日々の回復
常に毎日,天の光を浴びなければならないのです。わたしたちには「慰めの時」,つまり個人的な回復の時が必要です。
このすばらしい安息日の朝にわたしたちはともに集い,キリストについて話し,キリストの福音に喜びを感じ,支え合い,助け会って救い主の「道」を歩みます。1
末日聖徒イエス・キリスト教会の会員であるわたしたちは,この目的のために,年間を通して安息日ごとに集まります。会員でない方も,どうぞいらしてください。心の底から歓迎します。一緒に救い主を礼拝し,救い主について学んでくださることに感謝します。不完全な者ではありますが,皆さんのようにわたしたちも良い友人,良い隣人,そして良い人になれるよう努めており2,模範であられるイエス・キリストに従ってそのような人になろうとしています。
わたしたちの真摯な証を皆さんに感じていただければ幸いです。イエス・キリストは生きておられます!イエス・キリストは生ける神の御子であり,今日この地上にいる預言者に指示を与えておられます。神の言葉を聞き,神の慈しみにあずかるよう,すべての人をお招きします。神がわたしたちの中におられ,神に近づくすべての人に確かに近づいてくださることを,個人的に証します。3
主の弟子の歩むべき細くて狭い道を皆さんとともに歩めることを,誇りに思います。
まっすぐに歩く技術
道に迷った人は円を描いて歩くと,よく言われます。最近,マックス・プランク生物サイバネティックス研究所の科学者たちが,この言葉を検証する実験を行いました。木がうっそうと茂る森に被験者たちを連れて行き,「まっすぐに歩いてください」という簡単な指示を与えたのです。目印は何もありません。被験者たちは,自分たちの方向感覚だけに頼らなければなりませんでした。
どうなったと思いますか。
科学者たちの出した結論はこうです。「人は歩く方向の決め手となる手がかりがない場合には,実際に円を描いて歩く。」4後で質問すると,自分は寸分たがわずまっすぐに歩いたと自信を持って言う被験者が何人かいました。どんなに自信があるにせよ,彼らが直径20メートルほどの小さな円を描いて歩いていたことは,GPSのデータから明らかでした。
まっすぐに歩くことが,なぜそんなに難しいのでしょうか。地面の一見分からない小さなでこぼこが感覚を狂わせるという仮説を立てた研究者もいれば,だれにでも利き足というものがあるという事実を指摘した研究者もいました。しかし,まっすぐ前に進めない理由として「より説得力があるのは,まっすぐな道筋がだんだんと分からなくなってくる」ということだったのです。5
理由はともあれ,人には,目印がないと道から外れる,という習性があります。
道からそれる
小さくて見たところ分からない要因が人の人生を大きく変えることがあるのは,興味深いことではないでしょうか。
わたしは,パイロットとしての経験からこれを知っています。空港への着陸態勢に入るときはいつも,自分がなすべき仕事はほぼ常に小さな軌道修正をしながら,飛行機を滑走路に無事着陸させることであると分かっていました。
皆さんも,車を運転するときに,似たようなことを経験しているかもしれません。ほかの車の動きはもちろん,風や道路のでこぼこ,ホイールアライメントの不備,不注意などがすべて,進みたい道から外れてしまう要因になり得ます。このような要因に注意することを怠ると,ひどい目に遭うかもしれません。6
これはわたしたちの肉体にも,
霊にも当てはまります。
良きにつけ悪しきにつけ,霊的な生活面での変化は一歩ずつ徐々に起こります。マックス・プランク研究所の被験者たちのように,いつ道を外れたのか,本人には分からない場合もあるのです。まっすぐに歩いているという強い自信があったとしても,目印になるものがなければ,道をそれることは避けられません。そして,思ってもみなかった場所に行ってしまうのです。
これは,個人も,社会も,そして国家もそうです。聖文には,このような例がたくさん出てきます。
士師記には,ヨシュアの死後「ほかの時代が起ったが,これは主を知らず,また主がイスラエルのために行われたわざをも知らなかった」と書かれています。7
イスラエルの子らはモーセやヨシュアが生きていたころに驚くべき天の力の介在や訪れ,助け,奇跡的な勝利を見てきたにもかかわらず,人々は次の世代に移る前に「道」を捨てて自分たちの望む道を歩み始めたのです。当然,自分たちの行いの代価を払う時は間もなくやって来ました。
このような背教は,数世代かかって起こることもあれば,ほんの数年または数か月で起こることもあります。8しかし,背教の可能性はだれにでもあります。過去にどんなに強烈な霊的経験をしていようとも,人間であるわたしたちは道をそれることがあるのです。アダムの時代から今に至るまで,そうでした。
良い知らせ
しかし,すべてが失われるわけではありません。さまよい歩いてしまった被験者たちと違い,わたしたちには頼りになる目印があり,それを使って進路を確認することができるのです。
では,その目印とは何でしょうか。
もちろんこれには,日々の祈りや聖文について深く考えること,『わたしに従ってきなさい』のような霊感されたツールの活用が含まれます。わたしたちは謙虚で正直な気持ちになって,神の御座に日々近づくことができるのです。自分のしたことについて深く考え,一日を振り返ることができます。自分の意志と願いを,神のそれと照らし合わせるのです。もし道を外れていたら,神に願って元に戻れるよう助けていただき,さらに良くなろうと決意します。
この内省の時は,再調整の機会です。それは,主とともに歩いて,聖文の言葉と御霊によって啓示された天の御父の言葉から教えを受け,教化され,清められる,反省の庭です。愛にあふれるキリストに従うという厳粛な聖約を思い起こす時であり,自分の成長を評価して,神が御自分の子供たちにお与えになった霊的な目印に従っているかどうか確認する時です。
それを,あなた個人の日々の回復の時と考えてください。栄光への道の巡礼の旅の途中で,人はどれほどたやすく道をそれてしまうかをわたしたちは知っています。しかし,ごく小さな逸脱に救い主の道から引き離す力があるように,小さくて簡単な再調整にも,人を道に戻す力があるのです。わたしたちの生活に闇が入り込むことがよくありますが,そんなときには,日々の回復が天の光に向けて心を開いてくれます。その光はわたしたちの心を照らし,闇や恐れ,疑いを払いのけてくれます。
小さな舵,大きな船
わたしたちが求めるならば,確かに「神はその聖なる御霊によって,すなわち聖霊の言い尽くせない賜物によって,……知識を,あなたがたに与えてくださるであろう。」9わたしたちが求める度に,神は「道」を教え,それに従えるよう助けてくださいます。
もちろん,そのためには揺るがぬ努力が必要です。過去の霊的な経験で満足してはいけません。よどみなく進む必要があるのです。
ほかの人の証に永遠に頼ることはできません。自分の証を築かなければならないのです。
常に毎日,天の光を浴びなければならないのです。
わたしたちには「慰めの時」10,つまり個人的な回復の時が必要です。
「流水は」いつまでも「濁ったまま」でいることはできません11。思いと行いを清く保つためには行動し続けなければならないのです。
結局のところ,福音と教会の回復とは,一度すればそれで終わりというものではありません。それは,一日ずつ,一人ずつ,常に行っていくプロセスなのです。
日々の積み重ねが人生を形造ります。ある作家はこれをこんな言葉で言っています。「一日は一生のようだ。最初何かを始めるが,最後にはほかのことをしている。用事を済ませることにしたのに,その用事を済ませることはない。……そして人生の最期も,やはり自分の存在そのものが同じように雑然としているのである。人生全体は,一日と同じ姿をしている。」12
あなたは自分の人生を変えたいと思いますか。
それなら,あなたの一日を変えてください。
あなたは自分の一日を変えたいと思いますか。
それなら,今の1時間を変えてください。
今この瞬間に考え,感じ,行うことを変えるのです。
大きな船も小さな舵で操縦できます。13
小さなレンガは積み重なって見事な家になります。
小さな種から,そびえ立つセコイアの木になります。
1分,1時間を上手に使えば,それが積み重なって良き人生になるのです。その時間の積み重ねが慈しみを生み,不完全に捕らわれているわたしたちを解放し,贖いの赦しと聖めの道へとわたしたちを導くのです。
新たな始まりの神
皆さんとともに,わたしは新たな機会と新しい人生,新たな希望というすばらしい賜物があることに,晴れやかな気持ちで感謝しています。
慈悲深い赦しの神を,わたしたちは声高らかに賛美します。確かに神は,新たな始まりの神であられます。神の働きの究極の目的は,御自分の子供であるわたしたちの不死不滅と永遠の命を求める努力が実を結ぶよう助けることです。14
わたしたちはキリストにあって新しく造られた者になることができます。なぜなら,神がこう約束してくださっているからです。「わたしは,民が悔い改める度に,わたしに対する彼らの過ちを赦〔し,〕」15「もうそれを思い起こさない。」16
愛する兄弟姉妹の皆さん,愛する友人の皆さん,だれでも道をそれることがあります。
しかし,また正しい道に戻ることができます。御父が与えてくださった霊的な目印を探してそれを受け入れ,個人の啓示を大切にし,日々の回復を行うならば,人生の暗闇と試練を生き抜いて天の御父のもとに帰る道を見いだすことができます。これが,愛する救い主イエス・キリストのまことの弟子になる方法です。
それを行うならば,神はほほえみかけてくださるでしょう。「主は……あなたの神,主が賜わる地であなたを祝福されるであろう。……主は……あなたを立てて,その聖なる民とされるであろう。」17
日々の回復を行い,イエス・キリストの「道」を常に歩き続けることができるようにと祈ります。イエス・キリストの御名により,アーメン。