2022
旧約聖書の中にイエス・キリストを見いだす
2022年1月号


旧約聖書の中にイエス・キリストを見いだす

これらの5つの真理は,今年の聖文研究で救い主を知るための助けとなります。

画像
イエス・キリストの美術作品

表紙—「世の光」(2015年),ウォルター・レーン画,複写は禁じられています。

ある日,イエス・キリストはエルサレムとエマオの間の道で二人の弟子に会われました。歩きながら,主は今わたしたちが旧約聖書と呼んでいる聖典に記されている,御自分の役割についてお教えになりました。

そして,「モーセやすべての預言者からはじめて,聖書全体にわたり,ご自身についてしるしてある事どもを,説きあかされ」ました(ルカ24:27)。救い主とその使命について学ぶことは弟子たちにとって非常に霊的な経験だったので,二人は主にもっと長くとどまってくださるよう請い求めました(ルカ24:28-32参照)。

初期の時代にイエス・キリストに従ったこれらの人たちと同様,わたしたちも今年,旧約聖書を詳しく研究するとき,より有意義な形で救い主を知る機会があります。この記録は,高価な真珠のモーセ書とアブラハム書とともに,主はどのような御方か,すなわち主の属性,主の使命,主と御父やわたしたち一人一人との関係について,より完全な理解を与えてくれます。わたしたちは永遠の命の賜物を受けるために,この理解を必要としています(ヨハネ17:3参照)。

以下に紹介する5つの真理は,わたしたちがこのいにしえの聖なる書物の至る所でイエス・キリストを認め,キリストへの理解を深めるうえで助けとなるでしょう。

真理1:イエス・キリストはエホバであられる

新約聖書には,イエス・キリストが御自分はエホバであると言われた時のことについて記されています。(ヨハネ8:58参照)人々は憤慨し,神への冒瀆であるとして主に石を投げつけようとしました(ヨハネ8:59参照)。イエス・キリストは旧約聖書の神,エホバであられるという,1今日もなお多くの人が理解できずにいる貴い真理を,彼らは理解していませんでした。

旧約聖書に記されている御方が救い主であることがしばしば理解されない理由の一つは,この書物では「イエス・キリスト」という名前が用いられていないことかもしれません。その代わりに,著者たちは「神」,「わたしは有る」,「主」といった幾つもの称号を用いました。2このことを知ると,聖文の至る所にイエス・キリストがよりいっそうはっきりと見えてきます。以下はその例です:

  • 燃えるしばの中で「神」と話したとき,モーセはイエス・キリストと話していました(出エジプト3:6参照)。3

  • 同様に,イエス・キリストはジョセフ・スミスに対して,御自分のことを「わたしは有るという大いなる者」と言っておられます(教義と聖約29:1)。

  • バプテスマのヨハネは「主」の道を備えるよう召されました(マタイ3:3)。これはイエス・キリストについて預言していたイザヤ40:3の成就でした。

  • 聖文の至る所に見つかるエホバについてのそのほかの例については,17ページの表を参照してください。

真理2:様々な事物や出来事が救い主について教えている

画像
祭を準備するアダムとエバに現れた天使

アダムとエバは礼拝の一部として動物の犠牲をささげるよう命じられました。このような犠牲はわたしたちに,神の小羊であるイエス・キリストが,贖罪の一部として御自分が殺されることを受け入れられたことを思い起こさせます。

「犠牲をささげるアダムとエバ」キース・ラーセン画

旧約聖書は,救い主が与えてくださる助けを思い起こさせてくれる象徴や物語に富んでいます。以下はその例です:

  • 多くの聖句で,忠実な人々が礼拝の一部として動物の犠牲をささげるよう命じられた時のことが述べられています。例えば,イスラエルの子らは子羊を犠牲とし,その血を戸口に塗るよう命じられました。それを行った者たちは,エジプトで命を奪う災いから守られました。このような犠牲は,神の小羊であるイエス・キリストが贖罪の一部として御自分が殺されることを受け入れられたことを思い起こさせてくれます。主の犠牲により,わたしたちは肉体と霊の死から救われます(出エジプト12:13参照)。

  • 預言者エリヤは自分の命を救うために逃げ,荒れ野に隠れなければならなかったとき,悲しみを覚え,いっそ自分が死んでしまえばよいと言いました。エリヤが眠っている間に,パンと水が奇跡的に現れ,エリヤを養い,元気づけ,進み続ける力を与えました。このことは,イエス・キリストが生ける水であり命のパンであられることを思い起こさせてくれます。主はわたしたちの究極の希望の源なのです(列王上19:1-8参照)。4

  • 「あなたのみ言葉はわが足のともしび……です」と詩篇の作者の一人は記しています(詩篇119:105;強調付加)。ミカは「たといわたしが暗やみの中にすわるとも,主はわがとなられる」と証しています(ミカ7:8;強調付加)。彼らの言葉は,イエス・キリストが世の光であり,わたしたちを天の家に導いてくださることを思い起こさせてくれます。

旧約聖書を読むと,ノアの家族が箱舟に乗って洪水から救われた時のことや,ヨナが鯨の中で悔い改める機会を与えられた時のことなど,イエス・キリストや,主がお持ちのわたしたちを救う力を思い起こさせてくれる事柄が,ほかにも見つかるでしょう。これらの出来事は,イエス・キリストはわたしたちに人生の嵐を切り抜けさせてくださること,そして主は正しい道に戻る機会を常に与えてくださることを思い起こさせてくれます(創世7:1ヨナ1:17参照)。

真理3:エホバは個人にとっての神であられる

時々,旧約聖書の神は怒っておられ執念深い御方のように思えることがあるかもしれません。わたしたちは,この書物を最初に書き記した人々が古代の文化に属しており,その文化の慣習や表現を今日のわたしたちが完全に理解するのは難しいかもしれないことを心にとどめておくべきです。『わたしに従ってきなさい』のテキストや,グループでの話し合い,聖霊により注がれる光が,旧約聖書で読む事柄と,ほかの聖典からイエス・キリストについて分かる事柄とを調和させるための助けになります。

ここで,救い主について学んでいる人にはなじみ深いであろう,エホバの注目すべき特質を一つ挙げましょう。それは,エホバが個人にとっての神であられるということです。その介在は,壮大なものであれ小さなものであれ,エホバには御自分を信頼する者をいつでも救う用意がおありであることを示しています。以下は,旧約聖書に記されている主の務めの例です:

  • アダムとエバが戒めに背いた後,主は二人に皮の衣を着せられました。すなわち,二人を皮の衣で覆われました(創世3:21参照)。ヘブライ語で「贖い」にあたる言葉は,「覆う」または「赦す」を意味します。

  • 主は御自分とともに歩むようエノクを招き(モーセ6:34参照),シオンの民を高く上げられました(モーセ7:69参照)。

  • 主は,ヨセフの家族やほかの無数の人たちを飢えから救うためにヨセフを備えられました(創世37-46章参照)。

  • 主はイスラエルの子らを荒れ野で導かれました(出エジプト13:21-22参照)。

  • 主はアロンとミリアムを訪れ,生ける預言者を信じる二人の信仰を強められました(民数12:5参照)。

  • 主はルツを導き,彼女の子孫を通じて御自分の家系を保たれました(ルツ3:10-114:14-17参照)。

  • 主は少年サムエルを名前で呼ばれました(サムエル上3:3-10参照)。

  • 主はエステルが勇気を持って民を救えるよう力を与えられました(エステル2:178:4-11参照)。

真理4:イエス・キリストはわたしたちの戦いを助けてくださる

時折,日々の生活は戦いであるように感じられます。わたしたちは実際,旧約聖書で語られている戦争にも似た,善と悪の霊的な戦いのただ中にあります。過去の兵士たちとともに,わたしたちは「大いなるエホバよ,導きたまえ」5と叫びます。以下の聖句で,安心を与えてくれる主の返答を聞くことができます:

  • 「わたしはあなたを見放すことも,見捨てることもしない。」(ヨシュア1:5

  • 「この大軍のために恐れてはならない。おののいてはならない。これはあなたがたの戦いではなく,主の戦いだからである。」(歴代下20:15

  • 「わたしはあなたを強くし,……あなたをささえる。」(イザヤ41:10

  • 「わたしがあなたと共にいて,あなたを救う……。」(エレミヤ1:8

真理5:主の約束は続く

わたしたちは旧約聖書の忠実な人々との間に,自分が感じているよりも多くのつながりを持っているかもしれません。昔の聖見者たちは,イエス・キリストのこの世の生涯を待ち望み,主の生涯について書き記しました。例えば,イザヤは非常に力強い言葉で主について語り,その言葉はわたしたちが復活祭やクリスマスで度々分かち合う音楽の一部となりました(イザヤ7章;9章;40章;53章参照)。6

それらの預言者と同じように,わたしたちもキリストの来臨を待ち望んでいますが,今度は主が戻って来て,自ら地上を統治されることを心待ちにしています。7わたしたちは主の再臨に世を備えるとき,最初に旧約聖書に記録された次のような真理や約束から力を得ることができます:

  • わたしたちが属するイスラエルの家についての宣言が含まれている,祝福師の祝福。主が数千年前にアブラハムと交わされた聖約は,聖約を交わした今日の教会員であるわたしたちにも,属する部族に関係なく当てはまります(創世13:14-17アブラハム2:9-11参照)。

  • 安息日を聖く保つようにという戒め。主はこれを「わたしとあなたがたとの間の,代々にわたるしるしであって,わたしがあなたがたを聖別する主であることを,知らせるためのものである」と言われました(出エジプト31:13)。

  • 今日神殿での礼拝の一部となっている,聖なる洗い,油注ぎ,着衣が初めて与えられたのは,アロンとその子孫に対してでした(レビ8章参照)。

わたしたちを人類の歴史のこの時点に至らせるために,どれだけ多くの義にかなった男女が犠牲を払ったか考えてみてください。わたしたちは彼らの神聖な努力の上に築き,救い主に導かれる世界という彼らのビジョンを共有しています。ラッセル・M・ネルソン大管長が教えているように,「4,000年にわたる期待と備えの時を経て,福音が地上の国民に届けられるように定められた日が来たのです。今は約束されたイスラエルの集合の時です。そしてわたしたちはそれに参加できるのです!」8

すばらしい研究の年

画像
赤い衣のキリスト

「赤い衣のキリスト」ミネルバ・タイカート画,教会歴史博物館の厚意により掲載

わたしたちは人類の始まりの物語——聖約を交わしたクリスチャンとして,わたしたちの物語を手にしています。イエス・キリストの贖罪のおかげで,わたしたちはこの壮大な旅がどのように終わるかを知っています。サタンは滅ぼされ,義人が勝利を収めるのです。しかし,わたしたちの個人の物語はどのように展開するでしょうか。

今年,わたしたちはイエス・キリストとともに歩むことを選ぶでしょうか。ともにいてくださるよう主に請い求め,主の教えに熱心に耳を傾けるでしょうか。

主は愛にあふれた,個人にとっての救い主であられます。その声をわたしたちは教義と聖約で聞き,その生涯は新約聖書に記録され,その教えはモルモン書で分かりやすく教えられています。少し練習することで,わたしたちは主の務めが旧約聖書のページにも至る所に織り込まれているのを見つけられるようになります。主は人類の過去,現在,未来の中心におられます。主はその道の一歩一歩をわたしたちとともに歩んでこられました——そしてこれからも常に,ともに歩んでくださるでしょう。

  1. 「生けるキリスト—使徒たちの証」の第2段落,ChurchofJesusChrist.org参照

  2. 英語訳では,「主」が“LORD”とされるなど,イエス・キリストを指す語がしばしば大文字で表記される。英語欽定訳のサムエル上1:15には二つの例が見られる。最初の「主」は“lord”であり,人物を指しており,次の「主」は“LORD”であり,イエス・キリストを指している。ジェームズ・E・タルメージ『キリスト・イエス』35-36も参照

  3. 教会が出版している聖書では,救い主に言及している聖句を明らかにするのに脚注が役立つ。For example, see Exodus 3:6, footnote a.

  4. この物語における象徴について,詳しくはMarissa Widdison, “The Bread and Water of Hope,” Ensign, Sept. 2019, 56参照

  5. 「導きたまえよ」『賛美歌』41番〔英文〕参照

  6. イザヤ書の聖句の一部は,ヘンデルのオラトリオ「メサイア」の歌詞として使われている。

  7. 信仰箇条1:10参照

  8. ラッセル・M・ネルソン「聖約」『リアホナ』2011年11月号,88

印刷