2010–2019
救い主の真の弟子
2019年10月総大会


10:54

救い主の真の弟子

救い主と主の福音という枠組みの中で生活を築くとき,永続する喜びを感じることができます。

旧約聖書のハガイ書のあまりなじみのない箇所に,ホランド長老の勧告を活用すべきだった民についての記述があります。彼らの過ちは,キリストを生活と奉仕の中心に据えなかったことにありました。ハガイは,民が主の神殿を建てずに居心地のよい家にとどまっていることを主が叱責される様子を,示唆に富んだ言葉で描写しています。

「主の家はこのように荒れはてているのに,あなたがたは,みずから板で張った家に住んでいる時であろうか。

それで今,万軍の主はこう言われる,あなたがたは自分のなすべきことをよく考えるがよい。

あなたがたは多くまいても,取入れは少なく,食べても,飽きることはない。飲んでも,満たされない。着ても,暖まらない。賃銀を得ても,これを破れた袋に入れているようなものである。

万軍の主はこう言われる,あなたがたは,自分のなすべきことを考えるがよい。」

神に関することよりも,永遠の価値を持たないものを優先させることの無益さが見事に表現されていると思いませんか。

最近出席した聖餐会で,ある帰還宣教師が,このことを見事に表現した父親の言葉を引用しました。「必要なのは,Wi-Fiから離れてニーファイのようになることです!」と。

西アフリカに住んでいた5年の間,ごく自然に,恥じることなく福音を優先させる人々の模範を何度も目にしました。その一つは,ガーナにある,タイヤ修理と車輪アラインメント(車輪のバランス調整)を行う店の名前です。店主はその店を「御心アラインメント」と名付けたのです。

救い主と主の福音という枠組みの中で生活を築くとき,永続する喜びを感じることができます。 しかし,その枠組みがこの世のことに取って代わられるのは非常に簡単で,福音が付属的なものになったり,単に日曜日に2時間教会に出席するだけのものになったりします。そのような場合,賃金を「破れた袋」に入れていることに等しくなるのです。

ハガイはわたしたちに全力を尽くすよう言っています。つまり,福音に従うことについて,オーストラリアで言う「fair dinkum(フェアディンクム)」であるよう教えています。人はその人が言うとおりの人間であるとき,フェアディンクムであると言います。

わたしはラグビーを通して,フェアディンクムであることと全力を尽くすことについて学びました。全力を尽くしてプレーしたとき,すなわち自分のすべてを出し尽くしたときに,試合から最大の喜びを感じることを学びました。

ビンソン長老とラグビーのチームメイト

高校を卒業した翌年が,ラグビー人生で最良の年でした。所属していたチームは,才能もあり,勤勉で,その年に優勝することができました。ところがある日,ランクの低いチームと対戦することになり,わたしたちは皆その試合の後で,年に1度の大規模な大学のダンスパーティーに,デートの相手を連れて行く予定になっていました。簡単な試合になるだろうから,けがをしないよう身を守り,ダンスパーティーを十分に楽しもうとわたしは考えていました。そしてその試合で,いつもほど一生懸命に相手とぶつかろうとせず,試合に負けてしまいました。さらに悪いことに,試合が終わってみると唇は腫れ上がり,大事なデートだというのにひどい顔になっていました。おそらく,何かを学ぶ必要があったのでしょう。

その後の別の試合で,全力を尽くして臨み,まったく異なった経験をしました。全力でぶつかって行く覚悟で走っていると,突然顔に痛みを感じました。痛みを感じていることを決して敵に悟らせてはならないと父に教わっていたので,試合が終わるまでプレーを続けました。その晩,食事をしようとすると,物をかめないことに気づきました。次の朝病院に行きレントゲンを撮ると,あごの骨が折れていたのです。その後6週間,口は針金で閉じられたままでした。

腫れた唇とあごの骨折から,わたしは教訓を得ました。6週間,流動食しか摂取できず,固形食品に対する欲求が満たされなかった記憶はありますが,全力を尽くした結果あごを骨折したので,後悔はまったくありませんでした。一方で,以前経験したあの腫れた唇は力の出し惜しみを表していたので,強い後悔があります。

全力を尽くしたからといって常に祝福を受けたり,成功したりするというわけではありません。しかし喜びを得ることはできます。喜びとは,つかのまの楽しみでもなければ,一時的な幸せでもありません。喜びとは永続するものであり,主に受け入れていただくための努力によって得られるものです。

主に受け入れられることの例として,オリバー・グレインジャーの話があります。ボイド・K・パッカー会長はこのように述べました。「聖徒たちが……カートランドから追放され……たとき,オリバーはたとえわずかな金額ででも聖徒たちの財産を売却するために後に残りました。うまく事が運ぶ見込みはあまりなく,実際,芳しい成果は得られませんでした。」オリバーは,困難,あるいは不可能な任務を大管長会から任されていました。しかし,主は一見失敗に終わったオリバーの取り組みについて,このように褒めておられます。

「わたしの僕オリバー・グレインジャーを,わたしは覚えている。見よ,まことに,わたしは彼に言う。彼の名前は代々とこしえにいつまでも,神聖に覚えられるであろう,と主は言う。

それゆえ,彼はわたしの教会の大管長会の負債償却のために熱心に働きなさい……。彼は倒れるとき,再び起き上がるであろう。彼の犠牲は彼が増し加えるものよりもわたしにとって神聖だからである……。」

これはすべての人に当てはまることかもしれません。主にとって大切なのは,わたしたちの成功ではなく,犠牲と努力なのです。

イエス・キリストの真の弟子のもう一つの例は,西アフリカのコートジボワールの友人です。このすばらしい忠実な姉妹は,長い間,夫からひどい情緒的,身体的な虐待を受け,やがて離婚しました。彼女は信仰と善良さを失うことは決してありませんでしたが,夫の残虐な行為のために長い間深く傷ついていました。彼女はその出来事についてこのように書いています。

「夫を赦すとは言ったものの,昼夜を問わず,常に傷を抱えて過ごしていました。心にやけどを負っているようでした。その傷を取り除いていただきたいと主に何度も祈りましたが,痛みがあまりに強かったために,一生なくならないと強く思っていました。それは,若いときに母を失ったときよりも,父を失ったときよりも,さらには息子を失ったときよりも激しい痛みでした。それは広がって心を覆い,いつ死んでもおかしくないと思うようになりました。

また別のときには,救い主ならこの状況でどうされただろうと自問しながらも,『主よ,わたしには耐え切れません』と言うわたしがいるのです。

ある朝,この経験から生じた痛みを,心の中,さらに,もっと深く掘り下げ,魂の中まで探しましたが,なくなっていたのです。頭の中で,自分が傷ついていた理由をすべて,さっと振り返りましたが,やはり痛みを感じませんでした。一日中,心に痛みを感じるのを待っていましたが,感じませんでした。わたしはひざまずき,主の贖いの犠牲の効力を及ぼしてくださった神に感謝しました。」

この姉妹は現在,彼女を深く愛する,すばらしい,忠実な男性と幸せに結び固められています。

キリストの真の弟子であるならば,わたしたちはどのような姿勢であるべきでしょうか。ハガイが提案したように「自分のなすべきことをよく考える」ときに,わたしたちにとって福音はどのような価値があるでしょうか。

わたしは,ラモーナイ王の父が示した正しい姿勢の模範が好きです。レーマン人が嫌うニーファイ人のアンモンと自分の息子が一緒にいるのを見て,初めは王が怒ったのを皆さんは覚えているでしょう。王はアンモンと闘うために剣を抜きましたが,すぐにアンモンの剣が自分に突き付けられていることに気づきました。「すると王は,命を失うのを恐れて,『わたしの命を助けてくれれば,おまえの求めるものは何でも与えよう。王国の半分でも与える』と言った。」

命の代わりに王国の半分を与える,と申し出たのです。

ところがその後,福音を理解すると,別の申し出をします。「王は言った。『あなたの語ったこの永遠の命を得るには,わたしは何をすればよいのか。 まことに,わたしは何をすれば,この悪い霊をわたしの胸からことごとく取り除いて,神から生まれ,神の御霊を受けて,喜びに満たされ,終わりの日に捨てられなくて済むのか。見よ,この大きな喜びを得るために,わたしは持ち物をすべて捨てよう。 まことに,王位も譲ろう。』」

このときは,王国をすべて捨てる用意がありました。福音には,自分の持ち物すべてにも勝る価値があったからです。彼は福音に対してフェアディンクムでした。

ここで自問してみましょう。わたしたちも福音に対してフェアディンクムでしょうか。中途半端な態度はフェアディンクムとは言えません。神は,なまぬるい人を称賛する御方ではありません。

どのような宝や趣味,地位やソーシャルメディア,テレビゲームやスポーツ,有名人との交流,そして地上のどのようなものであれ,永遠の命よりも貴いものはありません。ですから主は一人一人に「自分のなすべきことをよく考える」よう勧告しておられるのです。

ニーファイのこの言葉がわたしの気持ちを最もよく言い表しています。「わたしは率直さに誇りを感じ,真理に誇りを感じる。また,イエスがわたしを地獄から贖ってくださったので,わたしはイエスを誇りとする。」

わたしたちは,すべてをささげてくださった御方の真の弟子でしょうか。この御方は贖い主であり,御父にわたしたちの執り成しをしてくださる弁護者です。贖いの犠牲を全力で払い,現在も完全な愛と憐れみをもってわたしたちが永遠に喜びを得られるよう望んでおられます。この言葉を聞いたり読んだりするすべての人に懇願します。どうか,あなたの完全な決意を,いつとも知れない将来まで先延ばしにしないでください。今すぐフェアディンクムになり,喜びを感じてください。イエス・キリストの御名により,アーメン。