2010–2019
ある者は哀れみの心を持ち,違いを生み出す
2010年10月


13:6

ある者は哀れみの心を持ち,違いを生み出す

家庭訪問の真髄は,……生活が変わり,涙がぬぐわれ,証が強まり,愛され,家族が強められ……るのを見ることです

愛する姉妹の皆さん,皆さんと同席し,主に対する皆さんの力と主への愛を感じることはすばらしい祝福です。日々,皆さんが愛と哀れみを人々に分かち合っていることに感謝します。

ノーブーで扶助協会が始まって間もないころ,姉妹たちは家々を回って互いに教え導き,必要なものを見極め,食べ物を運び,病人を世話し,女性たち一人一人とその家族に哀れみを示していたことをわたしたちは知っています。1 このことを考えると,ある者は哀れみの心を持ち,違いを生み出す,2 というユダの手紙の聖句が思い浮かびます。この聖句とその意味について深く考えるとき,わたしの思いは救い主に向かいます。聖文には,すべての人に対するキリストの愛と哀れみについて多くの記述があります。

新約聖書には,キリストは困っている人々の世話をなさるとき「彼らを深くあわれまれた」3 ことが幾度も書かれています。救い主は,彼らが飢えているときは哀れんで食べさせ,病気のときはし,霊的な豊かさが必要なときは教えを授けられました。

哀れみとは,人に対して愛とれみを感じることです。つまり,思いやりを持ち,人の苦しみを軽くしたいと願うことです。親切と優しさを示すことです。

救い主はわたしたちに,御自身がされたことをするようにと言われました。4 それは互いに重荷を負い合い,慰めの要る者を慰め,悲しむ者とともに悲しみ,5 飢えている人に食べさせ,病人を見舞い,6 弱い者を助け,垂れている手を上げ,7 「互いに王国の教義を教え合〔う〕」8 ことです。わたしにとってこうした言葉や行いは,人を教え導く人,つまり訪問教師を表しています。

家庭訪問は,互いに見守り,強め,教え合う機会を女性に与えます。アロン神権の教師が「常に教会員を見守り」「彼らとともにいて彼らを強め」9 る責任を担っているのとよく似て,訪問教師は,奉仕するように召された女性の一人一人について祈り,よく考えることによって愛を示します。

ベック姉妹はわたしたちに次のことを思い起こさせてくれました。「イエス・キリストの模範と教えに従っているわたしたちは,主の代わりに愛し,知り,仕え,理解し,教え,導くために与えられた,この神聖な割り当てを尊んでいます。」10

は二つのことについて話します。

  • 訪問教師として奉仕することによって,あなたが人々にもたらす祝福

  • 人々に仕えるときにあなたが受ける祝福

訪問教師として奉仕することによって,あなたが人々にもたらす祝福

少し前,アラスカ州アンカレジである女性のグループと話す機会がありました。部屋には12人ほどの姉妹がいて,さらに電話を使ってアラスカ各地の都市や町から6人の参加者が加わりました。姉妹たちの多くは教会の建物から何百マイルも離れた所に住んでいます。彼女たちは家庭訪問について教えてくれました。

すべての姉妹を直接訪問するには飛行機や船に乗るか,長時間車を運転しなければなりません。時間と費用を考えると,姉妹たちの自宅を訪問することは明らかに無理でした。それでも彼女たちは互いをとても身近に感じていました。いつもそばにいることはできなくても,互いのために心を込めて祈り,担当の姉妹たちが何を必要としているのか知るために聖霊の導きを求めていたからです。電話やインターネット,手紙を使って絶えず連絡を取るようにしていました。主と聖約を交わし,担当の姉妹たちを祝福し強めたいと願った彼女たちは,愛によって奉仕していたのです。

コンゴ民主共和国のある一組の献身的な訪問教師は,大変な距離を歩いて赤ちゃんのいる女性を訪問していました。この二人の姉妹は祈りによってメッセージを準備し,訪問先の愛する姉妹の生活に良い影響を与える方法を知りたいと願いました。訪問先の姉妹は二人が来て大変喜びました。彼女にとってその訪問は,彼女のためだけに与えられた天からのメッセージだったのです。訪問教師が彼女の小さな家を訪ねたことで,その姉妹,家族,訪問教師の全員が高められ,祝福を受けました。二人は長い距離を歩くことを犠牲と感じてはいないようでした。哀れみ深い訪問教師が,この女性に良い影響を与え,生活を祝福したのです。

教会には,距離,費用,安全などの問題があるために,毎月直接の訪問をできない地域があります。しかし,互いに愛することを心から求め,互いを見守り,強め合っている姉妹たちは,個人の啓示の力によって,主から受けたこの召しを果たす有意義な方法を見つけています。

霊感を受けた扶助協会の会長はビショップと相談し,祈りをもって訪問教師を割り当てています。ワードの女性一人一人を見守り,世話をする責任を持つビショップを助けているのです。相談して啓示を受けるというこの過程を理解するとき,わたしたちは教え導くという大切な責任をさらに深く理解します。そして,より強い確信をもって,努力するわたしたちを導くに頼ることができるようになるのです。

わたしも,毎月数人の女性を訪問し,ほっとしながら「家庭訪問が終わりました!」と誇らしげに宣言する姉妹の一人です。報告するべきことはそれで終了かもしれませんが,そのためだけに訪問しているのであれば,何と残念なことでしょう。

家庭訪問の真髄は,月間の報告書の100パーセントという数字を見ることではありません。それは生活が変わり,涙がぬぐわれ,証が強まり,愛され,家族が強められ,元気づけられ,飢えた人が食べ,病人が見舞いを受け,悲しむ人が慰められるのを見ることです。実際,家庭訪問が終わることは決してありません。なぜなら,わたしたちは常に見守り,強めているからです。

家庭訪問のもう一つの祝福は,一致と愛が増すことです。聖文は,どうすればこれを達成できるかを勧告しています。「また彼は……互いに和合し,愛し合って結ばれた心を持ち,一つの信仰と一つのバプテスマをもって,一つの目で将来を見詰めるようにと指示した。」11

多くの女性が,教会に戻って来た理由について,忠実な訪問教師が毎月訪問して導き,助け,愛し,祝福してくれたからだと述べています。

中には,あなたの分かち合うメッセージが最も大切な部分だという訪問もあることでしょう。皆さんが伝えるメッセージ以外に霊を豊かにするものがほとんどない,という人生を送っている女性もいるのです。『リアホナ』の家庭訪問メッセージは福音のメッセージです。どの女性もこのメッセージによって信仰を増し,家族を強め,慈愛の奉仕に力を注ぐことができます。

あるときは,ただ耳を傾けることだけが訪問の最大の祝福であることもあるでしょう。よく聞くことにより,慰め,理解,癒しが訪れます。またあるときは,家に行って何か作業をしたり,泣いている子供をなだめたりするなど,行動する必要があるかもしれません。

人々に仕えるときにあなたが受ける祝福

人々に仕えるときにあなたが受ける祝福はたくさんあります。わたしはこんなことを言ったことがあります。「ああ,家庭訪問を終わらせなくては。」(それは,自分は姉妹を訪問して教えるのだということを忘れていたときです。家庭訪問が祝福ではなくて重荷だと思ったときです。)それでも確かに,わたしは家庭訪問に行く度に,行く前よりも良い気持ちになりました。多くの場合,訪問先の姉妹よりもわたし自身の方がはるかに高められ,愛され,祝福されました。愛が強まり,奉仕への望みも強まりました。天の御父がどれほどすばらしい方法を用いて,わたしたちが互いに見守り,世話をし合えるようにしてくださったかが分かるようになりました。

訪問教師として得られる祝福には,この機会がなければよく知り合えなかった人と知り合い,友達になれることも含まれます。時には,家庭訪問を通して自分がだれかの祈りの答えになれることがあります。また,家庭訪問を通して個人の啓示を受けたり霊的な経験をしたりすることもできます。

自分のワードで,また世界中で家庭訪問に参加しながら,わたしは人生のほかの場面では経験できないほど謙虚にさせられ,喜びを感じ,霊的な経験をしてきました。福音を教え合い,ともに泣き,笑い,問題を解決し合ってきました。わたしは高められ祝福を受けました。

月末のある晩,わたしは遠出の支度をしていましたが,一人の姉妹の家庭訪問がまだでした。時間も遅く,約束も取っていません。電話もしておらず,同僚もいませんでした。それでも友人のジュリーを訪問することは大切だと思い,そうすることにしました。ジュリーの娘アシュリーは生まれつき骨がもろくなる症状を抱えており,6歳近くなってもとても小さく,腕を動かすことと話すこと以外はほとんど自分ですることができませんでした。朝から晩まで羊皮のじゅうたんの上で横になる日々でした。アシュリーは明るくて陽気な子で,わたしは彼女と一緒にいるのが大好きでした。

その夜,ジュリーは訪ねて来たわたしを招き入れてくれました。するとアシュリーが声を上げ,見せたいものがあると言いました。わたしは部屋に入ると,床の上のアシュリーのそばにひざをつきました。お母さんは反対側にいます。アシュリーは言いました。「わたしこんなことができるのよ!」少しお母さんに助けてもらいながら,彼女は寝返りを打つとまた元の体勢に戻りました。彼女は6年近くをかけてこのすばらしい目標を達成したのです。この特別な出来事に,ともに手をたたき,歓声を上げ,笑い,泣きながら,わたしは自分が家庭訪問に行ったこと,そしてこのすばらしい出来事を逃さずに済んだことを天の御父に感謝しました。この訪問から何年もたち,大好きなアシュリーはすでに亡くなりましたが,彼女とのあの特別な経験にわたしはいつまでも感謝することでしょう。

愛するわたしの母は何年もの間,すばらしい献身的な訪問教師として奉仕しました。どうすれば訪問先の家族を祝福できるか常に考えていました。家族を強めたいという気持ちから,特に訪問先の姉妹の子供たちに注意を払っていました。あるとき教会で,5歳の子供が母のところに走って来てこう言いました。「わたしの訪問教師よね!大好きよ。」その光景は今でも思い出すことができます。すばらしい女性たちとその家族の人生にかかわることは母にとって祝福でした。

家庭訪問についての経験が,心温まる,すばらしいものばかりであるとは限りません。歓迎されない家を訪問するときや,とても忙しくてなかなか会えない姉妹もいます。良い関係を築くのに長い時間がかかる姉妹もいるかもしれません。それでもその姉妹を愛し,心にかけ,祈るように真心から努めるならば,見守り,強める方法が見つかるよう聖霊が助けてくださるでしょう。

トーマス・S・モンソン大管長は,救い主のように人を教え導くことの達人です。大管長がだれかを訪問し助けているのは見慣れた光景です。大管長はこう言いました。「わたしたちの周りには,……わたしたちの注目,励まし,支え,慰め,親切を必要としている人が大勢います。わたしたちは地上で主のに使われる器であり,わたしたちには御父の子供たちに仕え,彼らを高める責務があります。主はわたしたち一人一人を頼りにしておられるのです。」12

「〔姉妹〕はであり,愛に満ち,信仰と希望と慈愛を持ち,また自分に任せられたすべてのことについて自制しなければ,だれもこの業を助けることはできない。」13

わたしたちが訪問し教える女性たちは,わたしたちに託されています。愛と哀れみをもって,託された人たちの生活に良い影響を与えましょう。

姉妹の皆さん,皆さんを愛しています。皆さんが天の御父と救い主イエス・キリストの愛を感じられるように祈っています。救い主が生きておられることを証します。イエス・キリストのにより,アーメン。

  1. ジル・マルベー・デール,ジャナス・ラッセル・キャノン,モーリーン・アーセンバック・ビーチャー,Women of Covenant: The Story of Relief Society(1992年),32-33参照

  2. ユダ1:22参照

  3. マタイ9:36;14:14

  4. ヨハネ13:15参照

  5. モーサヤ18:8-9参照

  6. モーサヤ4:26参照

  7. 教義と聖約81:5参照

  8. 教義と聖約88:77

  9. 教義と聖約20:53

  10. ジュリー・B・ベック「扶助協会―神聖な業」『リアホナ』2009年11月号,113

  11. モーサヤ18:21

  12. トーマス・S・モンソン「今日われ善きことせしか」『リアホナ』2009年11月号,85

  13. 教義と聖約12:8