王国を建設する
「初期の時代から、主の教会はにまた献身的に、召しを尊んで大いなるものとする普通の人々の手によって築き上けられてきました。」
25年ほど前、わたしたち家族はマサチューセッツに住んでいました。そこで、わたしは大学院に通っていました。そこの研究課程は大変な労力を要するもので、わたしは自由時聞をほとんど持つことができませんでした。ある日曜日のこと、教会でワード初等協会の会長から声をかけられ、2週間、初等協会の代理教師として働いてもらえないだろうかと尋ねられました。当時、初等協会は平日の午後に行われていました。そして自分のスケジュールではレッスンをする時聞を見つけるのは難しいだろうと思いました。しかし、少しためらった後で、責任を引き受けることにしました。
初等協会を教えるように割り当てられた日がやって来ました。その日の午後、わたしは大学図書館で、国際政治に関する本に没頭していました。なぜか分かりませんが、これから教えることになっている初等協会のクラスよりも、そのとき取り組んでいた課題の方が大切なように思えました。その結果、わたしは引き延ばしをしてしまい、クラスの始まるほんの30分前になってやっと、その日のテキストに目を通し始めたのです。わたしは図書館から大学のキャンパスの近くにあったワードの礼拝堂まで歩いて行きました。不承不承取り組む気持ちが、わたしの歩く速度を遅らせたのでしょう。数分遅れて教室に到着してしまいました。初等協会の部屋に足を踏み入れたとき、子どもたちはちょうど開会の歌を歌い始めたところでした。それは以前に一度も聞いたことのない歌で、その歌のメロディーと内容に深く心を打たれました。
「新しい主の教え
『皆、ともに愛し合え』
主の弟子は光となれ
互いに愛し合い」
(「ともに愛し合え」『賛美歌』王92番)
入り口で身じろぎもせず聞き入っているわたしの心に、あなたは今日、マサチューセッツ州ケンブリッジで行われてまいるクラスの中で最も大切なクラスを目の当たりにしているのだと、御霊が証しました。
大学に目を転じてみると、数々の教室や研究室で、熱心な学者たちが世界のいろいろな問題の答えを探し求めていました。確かにそのような努力は価値あることだったかもしれませんが、大学には混乱に満ちた世界に対する究極の解答はありませんでしたし、それを見いだす能力もありませんでした。しかし、わたしの目の前には、主の答えが提示されていたのです。すなわち、イエス・キリストの福音を教えることによって、神の王国をこの地上に静かに築き上げていくという答えです。その日初等協会で行われていたことは、堕落した世の中を救うために啓示された神聖な計画の一部だったのです。
1831年10月、主は福音の回復に関して次のように宣言されました。「神の王国の鍵は地上の人にゆだねられており、あたかも人手によらずに山から切り出された石が全地に満ちるまで転がり進むように、そこから福音は地の果てまで転がり進むであろう。」(教義と聖約65:2)末日聖徒イエス・キリスト教会は、まさにここで述べられている全地に満ちるよう運命づけられていた王国だったのです。全能者の奇跡的な知恵により、末日における神の王国は、あの日、わたしが初等協会で目にしたような、簡潔で単純な方法により築き上げられるのです。
わたしたちは全世界の隅々に神殿が建てられ、遠く離れた国々で福音に対する門戸が開かれるというニュースを聞いて喜んでいます。使徒と預言者という土台の上に立てられた主の教会は、主の御言葉を宣のべ伝えるために召され聖任された宣教師を通して、今まさに全世界的な広がりを見せています。わたしたちは時として、王国の建設とは何か地平線のはるかかなたで、わたしたちの支部やワードから遠く離れた所で起こることのようにとらえがちかもしれません。しかし、実際には、教会が前進するためには、会員数の増加と会員の内面的な成長の両面が必要なのです。「シオンは美しさと聖きよさを増し、その境は広げられ、そのステークは強くされなければならない。」(教義と聖約82:14)
わたしたちは主の王国を築くために、家から遠く離れた所で奉仕するよう召される必要もありませんし、教会や世の中で高い地位に就く必要もありません。わたしたちは、自らの生活の中で神の御霊を得ようと努力するときに、自分自身の心の中に主の王国を築くのです。子どもたちに信仰を植え付けるときに、自らの家族の巾に神の王国を築きます。
また、教会の組織を通して、自らの召しを尊んで大いなるものとしたり、隣人や友人と福音を分かち合ったりするときに、神の王国を築きます。
刈り入れを待つばかりの畑で働く宣教師もいれば、家庭という畑で働き自分の住むワードや地域社会で王国を強める人もいます。初期の時代から、主の教会は謙遜にまた献身的に、召しを尊んで大いなるものとする普通の人々の手によって築き上けられてきました。「まったく勤勉に」働いていさえすれば(教義と聖約107:99)、どのような職に召されているかは重要ではありません。近代の啓示の中に、次のような御言葉があります。「善を行うことに疲れ果ててはならない。あなたがたは一つの大いなる業の基を据えつつあるからである。そして、小さなことから大いなることが生じるのである。」(教義と聖約64:33)
ジョセフ・F・スミス大管長は、かつて次のように語ったことがあります。「偉大な業は、1世代でできるものではない。」(Gospel Doctrine 第5版〔1939年〕、119)異なる世代が、一つとなって神の王国を築き上げるのは、ほかのいかなる場所にも増して、家族の中で、家庭という静かな聖域の中なのです。子どもを育てるということは、神の業です。大管長会は、家庭の夕べを開き、家族の祈りをささげ、家庭の中で福音を学び、また時間を割いて子どもとともに健全な活動をするよう両親に求めています。父親と母親か、かつて学んだ永遠の真理を子どもたちに教えるとき、真理のともしびを次の世代に伝えることになり、神の王国はさらに発展します。「我ら絶えず照らす灯台守もり」と賛美歌にもあります(「山の強さのため」『賛美歌』23番)。
わたしがまだ若かったころ、父はよく、家族が夕食のテーブルを囲んでいるときに、みんなで福音に関することを話し合えるように導いてくれました。年を取った今、過去を振り返ると、家族でともに過こしたあの時間がわたしの証にどれほど影響を与えたか理解できます。時至らは、「シオンの山のすべての場所〔に〕、昼は雲夜は燃える火の輝き」がもたらされ(イサヤ4:5)、主の民の家庭の中に常に神の御霊がとどまるというイサヤの預話に喜びを感じます。
主の王国とは、教会や家族だけでなく、主の民の心と思いをも含みます。救い主がこの地上で教えを施されたとき、「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」と語られました(ルカ17:21)。
心からこの偉大な末日の業に貢献したいと望むならは、わたしたちの目は神の栄光にひたすら向くようになり、思いは「イエスのあかし」により照らされ(黙示19:10)、心は清められ神聖にされることでしょう。個人的な祈り、研究、そして瞑想は、心の中に神の王国を建設するうえで欠かすことのできない事柄です。瞑想と全能者との心の交流という静かな瞬間の中にあって初めて、わたしたちは神を自分たちの父として知り、愛するようになるのです。
神の王国が地上に回復され、もう二度と取り去られることはないと証します。永遠の父の導きの下に、イエス・キリストがこの業の創始者、完成者、教会の隅のかしら石、イスラエルの聖者であられます。主の力と勢いにより、わたしたちが地上に神の王国を建設することができるように、そして、主が来られるときにはそれを天の王国にする備えかできるようにお祈りします。戦場の賛歌あるいは回復の賛歌とも呼べるこの歌には、こうあります。
「天に鳴り響くは主の時の音ね
主は我らの心を震わせん
主に、急ぎてこたえ喜び行け
神は進む」
(「リパブリック賛歌」『賛美歌』30番)
イエス・キリストの御名により、アーメン。