2000–2009
タバナクルの御霊
2007年4月


タバナクルの御霊

タバナクルは……イエス・キリストの福音の回復を示す旗印として存在してきました。

46年前,わたしは十二使徒定員会補助として召しを受けました。そして初めてこの壇上に立ちました。当時わたしは37歳でした。普段賛美歌の中で「御名を崇あがむ」と歌っているような,立派な預言者や使徒の中に立ったのです(「高きに導く」『賛美歌』173番)。自分がとても小さく感じられました。

ちょうど同じころ,ここタバナクルでとても大切な経験をしました。その経験はわたしに確信と勇気を与えてくれました。

当時はこの場所で,4月の大会前に初等協会の大会が開かれていました。南のドアから入ると,ちょうど大勢の初等協会の子供たちによる聖歌隊が開会の歌を歌っているところした。初等協会中央管理会のルー・S・グローズベック姉妹の指揮で,子供たちはこのように歌っていました。

心低く 主の愛思い

静かに歌う 賛美の歌を

心低く 祈ります

御霊が今日も あるように

(「心低く」『子供の歌集』11)

子供たちは静かな声で歌っていました。才能豊かなオルガニストは自分に注意をひきつけることなく,子供の声に合わせて伴奏しました。巧みに抑えられたオルガンの音は,歌声と調和して霊感と啓示にあふれるメロディーを生み出しました。それがわたしにとっての決定的な瞬間でした。この経験によって心に深く永遠に刻み込まれたことこそ,その後のわたしをずっと支えてくれたのです。

わたしは預言者エリヤと同じことを感じていたのかもしれません。エリヤは邪悪な王アハブに反抗して天を閉じ,洞穴へ逃れて主を求めました。

「……大きな強い風が吹き,山を裂き,岩を砕いた。しかし主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが,地震の中にも主はおられなかった。

地震の後に火があったが,火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞えた。

エリヤはそれを聞いて顔を外套がいとうに包み」,主と語るために「出てほら穴の口に立」ったと記録されています(列王上19:11-13).

わたしは,主がニーファイ人に御姿を現されたときに民が感じたに違いない気持ちの幾分かを感じました。「天から発せられるような声が聞こえた。しかし彼らは,自分たちに聞こえたその声の告げる意味が分からなかったので,辺りを見回した。それは耳障りな声ではなく,大きな声でもなかったが,小さな声でありながら,聞いた人々の心の中まで貫いたので,彼らの全身はことごとくそれによって震えた。まったく,それは魂そのものにまで彼らを貫き,彼らの心を燃え上がらせた。」(3ニーファイ11:3

預言者ジョセフ・スミスが次のように書いたときに理解していたのは,エリヤとニーファイ人が聞いたこの静かな細い声のことでした。「万物を貫き通してささや〔く〕静かな細い声は,次のように告げられる。」(教義と聖約85:6

あの特別な瞬間,わたしは,この静かな細い声は耳で聞くものではなく,むしろ心で感じるものだと分かりました。その声に耳を傾けるなら,わたしは自分の務めを無事に果たせるだろうと感じたのです。

その後,求めよ,捜せ,門をたたけという招きに応じるなら,だれでも慰め主,すなわち聖霊がともにいてくださるという確信を得ることができました(マタイ7:7-8ルカ11:9-103ニーファイ14:7-8教義と聖約88:63参照)。そのときわたしはこれで大丈夫だと思いました。それから何年もたちますが,まさにそのとおりでした。

わたしはまた,音楽の中に大きな力があることも学びました。音楽が敬虔に演奏されると,それはあたかも啓示のようになります。時には,主の御声,つまり御霊の静かな細い声と区別がつかないこともあると,わたしは考えています。

すべてのふさわしい音楽にはそれぞれ適した場所があります。良い音楽を楽しめる場所は数限りなくあります。しかしその中でもテンプルスクウェアで演奏されるタバナクルの音楽は,ほかのどの音楽とも違います。

タバナクル合唱団は何世代にもわたって,毎週の放送の始めで,ウィリアム・W・フェルプス長老が詞を書いた賛美歌を歌っています。このような詞です。

賛歌を捧ささげん

安息の日来ぬ,

休みの日は来ぬ

受けたる神の,み恵みのため

感謝を捧げん

(「賛歌を捧げん」『賛美歌』84番)

100年以上前,当時91歳だったウィルフォード・ウッドラフ大管長は,恐らく最後となった説教をこの壇上から行いました。そのとき聴衆の中に12歳のリグランド・リチャーズがいました。後に使徒に聖任された父親ジョージ・F・リチャーズが中央幹部の説教を聞かせるために,息子たちをタバナクルに連れて来ていたのです。リグランドはその経験を決して忘れませんでした。

20年以上もの間,リグランド・リチャーズ長老とわたしは親しい間柄でした。96歳になっても,あのときのメッセージはリチャーズ長老の心に響いていました。リチャーズ長老はウッドラフ大管長の言葉は忘れていましたが,その言葉を聞いたときに感じた気持ちは,決して忘れられなかったのです。

時折,わたしはこのタバナクルを建てた人たち,守ってきた人たちの存在を感じます。先に生きた人たちは,音楽と説教により,福音とイエス・キリストの証の簡潔さを保ってきました。その証は彼らにとって人生を導く光だったのです。

教会の行く末を定める重大な出来事は,テンプルスクウェアのこのタバナクルで起こりました。

ジョセフ・スミスとブリガム・ヤングを除き,教会のすべての大管長はこのタバナクルの聖会において支持を受けています。そして同様の方式で,啓示によって命じられたとおり,毎年総大会において支持の手続きが繰り返され,すべてのステーク,ワード,支部において同じことが行われています。

主は言われました,「だれか権能を持つ者によって聖任され,そして権能を持っていることと,教会の長たちによって正式に聖任されたことが教会員に知られないかぎり,だれもわたしの福音を宣のべ伝えるために出て行くこと,あるいはわたしの教会を築き上げることは許されない。」(教義と聖約42:11

ですから,見も知らぬ人が入って来て権能を持っていると主張し,教会を迷わせることはできないのです。

また1880年,高価な真珠がこの場所で教会の標準聖典の一つとして受け入れられました。

この場所で,現在教義と聖約第137章と第138章として知られている二つの啓示が標準聖典に加えられました。第137章はカートランド神殿でジョセフ・スミスに与えられた示現を記したもの,第138章は救い主が死者の霊を訪れられたことに関して,ジョセフ・F・スミス大管長が受けた示現です。

1979年には,長年の準備の末に完成した末日聖徒版の欽定訳聖書がこの場所で教会員に紹介されました。

モルモン書,教義と聖約,高価な真珠の新しい版もここで教会員に発表されました。

ジョセフ・F・スミス大管長は,1908年の総大会において,知恵の言葉として知られる教義と聖約の第89章を読みました。それからスミス大管長と二人の顧問,十二使徒定員会の会長が,知恵の言葉という同じテーマで話しました。それから,これを教会員が守るべき戒めとして受け入れるという提議が,全員一致で受け入れられました。

その啓示はこう始まっています。「終わりの時に陰謀を企てる人々の心の中に今あり,また将来もある悪ともくろみのゆえに,わたしはあなたがたに警告を与えており,また,啓示によりこの知恵の言葉を与えることによって,あなたがたにあらかじめ警告するものである。」教義と聖約89:4

これは教会員,特に教会の若者に与えられた盾であり守りです。そして啓示の中で約束されている神の「武具」の一部となって,敵対する者の放つ「火の矢」から彼らを守るのです(教義と聖約27:15-18参照)。

教会も教会員一人一人もこれまで常にサタンに攻撃されてきました。その攻撃は現在も,また将来も続くでしょう。サタンは,静かな細い声を遮断する,あるいはかき消すために,意味不明の歌詞,もっと悪いときには聞くに堪えない歌詞の音楽を,騒々しく,耳障りな音でまき散らします。そしてあらゆる手段を駆使して誘惑し,わたしたちを誤った道へと抜かりなく誘うのです。

この場所で,主は啓示により,神権の位を明らかにされました。これによって「あらゆる国民,部族,国語の民,民族に」福音を携えて行き(教義と聖約133:37),彼らの中で主の教会を設立するという救い主の戒めを果たすために,扉が開かれたのです。

またこの場所で,モルモン書に「イエス・キリストについてのもう一つの証」という副題が付けられました。それ以来,この書物を開く人は,この副題を見て書物の内容を知ることができるようになりました。

この聖なる建物の中で受ける教え,説教,音楽,感情,御霊は,少しも損なわれることなく,何万という聴衆のいる近くのカンファレンスセンターへ届けられ,数多くの言語に通訳されて世界中の会衆に届けられます。

さらに,その御霊は家庭に入り,何百万人もの末日聖徒に届けられます。家庭では,両親が子供たちの幸福を願って祈っています。男性も女性も,そしてモルモン書に約束されているように,幼い子供たちさえも,イエス・キリストについての証(モーサヤ24:22アルマ32:233ニーファイ17:25参照)と主の福音が回復されたことについての証を受けることができるのです。

このテンプルスクウェアのタバナクルは「祈りの家,断食の家,信仰の家,栄光の家,また神の家,すなわち〔主の〕家」なのです(教義と聖約109:16)。ですから,この場所で話すよう招かれる人,音楽や芸術を披露するよう招かれる人は,ふさわしいものを提供する義務があるのです。

人の誉れを求めると,気づかぬうちに,この世でたどるべき唯一の安全な道から外れてしまうと聖文は警告しています(ヨハネ12:431ニーファイ13:92ニーファイ26:29ヒラマン7:21モルモン8:38教義と聖約58:39参照)。また「人の誉れを得ることを望」むとどうなるか,聖文は明白に警告しています(教義と聖約121:35)。

大切なのは,説教で何を聞いたかよりも,何を感じたかです。聖霊はその影響力を受けようとするすべての人に,メッセージが真実であり,この教会が末日聖徒イエス・キリスト教会であることを確認してくださいます。

タバナクルはまるで錨いかりのように神殿の隣に立ち,回復の象徴となっています。非常に貧しい,ごくごく平凡な人々によって建てられたものですが,今では世界に知れ渡っています。

この建物の名前を受けたタバナクル合唱団は,長年にわたって教会の声となってきました。彼らが果たしてきたその重要な使命から逸脱したり,離れたりすることがないように祈っています。

合唱団は何世代にもわたって,毎週の放送の始まりと終わりで,霊感あふれるメッセージを伝えてきました。それは,回復された原則が豊かに盛り込まれ,回復された教義に基づいたものでした。毎回「賛歌をささげん」(『賛美歌』84番)で始まり,「草の露は,主の」(『賛美歌』86番)で終わるのです。

タバナクルはふさわしい音楽と文化の偉大な中心として世界に存在してきました。しかし,何よりも,イエス・キリストの福音の回復を示す旗印として存在してきました。その純粋な証は,この建物の中で,あの初等協会の子供たちが敬虔に,啓示のような歌声で歌っていたときに,わたしの心に深く,永遠に植え付けられたのです。

この聖なる建物に,またこの中で行われるすべてのことに神の祝福がありますように。この建物が神聖さを失うことなく再生され,一新されたことを心から感謝しています。

十二使徒定員会のパーリー・P・プラット長老は,教義と聖約第121章から次の聖句を読みました。「絶えず徳であなたの思いを飾るようにしなさい。そうするときに,神の前においてあなたの自信は増し,神権の教義は天からの露のようにあなたの心に滴るであろう。

聖霊は常にあなたの伴侶となり,あなたの笏しゃくは義と真理の不変の笏となるであろう。そして,あなたの主権は永遠の主権となり,それは強いられることなく,とこしえにいつまでも,あなたに流れ込むことであろう。」(教義と聖約121:45-46

深く心を動かされたパーリー・P・プラット長老は,その思いを,祈りと言える賛美歌の詞として表現しました。長い年月,合唱団はこの賛美歌を毎週の放送の最後の歌として選んできました。

草の露は,

主のみ旨むねをなすため

降り来て その草,

よみがえらせり

恵みのみ教え

上よりくだし

主の愛のみ業

知らしめたまえ

主よ,み旨に添う

この集い見て

上より生命いのちの露,

そそぎたまえ

み前によらしめ

みたまをたまえ

人,皆主を賛め

喜びたたえん

(「草の露は,主の」『賛美歌』86番)

この聖なる奉献の日に,イエスがキリストであり,この建物が主の家であることについて,わたし自身の証を付け加えます。イエス・キリストの御名によって,アーメン。