神権と個人の祈り
わたしたちがどんな状況にあっても,神はわたしたちに神権の力をお与えになることができます。ただ必要なのは,謙遜に祈り求めることです。
神の信頼を受けて,世界中の神の神権者に向けてお話しできることに感謝します。主がどれほど皆さんに信頼を抱いておられるかを知っているので,この責任の重さを痛感しています。皆さんは神権を受けたとき,神の御名によって語り,行動する権利を受けました。
この権利は,神の霊感を受けて初めて現実のものとなります。そのとき初めて神の御名によって語り,神の御名によって行動することができるのです。皆さんはこれまで「ああ,それはそんなに難しいことじゃない。話をするように頼まれたときや,神権の祝福を授けなければならないときには,霊感を受けられるのだから」というように,思い違いをしてきたかもしれません。また若い執事や教師の皆さんは「もっと年を取ったら,あるいは宣教師に召されたら,神が何を語り,行おうとしておられるか分かるだろう」と気楽に考えているかもしれません。
神が何を語り,何を行おうとしておられるかを知る必要のある瞬間について考えてみてください。神権のどの職にあっても,わたしたち全員が,そのような瞬間を経験したことがあるはずです。第二次世界大戦のさなか,わたしは合衆国東部の会員の少ない地域で少年時代を過ごしました。教会員同士は遠く離れて住んでおり,ガソリンを買うのにも制限がありました。わたしは支部でたった一人の執事でした。会員たちは我が家で開かれる断食証会で断食献金の封筒を支部会長に渡しました。
13歳のとき,家族はユタに引っ越し,大きなワードに集うようになりました。最初に受けた責任は,家々を回って断食献金を集めることでした。封筒に書かれた名前の中に,モルモン書の3人の証人の一人と同じ名前があることに気づきました。意気揚々とドアをノックすると,男性がドアを開け,わたしを怒ったようににらみつけ,どなって追い払いました。わたしは意気消沈してその家を後にしました。
もう70年近くがたちますが,そのとき何か言うべきことやなすべきことがあったのではないかと感じたのを今でも覚えています。その日,出かけるときに信仰を持って祈っていたら,その玄関でもう少し踏みとどまり,笑顔で「お会いできてうれしいです。以前あなたやご家族がしてくださった献金に感謝します。来月,またお会いできるのを楽しみにしています」と語るよう霊感を受けていたのではないかと思うのです。
もしわたしがそのように語り,行っていたとしたら,男性はもっといらいらして腹を立てていたかもしれません。でも,自分がどのように感じたかは分かります。悲しい思いや挫折感の代わりに,「よくやった」という温かな承認を心と思いで感じながらそこを立ち去ったことでしょう。
準備する時間がないときに,そのような瞬間が訪れることもあります。わたしはそれを何度も経験しました。それは何十年も前に,病院で起こりました。わたしと同僚は一人の父親から,命に関わる重傷を負った3歳の娘の命があと数分しかないと医師から告げられたと聞きました。神の僕として,彼女の頭の包帯で覆われていない部分に手を置いたわたしは,神が何を語られ,何を行われるかを知る必要がありました。
「娘は生き延びる」という言葉が思いに告げられ,わたしはそれを声にしました。そこに居合わせた医師たちはあきれた声を上げ,じゃまだからどいてほしいとわたしに言いました。わたしは平安と愛を感じながらその病室を後にしました。その少女は生き長らえ,わたしがその町に滞在した最後の聖餐会に,自分の足で通路を歩いて入って来たのです。その少女と家族のために主に仕えて語り,行ったことについて感じた喜びと満足感を今も忘れません。
病院で感じた思いと,執事のときに訪れた男性の家を後にしたときの悲しみとの差は,祈りと神権の力の関係について学んだことで生まれたものです。執事だったわたしは,神の御名によって語り,行動する力には啓示が必要であり,必要なときに聖霊を伴侶とするには祈りと信仰の業が欠かせないことを学んでいなかったのです。
断食献金を集めにその男性の家を訪れる前の晩,わたしは寝る前に祈りました。しかし,病院からの電話を受ける前,何週間,何か月もの間,祈りの規範に従い,ジョセフ・F・スミス大管長が教えたように,神権に力を込めるのに必要な霊感を頂けるよう努力を重ねました。スミス大管長は簡潔にこう述べています。
「わたしたちは多くの言葉を用いて神に叫び求める必要はありません。長い祈りで神をうんざりさせる必要はありません。わたしたち自身のために必要なこと,また末日聖徒としてなすべきことは,主の前にしばしば行って,わたしたちが主を覚えていること,進んで主の名を受け,主の戒めを守って義を行いたいと望み,主の御霊の助けを願っていることを明らかにすることです。」1
またスミス大管長は,主の僕として神の代わりに語り,行動するために,何について祈るべきかに関して次のように教えました。「何のために祈っているのでしょうか。神があなたがたを認め,あなたがたの祈りを聞き,御霊によってあなたがたを祝福し……てくださるように祈ってください。」2
どの言葉を用いるかはそれほど問題ではありませんが,忍耐が必要となるでしょう。個人的に気づき,認めていただけるように,天の御父に近づくのです。神は全ての者のうえにおられる神であり,あらゆるものの父であられるにもかかわらず,御自分の子供一人一人に惜しみない関心を向けようとしてくださっているのです。だからこそ,救い主は「父よ,御名があがめられますように」3という言葉を使われたのでしょう。
ひざまずき,頭を垂れているときに敬虔なふさわしい思いを持つのは容易ですが,もっと気楽な,あるいは声に出さない祈りであっても,天の御父に近づいているのだという実感を持つことは可能ですし,神権の奉仕を行う際には,頻繁にそうする必要があります。日中ほとんどの場合は,周りはうるさく,人に囲まれているでしょう。神は声に出さない祈りを聞いてくださいますが,皆さんは気をそらすものを意識から締め出すすべを身につけなければなりません。なぜなら,神と交わる必要のある瞬間は,静かな時間に訪れるとは限らないからです。
スミス大管長は,神に仕えるあなたの召しに神が気づき,認めてくださるよう祈る必要があると言いました。神はすでにあなたの召しについて完全に,詳細にわたって御存じです。神が皆さんを召してくださったので,皆さんが自分の召しについて神に祈ることにより,神はさらに多くのことを示し,知らせてくださるのです。4
ホームティーチャーが祈りながらどんなことを行えばよいか,例を示しましょう。皆さんはすでに御存じだと思いますが,ホームティーチャーの義務とは―
「各会員の家を訪れて,彼らが声に出して祈り,ひそかにも祈るように,また家庭におけるすべての義務を果たすように勧め……
……常に教会員を見守り,彼らとともにいて彼らを強め……
教会の中に罪悪がないように,互いにかたくなになることのないように,偽り,陰口,悪口のないように取り計ら〔い〕……
また教会員がしばしば会合するように取り計らい,またすべての会員が自分の義務を果たすように取り計らうこと」です。5
経験豊富なホームティーチャーとその後輩同僚にとってでさえ,聖霊の助けなしにそれを行うのは明らかに不可能です。皆さんが仕えるよう召されている家族や個人について考えてください。人の判断や良い動機だけでは十分ではありません。
そこで,訪問先の人々の思いや,よく知らない人々,皆さんに自分のことを知ってもらいたいと思っていない人々の生活や心の問題を知る方法を求めて祈るのです。人々を助けるために神が皆さんに何をするように望んでおられるかを知り,神がその人々に対して抱いておられる愛を感じながら最善を尽くしてそれを果たす必要があるのです。
それほど重要で難しい神権の召しが与えられているからこそ,祈るとき,主の御霊が注がれるよう神に常に請い求めるように,とスミス大管長は勧めています。神が聖霊を常にわたしたちの伴侶としてくださるのは,わたしたちが聖霊を一度だけでなく,頻繁に必要としているからです。だからこそ,神の子供たちに仕えるうえで神の導きがあるよう,常に祈らなければならないのです。
御霊がともになければ,神権の本来の力を発揮できないので,あらゆる幸福の敵の標的になってしまいます。罪を犯すように誘惑されれば,御霊によって導かれる力は弱められ,神権における力も低下してしまいます。だからこそ,スミス大管長は,神が警告してくださり,悪から守られるように常に祈らなければならないと語ったのです。6
神は多くの方法で警告してくださいます。警告は救いの計画の一部です。預言者,使徒,ステーク会長,ビショップ,宣教師は皆,イエス・キリストを信じる信仰,悔い改め,そして神聖な聖約を交わし,守ることによって災いから逃れるよう警告の声を上げています。
神権者である皆さんには,主の警告の声を発する責任があります。でもまずは自分自身が警告の声を聞く必要があります。日々の生活で聖霊を伴侶として守りを得なければ,霊的に生き残ることはできないからです。
それを得るためには祈り,努力しなければなりません。その導きがあって初めて,暗黒の霧の中,細くて狭い道を見いだすことができるのです。聖霊は皆さんの導き手となって,皆さんが預言者の言葉を研究するときに真理を明らかにしてくださるのです。
その導きを受けるには,ただ何気なく聞いたり読んだりしているだけでは十分ではありません。真理の言葉が心に刻まれるように信仰をもって祈り,努力する必要があります。神がその御霊を注いでくださるように,そして皆さんをあらゆる真理に導き,正しい道を示してくださるように祈らなければなりません。神はそのようにして皆さんに警告を与え,人生にあって,また神権の奉仕において,正しい道に導いてくださるのです。
総大会は,神の神権によって仕える力を主に強めていただくすばらしい機会です。この大会のためにも皆さんがしてくださったと確信していますが,祈りによって自分を備えることができます。この大会で祈りをささげる人々と信仰を共にすることができます。多くの人々に多くの祝福が注がれるように祈りがささげられるでしょう。
主の代弁者である預言者に御霊が注がれるように,また使徒や神によって召されたすべての僕のために祈りがささげられるでしょう。その僕には皆さんのように新たに召されたばかりの執事から経験豊富な大祭司まで全ての兄弟たちが含まれます。中には,間もなく霊界に召され,「良い忠実な僕よ,よくやった」7という主の声を聞く年配の兄弟や若い兄弟たちもいるかもしれません。
この主の祝福の言葉を聞いて驚く人もいるでしょう。その中には地上の神の王国において高い職に就いたことのない人,自分の働きからは何の実りもなかったと感じている人,また奉仕の機会がなかったと感じている人もいるかもしれません。また,この世での奉仕の期間が望んでいたほど長くなかったと感じている人もいるかもしれません。
受けていた職や奉仕した時間は主にとって重要ではありません。ぶどう園の働き人についての主のたとえの中で,働いた時間や場所に関わらず賃金が同じだったことからも分かります。どのように奉仕したかで報酬が与えられるのです。8
現世というぶどう園での働きを昨晩の11時に終えた,愛する友である男性を知っています。彼は,何年も治療を受け,非常な痛みと困難を経験してきましたが,その間も自分の所属するワードで子供がすでに巣立っていった会員たちと何度も集会を開き,彼らを助ける召しを受け,果たしてきました。中には夫に先立たれた姉妹たちもいました。彼の召しはともに集い福音を学ぶことで慰めを見いだせるよう彼らを助けることでした。
余命わずかという最終宣告を受けたとき,彼のビショップは出張で町を離れていました。2日後,彼は大祭司グループリーダーを通してビショップにメッセージを送り,自分の責任についてこのように伝えました。「ビショップは町を離れていらっしゃるので,わたしたちのグループの次の月曜の集会について計画を立ててみました。二人の会員がカンファレンスセンターの見学にわたしたちを連れて行ってくれます。何人かの会員に車を運転してもらい,ボーイスカウトの兄弟たちに車いすを押してもらいます。参加人数によっては,年配の自分たちだけで足りるかもしれませんが,必要な場合に備えて助けがあればなおよいでしょう。助けてくださる方々も家族を連れて来れば,良い家族活動になるかもしれません。以上,何かあれば計画の連絡を回す前にお知らせください。……ありがとうございます。」
ビショップは彼からの電話を受けて驚きました。自分の状態や自分の割り当てに対する勇敢な努力には全く触れることなく,「ビショップ,何かわたしにできることはありますか」と尋ねたのです。これほどの大きな重荷を抱えているにも関わらずビショップの重荷を思いやることができたのは,聖霊の影響力以外の何ものでもありません。また,若いときにボーイスカウトの計画を綿密に立てたのと同じように,兄弟姉妹に仕えるための計画を練ることができたのもやはり,御霊によるものでした。
信仰の祈りをささげるとき,わたしたちがどんな状況にあっても,神はわたしたちに神権の力をお与えになることができます。ただ必要なのは,神がわたしたちに何を語り,何を行うように望んでおられるかを御霊によって示していただけるように謙遜に祈り求め,そしてその賜物にふさわしい生活を続けることです。
父なる神が生きておられ,わたしたちを愛し,すべての祈りを聞いておられることを証します。イエスが生けるキリストであり,主の贖罪によってわたしたちは清められ,聖霊を伴侶とするにふさわしくなれることを証します。信仰と従順によっていつの日か「良い忠実な僕よ,よくやった」という言葉を,喜びをもって耳にすることができると証します。9わたしたちが仕える主からこのすばらしい祝福の言葉を受けられるよう祈ります。イエス・キリストの御名により,アーメン。