない内に,ネルソン大管長はこう述べました。「現在行われている神殿の手順の調整や今後の調整は,主が御自身の教会を積極的に導いておられることの連綿と続く証拠です。主はわたしたち一人一人に,主と主の神殿の儀式と聖約を中心に据えて生活することで,さらに効果的に霊的な基を強められる様々な機会を与えてくださいます。」12ネルソン大管長は,これらの調整は,「主の導きと,わたしたちの祈りへの答えに基づ」いていると述べています。なぜなら主は,「何をするために聖約を交わしているのかを皆さんに明確に理解してほしいと望んでおられる」からです。「主は,皆さんが自らの特権と約束と責任を理解するように……,〔また〕,霊的な洞察や目覚めを得てほしいと願っておられます。」13
啓示は,必要なときに与えられることもあります。回復が今もなお続いていることを表すもう一つの例は,ロレンゾ・スノーが大管長だったときに起こりました。1898年,教会は財政的に追い詰められていました。反多妻婚運動の絶頂期に,アメリカ議会は教会の資産の没収を承認したのです。政府に献金を没収されることを心配した多くの聖徒たちが什分の一を納めるのをやめ,教会の資金は激減しました。教会は借金をして,主の業を進めるための資金を確保しました。ローンまで組んで,ソルトレーク神殿を完成させるための費用を補填したのです。この財政状況は85歳の預言者の心に重くのしかかりました。14
「5月のある朝早く,スノー大管長がベッドに座っていると,息子のリロイが部屋に入って来ました。……預言者は彼に挨拶すると,こう言いました。『セントジョージに行くよ。』
リロイは驚きました。セントジョージは……480キロ以上も離れていたからです。」そこに行くには,320キロ余り汽車で南下し,ミルフォードから先はさらに169キロ馬車で行かなければなりません。年老いた男性にとって,大変な旅になるはずです。それでも彼らは,長くて過酷な旅に出ました。「旅のほこりにまみれ,疲れ切ってセントジョージに着くと,……ステーク会長は……なぜ来たのかと尋ねました。すると,スノー大管長は『なぜ来たのかは,わたしにも分かりません。ただ,来るようにと御霊に言われたのです』と答えました。
翌日の5月17日に預言者は,神殿から北西に数ブロック先に建つ赤い砂岩の建物,セントジョージ・タバナクルで聖徒たちと集会を開きました。」スノー大管長は立ち上がってこう話しました。「わたしたちがここに来た理由は定かではありませんが,主がわたしたちに何かを語られるのだろうと思います。」
レンランド長老: 「スノー大管長は説教の途中で不意に話すのを止めました。部屋は完全な静寂に包まれます。彼の目に光がともり,顔が輝きました。再び口を開くと,前よりも力強い声で話し始めました。神の霊感が部屋を満たしているようでしたそれから彼は,什分の一について話しました。……多くの聖徒たち〔が〕……什分の一を完納することをためらっていると嘆きました。『これはシオンにとってなくてはならない備えです』と彼は言いました。
翌日の午後,スノー大管長は〔こう教えました〕。『今やその時が来ました。将来に備え,正しい土台をしっかりと足で踏みしめたいと願うすべての末日聖徒が,主の御心を行い,什分の一を完全に納める時が来たのです。これが皆さんに対する主の言葉です。また,これはシオンの地に築かれたすべての入植地の人々に対する主の言葉となります。』
スノー大管長は後にこう教えています。「『わたしたちは今,恐ろしい状態にあります。そのために教会はとらわれの身にあるのです。聖徒たちがこの律法を守る以外に,解放される方法はありません。』大管長は完全に律法に従うよう〔会員たち〕に勧告し,従えば主は彼らの努力に報いて祝福してくださると約束しました。また今後,什分の一を納めることが神殿参入の必須条件になることも宣言しました。」15
レンランド姉妹: それ以来,主が最も豊かな祝福を,この単純な律法に進んで従う人々に注がれることを,大勢の人が証できます。アロイス・チープ兄弟は,オーストリア・ウィーン支部の会長として奉仕していました。彼は什分の一と支部の記録をこの慎ましく頑丈な箱に保管していました。第二次世界大戦の空襲の間,チープ会長とその家族が自分の持ち物よりも大事に守ったのがこの箱でした。
この律法を受け入れるのに苦労しながらもすばらしい祝福を受けたと証した人もいます。
日本の柳田家族の経験はその一例です。1948年,大管長会は再び宣教師を日本に送りました。柳田聡子姉妹は,父親に宗教について相談すると,末日聖徒の礼拝行事に出席するよう勧められました。父親は1915年に教会に加わっていました。
柳田姉妹は宣教師と会い,改心し,1949年の8月にバプテスマを受けました。父親も出席していました。柳田姉妹の夫も宣教師を探し出して,柳田姉妹を教えた宣教師からバプテスマを受けました。16
レンランド長老:柳田兄弟姉妹は什分の一を納めるのに苦労しました。彼らの「収入はあまり多くなく,息子の給食費を支払えるかどうか不安なときすらありました。二人はまた,家を購入したいとも思っていました。ある教会の集会の後,〔柳田姉妹〕は宣教師に什分の一について尋ねました。『日本人は今,戦争の後でとても貧しくて……わたしたちにとって什分の一はとても難しいです。納めなくてはならないのでしょうか。』
長老は,神はすべての人に什分の一を納めるよう命じておられると答え,この原則に従うことがもたらす祝福について話しました。〔柳田姉妹〕は疑問を感じ,そして少し腹が立ちました。『これはアメリカ流の考え方だわ。』聡子は心の中でそう言いました。
……ある姉妹宣教師は〔柳田姉妹〕に,什分の一を納めることは,自分の家を持つという家族の目標を達成する助けになると約束しました。従順でありたいと思った〔柳田兄弟姉妹〕は,什分の一を納め,祝福がやって来ることを信じようと決めました。……
〔二人〕は,……祝福〔を〕,目にし始めました。二人は市内に手頃な価格の土地を購入し,自分たちで家の設計図を作りました。それから,政府の新しい制度を利用して住宅ローンを申請し,建設許可が降りると,基礎工事が始まりました。
事は順調に進んでいましたが,建築の審査官から,その土地には消防士が入って来られないとの指摘がありました。『この土地は家が建てられない土地だからこれ以上工事を進めてはいけない』と,審査官は言います。
どうすればよいのか分からず,〔柳田兄弟姉妹〕は宣教師たちに相談しました。……『〔わたしたち〕6人が断食して祈りましょう。あなたがたもやりなさい』と,その長老は言ってくれました。それから2日間,柳田夫妻は宣教師たちと一緒に断食し,祈りました。その後,別の審査官が来て,二人の土地をもう一度調べました。……最初,柳田夫妻は審査を通る望みはほとんどないと思っていました。しかし,審査官は土地を見た後で,解決策を見つけてくれました。緊急時には,消防隊は隣家の塀を壊しさえすればこの土地まで入って来られるというのです。ようやく,柳田夫妻は家を建てることができるようになりました。
『あなたがたは何かよほど善いことをしたのでしょう』と,審査官は夫妻に言いました。『わたしは今まで,こんな融通を利かせたことはないのですが。』〔柳田兄弟姉妹〕はうれしくてたまりませんでした。二人は断食をし,祈り,什分の一を納めていました。そして,まさに〔すばらしい〕姉妹宣教師が約束してくれたとおり,自分たちの家を持つことができるようになったのです。」17
世界中の聖徒たちが,什分の一を納めたときに同様の経験をしています。主は,忠実で従順な人々を祝福されます。また,世界中に神殿を建てられるのは,忠実に納められた什分の一のおかげです。
レンランド姉妹:什分の一の律法に従うと,目に見えにくいけれども大きな祝福があります。その祝福は自分の期待したものではなく,見過ごされがちですが,確かにあります。わたしたちも経験があります。18
わたしの『聖徒たち』のお気に入りの話のうちの一つは,初めて姉妹たちが専任宣教師に召されたときの話です。1890年代後半のイギリスでは,末日聖徒の女性は自分の力で考えることのできない,だまされやすい人間だという噂が広まっていました。そこへ,ソルトレークシティーから末日聖徒であるエリザベス・マキューンとその娘が,ロンドンに来ました。
ロンドンで開かれた教会の大会に出席した際,エリザベスは驚きました。「午前の部会で,伝道部会長会顧問のジョセフ・マクマリンが,……末日聖徒の女性に〔関する〕……ひどい話を問題視し,こう発表したのです。『ちょうどここにユタから来た女性がいます。……今晩,マキューン姉妹にユタ州での経験について話していただくことにします。』それから,大会に集った全員に,夜の部会に友人を誘って集まり,彼女の話を聞くようにと呼びかけたのです。……
集会の時間が近づくと,会場は人で埋め尽くされました。エリザベスは心の中で祈ると,演壇に立ちました。」彼女は自分の信条と家族について話し,福音が真実であることを大胆に証しました。こうも言いました。「『わたしたちの教会では,妻は夫と同等の地位にあると教えています。』集会が終わると,エリザベスは見知らぬ人たちから握手を求められました。ある人はこう言いました。『教会の女性がもっとここに来るようになれば,大きな成果が得られるでしょう。』……
エリザベスが聴衆に与えた影響力を目の当たりにした〔マクマリン会長は,教会の大管長に手紙を書きました。〕……『大勢の活発で聡明な女性が英国で伝道するよう召されれば,すばらしい成果を生むでしょう。』」「女性を宣教師として召すことに決めたのは,……エリザベス・マキューンの説教の影響でもありました。」19
1898年4月22日,イネス・ナイトとジェニー・ブリムホールの乗る船がイギリス,リバプールの港に入りました。二人は,教会初の「婦人宣教師」に任命されていました。
彼女たちはマクマリン会長とほかの宣教師に同行して,リバプールの東の町に行きました。夕方,宣教師たちの街頭集会に人だかりができました。「マクマリン会長は,翌日に特別集会を開催すると発表し,『本物のモルモン女性』が説教をするので聞きに来るようにと皆を招いたのです。」20これは,イネス・ナイトの伝道中の日記です。「その晩,わたしは恐る恐る震えながら話しましたが,自分でも驚くほどの出来栄えでした。」21イネスは天の助けを受けたことを認めて,後にこう書いています。「その晩,大勢の聴衆の前で話しましたが,ほかの宣教師の祈りのおかげで祝福を受けました。」22この「本物のモルモン女性」たちは,戸別訪問をしたり,街頭集会で度々証し,立派にやり遂げました。程なく,ほかの姉妹宣教師もイギリス各地で働くようになりました。
レンランド長老:ナイト姉妹とブリムホール姉妹を皮きりに,この神権時代に,何万人もの姉妹宣教師が伝道しました。23姉妹宣教師について驚くのは,自分らしくあることで効果的に伝道することができる点です。彼女たちは,本物の末日聖徒の女性です。ナイト姉妹とブリムホール姉妹と同じく,彼女たちは自分が何者であって,何を信じているかを話します。
イスラエルの集合における姉妹宣教師の影響力は甚大です。わたしは最近の質疑応答で,伝道部のワードはなぜ姉妹宣教師を好むのかと,若い長老から聞かれました。わたしはこう答えました。「姉妹たちはこの業のために精力を尽くしているからです。会員は,全力で働く宣教師が好きなのです。」
姉妹が伝道に出ることは福音を広める業の重要な部分となってきました。今後もそれは変わりません。ネルソン大管長は4月の総大会でこう述べました。「わたしたちは姉妹宣教師を愛し,心から歓迎します。この業に対する皆さんの貢献は実に偉大なものです。」24
レンランド姉妹:宣教師として召されてはいなかったマキューン姉妹がすばらしい働きをした点も印象的です。この姉妹の信仰によっていろいろなことが起こりましたからね。25
ここで思い出すのは,『聖徒たち』第3巻に出てくるもう一つの驚くべき話です。きわめて困難な状況下で弟子としてあるべき姿を見せた聖徒たちの例です。以前の敵が,イエス・キリストに頼って敵意を克服し,一致したのです。
第二次世界大戦後,「5年間の〔ナチス・ドイツ政権〕の占領の後,オランダは悲惨な状況にありました。戦時中に20万人以上の国民が亡くなり,何十万もの家屋が破損したり損壊したりしました。……オランダ各地の多くの聖徒は,ドイツ人や」同胞に対して,「苦々しい思いを抱いていました。」占領者に抵抗する人もいれば,協力する人もいたからです。明らかに不和が存在していました。
レンランド長老:「伝道部会長のコーネリアス・ザッペイは教会の各支部に,オランダ政府から支給される種芋を使ってジャガイモ栽培プロジェクトを開始し,食料の足しにするよう勧めました。」これを受けて,「オランダの……支部〔は〕,裏庭,花畑,空き地,道路の中央分離帯など,どこでも場所を見つけてはジャガイモ畑を作っていきました。
収穫の時期が近づいたころ,〔ザッペイ会長〕はロッテルダム市で伝道部大会を開きました。」東ドイツ伝道部会長との会話から,「ドイツでは多くの聖徒が深刻な食糧不足に苦しんでいることを知っていました。〔ザッペイ会長〕は何か手を差し伸べたいと思い,地元の指導者たちに,収穫したジャガイモの一部をドイツの聖徒たちに提供してもらえないかと尋ねました。
『この戦争によって遭遇した敵の中でも,皆さんが特に苦々しい思いを抱いている相手はドイツの人々でしょう』と,コーネリアスは認めました。『しかし,その人たちは今,皆さんよりもずっとひどい暮らしをしているのです。』
最初,オランダの聖徒たちの中にはこの計画に抵抗した人たちもいました。なぜ自分たちのジャガイモをドイツ人に分けなければならないのでしょう。……ドイツ軍の爆撃で家を失った〔人もいれば〕,ドイツの占領軍に食料を奪われて愛する人たちが飢えて死んでいくのを見〔た人もいました〕。」
ザッペイ会長は,捕虜になった経験を持つアムステルダムの教会の支部の指導者であるピーター・フラムに,「オランダ中の支部を訪問して,この計画を支持するように励ましてほしいと頼みました。」ナチ政権とドイツ人は別物だということを,分からせてほしかったのです。「ピーターは経験豊富な教会指導者で,……ドイツの収容所に収監されていたことは広く知られていました。オランダの聖徒たちが伝道部の中で愛し,信頼している人がいるとすれば,それはピーター・フラムでした。」
ピーターは支部の会員と会い,「収容所での苦難をそれとなく話しました。『わたしはそんな経験をしてきました。……それは皆さんも御存じでしょう。』ピーターは,ドイツの人々を赦そうと呼びかけました。『彼らを愛することがどれほど難しいかは分かっています。……〔でも,〕彼らがわたしたちの兄弟姉妹であるならば,わたしたちは彼らを兄弟姉妹として扱うべきです。』」
レンランド姉妹:「ピーターの言葉や,ほかの支部会長たちの言葉に,聖徒たちは心を動かされ,ドイツの〔兄弟姉妹〕のためにジャガイモを収穫するうちに,多くの人の怒りが解けていきました。」それだけでなく,支部内の会員の意見の相違や不信感が消え始めました。会員たちは「協力して前進していけることを知っていました。」
「一方,〔ザッペイ会長〕は,ドイツにジャガイモを輸送するための許可を得ようとしていました。……輸送計画を止めようとする役人がいると,〔ザッペイ会長〕はこう告げました。『このジャガイモは主のものです。主の御心であるならば,主はこれがドイツに届くようにしてくださるでしょう。』
ついに,1947年11月,オランダの聖徒たちと宣教師たちはハーグに集まり,10台のトラックに64トン以上のジャガイモを積み込みました。しばらくの後,ジャガイモはドイツに到着して聖徒たちに配られました。……
ジャガイモプロジェクトの話は,すぐに大管長会の耳に届きました。第二顧問のデビッド・O・マッケイは,とても感動して次のように言いました。『これはわたしがかつて見聞きした中で最も大いなる真のクリスチャンの行いの一つです。』」26
レンランド長老:翌年,オランダの会員はまた大量のじゃがいもを送りました。ニシンも追加し,さらに実のある贈り物にしました。数年後の1953年,北海の氾濫でオランダの大部分が浸水し,オランダの会員たちは助けを必要としていました。この度は,ドイツの聖徒たちがオランダに救援物資を送って助けました。オランダの聖徒たちの慈愛の行いは長年にわたって人々に感動を与え,神をまず愛し,自分自身のように隣人を愛するときに,敵同士の間であっても愛と慈愛を実践できることの絶えざる証となっています。
進んで赦そうとする気持ちは,オランダの会員たちに癒しをもたらしました。自分にも当てはまります。悪意を抱いていると,御霊が悲しみます。怒りを抱いていると,人に対する思いやりが欠け,イエス・キリストのようではなくなります。この真理を,アパルトヘイト時代の南アフリカを舞台に書かれた,アラン・ペイトンの1953年の小説,Too Late the Phalaropeの登場人物が見事に言い表しています。「厳格な掟が存在する。深く傷つけられると,赦すまで元通りにならない,という掟だ。」27
レンランド姉妹:『聖徒たち』第3巻には,この時期における教会歴史の,人を鼓舞する世界各地の物語がたくさんあります。隔離政策を行う南アフリカのケープタウンで忠実に奉仕したウィリアム・ダニエルズについて紹介しています。彼は神権の職には聖任されていませんでしたが,燃えるような証をもっていました。28
レンランド長老:また,メキシコのラファエル・モンロイとビセンテ・モラレスは殉教しました。ラファエルの母ヘスシータと妻のグアダルーペは,脅迫を受け続けながらも勇敢に家族と地域社会を率いました。29
レンランド姉妹:アルマ・リチャーズは,知恵の言葉に従うことを選んだこともあって,オリンピックでメダルを獲得した初の末日聖徒となりました。30
レンランド長老:ヒリニ・ワアンガは,忠実な妻のメレに支えられながら,宣教師として母国ニュージーランドに帰り,教え,神殿の業のために名前を集めました。31
レンランド姉妹:ヘルガ・メイスズスは,友人や教師,学校の指導者のいじめを受けながらも末日聖徒 の若い女性として信仰を保った,ナチス・ドイツ時代の人物です。32
レンランド長老:ほかにも,エブリン・ホッジはソーシャルワーカーとして扶助協会に務め,大恐慌の時代に様々な家族が自立できるよう助けました。33
レンランド姉妹:時間がないのでこれ以上紹介できませんが,ぜひご自分で『聖徒たち』第3巻を読んでみてください。
レンランド長老:教会歴史のこの時期にぴったりな曲は「天よりの声聞け」34だと思います。閉会に聖歌隊が歌ってくれます。「天よりの声聞け」は,1864年にソルトレーク・シティーを旅していたときに教会に加わったドイツ人のルイ・F・メンヒが作詞しました。彼は後に,スイスとドイツで教会の宣教師として奉仕します。伝道中,メンヒは「天よりの声聞け」を含め,多くの文書をドイツ語で出版しました。これは,ドイツ語を話す末日聖徒に最も愛されている賛美歌のうちの一つです。1890年に初めて賛美歌集に収められました。その後,ほかの言語に翻訳され,現在使われている賛美歌集に収められています。この版には,聖歌隊がこれから歌う3番の歌詞が載っていません。
この3番の歌詞は,この時代の聖徒たちの功績について述べています。彼らは「生ける唯一まことの神を尊んだ。来てバプテスマを受け,鉄の棒をつかんだ。信仰をこめて御子に心をささげた‐イエス,聖なる御方に。」
ぜひ『聖徒たち』を読んで,教会歴史を知り,会員たちの模範から学んでください。『聖徒たち』は,きわめてよく調べて書かれた,信頼のおける書物です。イエス・キリストの教会の,今なお続く回復の証です。この教会の歴史は感動的です。この歴史は,初期の,あるいはその後の開拓者の子孫であろうと,自分自身が開拓者であろうと,共通の受け継ぎです。
なぜこれが重要なのでしょうか。なぜわたしたちはこのように多くの時間をかけてこれらの話をするのでしょうか。それは,これらの話が,わたしたちが救い主を知るようになる力を与えてくれる実例となっているからです。イエス・キリストは生きておられ,この教会を導き,大いなる栄光を持つ神の力を身にまとった聖約の民を見守っておられます。生活の中で皆さんが救い主の愛を感じ,主と主の教会を身近に感じるよう祝福します。イエス・キリストの御名により,アーメン。