2010–2019
あなたの大いなる冒険
2019年10月総大会


17:58

あなたの大いなる冒険

救い主はわたしたちに,日々,心地良さと安楽を脇に置き,主とともに弟子としての道を歩むよう招いておられます。

ホビットについて

何年も前に書かれた子供向けの人気ファンタジー小説は次の言葉で始まります。「地面の穴のなかに,ひとりのホビットが住んでいました。」

ビルボ・バギンズを主人公とするこの物語は,このうえなく非凡な機会を与えられた,ごく普通で平凡な一人のホビット〔訳注—中つ国に住む架空の小人の種族〕の話です。それは,冒険と大いなる報いの約束を伴うすばらしい機会となりました。

問題は,誇り高きホビットの大半が,冒険などとはかかわりたくないと思っていることです。ホビットにとって生活の快適さがすべてなのです。手に入るなら一日6食を楽しみ,日がな一日自宅の庭で過ごしては,訪ねて来る客と語り合い,歌い,楽器を奏で,素朴な生活の喜びに浸っているのでした。

けれども,壮大な冒険が予想される機会を与えられたとき,ビルボの心の奥深くから何かがふつふつと沸き上がってきます。困難な旅になることは始めから分かっていました。もちろん危険が伴うことも。戻って来れない可能性さえあります。

それでも,冒険へといざなう声が心の奥底にまで響きわたります。そして,この特に注目を引くことのないホビットは,快適な生活を後にして,「ゆきてかえりし」あらゆる道へと向かわせる壮大な冒険の旅に出発するのです。

皆さんの冒険

この物語が多くの人の心に響く理由の一つは,恐らくそれがわたしたち自身の物語でもあるからでしょう。

わたしたちが生まれる前,時の流れによってぼやけ,記憶が定かでない,はるか昔のこと,わたしたちもまた冒険の旅に出立するよう招かれました。天の御父であられる神によって提案された旅です。この冒険を受け入れることは,御父のすぐそばにいる心地良さと安全から離れることを意味していました。未知の危険と試練に満ちた旅に出て地上に来ることを意味していたのです。

容易ではないことは分かっていました。

しかし,貴重な宝を手に入れるであろうこと,すなわち肉体を得,現世における大きな喜びと悲しみを経験することもまた知っていました。わたしたちは努力し,探し求め,奮闘することを学ぶでしょう。神とわたしたち自身について,真理を見いだすでしょう。

もちろん,旅路の途中で多くの間違いを犯すことも分かっていました。しかし,わたしたちはある約束を受けてもいました。イエス・キリストの大いなる犠牲のおかげで,わたしたちは背きから清められ,霊的に精練され,清められ,いつの日か復活して愛する人々と再び会えるのです。

わたしたちは神がどれほど自分を愛しておられるか知っていました。主はわたしたちに命を与え,わたしたちが成功するよう望んでおられます。それで,わたしたちのために救い主を備えてくださったのです。「それでも,あなたは自分で選ぶことができる。それはあなたに任されているからである」と天の御父は言われました。

現世の冒険が,神の子供たちにとって心痛や脅威をはらむものになるのは明らかでした。それは,わたしたちの霊の兄弟姉妹の多くがその機会を拒むことにしたことから分かります。

道徳的な選択の自由という賜物と力により,わたしたちは,自分が学び得る事柄,永遠になり得る姿には,危険を冒す価値が十分あると判断しました。

こうして,人は神とその愛される御子の約束と力を信頼して,そのチャレンジを受け入れたのです。

わたしもそうしました。

皆さんもそうしたのです。

第一の位がもたらす安全を離れ,それぞれが自身の「ゆきてかえりし」大いなる冒険の旅に出たのです。

冒険への招き

それにしても,現世の生活には,わたしたちを道からそらすものが多くあります。大いなる探訪の目的を見失い,成長と進歩よりも,心地良さと安楽さを好みがちです。

それでも,わたしたちの心の奥底には,より気高く,崇高な目的を渇望する,否定し難い何かが常にあるのです。この渇望こそ,人々がイエス・キリストの福音と教会に引きつけられる理由の一つです。ある意味で回復された福音は,ずっと昔にわたしたちが受け入れた冒険への再度の招きなのです。救い主はわたしたちに,日々,心地良さと安楽を脇に置き,主とともに弟子としての道を歩むよう招いておられます。

この道には曲がりくねった箇所が多くあります。丘や谷,そして回り道もあります。クモやトロール〔訳注—北欧神話で,洞穴などの隠れ処に住む巨人・小人〕,龍にたとえられるものさえ立ちはだかるかもしれません。それでも,道にとどまり神を信頼し続けるならば,いずれ皆さんは栄光に満ちた目的地に至る道を見いだし,天の家に戻ることができるでしょう。

では,どのように始めればよいでしょうか。

その方法はとてもシンプルです。

神に心を傾ける

まず,神に心を傾けることを選ぶ必要があります。日々神を見いだすよう努力してください。神を愛することを学んでください。それから,その愛に触発されて神の教えを学び,理解し,それに従うようにするのです。そして,神の戒めを守ることを学んでください。イエス・キリストの回復された福音は,子供にも理解できるシンプルで分かりやすい方法で与えられます。それでいて,イエス・キリストの福音には,人生における最も複雑な質問に対する答えがあります。それは,生涯にわたって学び続け,深く考え続けても,ごく一部しか理解できないくらい,非常に深遠かつ複雑な真理です。

皆さんが自分の能力を疑うがゆえにこの冒険に出るのをためらっているならば,弟子の道とは完璧に物事を行うことではないことを忘れないでください。弟子の道とは明確な意志を持って物事に取り組むことなのです。皆さんは自らの選びによって,自分がほんとうは何者であって,その能力をはるかに超える存在であることを示すのです。

たとえ失敗しても,皆さんは諦めるという選択をすることもできれば,勇気を見いだして立ち上がり,前進することもできます。それこそがこの旅における究極のテストなのです。

神は皆さんが不完全で,時には失敗するであろうことを御存じです。神は,勝利する皆さんと同じように,苦しみ悩む皆さんを愛しておられます。

愛に満ちた親と同様に,神は皆さんが明確な意思をもって努力し続けることを望んでおられるのです。弟子になるとは,ピアノの弾き方を学ぶようなものです。最初は,「チョップスティックス」といった簡単な曲を,かろうじて何の曲か分かるぐらいにしか弾けないかもしれません。それでも,練習し続けるなら,その簡単な曲がいつかはすばらしいソナタやラプソディーやコンチェルトに取って代わるようになるでしょう。

その日はこの生涯の間には来ないかもしれませんが,いつかやって来ます。神が願われるのはただ一つ,皆さんが強い意志をもって努力し続けることです。

愛をもって人々に手を差し伸べる

皆さんが選んだこの道には,興味深く,ほとんど逆説的とも言える点があります。それは,福音の冒険において皆さんが進歩する唯一の方法は,ほかの人々もまた進歩するように助けることだということです。

人を助けることこそ,弟子の道です。信仰,希望,愛,思いやり,そして奉仕がわたしたちを弟子として精練するのです。

貧しい人々,困っている人々を助けるべく,また苦しんでいる人々に手を差し伸べるべく努力することを通して,皆さん自身の人格が清められ,鍛錬されます。皆さんの霊性が高められ,以前よりも胸を張って堂々と歩めるようになるのです。

しかし,この愛は無償の愛でなければなりません。人の承認や称賛,好意を求めるような奉仕であってはなりません。

イエス・キリストのまことの弟子は,見返りを求めずに神とその子供たちを愛します。わたしたちは期待を裏切る人や,自分たちを嫌う人を愛します。自分たちをあざけり,虐待し,傷つけようとする人でさえも愛するのです。

キリストの純粋な愛で心を満たすとき,恨みを抱いたり,裁いたり,辱めたりする余地はなくなります。神を愛するがゆえに,皆さんは神の戒めを守るのです。その過程で,皆さんは思いや行いにおいて少しずつ,さらにキリストに似た者となります。この旅に勝る冒険が,ほかにあり得るでしょうか。

経験談を分かち合う

この旅においてわたしたちが習得すべく努め励むことの3つ目は,イエス・キリストの御名を受けて,イエス・キリストの教会の会員であることを恥じないことです。

わたしたちは自分の信仰を隠しません。

地に埋めたりしません。

むしろ,ごく普通で自然な方法でほかの人に自分の旅について話します。友人とはそうするものです。自分にとって大切な事柄や,心にかけている事柄で,自分に影響を及ぼしていることについて話します。

皆さんもそうしています。末日聖徒イエス・キリスト教会の会員として自分が経験した物語を話すのです。

時にその経験談は人の笑いを誘うでしょう。時に人の涙を誘うでしょう。時に,人々がもう一時間,もう一日と,忍耐と快活さと勇気を持って立ち向かい続け,もう少し神に近づけるよう助けてくれます。

皆さんの経験談を,個人的に,ソーシャルメディア上で,またグループ内で,そしてどこででも分かち合ってください。

イエスが最後に弟子たちにお告げになったことの一つは,世界中に出て行き,よみがえったキリストの話を伝えることでした。今日わたしたちは,その大いなる務めを喜んで受け入れています。

わたしたちが分かち合うべきメッセージは,何と輝かしいものでしょうか。イエス・キリストのおかげで,すべての男女,子供が安全に天の家へ戻り,そこで栄光と義のうちに住むことができるからです。

分かち合うのにさらに良い知らせがあります。

それは,この時代に,神が人に御姿を現されたことです。わたしたちには生ける預言者がいます。

申し上げておきますが,皆さんが回復された福音やイエス・キリストの教会を「売り込む」ことを神は必要としておられません。

神はただ,それを枡の下に隠してほしくないとお思いなのです。

そして,もし人々が教会は自分には向かないと決めたなら,それはその人の判断です。

皆さんが失敗したというわけではありません。今までどおり,その人に思いやりをもって接してください。けれども,もう一度誘ってみる余地がないわけではありません。

うわべだけの社交的なかかわりと,思いやりに満ちた勇気ある弟子としてのかかわりの違いは,招きにあります。

わたしたちは,人の社会的地位や人種,宗教,人生における決断にかかわらず,すべての神の子供たちを愛し,大切に思っています。

わたしたちの務めは,こう言うことです。「来て見てください!弟子としての道を歩むことがどれほど価値のある,気高いものか,自分の目で確かめてください。」

わたしたちは,こう言って人々を招きます。「来て助けてください。わたしたちは世の中をより良い場所にしようとしているのです。」

そしてこう言います。「来てとどまってください。わたしたちは,皆さんの兄弟姉妹です。完全ではありませんが,神を信頼しており,その戒めを守ろうとしています。

わたしたちに加わってください。皆さんは,わたしたちをさらに善い人にしてくれるでしょう。そして,その過程で,皆さんもまた,さらに善い人になることでしょう。一緒にこの冒険に出かけましょう。」

いつ始めるべきですか

内なる冒険心がかき立てられるのを感じた我らが友ビルボ・バギンズは,一晩ぐっすり眠って朝食をたっぷり食べてから,朝一番に出発することにしました。

目を覚ましたビルボは,家が散らかっているのに気づき,危うく崇高な計画のことを忘れそうになります。

しかし,そのとき,友人のガンダルフがやって来てこう尋ねます。「いったい,いつ行くつもりなんじゃね?」仲間に追いつくにはどうするべきか,ビルボは自分で決断しなければなりませんでした。

そこで,このごく普通で特に人目を引くことのないホビットは,気づくと,冒険の道へと表玄関から勢いよく飛び出していました。急ぐあまりに帽子も,杖も,ハンカチも忘れ,2度目の朝食すら食べ終えずに。

ここに,わたしたちも学ぶべき教訓があるかもしれません。

皆さんもわたしも,愛にあふれる天の御父がはるか昔に備えてくださったことに従って生き,それを分かち合うという大いなる冒険に加わるようにという沸き立つような促しを感じたことがあるのなら,はっきりと申し上げます。今日こそ,わたしたちの救い主であられる神の御子に従い,その奉仕の道,弟子となる道にいでたつ日なのです。

何もかもすべてが完全に整うのを待っていては,生涯を費やすことになりかねません。そうではなく,今こそ,全力を尽くして神を求め,人に仕え,自分の経験をほかの人に分かち合う時なのです。

帽子や杖やハンカチ,散らかった家はそのままにして出かけましょう。

すでにその道を歩んでいる皆さん,勇気を出し,思いやりを行動に移し,自信をもって,歩み続けてください!

その道から離れてしまった皆さん,どうぞ戻って来て,もう一度仲間に加わり,わたしたちを強めてください。

そして,まだ旅を始めていない皆さん,なぜ引き延ばすのですか?この大いなる霊的な旅のすばらしさを経験したいのなら,皆さん自身の壮大な冒険に踏み出してください。宣教師と話してください。末日聖徒の友人と話をし,この不思議な驚くべき業について話してください。

今こそ始める時です!

来て,わたしたちに加わってください!

人生がさらに意義深いものとなり,さらに気高い目的と強い家族のきずな,そしてより深い神とのつながりが得られるかもしれないと感じるなら,来て,わたしたちに加わってください。

最高の自分になろうと努力し,困っている人を助け,より良い世の中にしようとしている人々の集う場所を探しているならば,来てわたしたちに加わってください!

この不思議な驚くべき,冒険に満ちた旅がどんなものか,来て見てください。

そうするときに皆さんは自分自身を見いだすでしょう。

人生の意味を見いだし,

神を見いだすことでしょう。

皆さんは,冒険と栄光に満ちた最高の人生の旅を見いだすことでしょう。

このことについて,わたしたちの贖い主であり救い主であるイエス・キリストの御名によって証します,アーメン。

  1. J・R・R・トールキン 『ホビットの冒険』上巻(2000年),瀬田貞二訳,岩波少年文庫, 11

  2. トールキン『ホビット』上巻(2012年)の副題,山本史郎訳,原書房

  3. モーセ3:17

  4. ヨブ38:4-7 (「神の子たちはみな喜び呼ばわった」);イザヤ14:12-13 (「わたしの王座を高く神の星の上にお……こう」);黙示12:7-11 (「天では戦いが起った」)参照

  5. 「預言者ジョセフ・スミスは選択の自由についてこう説明している。『個人として自由に考えることのできる特権であり,最もすばらしい賜物の一つとして天が恵み深くも人類家族に授けてくださったもの』である。」[ Teachings of the Prophet Joseph Smith,comp. Joseph Fielding Smith (1977), 49].この「個人として自由に考えることのできる特権」すなわち選択の自由こそ,個人を「自ら選択して行動する者」とする力である(教義と聖約58:28)。それには善悪,あるいは様々なレベルの善または悪を選ぶ意思の行使と,その選択の結果を経験する機会もまた含まれる。天の御父はその子供たちを深く愛しておられるがゆえに,わたしたちが各自の可能性を最大限に発揮し,御自身に似た者となるよう望んでおられる。人が進歩するには,自身の望むとおりに選択できる生来の力が備わっている必要がある。選択の自由は,神がその子供たちのために立てられた計画において非常に重要な要素であり,「神ですら,人に自由を与えずして彼らを御自身に似た者にすることがおできにならなかった。」[David O. McKay, “Whither Shall We Go? Or Life’s Supreme Decision,” Deseret News, June 8, 1935, 1]” (Byron R. Merrill, “Agency and Freedom in the Divine Plan,” in Roy A. Prete, ed., Window of Faith: Latter-day Saint Perspectives on World History [2005], 162).

  6. J・K・ローリング著の小説『ハリー・ポッターと秘密の部屋』の中で,ホグワーツ魔法魔術学校の校長,ダンブルドアはこれととても類似した言葉をハリー・ポッターに対して語っている。それは,わたしたちにとってもすばらしい助言である。わたしはメッセージの中で以前にもそれを引用したが,繰り返す価値があると考える。

  7. 「愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし,わたしたちがどうなるのか,まだ明らかではない。彼が現れる時,わたしたちは,自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。」(1ヨハネ3:2;強調付加)

    そうした変貌はわたしたちの理解力を超えているが,「御霊みずから,わたしたちの霊と共に,わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。

    もし子であれば,相続人でもある。神の相続人であって,キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上,キリストと共同の相続人なのである

    わたしは思う。今のこの時の苦しみは,やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると,言うに足りない。」(ローマ8:16-18;強調付加)

  8. マタイ28:16-20参照

  9. トールキン 『ホビットの冒険』上巻, 64

  10. ルカ 9:59-62参照

  11. See LeGrand Richards, A Marvelous Work and a Wonder, rev. ed. (1966).