あなたがたは再び生まれなければならない
キリストを信じる信仰により,わたしたちは霊的に備えられ,罪から洗い清められ,主の福音に浸され,福音を十分に吸収し,約束の聖なるによって清められ,結び固められます。
少年時代を過ごしたカリフォルニア州の家の比較的近くに,アンズ,サクランボ,桃,洋ナシ,そしてほかにもおいしい果実のなる果樹園がありました。またキュウリやトマトなど,様々な野菜を育てている畑も近くにありました。
少年のころ,いつも瓶詰めの季節を楽しみにしていました。ガラス瓶をごしごし洗ったり,暑い台所で作業をしたりするのは好きではありませんでしたが,母や父と働くことは好きでした。また,詰めているものを味見するのが大好きでした。果物は瓶詰めした量よりも,わたしのおなかに入った量の方が多かったことでしょう。
今でも,サクランボや桃の手作りの瓶詰めを見る度に,台所で父母と作業をしたときの思い出がよみがえります。果物や野菜を収穫して瓶詰めにしながら,物質的に自立することや倹約して生活することについて学びました。この基本的な教訓は生涯にわたって祝福となっています。興味深いことに,ありふれた普通の経験が最も重要な学びの機会となることがよくあります。
大人になってから,瓶詰め作りの季節に台所で見た光景についてよく考えました。今朝はキュウリがピクルスになるまでの工程から学べる,幾つかの霊的な教訓について話します。キリストのみもとに来て霊的に新しく生まれるうえで,わたしや皆さんにとって,これらの教訓がどのような意味を持つのか考えてみましょう。この場に聖霊がともにいてくださるよう願っています。
キュウリとピクルス
ピクルスは特定のレシピ(調理法)や手順に従ってキュウリが変化したものです。キュウリをピクルスに変えるための最初の手順は下ごしらえと洗浄です。家の裏口で何時間も,収穫したキュウリからへたを取り,泥をきれいに落としたことを思い出します。母はキュウリの下ごしらえと洗浄にはとても几き帳ちょう面めんでした。清潔さに関して高い基準があり,わたしがこの大切な作業を適切に行ったかどうかを必ず確認していました。
キュウリをピクルスに変えるための次の手順は,長時間キュウリを塩水に浸して塩分をしみ込ませることです。塩水を準備するとき,母はいつも祖母から教わったレシピを使いました。特殊な材料や緻ち密みつな工程を記したレシピです。キュウリがピクルスになるには,規定の時間,全体が完全に塩水に浸されていなければなりません。この処理工程がキュウリの構造を徐々に変え,ピクルスの透明感や特有の味を作り出します。塩水を時々振りかけたり,塩水にくぐらせたりするだけでは必要な変化は生じません。望む変化を生じさせるためには,一定の状態で,継続して,完全に浸すことが必要なのです。
処理工程の最後の手順は,保存処理したピクルスを,滅菌してきれいに洗った瓶に入れ,密閉(Sealing)することです。ピクルスは保存用の瓶に,沸騰した熱い塩水とともに入れ,その瓶を専用の湯煎鍋ゆせんなべの中で密閉処理します。出来上がったものが保護され,その鮮度が保たれるように,ピクルスと瓶の両方から不純物をすべて除去するのです。この工程を正しく行えば,長期間にわたってピクルスを保存し,堪能できます。
つまり,キュウリをピクルスにするには,下ごしらえして洗い,塩水に浸して塩分をしみ込ませ,滅菌した保存容器に入れて密閉しなければならないのです。この工程は時間がかかるもので,短縮できませんし,大切な手順はどれ一つといえども無視したり,避けたりすることができません。
大きな変化
権能を受けた主の僕たちは繰り返し,人が現世にいる第一の目的は,イエス・キリストの贖しょく罪ざいを通して霊的に変えられ,変化することであると教えてきました。アルマはこう述べています。
「全人類,すなわち男女を問わず,すべての国民,部族,国語の民,民族が再び生まれなければならないことを不思議に思ってはならない。まことに,人は神から生まれ,肉欲にふける堕落した状態から義の状態に変わって,神に贖われ,神の息子や娘にならなければならない。
このようにして,彼らは新たな者となる。このようにならないかぎり,決して神の王国を受け継ぐことはできない。」(モーサヤ27:25-26)
わたしたちはこう命じられています。「キリストのもとに来て,キリストによって完全になりなさい。神の御み心こころに添わないものをすべて拒みなさい。」(モロナイ10:32)さらに,キリストにあって「新しく造られ」(2コリント5:17参照),「生まれながらの人」を捨て(モーサヤ3:19),「悪を行う性癖をもう二度と持つことなく,絶えず善を行う望みを持つように,わたしたちの中に,すなわちわたしたちの心の中に大きな変化」を経験するように(モーサヤ5:2)命じられています。心に留めてほしいのは,これらの聖句が指す改心が小さなものではなく,大きなものであるという点です。すなわち,霊的に新しく生まれること,そして感情,願望,思考,行動,人格そのものが本質的に変化することを指すのです。実のところ,イエス・キリストの福音の真髄には,わたしたちの性質の根本的で永続的な変化が伴います。この変化は「聖なるメシヤの功徳と憐あわれみと恵み」に頼ることによって可能となります(2ニーファイ2:8)。主に従うことを選ぶとき,わたしたちは自分が主によって変えられること,すなわち霊的に新しく生まれることを選んでいるのです。
準備と洗浄
キュウリをピクルスにするには下ごしらえをして洗う必要があるのと同様に,皆さんもわたしも,「信仰の言葉と……良い教おしえの言葉」によって準備され(1テモテ4:6),まずアロン神権の権能によって執行される儀式と聖約を通して洗い清められます。
「そして,小神権が存続した。この神権は,天使の働きと備えの福音の鍵を持つものである。
この福音は,悔い改めとバプテスマと罪の赦しの福音……である。」教義と聖約84:26-27)
また,主は清さに関して高い標準を設けられました。
「それゆえ,あなたの子供たちに次のことを教えなさい。すなわち,どこにいる人でもすべての人が,悔い改めなければならない。そうしなければ,決して神の王国を受け継ぐことはできない。清くない者はそこに住むことができない,すなわち,神の前に住むことができないからである。」(モーセ6:57)
正しい準備と清めは,再び生まれる工程の最初の基本的な手順なのです。
浸され,十分に吸収する
塩水に浸され,塩分をたっぷり含んだキュウリがピクルスに変化するのと同じように,皆さんもわたしも,イエス・キリストの福音を吸収することで再び生まれます。交わした「聖約」を尊んで「守〔り〕」(教義と聖約42:13教義と聖約42:132ニーファイ32:3),「熱意を込めて御父に祈〔り〕」(モロナイ7:48),そして「〔わたしたちの〕心と,勢力と,思いと,力を尽くして神に仕え〔る〕」と(教義と聖約4:2),次の聖句のようになれます。
「あなたがたが交わした聖約のために,あなたがたはキリストの子と呼ばれ,キリストの息子および娘と呼ばれる。見よ,それは,今日キリストが霊的にあなたがたを子としてもうけられたからである。あなたがたは,キリストの御み名なを信じて心が改まったと言う。だから,あなたがたはキリストから生まれ,キリストの息子および娘となったのである。」(モーサヤ5:7)
この聖句が教える霊的再生は概して短時間で起きたり,一度に起きたりするものではありません。一つの出来事ではなく,継続的な過程なのです。教訓に教訓,規則に規則を重ね,徐々に,そしてほとんど気づかないくらい少しずつ,わたしたちの動機,思い,言葉,行いが神の御心に添うものとなっていきます。変化の過程におけるこの段階は,時間と根気,そして忍耐を要します。
キュウリをピクルスにするには,一定の状態で,継続して,完全に塩水に浸さなければなりません。そのため,塩は調理上の重要な役割を果たします。塩は聖文の中で,聖約および聖約の民の両方を表す象徴として頻繁に用いられています。そして,キュウリがピクルスに変化するうえで塩が欠かせないのと同様,聖約もわたしたちが霊的に新しく生まれるうえで欠かせないものです。
再び生まれる過程は,キリストを信じる信仰を働かせ,罪を悔い改め,神権の権能を持つ人によって罪の赦しを受けるために水に沈めるバプテスマを受けることから始まります。
「すなわち,わたしたちは,その死にあずかるバプテスマによって,彼と共に葬られたのである。それは,キリストが父の栄光によって,死人の中からよみがえらされたように,わたしたちもまた,新しいいのちに生きるためである。」(ローマ6:4)
バプテスマの水から出た後,わたしたちの霊は継続的に救い主の福音の光と真理に浸され,それらを吸収しなければなりません。キリストの教義に単発的に浅く浸され,回復された主の教会に時々参加するだけでは,「新しいいのちに生きる」ために必要な霊的な変化を引き起こすことはできません。永遠の祝福を享受するためには,聖約を忠実に守り,絶えず決意を強め,自分自身を神にささげることが必要です。
「わたしはあなたがたがイスラエルの聖者であるキリストのもとに来て,キリストの救いと,キリストの贖いの力にあずかるように望んでいる。まことに,キリストのもとに来て,自分自身をキリストへのささげ物としてささげ,断食と祈りを続け,最後まで堪え忍びなさい。そうすれば,主が生きておられるように確かに,あなたがたは救われるであろう。」(オムナイ1:26)
救い主の福音に完全に浸り,福音を十分に吸収することは,再び生まれる過程において不可欠の手順です。
清めと結び固め
塩漬けにしたキュウリは,滅菌した瓶に詰めて熱処理します。不純物を取り除き,外から雑菌が入らないように瓶を密閉するためです。熱湯に入れる過程により,ピクルスを長期間保護し,保存できるようになります。同様に,皆さんもわたしも小羊の血によって洗われ,再び生まれ,メルキゼデク神権の権能によって執行される儀式を受け,聖約を尊ぶときに,清められ,心の聖きよめを受けます。
「それでも彼らは,しばしば断食して祈り,ますます謙けん遜そんになり,ますますキリストを信じる信仰を確固としたものにしたので,喜びと慰めで満たされ,まことに清められ,心の聖めを受けた。この聖めは,彼らが心を神に従わせたために受けたのである。」(ヒラマン3:35)
今日のわたしの話に出てくる「結び固め(Sealing)」という言葉は,主の宮で執り行われる永遠の結婚の儀式だけを指しているわけではありません。わたしはこの言葉を,教義と聖約第76章に説かれているような意味で用いています。
「正しい者の復活の時に出て来る人々に関するキリストの福音の証はこれである。
すなわち,彼らはイエスの証を受け入れ,その名を信じ,そしてイエスの名によって水の中に沈められ,イエスから与えられた戒めのとおりにその埋葬に倣ってバプテスマを受けた者である。
それは戒めを守ることによって,彼らが自分のすべての罪から洗われて清くされ,この力を持つように聖任され結び固められている者の按あん手しゅによって聖なる御霊を受けるためである。
また,彼らは信仰によって勝利を得,御父が正しくかつ真実な者すべてに注がれる約束の聖なる御霊により結び固められている者である。」(50-53節)
約束の聖なる御霊とは,聖霊がお持ちの結び固めの力です。一つの儀式,誓い,あるいは聖約が,約束の聖なる御霊によって結び固められると,地上においても天においても結び固められます(教義と聖約132:7参照)。聖霊からのこの「承認の印」は,「時がたって」(モーセ7:21),わたしたちが福音の聖約を尊ぶことへの忠実さ,誠実さ,そして堅固さを示して初めて,与えられます。しかしながら,この結び固めは不義や背きによって解かれてしまいます。
約束の聖なる御霊による清めと結び固めは,再び生まれる過程における最高の段階です。
「心を込めて」
愛する兄弟姉妹の皆さん,このピクルスのたとえが,生活を吟味し,霊的に新しく生まれることの永遠の重要性をより理解する助けになるように願っています。アルマと同じように,「わたしは心を込めて語って」きました(アルマ5:43)。
「わたしの愛する同はら胞からとこの地に住むすべての人に教えを説き,まことに,老いた人にも若い人にも,束縛された人にも自由な人にも,まことに,老人にも中年の人にも青年にも,すべての人に教えを説き,まことに,彼らに悔い改めて再び生まれなければならないことを叫び求めること,これが,わたしが召された位である。」(アルマ5:49)
救い主が確かに生きていて神の御子であられること,また,みもとに来て変化を遂げるようにわたしたちを招いておられることを証します。預言者ジョセフ・スミスを通して主の教会と神権の権能が回復されたことを証します。キリストを信じる信仰により,わたしたちは霊的に備えられ,罪から洗い清められ,主の福音に浸され,福音を十分に吸収し,約束の聖なる御霊によって清められ,結び固められます。こうして再び生まれることができるのです。イエス・キリストの聖なる御名により,アーメン。