「きてごらんなさい」
「『来て、見る』なら、つまり主を知りたいと願いながらみもとに来るなら、皆さんはきっと主を見いだし、よみがえられたい主、救い主にまみえます。」
主が教導の業を始められたばかりのころ、二人の弟子がイエスのみもとに来て尋ねました。「先生、どこにおとまりなのですか。」この質問に対しイエスは、「きてごらんなさい」と、簡潔ながら深遠な返答をされました。今日は、この返答を基に、わたしの短くつたない話をしたいと思います(ヨハネ1:38-39参照)。
「来て、見る」なら、つまり主を知りたいと願いながらみもとに来るなら、皆さんはきっと主を見いだし、よみがえられた贖い主、救い主にまみえます。「来て、見る」なら皆さんは、空の墓よりよみがえられたキリスト、カルバリで勝利を収められた御方、死の縄目を解き、墓より復活し、すべての人に不死不滅を、忠実な人に永遠の命を与えてくださる御方として主を認識することでしょう。宅は「きずも、しみもない小羊」、「天地が造られる前から」メシヤとなるよう予任された御方です(1ペテロ1:19-20)。「〔主は〕われわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれ〔ました。〕…… その打たれた傷によって、われわれはいやされたの〔です。〕」(イザヤ53:5)
「きてごらんなさい。」そして、みもとに来るとき、重荷を主の足もとに置いてください。主を見て、知ることができるように、あなたのすべての罪を捨ててください(アルマ22:18参照)。主は言われました。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。」(マタイ11:28-29)主のみもとに来てください。主は皆さんの罪を取り去り、たとえ罪のために清くなくても主は皆さんの魂を癒いやしてくださいます。憎しみを愛に、利己心を奉仕の心に代えてくださいます。皆さんが重荷を負いやすくするために力を増し加え、人生の旅への新たな勇気と希望を与えてくださいます。
「きてごらんなさい。」そうすれば、目は開かれ、恐らく初めて、自分が何者で主がどのような御方であられるかがほんとうに分かるでしょう。自分が神の子どもであり、神聖な血統を持ち、霊的に成長し、主のようになる無限の可能性を秘めていると分かるようになります。神が「ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ」られたことを理解するようになります(使徒17:26)。
実の兄弟姉妹同士が負っている責任を通して示唆される事柄すべてによって、世界のどこにいようともすべての男性は兄弟であり、すべての女性は姉妹であることが分かるようになるでしょう。「主は、黒人も白人も、束縛された者も自由な者も、男も女も、主のもとに来る者を決して拒まれ〔ず〕… … すべての入が神にとって等しい存在」であることが分かるようになります(2ニーファイ26:33)。
「きてごらんなさい。」そうすれば、主の教会、すなわち末日聖徒イエス・キリスト教会を見いだすでしょう。この教会は生ける預言者、聖見者、啓示者によって導かれているものの、その頭は死すべき人間ではなく、イエス、すなわち全能者である主なる神なのです。皆さんが「きてごらんになれば」、幸せな人々、つまり前向きで喜びに満ちた人々を見いだすでしょう。彼らは日々自らの人間的な欠点、弱点を克服しようと懸命に闘う一方、自らを向上させ、すべての人に善をなし、すべての人が義のうちに住む神の都を建てるよう努めているのです。皆さんが「きてごらんになるなら」、貧しい人や乏しい人に心からの関心を常に寄せる人々、伴侶や親を亡くした人、病に苦しむ人、苫しんでいる人、貧しい人や虐げられている人に手を差し伸べる人々を見いだすでしょう。「きてごらんなさい。」そうしたら福音を実践して得られる実が分かるでしょう。自ら実践すれば、その実が甘く喜ばしいものだと分かります。「あなたがたが同胞のために務めるのは、とりもなおさず、あなたがたの神のために務める」ことであると知るようになると(モーサヤ2:17)、主に仕えることに生涯を尽くしたいと思うようになるでしょう。
冒頭で引用した聖句に戻って、締めくくりたいと思います。イエスが語られた「きてごらんなさい」という言葉は、世界中のすべての人々を招き、約束しています。主に来てください。そうすれば、この御方が王の王、主の主であられると分かります。民を解き放つため翼に癒しを携えて再臨される偉大なメシヤであると分かります。主は人々を贖う愛という外套で皆さんを優しく包まれます。それによって皆さんの生活は絶えず変わり続けていくことでしょう。
主の僕の一人として、これらをイエス・キリストの御名によって証します。アーメン。