総大会
善を行うことをわたしたちの日常としましょう
2022年10月総大会


9:28

善を行うことをわたしたちの日常としましょう

わたしたちが確固として揺らぐことなく,善い行いをするなら,わたしたちの習慣は聖約の道にとどまる助けとなるでしょう。

わたしは,教会の割り当てにより,異なる国々で生活できることにいつも感謝しています。これらの国々は非常に多様で,異なる習慣と伝統を持つすばらしい人々がいます。

わたしたちには皆個人的な習慣と伝統があります。それらは自分の家族,またはわたしたちが住む地域社会から来ます。そして,福音の原則と調和するそれらすべての習慣と伝統を保つことを願っています。教化を促す習慣と伝統は,聖約の道にとどまる努めの基本であり,その障害となるものは拒否するべきです。

習慣とは,人や文化,または伝統に対して実践していること,または頻繁的で常習的な考え方です。わたしたちはしばしば,常日頃考えて行うことを「日常」として認識しています。

次のことを説明させてください。愛する妻パトリシアは,ココナッツウオーターを飲み,その後ココナッツを食べるのが大好きです。メキシコのプエブラを初めて訪れたとき,わたしたちはココナッツが買える場所に行きました。ココナッツウオーターを飲んだ後に,妻はココナッツを切ってその果肉を持ってきてほしいと頼みました。それが運ばれて来たとき,赤みを帯びていました。とうがらしが振りかけてあったのです。とうがらしをかけた甘いココナッツです。それはとても奇妙に見えました。しかし後日わたしたちが学んだのは,とうがらしをかけたココナッツを食べなかった妻とわたしが奇妙だったということでした。メキシコでは,それはまれなことではなく,とても普通で日常的なことなのです。

また別の機会に,ブラジルで何人かの友人と食事をしていたとき,アボカドが出てきました。塩をふりかけようとしたときに,友人はこう言いました。「何をしているの?  アボカドにはもう砂糖をかけましたよ。」砂糖をかけたアボカドです!非常に奇妙に見えました。しかしその後,砂糖をかけたアボカドを食べなかった妻とわたしが奇妙だったということを学びました。ブラジルでは砂糖をかけたアボカドは普通で日常的なのです。

ある人にとっての日常は,別の人には奇妙なことかもしれません。それは習慣や伝統によるからです。

わたしたちの生活においてどのような習慣や伝統が日常なのでしょうか。

ラッセル・M・ネルソン大管長は次のように述べています。「今日,わたしたちは『新しい日常(生活様式)』という言葉をよく耳にします。皆さんが『新しい日常』を取り入れたいと心から願うのであれば,心と思いと魂を天の御父と御子イエス・キリストにさらに向けるようお勧めします。それを自分自身の『新しい日常』にしてください。」(「新しい日常『リアホナ』2020年11月号,118)

これはすべての人に対する招きです。貧しいか金持ちであるか,教育を受けているかいないか,高齢であるか若いか,病気であるか健康であるかは問題ではありません。ネルソン大管長は,わたしたちの生活における「日常」が,聖約の道を歩み続ける助けとなるように招いています。

好ましいこと,あるいは誉れあることをすべて持ち合わせている国はありません。そのため,パウロと預言者ジョセフ・スミスは次のように教えています。

「どのようなことでも,徳高いこと,好ましいこと,あるいは誉れあることや称賛に値することがあれば,わたしたちはこれらのことを尋ね求めるものである。」(信仰箇条1:13

「称賛に値するものがあれば,それらのものを心にとめなさい」(ピリピ4:8)。

これは勧告の言葉であって,単なる注釈ではありません。

わたしたちすべてが時間を取って,わたしたちの習慣とそれが家族に及ぼしている方法について,瞑想していただきたいと思います。

教会員のための日常的なすばらしい習慣に以下の4つがあります:

  1. 個人と家族の聖文研究。主イエス・キリストに改心するようになるために,福音を学ぶ責任が各個人にあります。両親には,自分の子供に福音を教える責任があります(教義と聖約68:2593:40参照)。

  2. 個人と家族の祈り。救い主は常に祈るように命じておられます(教義と聖約19:38参照)。祈ることで,神の御子イエス・キリストの御名により天の御父と個人的に話すことができます。

  3. 毎週の聖餐会への出席(3ニーファイ18:1-12モロナイ6:5-6参照)。イエス・キリストを覚えることができるよう聖餐を受けます。この儀式において,教会員は,救い主の御名を受けて聖約を新たにし,いつも御子を覚え,御子が与えてくださった戒めを守ります(教義と聖約20:77,79参照)。

  4. 神殿と家族歴史の業への定期的な参加。この業は,家族を一致させ,永遠に結び固めるための方法です(教義と聖約128:15参照)。

これらの4つについて聞くとき,どのように感じるでしょうか。これらはわたしたちの日常生活の一部でしょうか。

わたしたちが適用してきた日常の一部となるそのほかの伝統が多くあります。それゆえ,わたしたちの生活において神を最も大切な御方にすることが大切です。

わたしたちの生活と家族において日常となることをどのように決めることができるでしょうか。聖文の中に大いなる模範を見つけることができます。モーサヤ5:15にはこうあります。「あなたがたは確固として揺らぐことなく,いつも多くの善い行いをし〔なさい〕。」

わたしはこの言葉が大好きです。わたしたちの生活において日常となることは,わたしたちが何回も繰り返すことであると知っているからです。わたしたちが確固として揺らぐことなく,善い行いをするなら,わたしたちの習慣は福音の原則に従い聖約の道にとどまる助けとなるでしょう。

ネルソン大管長は次のようにも勧告しています。「毎日悔い改めることによって,『自分の新しい日常』を取り入れてください。思い,言葉,行いにおいてさらに清くなるよう努力してください。人にミニスタリングをしてください。常に永遠の観点から物事を見てください。召しを尊んで大いなるものにしてください。そして,愛する兄弟姉妹の皆さん,どのような問題があろうと,自分の創造主にお会いするためのあなた自身の用意が日々進むようにしてください。」(「新しい日常」118)

今では,妻パトリシアにとっても,わたしにとっても,とうがらしをかけたココナッツや砂糖をかけたアボカドを食べるのは奇妙なことではありません。むしろ好きです。しかし,昇栄は味覚とは異なり霊的であって,永遠にかかわることです。

わたしたちの日常が,神の戒めを守る者に約束された「決して終わりのない幸福な」(モーサヤ2:41)状態を経験するものであるように祈ります。そしてそうすることにより,次のように言うことができるでしょう。「そして,わたしたちは幸福の習わしに従って暮らした。」(2ニーファイ5:27

兄弟姉妹,愛する預言者ラッセル・M・ネルソン大管長をはじめとして,わたしたちが支持した15人の方々が預言者,聖見者,啓示者であることを証します。末日聖徒イエス・キリスト教会が真実であることを証します。イエス・キリストが救い主,贖い主であられることを,イエス・キリストの御名によって証します,アーメン。