雄々しく立つ
「イエス・キリストは、常に雄々しく立つ完全模範です。主は、高潔ざと強さと勇気を身をもって示されました。」
賢明な男性がよく次のような簡潔な助言をくれました。「デビッド、雄雄しく立ちなさい。(訳注—文字どおりには「高く立ちなさい」の意)。」父は、わたしの身長がもう少し伸びるようにとか、つま先立ちをするようになどと期待したわけではなく、妥協して原則を曲げたり、霊的な価値を傷つけたり、責任から逃れたりせずに、勇気をもって決断すべきだと言いたかったのです。父の助言に従うと生活はとてもうまくいきました。しかし、雄々しく立つことができなかったときにはたいていの場合、不愉快な思いをすることになりました。最近、二人の幼い孫に、雄々しく立つようにと天のお父様がおっしゃったら、何をしてほしいということだと思うか尋ねました。一人は自然につま先立ちになったのでほんの少しだけ背が高く見えました。二人はすかさず口をそろえて、「正しいことをしてほしいってことだよ」と言いました。
9月11日の出来事の苦悶くもんと混乱の中から、たくさんの男女や国々が雄々しく立ち上がりました。友好関係にある者も対立関係にある者も皆、共通の敵に対して結束しました。たぐいまれな勇気にあふれた行為がそこかしこに見られました。人道的な援助が分け隔てなく行われています。人種や宗教の違いにかかわりなく、人々が犠牲者とその家族に援助の手を差し伸べています。無数の祈りがささげられています。善を信じる人々が、恐怖の力と無分別な暴力を肯定する人々に反対して雄々しく立っています。
日和見主義者はいつか、いずれかの側に立たなくてはならないと言われています。もしわたしたちが日和見的な立場を取っているなら、今こそ、勇気を奮い起こして義の側に雄々しく立ち、わたしたちを奴隷にする罪を避ける時です。わたしたちの救い主、イエス・キリストの生涯と務めと教えは、自分自身を評価する指針を与えてくれます。イエス・キリストは、常に雄々しく立つ完全な模範です。主は、高潔さと強さと勇気を身をもって示されました。わたしは救い主の教導の業の中から3つのことをお話ししたいと思います。
最初に、バプテスマを受けた後、イエスは御霊に促されて天の御父と交わるために荒れ野へ退かれました、肉体が御自身の神聖な霊に従うように、40日間、断食されました。肉体が弱っているところへ試みる者がやって来て、奇跡を行う大きな力を行使するよう救い主に何度も誘いました。飢えを満たすために、石をパンに変えるようにという要求に対して、救い主は、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言ことばで生きるものである』と書いてある」と返答し(マタイ4:14)、雄々しく立たれました。高い所から飛び降りて、天使に助けてもらったらどうかというばかげた要求に対して主は、「主なるあなたの神を試みてはならない」と雄々しく言われました(マタイ4:17)。ひれ伏して悪魔を拝むなら、この世の富と栄華を上げようという誘いに対して、主は雄々しく答えられました。「「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある。」(マタイ4:10)
試みる者の邪悪な誘いが弱まる気配はありません。物質的な富に対する欲求に駆られて、原則から離れる人もいます。必要と欲求を区別することができず、心を混乱させている人もいます。子どもたちは、両親の愛情や注目、指導を求めています。多くの人が欲しいものをもっと多く得るために倫理や道徳を捨て、時には法律を犯したりしています。
物質的なものを追い求めるわなにはまっていることに気づいたら、今こそ、勇気をもって雄々しく立つ時です。神への愛を大事にするよりも、お金で買えるものを大事にしているなら、今こそ、雄々しく立つ時です。必要以上の豊かさに恵まれているなら、今こそ、必要が満たされていない人々に分け与えることによって雄々しく立つ時です。
2番目に、救い主はあるとき弟子たちを呼び集めて言われました。「聞いて悟るがよい。口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、ロから出るものが人を汚すのである。」(マタイ15:10-11)
多くの人が日々の普通の会話の中で神の御名をみだりに唱えています。教会の青少年同士の会話の中でも、感情を表す際に下品で粗野な言葉がいとも簡単に出てくるようです。若い友の皆さん、今こそ雄々しく立ち、皆さんの会話の中からそのような言葉を一掃する時です。どのような言葉について申し上げているか、皆さんには分かるはずです。不幸なこ、とに、皆さんは学校にいるとき、音楽を聞くとき、スポーッをするときにそのような言葉を何度も何度も耳にします。雄々しく立つためには勇気が必要でしょうか。もちろん必要です。皆さんは勇気を奮い起こすことかできるでしょうか。もちろんできます。天の御父にこの状況を乗り越える強さを求めてください。救い主は言われました。「常に祈りなさい。そうすれば、わたしはあなたに御霊を注こう。そして、あなたの祝福は大いなるものとなる。」(教義と聖約19:38)このようなことが言われてきました。「ひざますいているときにこそ、最も高いところに到達する。」(“Standing Tall,“ New Era, 2001年10月号、19)不敬な言葉や粗野な言葉は人を高めません。汚すだけです。妻とわたしは青少年のスポーツイベントに何百回となく出席してきました。模範を示すべきコーチやほかの大人たちから出る不敬な言葉を聞くことが多すぎます。大人たちは粗野で不敬な言葉を一掃するように雄々しく立つ必要があります。
「行いは、言葉よりも多くを語る」という言葉があります。実際、行いはわたしたち自身についてたくさんのことを語っています。わたしたちは預言者の勧告に従って上品な服装をするという点で雄々しく立つ必要があります。「品のない服装には、極端なショートパンツや短いスカート、体の線がはっきりと出るもの、腹部を覆っていないシャツ、その他の肌を露出する服装などが含まれます。(For Strength of Youth〔2001年〕12。現行の『若人のために』の改訂版。近日出版予定)上品で、こざっぱりした清潔な服装は、心を高めてくれます。乱れた服装は品位を落とします。もし疑問があるならば、「この服装で主の御前に出ても平気だろうか」と心に聞いてください(For Strength of Youth〔2001年〕13)。母親の皆さんは、この重要な事柄に関して模範となり、判断基準となることができます。しかし、若人は焼きたてのパンのおいしいにおいにすぐ気づくのと同じくらい、偽善的な行為にもすぐ気づくということを忘れないでください。親の皆さん、息子や娘たちに助言を与え、品るのない服装に対して彼らとともに雄々しく立ってください。
3番目に、だれがわたしたちの隣人なのかという律法学者の問いかけに対して救い主がされた話を思い出してください。エルサレムからエリコに旅していた男が強盗に襲われ、着物をはき取られ、半殺しにされて捨て置かれたという話です。最初に通りかかった人は祭司でしたが、目をそむけて道の向こう側を通り過ぎました。次の人も、不運に見舞われたその人を見て立ち止まりましたが、助けることなく通り過ぎました。3番目に通りかかったサマリヤ人は、傷に包帯を巻いてやり、世話を受けられるように手配しました。そこで、イエスはだれが隣人になったかとお尋ねになりました。律法学者は、慈悲深い行いをした人ですと答えました。救い主はその答えを聞いて、「あなたも行って同じようにしなさい」と言われました(ルカ10:37。30-37参照)。
隣人に手を差し伸べるとき、隣人の必要にだけでなく、気持ちにも心を配っているでしょうか。わたしたちは隣人を選別し、同じ信仰を持つ人々だけが隣人であると考えてはいないでしょうか。信仰や肌の色、そのほか目に見える違いに関係なく、すべての人を隣人と考えているでしょうか。救い主の「隣人」の定義には、いかなるただし書きもありませんでした。教会で使用されている独特な言い回しは誤解を招き、無神経で恩着せがましく聞こえる可能性さえあります。昨日のバラード長老の言葉にもありましたが、わたしも「非教会員」という言葉に抵抗を感じます。非教会員という言葉を使うとき、そう呼ばれた人は自分が地域社会や町や、極端な場合、人類の一員としてさえも見なされていないと感じるかもしれません。わたしたちは、よく隣人を受け入れ仲間に入れていると言いますが、ある人々にとってはわたしたちは不寛容にしか映らないことが多々あります。わたしたちは自分と神を愛するようになって初めて、隣人を愛することができるのです。隣人に率直な愛と尊敬を示すという点で雄々しく立とうではありませんか。
わたしたち家族の親しい友人が2、3か月前に亡くなりました。彼は夫婦で山歩きを楽しみました。ある秋の日の午後、二人は美しい滝に行こうと険しい山道を数マイル登りました。山から下りる途中、擦れ違う数人の登山者たちが質問をしたそうです。「行ってみる価値はありますか。」友人夫妻の答えはいつも「はい」でした。後になって二人は、新鮮な空気や、山々の美しさ、体を動かすこと、それに愛する人と一緒にいることを楽しまなければ、努力して登る価値はないと語りました。
仲間から強いプレッシャーを感じ、受け入れられたいと願うあまり、「勇気をもって雄々しく立つことに価値はあるのですか」と問う人もいることでしょう。その問いに、わたしはこう答えます。「永遠の命が大切だと思うならば、そしてこの世でほんとうの喜びを経験したいならば、決意して、日々たゆまず努力して、雄々しく立つ価値があります。」わたしたちすべての人が義の側に雄々しく立つことができますように。主イエス・キリストの聖なる御名によって、お祈りします。アーメン。