子供さえも理解できる
神は,御自身のすべての子供たちが,教育の高さや知的能力に関係なく,神に関する真理を理解できるようにされました。
親はよく,大人の質問に対するわが子の返答に,意表を突かれることがあります。ある夜,妻とわたしが出かけているときのことでした。ベビーシッターをしてくれた女性が子供たちの祈りに興味を引かれ,こう尋ねたそうです。「でも,あなたたちの宗教とわたしの宗教はどう違うの?」8歳の長女はすぐさまこう答えました。「ほとんど同じよ。ただ,わたしたちの方がたくさん勉強しているだけ!」幼い娘はベビーシッターの気分を害するつもりなど毛頭なく,末日聖徒にとって知識の探求が大切であることを自分なりに強調したかったようです。
ジョセフ・スミスはこう宣言しています。「人が無知で救われることは不可能である。」(教義と聖約131:66)さらに,次のように付け加えています。「知識の原則は,すなわち救いの原則です。……救いに必要とされるだけの知識を得ていない人は皆,罪に定められるでしょう。」(『歴代大管長の教え──ジョセフ・スミス』211-212 )この知識は神とイエス・キリストの性質への理解,そしてわたしたちがみもとへ戻れるように御二方が用意された救いの計画への理解に基づいています。「永遠の命とは,唯一の,まことの神でいますあなたと,また,あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。」(ヨハネ17:3)
知識の原則はしばしば人に誤解されてきました。「神の栄光は英知である。」教義と聖約93:36)それはわたしたちの知的能力で理解できるあらゆる知識を超越しています。神を見いだそうとする人の中には時々,複雑な概念の中に神を捜し求めなければならないと思う人がいます。
しかし,天の御父はわたしたちのためにいつもそばにいてくださいます。御父は人の理解できるレベルに合わせてくださいます。「イエスは幼い子供のもとに来られると,幼い子供の言葉と能力に合わせられる。」(ジョセフ・スミス,History of the Church,第3巻,392で引用)
もし福音が知的レベルの高い人にしか理解できないとすれば,神はほんとうに不公平な御方になっていたでしょう。しかし慈しみ深い神は,御自身のすべての子供たちが,教育の高さや知的能力に関係なく,神に関する真理を理解できるようにされました。
実際のところ,子供さえも原則を理解できることは神の力の何よりの証拠です。ジョン・テーラー大管長はこう述べています。「人にとってまことの英知とは,奥義や大いなるテーマを採り上げて,子供が理解できるようにそれを展開し,単純に表現することです。」(“ Discourse,”Deseret News,1857年,9月30日付,238)純粋で単純な表現を用いると,そこから受ける印象を弱めてしまうどころか,それによって聖霊が人の心にさらに強い確信をもって証してくださいます。
地上での務めを果たされている間,イエスは,パリサイ人やほかの律法学者たちのねじれた論理と御自身の教えの簡潔さや真正さを何度も比較されました。パリサイ人や律法学者たちは何度も主に難問を投げかけて試そうとしましたが,主の答えはいつも明白で,その簡潔さは子供のようでした。
ある日,イエスの弟子たちは次の質問をしました。「いったい,天国ではだれがいちばん偉いのですか。」
イエスは一人の幼い子供を呼び寄せて弟子たちの真ん中に立たせ,こう答えられました。「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ,天国に入ることはできないであろう。
この幼な子のように自分を低くする者が,天国でいちばん偉いのである。」(マタイ18:1,2-4)
別のときにもイエスはこう言われました。「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して,幼な子にあらわしてくださいました。」(ルカ10:21)
聖書は恐らく,ほかのどの書物よりも多くの解釈や哲学的な論争のテーマとなってきました。しかし,聖書を初めて読む子供は,聖書を専門的に研究する人々の大半と少なくとも同等,あるいはそれ以上に教義を理解するでしょう。救い主の教えはだれにでも分かるものです。子供は8歳の時点で十分な理解をもってバプテスマの水に入り,完全な理解をもって神と聖約を交わすことができます。
イエスのバプテスマの話を読んだ子供はどんなことを理解するでしょうか。イエスはヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられました。聖霊が「はとのような姿をとって」イエスのうえに降くだられました。そして声が聞こえました。「あなたはわたしの愛する子,わたしの心にかなう者である。」(ルカ3:22)その子供は,神会,すなわち完全に一致した三人の別々の御方であられる父なる神と,その御子イエス・キリストと,聖霊についてはっきりと理解するでしょう
簡潔さと明瞭さの原則を拒絶することは,集団と個人,どちらにおいても多くの背教の原因となってきました。モルモン書の中で,預言者ヤコブは古代の人々を非難しました。彼らは「分かりやすい言葉を侮り,預言者たちを殺し,自分たちの理解できないものを求めた。それゆえ,彼らは的のかなたに目を向けたために盲目となり,盲目のために堕落しなければならなかった。神が分かりやすいことを彼らから取り去り,彼らが理解できないことを多く伝えられたからであり,彼らがそれを望んだためである。」(ヤコブ4:14)
時々,わたしたちは,高慢のためにエリシャの勧告に従うことをためらったスリヤ軍の長ナアマンのように,「それは簡単すぎる」と思いたくなるかもしれません。ナアマンから見て,エリシャの勧告は重い皮膚病を治すには簡単すぎたのです。僕たちはその愚かさを彼に気づかせました。
「『わが父よ,預言者があなたに,何か大きな事をせよと命じても,あなたはそれをなさらなかったでしょうか。まして彼はあなたに「身を洗って清くなれ」と言うだけではありませんか。』
そこでナアマンは下って行って,神の人の言葉のように七たびヨルダンに身を浸すと,その肉がもとにかえって幼な子の肉のようになり,清くなった。」(列王下5:13-14)
ナアマンの清めは肉体だけではありませんでした。謙遜になってこのすばらしい教訓を受け入れたとき,彼の霊も清められたのです。
幼い子供たちは驚くべき学習意欲を持っています。教師に完全な信頼を寄せ,清い霊と非常に謙遜な心を持っています。つまり,聖霊を招くのと同じ特質です。聖霊を通してこそ,わたしたちは霊に関する事柄の知識を得られます。パウロはコリント人にこう書きました。「それと同じように神の思いも,神の御霊以外には,知るものはない。」(1コリント2:11)
パウロはさらに付け加えています。「生うまれながらの人は,神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また,御霊によって判断されるべきであるから,彼はそれを理解することができない。」(1コリント2:14)
わたしたちは,肉欲の人,あるいは生まれながらの人が「聖なる御霊の勧めに従……わないかぎり,……神の敵となる」ことを知っています。神の敵にならないためには,「子供のように従順で,柔和で,謙遜で,忍耐強く,愛にあふれた者となり,子供が父に従うように,主がその人に負わせるのがふさわしいとされるすべてのことに喜んで従わな〔ければ〕」なりません(モーサヤ3:19)。
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリはその哲学的短編小説『星の王子さま』で一人の少年の混乱を描いています。庭一面のバラを発見した少年は,自分が持っている,愛情を込めて育てた花が特別なものではなく,とても平凡であることに気づきます。そして,自分のバラを特別にしているのは外見上の美しさではなく,それを世話するのにかけた時間と愛情であることに気づきます。少年は驚嘆して言います。
「きみの住んでるとこの人たちったら,おなじ一つの庭で,バラの花を五千も作ってるけど,……じぶんたちがなにがほしいのか,わからずにいるんだ。
だけど,さがしてるものは,たった一つのバラの花のなかにだって,すこしの水にだって,あるんだがなあ……。
だけど,目では,なにも見えないよ。心でさがさないとね。」(岩波少年文庫『星の王子さま』サン=テグジュペリ作,内藤濯訳,131-132)
同じように,神に関するわたしたちの知識もどれくらいの情報量を蓄積できるかで決まるわけではありません。結局,救いに重要な福音のすべての知識は,幾つかの教義や,原則,基本的な戒めに要約でき,これらは皆すでに,バプテスマの前に受ける宣教師の教えに含まれています。神を知ることは,霊的な理解力とこれらのわずかな教義の基本的な事柄が真実であるという強い証を得るために心を開くことなのです。神を知るとは,神の実在に対する証を持ち,神がわたしたちを愛しておられることを心に感じることです。また,イエス・キリストを救い主として受け入れ,主の模範に従いたいという熱烈な望みを持つことです。神と隣人に仕えるとき,わたしたちはキリストについて証し,周りの人がさらによく主を知ることができるように助けます。
これらの原則を実践する具体的な方法はワードや支部で教えられています。教会で教える皆さん,皆さんのレッスンの第一の目標は人の改心です。レッスンの質は,生徒に新しい情報を幾つ伝えたかで測られるのではありません。御霊を招き,生徒が決意できるように動機づけることができたかで測られるのです。生徒の霊的な知識が増すのは,彼らが信仰を働かせて,教えられたレッスンを実行に移したときです。
わたしたちが幼い子供のように心を開き,簡潔で力強い神の御言葉に耳を傾け,それを実践することを喜びとする方法を知ることができますように。もしそうするなら,わたしたちが「〔神の〕数々の奥義と平和をもたらす事柄,すなわち喜びをもたらし永遠の命をもたらすもの」に関する知識を得られることを証します(教義と聖約42:61)。イエス・キリストの御名により,アーメン。