生ける預言者、聖見者、啓示者
「この世の標準と、福音と神の王国の標準との格差はさらに広がりつつあります。そして、……生ける預言者は常に神の標準を教えます。」
兄弟の皆さん、今晩わたしは、自分にとって大きな意味を持つ経験をお話ししたいと思います。1986年4月の総大会、日曜日午後の部会で、エズラ・タフト・ベンソン長老を預言者、聖見者、啓示者、そして教会の第13代大管長として支持する聖会が開かれました。全教会員がタバナクルで、またテレビやラジオを通じて参加するよう求められました。わたしたち家族は、この求めに応じ、自宅で参加しました。当時伝道中だった息子を除いて、大祭司であるわたしと、祭司、執事、11歳の息子、そして妻のリアンの全員が出席しました。指示に従って順番に、神権を持つわたしたちが起立し、それから家族全員でともに立ってベンソン大管長を支持しました。
なぜ主は預言者、聖見者、啓示者を召されるのでしょうか。そして、わたしたちはどのように彼らを支持すべきなのでしょうか。
預言者、聖見者、啓示者、使徒の権能を持つすべての人が担う基本的な責任は、全世界にイエス・キリストの御名を証することです。主の御名を証する特別な証人が果たすこの基本的な召しは、使徒が地上に存在したときには常に与えられてきました。啓示を通し聖霊によって述べられるこの証は、新約の時代も現在も、教会の中核であることに変わりありません。五旬節の日、ペテロはナザレのイエスが「十字架につけて殺」され、その後「死の苫しみから解き放〔たれて〕よみがえられた」1という純粋な証を述べました。そして使徒たち全員がその証人となりました。生ける使徒が語ったイエス・キリストの証があまりに力強かったので、人々は心を改め、およそ3,000人が罪の赦しを受けるためにバプテスマを受けました。聖書にはこの新しい改宗者たちが「ひたすら、使徒たちの教おしえを守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈いのりをしていた」2とあります。この使徒行伝の記述は、福音を心から受け入れる人は神の家に属する者となる、というメッセージを伝えるため、後にパウロがエペソ人にあてて記した次の言葉に深い霊的な意味を与えています。「またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。」3
この回復の時代に、預言者ジョセフ・スミスは次のように語りました。「わたしたちの宗教の基本原則は、イエス・キリストか死んで、葬られ、3日目に再びよみがえって、天に昇られたという、イエス・キリストに関する使徒と預言者たちの証です。わたしたちの宗教に関するほかのすべての事柄は、それに付随するにすぎません。」4
全世界にイエス・キリストの御名を証するという神から託された責任を果たすため、現代の生ける使徒たちはその証を世に宣のべました。『生けるキリスト—使徒たちの証』の中で、彼らは神権と教会の回復を宣言し、キリストの再臨を証し、「正式に聖任を受けたイエス・キリストの使徒として、イエスは生けるキリスト、不死不滅の状態にある神の御子」であられると宣言しています。5
現代と同様に、古代の使徒たちもイエス・キリストの御名を証しています。それは、「全能の主であるキリストの御名のほか、またその御名を通してでなけれは、とのような名も道も方法も、人の子らに救いをもたらすことはできない」6からです。
第2に、預言者、聖見者、啓示者は神の御言葉を分かりやすく教えます。それは、人々が教えに従順になり、その行いを通して祝福を受けるためです。ヒンクレー大管長はジョセフ・フィールディング・スミスについて次のように記しています。「彼の話は簡潔明快であいまいさがありません。それが預言者の使命なのです。」7 神から啓示された言葉を熟知し、その言葉を何の言い開きもせす率直に述べる預言者の教えは必要とされており、それは過去と同様、現代においても不可欠です。矛盾した考えや移り変わる価値観、権力への野心が交錯する混乱した世の中にあって、わたしたちはピリポとエチオピア人の交わした会話を人念に研究するとよいてしょう。ピリポは聖文を読むエチオピア人のもとへ駆け寄り、「あなたは、読んでいることが、おわかりですか」と尋ねました。すると彼は「だれかが、手びきをしてくれなけれは、どうしてわかりましょう」8と答えました。
アルマは主の民に次のように教えました。
「『……神の道を歩み、神の戒めを守っている神の人でなけれは、だれも、あなたかたの教師や教え導く者としてはならない。』
……また、正しい人でなければだれも任命されなかった。
そして、彼らは民を見守り、義にかかわることをもって彼らを養った。」9
これらの言葉は教会を導く預言者、聖見者、啓示者を完壁に描写しています。彼らは神の御言菓を分かりやすく、権威と理解をもって語ります。
第3に、わたしたちは15人の兄弟たちを、預言者、啓示者としてたけてなく、聖見者としても支持します。聖見者についてはあまり語られませんか、未来を予見する能力は使徒の証と教えに力と権威を与えます。この重要で独特な召しについて二つの聖句を読んでみましょう。モルモン書で、アンモンはリムハイに、「聖見者は過去のことも将来のことも知ることかできます。解訳器によってすへてのことが小されるのです。ほかの方法では知ることのできないことが解訳器によって知られるようになります」10 と教えました。
高価な真珠で、エノクは主から、目に泥を塗り、それを洗えば見えるだろうと言われ、そのとおりに行いました。「そして、彼は……肉体の目に見えないものも見た。それ以来、『主はその民のために、一人の聖見者を立てられた』という言葉がその地に広まった。」11
現代の聖見者はほかの方法では知らされないことを知らされ、肉体の目には見えないものを見ていますが、それらは一体どのようなものでしょうか。その答えは非常に簡単です。彼らが教え、行っていることをよく聴き、思い巡らし、祈りの気持ちで考えてください。そうすれば、多くを明らかにする一つのパターンが浮かび上がり、その中に答えが見いだされるでしょう。
さて、聖会に参加したわたちたちの家族の経験に話を戻しましょう。支持の挙手が終わり、司会のヒンクレー副管長がこう言いました。「兄弟姉妹の皆さん、支持の挙手をありがとうございました。皆さんは手ばかりではなく、心と信仰と祈りによってわたしたちを支持してくださったことと思います。それは、わたしたちが切に必要としていることであります。どうか、これからもそのように支持してくださいますように。」12兄弟の皆さん、預言者、聖見者、啓示者を支持するとは、単に手を挙げるだけではなく、わたしたちが勇気と証を持ち、彼らの言葉を聞き、心に留め、従う信仰を示すことも含まれます。
これほど明らかなのにもかかわらず、実践するのが難しいのはなぜでしょうか。多くの答えが考えられるでしょうが、わたしは、実際は一つしかないと思います。それは、神よりもこの世に受け入れられる方を望むからです。
生ける預言者の教えは世の風潮と反することがよくあります。末日聖徒であり神の神権者であるわたしたちは、この世の標準と、福音と神の王国の標準との格差がさらに広がりつつあること、また生ける預言者は常に神の標準を教えることを理解しなければなりません。わたしたちが幾ら福音をこの世に迎合させようと試みても、それは不可能です。これまで果たされたことはなく、今後も実現することはありません。
現代の世の中の根底にあるのは、わがままと、欲しいものはすぐに手に入れて満足しようとする、または、何としても社会に受け入れられようとする、そのような精神です。しかし、福音と神の王国は、そのような精神とは懸け離れたものです。神が尊ばれる特質は、忍耐、寛容、堅忍、親切、兄弟愛であり、それらはつかの間の努力で事足りるものでなければ、一朝一夕に身に付く特質でもありません。
兄弟の皆さん、生ける預言者、聖見者、啓示者が召されていながら彼らに従わないなら、彼らが召されていないのも同然です。預言者ヤコブは、義人たちが多大な苦労をして版に記した言葉を、子孫が感謝の心で受け、「悲しみ……でなく、喜びをもって」13 そこから学ぶように願いました。わたしたちも賢明になり、現代の生ける預言者、聖見者、啓示者の言葉を同様に受け、そこから学ぶことができますように。
わたしたちを救うイエス・キリストの贖いの力を証します。生ける使徒、預言者、聖見者、啓示者について証します。イエス・キリストの御名によって、アーメン。