「リカルドのストーリー」『同性にひかれる気持ち:会員のストーリー』(2020年)
「リカルドのストーリー」『同性にひかれる気持ち:会員のストーリー』
リカルドのストーリー
リカルド自身のストーリー
リカルド:わたしの名前はリカルドです。わたしは末日聖徒です。6人の子供の父親で,男性にひかれる気持ちがあります。これまでのわたしの人生は,いわば何とかして物事の全体像を理解しようと努め続けてきた日々でした。子供のころは,いつもアートに夢中でした。アートがわたしにとっての逃げ場になっており,何かを創作することに打ち込みました。友達や学校の子たちはサッカーなどをしていましたが,あまり自分の気持ちがそこにあるようには感じませんでした。よく覚えているのは,初めて父がわたしを自分の寝室に来させ,こう言ったときのことです。「自分の身振りに気をつけなさい。もっと男らしい話し方をしなくちゃだめだ。何かほかの,男の子がするようなことをしなさい。」父の話が終わると,わたしはそのまま自分の部屋へ行って泣き出しました。自分が自分らしくいることの何がいけないのか,分からなかったのです。
わたしはすべての末日聖徒の少年が行うよう期待されていることを行いました:神権を受ける,聖餐を配る,伝道に行く。そうしましたが,完全に満たされた気持ちにはなりませんでした。2年間,教会の宣教師として伝道した後,わたしはグラフィックデザインの学位を取得するために米国にやって来ました。妻と知り合ったのはそのときのことで,出会ったその日から,わたしは彼女に心の底から強くひかれていました。
エリザベス:リカルドに初めて会ったのは,わたしがアパートに引っ越したばかりのときでした。わたしは大学4年生で,特に何も思わなかったのですが,リカルドにデートに誘われて,そこから関係が進展したんです。
リカルド:エリザベスには何かとても印象に残るところがあり,一緒にいると心地よく過ごせました。これが自分の求めているものだと,わたしは思いました。いつでもその気持ちを感じていたいと思ったんです。そして,もっと真剣な交際を始めるに当たって,自分が男性に対していろいろな思いや感情を抱いていることをエリザベスに伝えることが重要だと感じました。けれども,単刀直入に「わたしは男性にひかれる気持ちがあります」と言ったわけではありません。それを打ち明けるのは死ぬほど恐ろしかったのです。
エリザベス:もちろん驚きました。衝撃的でしたね。まるで予想していませんでしたから。そんなことを予想している人などいないのではないでしょうか。けれども,わたしはリカルドの人となりを知っていましたし,そのことで彼に対する気持ちは変わりませんでした。わたしは彼をまだ愛していて,二人の関係を続けたいと望んでいました。
リカルド:こんなふうに尋ねたい人は多いでしょうね。「妻にひかれていると言いながら,同時に男性にひかれていると言うのは,一体どういうことなんだ」って。それについては,うまく説明はできないと言うしかありません。わたしに言えるのは,自分はそういうふうに生まれついたということだけです。数年前,わたしは教会のクリエイティブディレクターとして雇われ,あるとき職場の会議で,ゲイであることを公言している同僚と知り合いました。そして,彼が同性にひかれる自分の気持ちについて,まるで恥じることなく堂々と話す姿に,とても深い感銘を受けました。二人でランチに行き,いろいろなことを打ち明けていったときのことを覚えています。共感できる相手と話ができるというのは,すばらしい経験でした。彼はわたしを助け,支え,わたしが自分自身についてより深く理解するのを助けてくれる人であり,それは彼自身が同じことを経験しているからこそできることです。
そのときのわたしは,自分の魂と心が完全に覚醒していく感覚を味わっていました。そしてそれを実感しながら,自分の人生というこの絵を構成するピースをだんだんと集めていきつつ,友人と支援のすばらしいネットワークを築いていったのです。
エリザベス:リカルドは友人を作ったり,ファイヤサイドに参加したりするようになりました。そしてとても幸せそうな,生き生きとした様子で帰ってきては,以前よりも落ち着いた気持ちでいられるようになったと言っていました。けれども夏になるころには,わたしはなんだか疲れてしまいました。リカルドはたくさんメールを書いたり,いろいろなことを計画したりしていて,それは彼にとって良いことだし,わたしもうれしかったのですが,同時にわたしは,自分が最優先ではないのだと感じていました。
リカルド:エリザベスは,わたしが以前よりも自信を持ち,穏やかになり,落ち着いているのがうれしいと言っていましたが,彼女は自分がシングルマザーになったように感じていました。なぜなら,わたしは長い時間職場にいて,家に帰るとすぐに友人から電話やメールが来ると言った具合でしたから。エリザベスは,わたしが時間を取って彼女と向き合うことを必要としていたのに,わたしはどれだけ多くの時間を家族と妻から奪っているかに気づいていませんでした。わたしたちはこの旅路を一緒に歩いてはいなかったのです。そこでわたしが約束したのは,家に帰り,携帯電話を脇に置き,自分の時間を子供と妻にささげることでした。これが大きな助けとなりました。
エリザベス:その約束をするまでには,リカルドが心を開いてすべてを正直に打ち明け,ほかの男性たちと健全な関係を築くことに真剣に取り組むようになってから,たっぷり4か月はかかったと思います。けれども,わたしたちの生活にはバランスが必要でした。
リカルド:自分の人生を構成するすべての場面を振り返るうちに,よりはっきりとした絵が見えてくるようになりました。その中心には神がおられて,わたしがそちらに手を伸ばしているのが見えます。以前に経験した霊的ないばらの中から,懸命に手を伸ばしているのです。ゲイであり末日聖徒であることを示すこの全体像は,今のわたしには非常に異なる意味を持っています。以前は常に,自分がそうしたひかれる気持ちを感じているという事実だけで,神や救い主とのつながりを完全に断たれているように感じていましたが,それはただ自分自身に対する認識,救い主との関係において自分をどのように見ているかということに過ぎませんでした。わたしは自分が主に完全にふさわしいと思ったことは一度もなかったのです。そうした状態から,わたしは解き放たれました。このことについて,愛する人たちに話をすることができる,彼らのサポートを得られる,妻に話をすることができる。ただ自分らしくいられるということが,いちばん驚くべきことでした。わたしは完全でなくてもいい,ひかれる気持ちを認めたうえで,自分の人生を生きてもいい。それでも,陰にあるものを明るみに出し,キリストの光がそれらを照らして癒すことを可能にしてくれる力があるのです。それはまるで絵を仕上げていくような感覚でした。手を伸ばし,光に向かって上っていくような感覚です。それは孤独な旅ではありません。それはいわば家族との旅であり,仲間たちとの旅です。ビショップや妻の支え,職場の親しい友人や同僚の支え,それらを通して生活の中で彼らの愛と支えを感じるとき,わたしは神の愛と支えを感じます。
ひかれる気持ちが消え去ることはありません。わたしの生涯を通じて,その気持ちはそこにあり続けるでしょうが,自分が人生の中で何かを失っているようには感じません。わたしにとって,それはほんとうの自分であるということです。自分の中に,核となる幸福を見つけるということです。そしてわたしにとって重要なのは,核となる幸福が,わたしの信条と福音と一致していることです。わたしには,それがうまくいきました。
リカルドのストーリー,続き
正直に言うのが難しいこともあります。これは複雑な問題であり,自分を表に出すにはたくさんの勇気が必要です。今年は意義深い年でした。男性にひかれる自分の気持ちを,ようやく認めたからです。そうした気持ちをずっと感じてはいても,深くは理解しておらず,自分がどうやってほんとうの自分らしい人生を送ったらいいのかも分かっていませんでした。これを受け入れるというのは,一部の末日聖徒にとっては理解し難いことかもしれません。まるでわたしが,同性にひかれる気持ちを受け入れることによって戒めを破っているかのように思えることでしょう。わたしにとって,それは真実とは程遠い認識です。その理解とほんとうの自分らしさが,わたしの人生に平安をもたらしているのです。
わたしの経験談をお話しして,同性にひかれるわたしの気持ちが,どのようにしてつらく恥ずべきものから祝福に変わったかを説明しましょう。そうです,これはまさに祝福なのです。
わたしがうれしく感じているのは,同性にひかれるわたしの気持ちが,人としても,神の息子としても,わたしを定義づけるものではないと心の中で分かっていることです。これを理解することで,わたしは救い主に従いながら,ほかの人たちに祝福をもたらすためのツールを得てきました。
わたしの旅が始まったのは4歳のときです。わたしは5人きょうだいの長男としてメキシコシティで生まれ育ちました。人の多い家でプライバシーはほとんどなく,大勢の親戚やお客さんが出入りしていました。
うちの家族とたまたま一緒に暮らしていた二人の男性が,わたしを性的に虐待しました。まるで子供の遊びのように見せかけて行為に及んだのです。当時の年齢では,何が起こっているのかわたしには理解できませんでした。覚えているのはただ,彼らがわたしの中に呼び起こしたあらゆる感覚を通じて,自分が彼らとつながっていると感じたことです。それはとても力強く,わたしを混乱させる感覚でした。乱暴にされたわけではありません。それどころか,彼らはわたしにキャンディをくれ,わたしに関心を向けてくれたのです。
関心を向けてもらうことこそ,わたしが強く望んでいたことであり,わたしはそれを喜んで受け入れました。悲しいことに,それがわたしを変え,生涯を通じて,わたしの男性とのつながり方や,男性の捉え方に影響を与えてきました。この出来事が男性に身体的にひかれるわたしの気持ちの根源であったのかどうかは分かりませんが,それが,その後何年にもわたってわたしを悩ませた感情や習慣の一因となったのは確かです。
自分の感覚の根源に何があるかという話は,わたしにとってはどうでもよいことです。わたしにとって重要なのは,この経験が,男性である自分,神の息子である自分を見る目にどのように影響を与えたかを,今のわたしには理解できるということです。
わたしはいつも自分のふさわしさについての気持ちに葛藤を感じていました。わたしは恥じる思いを抱えながら育ち,それは40年以上続いたのです!幸い,わたしは愛にあふれた家庭で育ちました。教会にはいつも活発でした。それはわたしにとって大いに助けとなり,希望をもたらしました。それでも,わたしはいつも自分は救い主にふさわしくないと感じていました。
成長していく中で,自分はほかの人たちとは違った視点や物事の捉え方を持っているように感じていました。わたしが大好きだったのは,絵を描いたり,ものを作ったり,自分の周りにあるものの美しさや美的な価値を理解し,味わうことでした。妹たちの人形のために,紙ナプキンを使って自分でデザインした服を作ってあげたことを覚えています。妹たちは大喜びでした。もちろん,父親の目の届かないところでしなければなりませんでした。父からは一度ならず,もっと男らしい話し方をするように,サッカーをするように,ガールフレンドを作るように,男の子っぽいものに興味を持つようにと言われました。そんなときはよく泣いたものです。それがなぜそんなに大きな問題なのかが分からなかったからです。わたしはだれも傷つけたりしていませんでした。父がそのように言ったのは愛のゆえだと理解してはいますが,父の言葉のためにわたしは恥じる思いをさらに深め,自分は人と違うのだと実感させられました。それが,わたしが今に至るまで同性にひかれる自分の気持ちを父に話しても大丈夫だと思えない理由なのでしょう。父は愛にあふれた人であり,今でもそれは変わりませんが,わたしは父に強いつながりを感じたことは一度もなく,それは今わたしたちが取り組んでいる課題です。
学校では,わたしは魅力的な男の子にも,何人かの女の子にも心をひかれましたが,その矛盾がわたしを苦しめました。その葛藤を,わたしはずっと秘密にして,自分を守るために築いた何層もの壁の中に隠していました。
その防護壁の一つが食べ物でした。ある時点では,わたしの体重は130キロを超えたこともあります。わたしは自分が魅力的だとは思えず,自信も持てず,男性との関係でも女性との関係でも大きな不安を抱えていました。この苦しみがわたしの霊も傷つけました。救い主がわたしのためにそばにおられることは知っていましたが,どのように救い主へ手を伸ばせばよいのか分かりませんでした。唯一勇気を与えてくれたのは,自分が救い主によって運ばれているところを思い描くことでした。
わたしは合衆国の大学に通い,そこで自分が感じている気持ち,とりわけ,親しくなった男性に対して感じている気持ちの正体が分からずに苦しみました。特にある一人の男性が伝道のために旅立ったときは,心にぽっかりと穴が開いてしまいました。心の中でこんなふうに言ったことを覚えています。「一体わたしに何が起こっているっていうんだ。どうしてこんな気持ちになるんだ。」自分に助けが必要なことは分かっても,まずどうすればよいのかが分かりませんでした。わたしは勇気を振り絞り,大学のセラピストのところへ話しに行きました。彼はわたしが性的虐待の経験に対処するうえで力を貸してくれましたが,それだけでも簡単なことではなく,同性にひかれる気持ちについては,まだ話す気にはなれませんでした。
27歳になるころには,わたしは人生にもっと大きな目的が必要だと感じるようになっていました。結婚については,考えるのも恐ろしかったです。自分は永遠に独身でいるのだろうと,本気で思っていました。わたしは天の御父に,どうかわたしが御霊に従って,自分が結婚するべき相手が分かるよう助けてくださいと願いました。それからしばらくして,妻と出会ったのです。出会いの日のことは鮮明に覚えています。最初の日から,彼女に強くひかれるのを感じました。彼女は幸せそうで,美しく,自信にあふれていました。表情も穏やかでした。その平安が自分の人生にも欲しいと,わたしは思いました。
わたしたちはデートをするようになりました。時には,公共の場でガールフレンドと一緒にいながら,ほかの男性に気持ちをひかれて苦しい思いをしたこともあります。そんなふうに思うことがとても嫌でした。希望は見えず,自分は彼女にも,神にもふさわしくないと感じました。お互いの関係を正式なものにしていこうということになったとき,わたしは彼女に自分が受けた性的虐待と,男性に対して感じている気持ちを打ち明けました。当時のわたしは,自分が感じている気持ちをうまく説明する言葉も方法も持っていませんでした。
彼女は,わたしがそうしたことを一人で耐えてこなければならなかったことを悲しく思うけれども,そのことでわたしに対する気持ちは変わらないと言ってくれました。ただし,同性にひかれる気持ちがどれだけ大きくわたしに影響を及ぼしているのかを,彼女は知りませんでした。彼女はありのままのわたしを愛していると言い,御霊が個人の啓示を通して,わたしこそが結婚すべき相手だと確認を与えてくれたと言いました。わたしたちは婚約し,カリフォルニア州オークランド神殿で結婚しました。
人生を通して,わたしはいつも自分はできるかぎり主のそばにいなければならないと感じてきました。試練にさいなまれようとも自分の人生には目的があると,心の奥底で感じていたのです。その目的を信じることが,わたしに希望を与えてくれました。それでも,わたしの癒しのプロセスが始まったのは,40代半ばになってからのことでした。
職場での会議が,わたしの人生を良い方向へ変えるきっかけとなりました。会議の最中,一人の同僚が,自分が経験した同性にひかれる気持ちについての話を持ち出したのです。彼の姿からあふれ出る自信を,この目で見,感じたことを覚えています。彼は申し訳なさそうにも,恥ずかしそうにもしていませんでした。堂々と立ち,そんなことは何でもないという様子で話をしました。彼の目は平安に満ちており,わたしはこう思いました。「あの平安が欲しい。ありのままの自分でいて,自分が選んだわけでもないことに対して申し訳ないと思わずにいられる,あの自由が欲しい。」
人生で初めて,わたしは共感できる相手の向かいに座っていたのです。わたしたちは一緒にランチに行きました。自分が経験していることを理解してくれる人と話をするのは最高の気分でした。わたしたちは友人になり,わたしは徐々に隠さずに話すようになり,彼の支えを実感するようになっていきました。
ずっと秘密にしてきたことを何でも包み隠さず話すのは恐ろしいと,わたしは思っていました。それでも,自分がほんとうの自分になっていくにつれて,自信がどんどん湧いてきました。周囲の人々の反応は,愛にあふれた,協力的で,寛容なものでした。もっと深く知りたいと,真剣に言ってくれる人もいます。
わたしが自分の経験談を話すとき,御霊がその場にいて証してくれることを知りました。御霊が心と思いに触れ,わたしたちはだれもが神の子供であることを理解するようになるのです。どんな問題を抱えていようとも,わたしたちは皆,贖いにあずかるにふさわしいのです。そのことに,わたしはこの上なく祝福されています。
わたしがここまで来るには,妻のサポートが不可欠でした。この新たな気づきとほんとうの自分らしさは,わたしたちの結婚のあり方に変化をもたらしました。時には困難なこともありました。わたしたちはより良いコミュニケーションの取り方を学ばなければなりませんでした。二人とも,お互いのニーズを完全には満たせないことを認識しています。夫婦双方が調整をしながら,わたしは自分の旅を支えてくれる友情を育んできたのです。彼女はわたしが自信を高められたことを喜んでいますが,また同時に,わたしの人生における最優先の存在が彼女であると知る必要があることを,わたしに思い起こさせてくれました。自分がこの経験を通じてどれほど変わったかということに,わたしは気づいていませんでした。
わたしは何としても彼女に一緒に旅をしてもらう必要があり,彼女に,自分は愛されている,必要とされている,自分は魅力的だと感じてもらい,安心してもらわなければと思いました。
妻はわたしの最大の支援者であり,わたしが生涯をかけて愛する人です。彼女はわたしが永遠の固いきずなを築いた唯一の人であり,それはだれにも断ち切ることはできません。人生をともに歩んでいくには,努力,コミュニケーション,理解,バランスが必要です。わたしたちの結婚生活は進化しています。わたしたちはより自分らしく,かつ誠実であることによって,互いを強め合っています。わたしたちの結婚生活の強さの鍵は,救い主を生活の中心としていることです。
わたしの旅は続きます。すべての答えを出せたわけではありませんが,この新たな気づき,ほんとうの自分らしさ,救い主との関係が,わたしたちを助けてくれています。自分は救い主の贖いにあずかるにふさわしいと感じ,同性にひかれる気持ちにさいなまれずにいられるというのは,すばらしいことです。自分をありのままに見ることができています。わたしは神の息子であり,永遠の命の祝福にふさわしい真の男性です。わたしは今,自分の心と魂には,壊れているところも,不完全なところも,直す必要があるところもないのだと知っています。
わたしはエテル12:27でモロナイに与えられた約束を経験しているのです。「もし人がわたしのもとに来るならば,わたしは彼らに各々の弱さを示そう。わたしは人を謙遜にするために,人に弱さを与える。わたしの前にへりくだるすべての者に対して,わたしの恵みは十分である。もし彼らがわたしの前にへりくだり,わたしを信じるならば,そのとき,わたしは彼らの弱さを強さに変えよう。」
わたしはずっとこの聖句が大好きで,どうにかして自分の人生にもこれが起こらないかと思ってきましたが,自分の弱さをどのようにして祝福に変えればいいのかが分かりませんでした。今は,自分の同性にひかれる気持ちは必ずしも弱さではないと理解しています。
これらの経験を通して,わたしは成長し,主の業をさらに進める手助けができるのだと理解しています。主の御霊はいつもわたしとともにあります。
勇気を出して打ち明ける価値はありました。それは間違いありません。
エリザベスのストーリー:リカルドの妻
エリザベスは,リカルドこそ自分が結婚する相手だと知っていました。彼らの結婚生活は完璧だったわけではありませんが,二人とも結婚によってより良い人になっています。彼らを苦しめてきたことの一つは,同性にひかれる気持ちにまつわるリカルドの経験でした。最善の形で互いを愛し,支えるにはどうしたらよいかを理解するまでの厳しい過程は,時にひどく苦しいものでしたが,贖いに頼り,対話を続けることによって,彼らはともに成長してきました。
わたしはカリフォルニア州の末日聖徒の家庭で生まれ育ちました。5人の兄弟たちと一緒でした。幼いころは,自分が結婚するなら,兄弟たちを思い出させるような相手はごめんだと思ったものです。リカルドは,わたしの兄弟のだれとも似ていません。
リカルドと出会ったのは1997年の夏でした。わたしは大学4年生になったばかりで,翌年の春に統計学の学位を取って卒業することを目指していました。卒業のことばかり考えていたので,リカルドに出会ったときには,ほんとうに何とも思いませんでした。リカルドはルームメイトの友達に過ぎなかったのです。ある夜,リカルドがわたしのルームメイトに会いに来ました。ルームメイトはリカルドと同じ留学生でした。わたしはキッチンで夕食を準備しながら,テーブルで数学の課題をやっていました。以前にも何度か言葉を交わしたことがあったので,リカルドがそこにいることは気になりませんでしたし,夕食を一緒にどうかと誘ったほどでした。楽しく話をして,お互いを少しずつ知っていきました。その夜,リカルドが話しているとき,とても特別な経験をしました。リカルドこそ自分の結婚相手だと,天の御父から個人の啓示を受けたのです。
人生でそれほど深遠な経験をしたのは初めてでした。そのときには,わたしはだれにも何も言いませんでした。その夜,リカルドが初めてデートに誘ってくれました。それ以降,わたしは彼のことをまったく新しい目で見るようになりました。
わたしたちはその夏の間に,徐々にお互いを知っていきました。秋学期が始まるころには,わたしたちは恋人同士になっていました。正式な交際を始めてからしばらくして,わたしのアパートで一緒に夕食の準備をしているとき,リカルドがわたしに大切な話があると言いました。そして4,5歳のころに受けた性的虐待について話してくれました。そのときには,具体的な内容までは話しませんでした。リカルドが話してくれたのは,そのことにまつわる自分の思いと,感情と,それから時々悪夢を見るということです。リカルドがそんな目にあったことを悲しく思いました。それで彼への気持ちが変わることはありませんでした。わたしは彼の気持ちに寄り添い,リカルドが自分の身に起こったことを話すことでわたしの気持ちが変わることはないと伝えました。リカルドはそれ以上詳しいことは言いませんでしたし,わたしも尋ねませんでした。リカルドが,とても繊細で難しい話題について,わたしに打ち明けても大丈夫だと思ってくれたことを光栄に思いました。
わたしたちの会話にはすぐに結婚の話題が入ってくるようになりました。リカルドがわたしにプロポーズをしたのは,1998年1月末のある夜のことでした。婚約期間は6か月半ほどになりました。その間に,わたしたちはブリガム・ヤング大学で結婚準備クラスを一緒に取り,わたしは卒業し,リカルドはニューヨークで約2か月のインターンシップを終えました。わたしたちはその年の夏の終わり,カリフォルニア州オークランド神殿で結び固められました。
わたしたちはすぐに子供を授かり,今では6人の美しい子供たちに恵まれています。その間,わたしはまだ,リカルドが同性にひかれる気持ちを抱えているとはまったく思っていませんでしたし,そういう言葉を耳にしたこともありませんでした。わたしたちの関係が始まったころにリカルドが口にした思いや感情について,彼は長い間,何も話そうとしませんでした。時には悪い夢を見たと言うことがあったかもしれませんが,それだけです。その間ずっと,リカルドが恥じる感情にどれほどさいなまれていたか,わたしはまったく分かっていませんでした。わたしたちはいつも教会に活発で,子育てに忙しくしていました。神殿に行く度にリカルドは,君は日の栄えの王国に行くだろうが,自分は行かないだろうと言いました。なぜそんなことを言うのか分かりませんでした。
リカルドは愛にあふれ,勤勉で,いつでも夫として,そして父親として義務を果たしていました。リカルドが同性にひかれる気持ちを抱えていることも,そうした気持ちをひどく恥ずかしく思っていることも,わたしには思いもよりませんでした。
そんなに悲観的にならなくてもいいのにと感じていたのです。リカルドがそのように言う度に,わたしは,あの虐待はあなたのせいではないし,だからわたしとしては,そのような思いや感情もあなたのせいではないと思うと話しました。
そんなふうに過ごす中で,わたしたちはリカルドが抱えている感情に名前を付けてみようともしたのですが,どれもしっくりきませんでした。ゲイという言葉は大半のキリスト教の信仰において否定的な意味合いを持っていますし,バイセクシュアルという言葉も同じです。2015年の初め,リカルドがある同僚と出会い,その人は自分の同性にひかれる気持ちについて公言しつつ,4人の子供のいる幸せな結婚生活を送っていました。それをきっかけに,リカルドは支援グループとつながりを持ち,新しい友人を作るようになりました。そうした交流を通じて,リカルドは自分の人生に贖いの効力が及んでいると感じることができるようになりました。もう同性にひかれる気持ちを恥ずかしいと感じることもありません。
リカルドがようやく自分は大丈夫なのだと実感し,神の永遠の計画において自分が,またわたしたち家族が,どういう位置を占めるのかを理解できるようになったことを,わたしはとてもうれしく思っています。
ただ,リカルドの中に芽生えたこの新たな気づきは,わたしたちの結婚生活に葛藤ももたらしました。二人ともたくさんの疑問を抱え,そして自分たちがそのすべてに答えを持っているわけではないと感じていました。リカルドは新たな友人を作り始めました。大半は同性にひかれる気持ちと向き合っている人たちです。最初は順調でしたが,わたしたち二人にとって困難な旅になりました。
リカルドがこの旅を始めたとき,わたしにとってリカルドを支えるうえで大きな助けとなったのは,子供のころに両親から言われた,いちばんの友人と結婚しなさいという助言です。
ですからリカルドの同性にひかれる気持ちに関する様々な問題について二人で話すとき,わたしは嫉妬深い妻ではなく,彼のいちばんの友人として耳を傾けようと努めています。また,自分たちの思いや感情について安心して話せる環境を作ることにも気を使っています。
わたしは話を聞くのが好きですし,何気ない言葉一つ一つについて裁くようなことはしません。リカルドにとって重要なのは,自分の意見,経験,失意,ひかれる気持ち,思いをわたしと話すことであり,そうすることでほかの話題へと進んでいけるのだと,わたしは知っています。リカルドはただ話を聞いてほしいだけで,必ずしもわたしが何かを解決する必要はないというときも少なくありません。
大学の結婚準備クラスで聞いた,わたしがこの先もずっと覚えておこうと思っている言葉に,「偉大な伴侶も,パートナーの必要を80パーセントまでしか満たすことができない」というものがあります。この言葉はわたしに,自分が専門家やセラピストになる必要はないのだと気づかせてくれます。わたしはただ彼に,愛と敬意を示せばいいのです。
しばらくの間は,わたしは自分もリカルドと一緒に旅をしていると感じていました。けれどもそのうちに,自分の立場をほかの人に取って代わられたと感じるようになりました。リカルドは職場で10時間過ごしてから帰宅したかと思うと,夜に幾つもメールのやり取りをするのです。急いで夕食を済ませた後は,わたしが教会の召しを果たすために出かけるか,またはリカルドが教会の召しを果たすために出かけるといった具合でした。2,3か月の間,リカルドは週に1度,支援グループに通っていました。ですから金曜日になるともうわたしはくたびれて,ゆっくり休みたいと思うようになりました。リカルドが同性にひかれる気持ちを共有する新しい友人たちにばかり気を取られていることが,負担になっていったのです。家にいるときでも,リカルドの心には,わたしのことも子供たちのこともないように感じました。まるでシングルマザーになったみたいだと思ったこともあります。6人の子供たちを起こして学校へ行く支度をさせ,車であちらこちらへ送り,カブスカウト活動や「神への信仰」に取り組み,宿題をしたか確認し,洗濯をし,料理と掃除をし,子供たちに寝る準備をさせるのです。このサイクルが絶えず繰り返されて,わたしは十分に寝ていませんでした。ですから,子供たちが学校に,リカルドが仕事に行っているときに,泣いたことが何度もあります。あるとき,リカルドがようやく「メッセージを受け取った」のは,彼が外出して友人と一緒にいるときに,わたしが彼にメールを送ったことがきっかけでした。何時間も話をして,リカルドはわたしのためにすべてをやめると言ってくれました。たくさんコミュニケーションを取り,理解し,学習し,リカルドが生涯にわたって抱えてきた恥じる気持ちを取り除けるよう助け,決意し,そして何より,いつでもお互いにすべてを分かち合うことが必要でした。
そしてわたしは,ようやく自分が彼にとって最優先の存在だと感じられるようになりました。リカルドが,家に帰ったときには数時間は携帯電話を脇に置いてわたしと子供たちと一緒に過ごすと約束してくれたことが,大きな違いを生みました。リカルドはまた,子供たちが寝た後,10分間,わたしだけのために時間を取ると言ってくれました。リカルドは今もそれを守ろうと頑張ってくれています。二人ともとても慌ただしい日々を送っていますが,リカルドはわたしが安心し,自分は愛されていて,魅力的で,彼の人生にとって重要な存在だと感じられるように努力してくれています。わたしたちはいつでも話をし,意思の疎通を図っています。どんなことであろうと,推測の余地を残しておくことはしません。
以前,同性にひかれる気持ちを持つ男性を夫に持つ近隣の女性と話をしていたとき,彼女がこう言ったんです。同性にひかれる気持ちについて,夫がだれかほかの人に話をするよりは,わたしに話してくれた方がいい,そうでなければ夫はだれかほかに話し相手を見つけて,その人に助けてもらうだろうから,と。
同性にひかれる気持ちを持つ夫の妻は皆,独特の立ち位置にいると思います。わたしたちは,良い支援者となって,夫がキリストに強固な基を見いだせるよう助けることもできれば,相手から距離を置くことによって,自分の結婚生活や伴侶,そして自分自身が互いに近づく機会と,救い主に近づく機会を失うこともできます。
これは非常に謙遜にさせられる経験です。わたしたちが夫より優れているわけでも,夫がわたしたちより優れているわけでもありません。
わたしたちが直面する状況や困難がどのようなものであるかは関係ありません。結婚生活を成功させるには,夫婦が愛と,神殿で引き受けた神聖な義務への完全な献身をもって一つになることが不可欠です。
リカルドは毎日,わたしをどれだけ愛しているかを口にしてくれます。リカルドの気持ちを推測しなければならないようなことはまったくありません。リカルドのような夫がいて,わたしは大いに祝福されていると感じています。
わたしにとっても彼にとっても,円満な結婚生活は,一対一で向き合う時間を大切にし,いつでもコミュニケーションを取れる状態を保ち,愛を表現することによってもたらされるのだと,わたしは知っています。わたしはリカルドを愛しています!
マークのストーリー:リカルドのビショップ
マークはリカルドにとって自分のビショップである以上の存在です。友人であり,絶大な信頼を置く相手です。ですからマークは,リカルドが同性にひかれる気持ちに関する経験を自分に話しても大丈夫だと思ってくれたことに,とても感謝しています。
長い年月の間に,わたしは多くのすばらしい人たちとともに奉仕をする機会に恵まれてきました。そのだれもが,愛されたい,人を愛したいという共通する基本的な欲求を示しながら,一人一人の中にある善良さとほんとうの愛にわたしが気づけるよう助けてくれました。リカルド・ローザスもそうした人の一人です。
ビショップに召される前から,わたしは様々な立場で,リカルドとともに奉仕をしていました。互いの苦労も成功も見てきました。ビショップや親しい友人に何かを打ち明けるのは,時に難しいことがあります。特定の個人的な情報を明かすことで,相手がショックを受けたり,失望したりするのではないかと恐れるからです。それでも,リカルドが同性にひかれる気持ちに関して自分の経験をわたしに話しても大丈夫だと思ってくれたのは,ありがたいことです。おかげで,わたしたちのどちらもが,そうでなければ学べなかっただろう教訓を得ることができました。
リカルドは最初,ややためらっている様子でした。けれどもわたしは,悲しかったり,さみしかったり,落ち込んだり,赦されないと感じたり,混乱したりしたときに,進んで支援を求める人たちに,いつも感謝しています。リカルドの告白は,彼にとって肩の荷を下ろすきっかけとなっただけでなく,わたしの目も開かせてくれました。おかげでわたしは,もしかするとほかにも同じ状況にいる人や,別の心配事があっても,それを心の中に閉じ込めている人がいるかもしれないと気づいたのです。
同性にひかれる気持ちについて聞いた後も,リカルドへの尊敬の気持ちはいささかも変わりませんでした。また,奉仕をし,愛し,ほかの人を助けるリカルドの能力についてのわたしの考えにも,変化はありませんでした。
リカルドはその後も,様々な召しを受けて奉仕し,愛にあふれた神殿結婚を維持し,神殿に参入するふさわしさを保ち,子供たちを義のうちに育てています。教会の中には,自身の同性にひかれる気持ちについて話すのを避けている人もいるでしょう。なぜなら彼らは,人々から「悪い」,「ふさわしくない」と見られることを恐れているからです。リカルドがその対極にあることを,わたしは目にしてきました。これらの会員は悪くありません。彼らは愛されており,ほかの人たちと同じように,人生の浮き沈みを経験しているだけなのです。
わたしたちはだれもが何らかの形で誘惑を受けます。救い主でさえ誘惑を受けられました。
もし誘惑を受けることだけで人の霊的な性質が決まるのであれば,わたしたちに希望はありません。
リカルドに関して,お気に入りの聖句が心に浮かびます。モルモン書の中で,主は預言者モロナイに深遠な教義を明らかにしておられます。エテル12:27にはこうあります。「もし人がわたしのもとに来るならば,わたしは彼らに各々の弱さを示そう。わたしは人を謙遜にするために,人に弱さを与える。わたしの前にへりくだるすべての者に対して,わたしの恵みは十分である。もし彼らがわたしの前にへりくだり,わたしを信じるならば,そのとき,わたしは彼らの弱さを強さに変えよう。」
リカルドは弱さを,あるいは自身が弱さだと思っていたものを,主のもとに行くこと,へりくだること,そして御霊を通して理解できるよう求めることによって,強さに変えました。
リカルドは自身の経験をほかの人たちと分かち合いたいと願っています。それは個人的に認めてもらうためではなく,イエス・キリストの贖いを通して,この世と次の世で幸福を得る希望があることを,ほかの人たちに知ってもらうためです。
リカルドはほかにも様々なことを経験してきましたが,それを分かち合うのは本人の役割でしょう。リカルドが生来もっと前向きな人であることを,わたしは知っています。彼もわたしも,思いやりと,勇気と,理解することと,主イエス・キリストを信じる信仰について,以前よりも多くの洞察を得ることができました。
ニックのストーリー:リカルドの友人,同僚
リカルドとの友情は,ニコラス(ニック)の持つLGBTの人々に対する見方,特にゲイの末日聖徒に対する見方を揺るがしました。結局のところ,善良な末日聖徒が,同性にひかれる気持ちに対処しつつ,証と信仰を持ち,ふさわしく生活することが許されてはいけない理由などないと,ニコラスは考えています。
友情はわたしにとって,いつでも簡単に手に入ってきたわけではありませんでした。わたしが子供のころ,家族は何度も引っ越しをしました。おかげで新しい人たちに会い,新しい友達を作る機会はたくさんあったものの,長く続く,意義深い友情を育むことはほとんど不可能でした。ようやく新しいつながりを持てたと思うと,その度に家族が新しい場所,新しい冒険に向かうといった調子でした。育った環境のために,わたしには友人と呼べる相手はほとんどいません。
そんなふうに成長したため,わたしには人生に大きな心残りがありました。自分が心を通わせ,個人的な経験を分かち合える友人が欲しいと思うようになったのです。「生涯の友」と呼べるような友人です。
今のわたしは,自分にはそうした友人がいると心から言えます。リカルドとわたしは,親しくなる前からかなり長い間,一緒に働いていました。御霊の促しによって穏やかに,そしてその後(とても社交的な)妻から強く勧められて,わたしはリカルドに,互いの家族を交えて会わないかと声をかけることにしました。恐らく細かいことを決めたり,お互いの家族が会える日を見つけたりするのに数か月かかったと思います。
この家族での集まりに先駆けて,妻はわたしにリカルドはどんな人かと尋ねました。わたしは自分がリカルドについて知っていることを幾つか話しました。メキシコ出身であること。職場のクリエイティブディレクターであること。親しみやすいこと。うちと同じくらいの年の子供たちがいることなどです。それから,少し冗談めかしてこう言ったのです。「もしリカルドが教会で働いておらず,家族も持っていなかったなら,わたしは彼のことをゲイだと思っただろうね。」
わたしがこの会話を特によく覚えているのは,恐らく皆さんの想像どおり,後にリカルドがわたしに秘密を打ち明けてくれたとき,LGBTの人たちについての自分の理解や他人に対する思い込みなど,多くのことに対する自分の見方が揺るがされることになったからです。リカルドのありのままの姿を受け入れるのは難しいことではありませんでした。彼はわたしの友人であり,それが変わることはありません。わたしを悩ませたのは,「善良なモルモン」が同性にひかれる気持ちに対処していることなどありえないと,自分が思い込んでいたことです。
わたしの心の中には,すぐにこんな考えが浮かびました。「善良なモルモンが,このことに対処しつつ,証と信仰を持ち,ふさわしく生活することが許されてはいけない理由などないではないか。」
リカルドがゲイであることを打ち明けてくれた後,わたしたちの友情はさらに深まりました。それ以来,わたしたちは何度か一緒にランチに行き,たくさんのすばらしい会話を持ちました。わたしたちは似たような興味や視点を共有しています。リカルドが自身の「秘密」とともにわたしに信頼を託してくれたことで,わたしの彼への信頼はさらに増しました。リカルドが自身の人生のその部分をわたしと分かち合っても大丈夫だと感じてくれたことを光栄に思います。簡単なことではなかったはずです。
時折,リカルドは自分自身をどのように受け止めるか,また自分についてのほかの人たちの見方をどのように受け止めるべきかについて悩んできました。リカルドは時々,ひどくつらくなってしまうようです。友人であるわたしには,リカルドが物事を整理しようともがいているのがよく分かるし,それを見ているのは苦しいものです。LGBTのコミュニティーとかかわる際にあまり親切でない態度を取る人もいます。あるとき,リカルドがひどく取り乱していたことがありました。何があったのか,しばらく話を聞きました。リカルドは,こんなに面倒な友人ですまない,こんなに「だめな」人間ですまないと,謝り始めました。その言葉に驚かされました。わたしはだれかのことをだめだとも,だれかがだめな人間になれるとも考えていません。確かに,人には様々なことがありますし,ときにはそんなふうに感じることもあるでしょうが,だれもだめな人ではありません。
わたしはリカルドにそう話し,君はわたしの友達だと言って,彼を抱き締めました。
リカルドは,わたしが彼をいろいろな面で助けたと言ってくれます。でもむしろ,わたしが彼に学ばせてもらった,そして,わたしが彼を助けたよりも,もっと多くの面で彼がわたしを助けてくれたと言った方が真実に近いでしょう。自分の人生にリカルドという友人を得ていることに感謝しており,彼がわたしをそばにいさせてくれるかぎり,わたしはその愛と友情に忠実であり続けるでしょう。