科学と真理の探求
筆者はアメリカ合衆国ユタ州在住です。
福音に対して理解していることと科学を通じて学ぶことの間に対立があるように思われても,心配する必要はありません。
ひどいにきびで皮膚科医に行って,治療はいくらか血を抜くことですと言われるのを想像できますか。それはばかばかしく聞こえるかもしれませんが,数世紀前には信じられない話ではなかったのです。当時,多量の血液を抜くことは,消化不良,精神病,にきびすら含む,ほぼ全ての病気に対する標準的な治療法と考えられていました。誰もそのことに疑問を持つ人はいませんでした。なぜでしょうか。結局のところ,瀉血(訳注—人体の血液を外部に排出させることで症状の改善を求める治療法の一つ)は,多くの文化圏で何千年もの間,用いられていたのです。
医師たちが科学的な観点で医療に取り組み始めるようになって,初めてこのやり方に疑問を持つようになったのです。そこでようやく瀉血療法についての詳しい研究がなされ,医師は幾つかの特定の病状を除き,他の全ての病気に対してこの方法での治療をやめました。1
この歴史的な例から,あることが広く信じられてきた,あるいは長い間行われていたという理由だけでは,必ずしもそれが本当だという意味にはならないことが分かります。そして,科学が真理を明らかにするための優れた道具となれることも分かります。
末日聖徒にとって,それは重大なことです。真理を知っていることは現実的な決断のためのより優れた基盤を与えるだけでなく(「にきびを治すために血を抜くなんて,ごめんです!」),福音の理解をも深めてくれます。ブリガム・ヤング大管長(1801-1877年)は次のように教えています。「福音に属さない真理は存在しません。……天であれ地であれ……真理を見いだすことができるならば,それはわたしたちの教義に包まれます。」2
「なぜ」対「どのような」
もちろん,わたしたちが知っている真理をさらに深めるうえで科学がどのように役立つかについて話す際に明確にしておかなければならないことがあります。それは,科学で解明できるのはどのような真理であり,また,できないのはどのような真理であるかです。それを見極める一つの方法は,科学はどのような質問に対して答えることができるのか,また答えることができないかを問うことです。
アメリカ合衆国ニューヨーク州のレンセラー工科大学で化学工学を研究した,エレン・マングラム姉妹は,次のように説明しています。「科学とは事物が『どのような』状態であるかを説明するものです。しかし,『なぜ』を説明するには至りません。」それに加えて,宗教とは,地球が創造された理由や,わたしたちがここに置かれた理由など,「なぜ」を説明するものであると言っています。
有名な物理学者アルベルト・アインシュタインも,宗教と科学はそれぞれが異なり,互いに補完的な目的を持っていると信じていました。
「科学は事物が何であるかを突き止めることができるだけで,それがどうあるべきかを突き止めることはできない」と彼は記しています。「〔科学の〕力が及ばないところでは,依然としてさまざまな道徳的な判断が必要です。」3
それは末日聖徒にとってはどのような意味でしょうか。まず,科学的理解というものは常に変化するものであると,わたしたちは知っています。結局のところ,科学とはわたしたちの周りの世界が「どのような」状態であるかを理解できるよう,その良い方法を見つけようとするものなのです。それを知っていれば,わたしたちは人生の「なぜ」や「どうあるべきか」を理解するのに,最新の研究に頼る必要はありません。正しいか間違いかを決める助けとして,わたしたちはイエス・キリストの不変の福音に頼ることができます。
全ては合致する
十二使徒定員会会長であり有名な心臓外科医であるラッセル・M・ネルソン会長は,宗教と科学がどうかみ合っているのか次のように話しています。
「科学と宗教の間に対立はありません。対立は,科学または宗教,あるいはその両方についての不完全な知識からのみ生じます。……真理が科学の研究室で明らかにされるのか,それとも,主の啓示によって明らかにされるのかにかかわらず,両立できるものです。」4
ですから,皆さんが今まで,地球の年齢や恐竜や進化論やその他,理科の授業で学んできたことがどのように福音に合致するのだろうかと思ったとするなら,それはすばらしいことなのです。全ては確かに一つに合致しますが,まだ多くの質問が残っています。なぜなら,わたしたちには学んでいる途中のことがまだ多くあるからです。カナダ・ケベック州の薬学研究者であるブライアン・ダウン兄弟は,全てが明らかにされるときを楽しみにしていると述べています(教義と聖約101:32-34参照)。
その一方で,彼は次のように語っています。「周りの世界の全ての謎を科学探求によって解き明かそうとしても,その力には限界があります。同様に,神の奥義と,御自分の子供たちのための神の遠大な計画についてのわたしたちの理解も限られています。」
ですから,あなたが福音について理解していることと,科学を通じて学ぶことが一致していないように見えても,心配する必要はありません。実際には,科学が明らかにする事柄で,皆さんが信じていることを間違っていると証明できるものは何もないのです。
ですから,もし科学が好きなら,自分の興味のある分野についてできる限り学んでください。信仰があることが有利とさえなります。南バージニア大学で生物学の准教授であるリチャード・ガードナー兄弟は,イエス・キリストの福音に対する信仰が大きな助けとなっていることを次のように述べています。
「時折,研究が困難で,何もうまくいっていないように思えたとき(研究とはそのようなことが多いのですが),福音の祝福に観点を置くことが状況を乗り切る助けとなりました。」
ダウン兄弟も,科学における自分の仕事において信仰が助けとなったと感じています。
「わたしは,全ての事柄に論理と秩序があり,一つの疑問に対して十分に時間をかけ,熱心に探求すれば,いつか,天の御父はわたしの心を開き,解答を与えてくださるという信仰をもって常に研究してきました」と彼は述べています。
科学的発見を喜ぶ
キリストと主の福音への信仰はまた,わたしたちがいつも謙遜でいられるよう助け,科学の分野にせよ,霊的なことにせよ,求める真理に心を開く助けとなります。
「科学では分からないことがたくさんあり,また神について,神が明らかにしておられないことがたくさんあります」とガードナー教授は述べています。「ですから,新しい情報がどんどんもたらされる中で,性急に判断を下さず,今は悩まないようにすることが重要です。」
例えば,一部の人々は,世界を観察してみて,他に説明のしようがないという理由だけで神を信じています。これは「隙間の神」(訳注—科学で説明できない部分,すなわち「隙間」に神が存在するとする見方)への信仰と呼ばれるもので,この人たちは科学の発見に戦々恐々としています。ガードナー教授は次のような一つの例を挙げています。
「ある人々は,化石が示す記録には隙間(つまり,進化論では現在の状態に至った過程を説明できない部分)があるので神を信じたわけです。しかし,こうした隙間が新たな化石の発見によって埋められたとき,その信仰はどうなるでしょうか。むしろ,わたしたちは聖霊を通して神から確かな証拠を得る必要があり,そうすることで,新たな発見を心配する代わりに,どのような科学的発見をも喜ぶことができるのです。」
このような姿勢で臨むとき,科学と宗教の両方が真理の探求の助けとなることができ,また,結局のところ,全ての真理は,神という同じ源からもたらされることを忘れずにいることができます。
「神は御自分が明らかにしたいと望んでおられることなら,あらゆる科学的事実を含む,全ての事柄を明らかにすることがおできになります」とガードナー教授は述べています。「そして,神は間違いなく,科学者,発明家,技術者に霊感を与えてこられました。しかし,全ての答えを与えられるわけではありません。神は彼らに,そしてわたしたちに,自ら考えることを求めておられ,そうすることで,わたしたちが自分で科学を解明できるようにしてくださっています。しかし,どのように教会を組織し,また特にどのようにわたしたちがキリストのもとに来て救われるかについては,神が教会に対してお与えになる啓示によって示してくださいます。
神からわたしたちへの個人的な啓示はあらゆる事柄に対してもたらされますが,特に,神が生きて,わたしたちを愛しておられること,キリストが救いの計画を進めておられること,今日生ける預言者がいること,わたしたちは神の計画に従うことができること,そして,そうするだけの価値が十分にあることを理解させてくれます。」