教会歴史
27 枯れ草についた火


第27章「枯れ草についた火」『聖徒たち—末日におけるイエス・キリスト教会の物語』第2巻「いかなる汚れた者の手も」1846-1893年(2020年)

第27章:枯れ草についた火

第27章

枯れ草についた火

もう一頭の馬を引き連れた,馬にまたがる男

公判を控えた1872年1月までの数週間は,ブリガム・ヤングがソルトレーク・シティーに戻るといううわさで持ち切りでした。準州の検察らは,ブリガムが出廷せずに裁判を逃れようとするはずだと見ていました。1

ところが12月下旬,ダニエル・ウェルズは預言者から急ぎの手紙を受け取ります。ブリガムは,「指定された日時には行って出廷しなければならない」と伝えてきたのです。2クリスマスの翌日,ブリガムは吹雪の中70マイル(110キロ)以上の道のりを進み,ソルトレーク・シティーから20マイル(30キロ)ほど南にあるドレーパーという町でダニエルに会いました。二人はそこから北へと向かう列車に乗り込みました。ブリガムが家にたどり着いたのはほぼ真夜中です。

合衆国連邦保安官はその1週間後に預言者ブリガムを逮捕し,マッキーン判事の法廷へ送り届けました。ブリガムは終始冷静で,強気の姿勢を保っていました。預言者側の弁護士はブリガムが高齢かつ健康状態も優れないことに言及し,判事にその保釈を求めました。マッキーンはその要求を却下し,ブリガムを自宅軟禁します。3

裁判はその後間もなく始まる予定であり,合衆国およびイギリス中のあらゆる新聞が訴訟の成り行きを報道するだろうと,“Salt Lake Tribune”(『ソルトレーク・トリビューン』)紙は予測していました。ところが,この「注目の裁判」は延期となります。数日の延期のはずが,数週間たっても始まりません。ブリガムは通常,保安局の監視下にあり,たいていは自宅にいました。それでも,時には社交行事に出席することもありました。第14ワードの建物でエライザ・スノーのサプライズ誕生会が開かれたときなど,保安官補とともに参加しています。4

ジョージ・Q・キャノンは,国の最高裁である連邦最高裁判所に聖徒が持ち込んだ訴訟に関する報告書を,ワシントンDCから定期的にブリガムへ送っていました。その訴訟では,マッキーン判事が意図的に聖徒たちをユタ準州の大陪審から外したのは違法であると訴えていました。最高裁がマッキーン判事の行為を違法と裁定した場合,不適切な構成員から成るユタの大陪審が告訴した嫌疑はすべて,預言者ブリガムに対するものも含め,直ちに無効となるのです。5

最高裁がこの訴訟の裁定を下したのは,4月のことでした。マッキーン判事とジョージは判決を聞くため,ともに法廷にいました。裁判官は自分たちに有利な判決を下すはずだと仲間の何人かが言ってはいたものの,裁判長が法廷の決定を読み上げる段になると,マッキーンは不安げな表情を見せます。6

裁判長は宣言しました。「全般的に,本件において大陪審は法律に則って選出および召喚されたものではないというのが,我々の見解です。」7

マッキーン判事はその判決を非難し,自分は何も悪いことはしていないと主張しながら退出しました。このニュースは電信で直ちにユタまで届き,違法に選ばれた陪審員から成る,ユタ準州大陪審の申し立てた刑事告訴はすべて取り下げられました。ブリガム・ヤングは自由の身となったのです。8

「最高裁は宗教的な偏見や政治的影響に左右されることがありません」と,ジョージはその日ブリガムにあてて書いた手紙で喜びの言葉を綴っています。それでも,この判決が聖徒たちの敵の憎悪をあおるだけだと確信していたジョージは,不安を抱かずにはいられませんでした。

ジョージはこう書いています。「わたしたちに不利な法律を可決しようとする強硬な動きが起こったとしても,何ら驚くには当たりません。」9


その年の4月,ハワイ全土の聖徒がオアフ島にやって来ました。過去7年にわたり集合の地となってきたライエで開かれる大会に出席するためです。この定住地では,年間を通して400人ほどの聖徒が暮らしています。小さな礼拝堂に学校,地元の聖徒とユタから来た宣教師がサトウキビを栽培している大農園もあります。

大会では13人の地元の宣教師が,少し前に経験したことを証していました。ハワイ諸島の伝道を監督する召しにあるジョナサン・ナペラの指示の下,宣教師たちは600人を超える人々にバプテスマを施していたのです。ハワイの聖徒の数は,今や2,000人をはるかに超えていました。10

どの長老も,伝道地で目にした奇跡について証していました。近ごろでは,体のまひしている人のために宣教師が信仰を働かせて心から祈ると,主がその人を癒してくださいましたし,11ラバから落ちて腕の骨を負った男性など,二人の宣教師に祝福してもらった後にすっかり治ってしまったのです。また別の長老たちは,歩くことのできない少女に繰り返し祝福を授けていました。この少女は祝福を受ける度に少しずつ良くなり,ついには以前のように走ったり遊んだりすることができるようになったのです。12

大会終了後も,宣教師は引き続き福音を宣べ伝え,病人を癒しました。宣教師に助けを求めた人々の中に,ハワイ島の知事ケエリコラニがいます。異母兄弟である国王,カメハメハ5世が死に瀕しているので,彼のために祈ってほしいと聖徒たちに訴えてきたのです。カメハメハ王をよく知っていたナペラは,HK・カレオハノという教会員歴の長いもう一人の長老を連れて宮殿に行き,王のために祈ることを申し出ました。

「王が大病で苦しんでいると聞き,ご回復を心から願っております」と伝えました。王がその申し出を受け入れると,宣教師たちは敬意を表して頭を下げました。そうして,カレオハノが熱烈な祈りをささげたのです。

宣教師が祈り終えると,カメハメハ王は大分良くなったようでした。政府の中にはハワイ諸島における聖徒たちの伝道をやめさせるようにと圧力をかけてくる人々がいるが,自分はその要求を拒否していると,王は長老たちに伝えました。ハワイの憲法は宗教の自由を人民に認めており,自分はそれを守りたいのだと言います。

王は上機嫌で,ナペラとカレオハノと長い時間語り合いました。この二人の長老が帰ろうとすると,王の家の者たちのために,何人かが魚を持ってきました。カメハメハ王はそれを目にすると,ナペラとカレオハノを指し,「ここにおられる王たちを忘れないように」と言います。

そうして王は長老たちに一かごずつ魚を持たせると,別れのあいさつをしたのでした。13


ライエで4月の大会が開かれているころ,合衆国中の新聞は出版されたばかりの多妻結婚に関する暴露本の話題で沸き立っており,著者であるファニー・ステンハウスは「革新運動」において最も有名な女性になっていました。ファニーはその本で,しいたげられ,不満をためこんでいる人々として末日聖徒の女性を描いています。14

教会の女性たちはこの描写にがく然としました。周囲から間違ったことを書き立てられるくらいならば,末日聖徒の女性が自ら自分たちのことを伝えた方がよいと考え,23歳のルラ・グリーンはユタで女性たちに向けた新聞の発行を始めます。ルラはこの新聞をWoman’s Exponent(『ウーマンズ・エクスポーネント』)と名付けました。15

ルラは物を書く天賦の才があり,倹約協会の青年女子部では小さな支部の会長を務めています。ルラが詩を発表すると,Salt Lake Daily Herald(『ソルトレーク・デイリーヘラルド』)紙の編集長は,自分の新聞にも寄稿してほしいと言ってきました。しかし,職員が彼女の採用をためらったため,編集長は自分で新聞を作ったらどうかと勧めてきたのです。

このアイデアにルラは興味を抱きました。そのころ開かれていた抗議集会を見ていると,末日聖徒の女性はいざ自分たちにかかわる問題について発言するとなると,多大な影響力を発揮するだろうと思われました。ところが教会の内外を問わず,女性が自分の意見を公に述べる機会はめったになかったのです。扶助協会や倹約協会により,多くの良い言動が生み出されているにもかかわらず,それに言及する人も,注目する人もいませんでした。とりわけ準州外の人からは見向きもされていません。

新聞を出す計画をルラが最初に話したのはエライザ・スノーでした。エライザはそれを受けて,ルラの大おじであるブリガム・ヤングに相談を持ちかけます。両者とも,この試みの支援者となってくれました。ブリガムはルラの頼みを聞き入れ,その新聞の編集長を務めるという特別な任務をルラに与えました。16

Woman’s Exponent(『ウーマンズ・エクスポーネント』)の創刊号は,1872年6月に発行されました。紙面には,社説や詩,扶助協会や倹約協会からの報告だけでなく,地元や全国,世界のニュースが並んでいます。17ルラは編集長に寄せられた手紙も紙面に掲載し,自分の体験談を伝えたり,意見を述べたりする場を末日聖徒の女性に与えたのでした。

7月のこと,ルラはメアリーという名のイギリス人女性による手紙を掲載しました。手紙では,ロンドンとニューヨークで会社勤めをしていたころのつらい生活と,ユタでの生活が対比して書かれています。「わたしたち『モルモンの女性』は,信じてもらえるかどうかにかかわらず,世間で言われているような哀れでしいたげられた存在ではないということを,世の人々に書いて伝えなければなりません」とメアリーは言います。「わたしはこの地でしいたげられていません。来ようと出て行こうと,働こうと働くまいと自由です。」

こう付け加えています。「わたしはこれまでExponent(『エクスポーネント』)を読んできて,とても気に入っています。この新聞は理にかなったことを伝えています。」18


一方ユタ北部では,北西部に住むショショーニ族が餓死寸前まで追い詰められていました。末日聖徒が大半を占める1万人近い白人の定住者たちは,もともとショショーニ族の先住地であったキャッシュバレーおよび周辺地域に暮らしており,自然が産する食物を食べ尽くしていたのです。19

1850年代半ば,聖徒たちが初めてキャッシュバレーにやって来たとき,サグウィッチという名のショショーニ族の長は,地元の教会役員と良好な関係を築いていました。特にピーター・モーガンビショップはサグウィッチと仲が良く,時折什分の一の献金からショショーニ族に援助を与えていました。ところが1850年代後半になり,盆地に定住する聖徒数の増加によって野生動物の捕獲が難しくなると,ショショーニ族との緊張が高まりました。

ショショーニ族の中には,自分と家族を食べさせるために聖徒の家畜を略奪する者も出てきました。そうすることは,聖徒たちが食料を枯渇させ,土地を奪ったことに対する代償だと考えたのです。略奪が止むことを願い,聖徒たちは不承不承小麦粉や牛肉をショショーニ族に送るようにしました。しかし,このような贈り物をしても,聖徒たちがキャッシュバレーに移り住んだことにより失われたものを埋め合わせることはできなかったのです。20

この間,ショショーニ族は合衆国政府とも衝突を繰り返していました。ソルトレーク・シティーに駐屯する合衆国陸軍部隊の司令官パトリック・コナー大佐は,この紛争をショショーニ族攻撃の口実にしました。1863年1月のある朝,ベアリバー近くに野営していたサグウィッチと部族の者たちは目を覚ますと,兵隊が自分たちに向かって進軍していることを知ります。ショショーニ族はとりでに戻って兵士たちを打ち負かそうとしましたが,軍隊は即座に彼らを包囲し,容赦なく発砲したのです。

この野営地における攻撃により,ショショーニ族ではおよそ400人の男女子供が亡くなりました。サグウィッチはこの攻撃を生き延び,幼い娘と3人の息子も無事でした。しかし,妻のダダバイチーと二人の継息子は犠牲になります。21

この虐殺の後,近隣の定住地から集まった聖徒たちは負傷したショショーニ族の手当てをしました。ところがこの攻撃により,サグウィッチは聖徒に対して深い疑いの念を抱くようになります。陸軍斥候隊として時折働いていた末日聖徒のポーター・ロックウェルは,兵士らを引き連れてショショーニ族の野営地に向かいました。キャッシュバレーに住む聖徒たちの中には,虐殺が展開するのを近くの丘から見ていた人もいれば,攻撃の後で軍隊に宿や食事を提供した人々もいたのです。この兵士たちによる攻撃を「非人道的」と描写したピーター・モーガンですら,暴行を誘発したのはショショーニ族だと確信していました。この攻撃を神の仲介と呼ぶ聖徒までいたのです。22

虐殺から10年がたっても,サグウィッチと部族の人々が白人の定住者たちに対して抱く怒りは収まりません。聖徒たちは,教会の資源を使って食料や物資を喜んで提供することによりショショーニ族の信頼を幾らか取り戻すことができました。それでも,罪なき人々の命を奪われ,土地も資源も失ったために,ショショーニ族が窮地に陥っていることに変わりはなかったのです。23

1873年の春,人望あるショショーニ族の指導者エクアップワイは,3人のインディアンが自分の小屋に入ってくる示現を見ました。3人の中でいちばん背が高く,顔立ちの整った肩幅の広い男が,聖徒たちの神はショショーニ族が礼拝している神と同じであると告げたのです。聖徒たちの助けを受けてショショーニ族は家々を建て,地を耕し,バプテスマを受けるだろうとも言いました。

エクアップワイは示現の中で,ショショーニ族が何人かの白人と肩を並べて小さな農場で働く様子も目にします。そのうちの一人は,15年前にショショーニ族の中で伝道した末日聖徒のジョージ・ヒルでした。ジョージはショショーニ族の言葉を話し,時折食料その他の必需品を彼らに配っていました。

エクアップワイから示現の話を聞くと,ショショーニ族の一団は,オグデンにあるジョージの家に向かって出発しました。24


その後間もなく,目を覚ましたジョージ・ヒルは,ショショーニ族の一団が家の外にいることに気がつきます。自分と話をしに来たようです。ジョージが彼らを出迎えると,リーダー格の男性の一人が,霊感を通して聖徒たちが主の民であることを知ったと説明しました。そうして,「我々の野営地に来て福音を説き,バプテスマを施してほしい」と言ったのです。

ブリガム・ヤングの許可がなければバプテスマを施すことはできないと思う,とジョージは言いました。落胆して家路に就いたショショーニ族でしたが,彼らはその後再びやって来ると,バプテスマを施してほしいと頼みました。ジョージはこの度もまた,預言者の指示を待たなければならないと告げるのでした。25

その後ほどなくして,ジョージはソルトレーク・シティーでブリガムと会いました。ブリガムは言います。「しばらくの間,わたしは自分の肩に置かれている重荷を振り払おうとしてきました。わたしは今,その重荷をあなたに委ねます。これからは,あなたが背負うことになるのです。この北部全域に住むインディアンたちに伝道する責任を,受けていただけますか。」

ブリガムは,ショショーニ族の集会所を建て,彼らに農業を教えるようジョージに助言しました。「これについてはどんな方法で取りかかればよいのか,わたしには分かりません。あなたが見つけるのです。」26

1873年5月5日,ジョージは列車に乗り込むと,オグデンから北に30マイル(約50キロ)ほど行った所にある町へ向かいました。そこからは徒歩に切り替え,12マイル(約20キロ)先にあるサグウィッチの野営地まで進んでいったのです。1マイル(約1.6キロ)も行かないうちに,ティグウィティッカーという名の年老いたショショーニ族の男性が,ほほえみながら近づいてきました。その日の朝,サグウィッチはジョージが自分たちの野営地にやって来ることを預言していた,とその男性は言います。

ティグウィティッカーは野営地までの道を教えると,すぐに戻ってジョージの説教を聞くと約束しました。ジョージは道すがら,さらに二人のショショーニ族に会いましたが,どちらもサグウィッチの言葉を繰り返すではありませんか。ジョージは驚きました。サグウィッチは自分がここにたどり着く正確な日時をどのように知り得たのでしょうか。これはジョージにとって,ショショーニ族の中で主の業が実際に始まることのしるしだったのです。

間もなくジョージの目に,馬に乗って向かってくるサグウィッチの姿が映りました。背後にはもう一頭の馬を従えています。「お疲れかと思い,あなたが乗る馬を連れてきました」とサグウィッチは言います。

二人が馬に乗って野営地まで行くと,教えを受けようと大勢の人が待ち受けていました。ジョージは1,2時間教えを説くと,多くの人が教会に入ることを望んでいると知りました。その日の午後,ジョージはサグウィッチを含む101人のショショーニ族にバプテスマを施し,水辺で確認の儀式を行います。ジョージはそうして,オグデン行きの最終列車にかろうじて間に合う時間に野営地を出たのでした。27

翌日,ジョージはブリガム・ヤングに手紙を書き送っています。「自分の人生でこれほどすばらしい気持ちを感じた日はなく,これほど幸せだった日もありません。」ショショーニ族の人々も同じく幸せそうで,毎晩祈り会をする計画を立てていた,と綴っています。ジョージは彼らの窮乏が甚だしいことにも触れ,ショショーニ族のために袋詰めの小麦粉を送るよう要請しました。28

それからジョージはこのバプテスマについて,同じくショショーニ族の言葉を話せる友人,ディミック・ハンティントンに書き送っています。「わたしのただ一つの望みは,神の御霊の助けを受けて,神がわたしの手に求めておられる業を成し遂げられるようにすることです。」

ジョージはそう綴ると,「ディミック,できるかぎりのことをして助けてもらえないだろうか」と懇願したのです。「この業は,枯れ草についた火のごとく広がっていきます。」29


北西部でショショーニ族が回復された福音を受け入れたころ,ジョナサン・ナペラは,ハンセン病にかかった妻のキティーがモロカイ島へ行くよう命じられたことを知ります。その病がハワイで拡大するのを食い止めようと,国王のカメハメハ5世はモロカイ島のカラウパパ半島に集落を作り,感染の兆候が見られる人々を隔離していたのです。ハンセン病は不治の病と考えられていたため,その集落への追放は普通,終身刑を意味していました。

どうしてもキティーと離れたくなかったナペラは,カラウパパでその集落を監督補佐する仕事を確保しました。ナペラの新しい職務の中には,配給と,衛生局への定期報告がありました。感染した人々と密接にかかわる仕事のため,自身が病にかかる危険も高まります。

1873年春,キティーとともに集落へ到着したナペラは福音を宣べ伝え始め,毎週日曜日には重い皮膚病に苦しむ聖徒たちとともに集会を開きました。カラウパパで奉仕するカトリックの司祭,ダミアン神父や,自身の感染によりナペラとキティーの到着後間もなくやって来たハワイ王族の一人,ピーター・カエオとも親しくなりました。30

この集落でピーターは,半島を見渡せる小さな家屋で比較的快適な生活を送っていました。ピーターは数人の使用人を雇っており,裕福な親族から差し入れを受けていたため,この島の病人にかかわることはほとんどありませんでした。あるとき集落で死者が一人出たことを知ると,ピーターはショックを隠せない様子でキティーにそのことを話しました。

「目新しいことではありませんよ」とキティーは答えます。「毎日のように,だれかしら亡くなっていますから。」31

1873年8月30日,ピーターは集落の人々に必要なものをナペラと一緒に見繕いました。朝から雲で覆われた空の下,二人は半島を横断して住民が暮らす小屋に向かいました。ナペラはまず洞穴で足を止め,3人の男性と3人の女性,それに一人の男の子と,配給について話します。ピーターは震え上がりました。病気のために,すっかり原型をとどめない顔になっている人が何人かいたのです。指のない人もいました。

その後ナペラとピーターが会った女性は,足が膨れあがっていました。この女性はモロカイに来て3年になり,服や下着はすり切れてしまっています。月曜日に集落の店に来れば新しい服が手に入ると,ナペラは彼女に伝えました。

10月になると,食べ物を受け取る権利のない集落の貧しい人々に対し,ナペラが無償で食料を提供していたことが衛生局の知るところとなります。衛生局はナペラをその職から解雇し,カラウパパを立ち退くよう命じました。ナペラはすぐさまこの知らせをキティーに伝えます。間もなくしてピーターがこの夫婦に会うと,二人は涙を流していました。最近ではキティーの体調が優れず,ナペラは彼女を置いて行く気持ちになれません。32

ナペラはそこで,キティーの介護者として留まらせてもらえないかと,衛生局に嘆願します。「わたしは,健やかなときも病めるときも,死が二人を分かつまで妻を愛することを神の前で誓いました。」こう書き送っています。「わたしは60歳で,老い先長くありません。この短い余生を妻のもとで送りたいのです。」

衛生局は,この懇願を受け入れました。33


1873年12月,教会とユタのために長年にわたりワシントンDCで陳情活動を行ってきたジョージ・Q・キャノンは,ユタ準州の代表に就任することを合衆国下院で宣誓しました。34ジョージは,このときのために自らを霊的に備えてきました。その前の晩は弱さと孤独を感じましたが,助けを求めて祈ると喜びと安らぎを感じ,力が湧いてきました。

日記にこう書いています。「ここにはわたしの意見に賛同する人はいません。それでもわたしには,彼らを束にしたよりも力のある御方が,味方についておられるのです。このことにわたしは喜びを感じます。」35

1870年代の初頭,教会は合衆国内において,世間からこれまでになく低く見られていました。ユリシーズ・グラント大統領はユタにおける多妻結婚に終止符を打とうと心に決めており,多妻結婚をやめないかぎりユタを州に昇格させる努力はしないと前々から誓っていました。1874年春,ルーク・ポーランド上院議員はユタの裁判所に対する権限を拡大し,モリルの反重婚法を強化する法案を提出します。36

その一方,ファニー・ステンハウスとTBH・ステンハウスは教会を批判する記事や書籍を書き続け,合衆国中を巡って多妻結婚反対の演説をしていました。37同様に,ブリガム・ヤングと別居中の多妻結婚の妻であるアン・エライザ・ヤングは,ブリガムを離婚のかどで訴え,公の場で教会を非難する演説をするようになっていました。ワシントンDCにおいて開かれたショーで,アン・エライザはジョージ・Q・キャノンの連邦議員への選出を非難しました。エライザと話したグラント大統領は,彼女の意見に心からの賛意を表明しています。38

ジョージは断食し,導きを求めて祈るとともに,自分の影響力を行使してポーランド上院議員による法案の可決を阻止しようと努めます。支援者らにも助けを求めました。その少し前,トーマス・ケインと妻のエリザベスは,ユタでブリガム・ヤングとともに冬を過ごしました。敵対的な内容の書籍や新聞記事の影響を受けていたエリザベスは,しいたげられて望みを失った女性たちを見いだすつもりでこの準州にやって来たのです。ところが彼女が出会ったのは,献身的に信仰生活を送る親切で誠実な女性たちでした。この訪問後間もなく,エリザベスが聖徒から受けた印象は書籍となって出版されます。その書籍の中でエリザベスは,依然として多妻結婚に反対の立場を取りつつも,聖徒たちの様子を公平な視点から描きました。

このエリザベスの本のおかげもあり,ジョージはポーランド法の幾つかの側面を緩和するべく同僚議員らを説得することができました。しかし,ジョージのあらゆる努力も功を奏さず,グラント大統領は6月半ば,署名により法律を成立させてしまいます。39

その年の夏から秋にかけて,ユタ準州の連邦検事ウィリアム・ケアリーは,多妻結婚を行っている著名な聖徒たちを告訴する準備に取りかかりました。ジョージはこの間にユタへ戻りましたが,10月には多妻結婚にかかわる罪で逮捕されてしまいます。聖徒たちからさらなる逮捕者が出ることが想定されたため,教会指導者たちは試訴を企て,モリルの反重婚法の合法性に異議を申し立てることにしました。

ケアリーと交渉するために,教会指導者らはケアリーが一人の男性を一夫多妻の罪で有罪とすることに同意しました。教会側の弁護士が上級裁判所に控訴できるようにするためです。連邦検事はそれと引き換えに,この試訴で上訴手続きが済むまではほかの人を告訴しないことを約束します。この取引により教会指導者らが期待していたのは,反重婚法は聖徒たちの信仰上の権利を侵害するものだという裁定が上級審から下り,それによって有罪判決が覆ることでした。

ジョージ・Q・キャノンは,逮捕後間もなく保釈されました。その日の夕方,キャノンはレイノルズ夫妻に出くわします。ジョージ・レイノルズと妻のアメリア・レイノルズは,神殿の敷地の南側の塀に沿って散策をしていました。ジョージ・レイノルズは若きイギリス人聖徒で,ブリガム・ヤングの秘書を務めていした。その年の夏,彼は初めての多妻結婚の相手アメリアと結婚しました。レイノルズのことをよく知るジョージ・キャノンは,反重婚法の阻止に一役買うのにうってつけの候補として彼を推薦します。

レイノルズは承諾しました。試訴を進めることができるのは,彼が有罪宣告を受ける場合にかぎられていたため,レイノルズは法廷で自分に対して不利な証言ができる人々のリストを直ちに提出しました。その後間もなく,レイノルズは重婚罪で逮捕されます。すると判事は彼を釈放し,彼の公判の日時を設定したのでした。40

  1. “President Young Again in Court,” Salt Lake Daily Herald, Jan. 3, 1872, [2]; “Give Him Time,” Salt Lake Daily Tribune and Utah Mining Gazette, Nov. 29, 1871, [2]; “Oh Dear!,” Salt Lake Daily Tribune and Utah Mining Gazette, Dec. 23, 1871, [2]; “Home or Not at Home,” Salt Lake Daily Tribune and Utah Mining Gazette, Dec. 27, 1871, [2].

  2. Brigham Young and George A. Smith to Daniel H. Wells, Dec. 15, 1871, President’s Office Files, Brigham Young Office Files, CHL; Daniel H. Wells to Brigham Young, Dec. 22, 1871, Brigham Young Office Files, CHL.

  3. “Journal of Pres. Young and Party,” Dec. 26, 1871, in Historical Department, Office Journal, Dec. 23–28, 1871; Historical Department, Office Journal, Jan. 2, 1872; “Application for the Admission of President Young to Bail,” Salt Lake Daily Herald, Jan. 3, 1872, [3]; “Brigham Young on Trial,” Salt Lake Daily Tribune and Utah Mining Gazette, Jan. 3, 1872, [2].

  4. “Brigham Young on Trial,” Salt Lake Daily Tribune and Utah Mining Gazette, Jan. 3, 1872, [2]; Tullidge, History of Salt Lake City, 553–57; Whitney, History of Utah, 2:661–63; Historical Department, Office Journal, Jan. 22 and 29, 1872; “Minutes of a Surprise Meeting,” Deseret Evening News, Jan. 24, 1872, [2].

  5. George Q. Cannon to Brigham Young, Mar. 16, 1872; Mar. 25, 1872, Brigham Young Office Files, CHL; “St. Brigham’s Counsel,” New York Herald, Nov. 16, 1871, 5.

  6. George Q. Cannon to Brigham Young, Apr. 15, 1872, Brigham Young Office Files, CHL.

  7. “The Clinton-Engelbrecht Decision,” Deseret News, May 8, 1872, [10]–[11].  引用文は読みやすさのために編集済み。原文の“of opinion”“of the opinion”に変更

  8. George Q. Cannon to Brigham Young, Apr. 15, 1872, Brigham Young Office Files, CHL; “By Telegraph,” Deseret Evening News, Apr. 16, 1872, [1]; “Local and Other Matters,” Deseret Evening News, Apr. 16, 1872, [3]; Historical Department, Office Journal, Apr. 25, 1872; “President Brigham Young,” Salt Lake Daily Herald, Apr. 26, 1872, [2].

  9. George Q. Cannon to Brigham Young, Apr. 15, 1872, Brigham Young Office Files, CHL.

  10. Cluff, Autobiography, 132; H. H. Cluff, Letter to the Editor, Apr. 7, 1872, in “Correspondence,” Deseret News, May 8, 1872, [13]; George Nebeker to Joseph F. Smith, Apr. 29, 1872, and H. H. Cluff, Letter to the Editor, Apr. 1872, in “From the Sandwich Islands,” Deseret News, May 29, 1872, [9]; “Elder George Nebeker,” Deseret News, Nov. 15, 1871, [7]; H. H. Cluff, “Sandwich Islands,” Deseret News, Oct. 4, 1871, [9]; “Napela, Jonathan (Ionatana) Hawaii,” Biographical Entry, Journal of George Q. Cannon website, churchhistorianspress.org; see also Moffat, Woods, and Walker, Gathering to La‘ie, 29–47.  テーマ:ハワイ

  11. William King to George Nebeker, Dec. 4, 1871, in “Correspondence,” Deseret News, Jan. 24, 1872, [3].

  12. H. H. Cluff, Letter to the Editor, Apr. 1872, in “From the Sandwich Islands,” Deseret News, May 29, 1872, [9].

  13. Cluff, Autobiography, 134–35; George Nebeker, Letter to the Editor, Aug. 19, 1872, in “Correspondence,” Deseret News, Sept. 25, 1872, [10]; H. H. Cluff, Letter to the Editor, Oct. 12, 1872, in “Correspondence,” Deseret News, Nov. 20, 1872, [10]; Woods, “Jonathan Napela,” 32–33; Zambŭcka, High Chiefess, 25; “Kaleohano, H. K.,” Biographical Entry, Journal of George Q. Cannon website, churchhistorianspress.org.  同時代の資料において,HK・カレオハノは通常,姓で呼ばれている

  14. See “Mrs. Stenhouse’s Book,” Salt Lake Daily Tribune and Utah Mining Gazette, Feb. 26, 1872, [2]; “Mrs. Stenhouse on Polygamy,” Salt Lake Daily Tribune and Utah Mining Gazette, Mar. 1, 1872, [2]; “Polygamy,” Chicago Tribune, Mar. 17, 1872, [6]; “Reviews of New Books,” New York Herald, Mar. 25, 1872, 10; “Mormonism,” Alexandria Gazette, Mar. 28, 1872, [1]; “Giving Her Husband to a Second Wife,” New North-West, Apr. 13, 1872, [4]; Walker, “Stenhouses and the Making of a Mormon Image,” 59, 62; and Stenhouse, Exposé of Polygamy, 13, 85–88, 96.

  15. Woman’s Exponent,” Woman’s Exponent, June 1, 1872, 1:[8]; “‘Enslaved’ Women of Utah,” Woman’s Exponent, July 1, 1872, 1:[20]; “Richards, Louisa Lula Greene,” Biographical Entry, First Fifty Years of Relief Society website, churchhistorianspress.org.

  16. Lula Greene Richards to Zina S. Whitney, Jan. 20, 1893, Louisa Lula Greene Richards, Papers, CHL; Richards, “How ‘The Exponent’ Was Started,” 605–7; Smithfield Branch, Young Women’s Mutual Improvement Association Minutes and Records, May 25, 1871, CHL; Campbell, Man Cannot Speak for Her, 4–5, 9–12; “Prospectus of Woman’s Exponent, a Utah Ladies’ Journal.”

  17. See “Woman’s Exponent,” Woman’s Exponent, June 1, 1872, 1:[8].  テーマ:教会の定期刊行物

  18. Woman’s Voice,” Woman’s Exponent, July 15, 1872, 1:30.

  19. Christensen, Sagwitch, 2, 23–26, 81.  テーマ:アメリカ先住民

  20. Christensen, Sagwitch, 18–23, 26–40.  テーマ:サグウィッチ

  21. Christensen, Sagwitch, 41–58; 216–17, note 26; Martineau, Journal, Feb. 1, 1863, in Godfrey and Martineau-McCarty, Uncommon Pioneer, 132.

  22. Peter Maughan to Brigham Young, Feb. 4, 1863, Brigham Young Office Files, CHL; Christensen, Sagwitch, 57–81; Madsen, Shoshoni Frontier, 194–95.

  23. Christensen, Sagwitch, 30, 71, 81; Parry, Interview, 8, 17.

  24. Hill, “Indian Vision,” 12:11; Hill, “My First Day’s Work,” 10:309; Christensen, Sagwitch, 84–87; Parry, Interview, 14.

  25. Hill, “George Washington Hill”; Hill, “My First Day’s Work,” 10:309; see also Christensen, Sagwitch, 59, 85, 88; and Parry, Interview, 8–10, 14.

  26. Hill, “George Washington Hill”; see also Christensen, Sagwitch, 88–89.

  27. Hill, “My First Day’s Work,” 10:309; Hill, “George Washington Hill”; George Washington Hill to Brigham Young, May 6, 1873, Brigham Young Office Files, CHL; Hill, “Brief Acct,” 1.

  28. George Washington Hill to Brigham Young, May 6, 1873, Brigham Young Office Files, CHL.  引用文は明瞭な表現のために編集済み。原文の“nor never spent”“nor ever spent”に変更,“I”を追加

  29. George Washington Hill to Dimick Huntington, May 7, 1873, Brigham Young Office Files, CHL.

  30. B. Morris Young to Brigham Young, July 6, 1873, Brigham Young Office Files, CHL; Woods, “Jonathan Napela,” 34–35; Woods, Kalaupapa, 18–22, 28–34, 37–40; Korn, News from Molokai, 7; 16, note 8; Kekuaokalani [Peter Kaeo] to Emma [Kaleleonalani], July 9, 1873, in Korn, News from Molokai, 18; Jonathan Napela to E. O. Hall, Apr. 29, 1873; May 1, 1873; July 24, 1873; Jonathan Napela to S. G. Wilder, May 10, 1873; May 19, 1873, Board of Health Incoming Letters, Hawaii State Archives.  テーマ:ジョナサン・ナぺラ

  31. Kekuaokalani [Peter Kaeo] to Emma [Kaleleonalani], July 4, 1873; July 7, 1873; July 9, 1873; July 10, 1873, in Korn, News from Molokai, 11, 12–13, 17–18, 19–20; Korn, News from Molokai, 7.  引用文は読みやすさのために編集済み。原文の“was”“is”に変更

  32. Kekuaokalani [Peter Kaeo] to Emma [Kaleleonalani], Aug. 31, 1873; Oct. 23, 1873, in Korn, News from Molokai, 80–81, 139; Korn, News from Molokai, 140, note 1; Woods, Kalaupapa, 37.

  33. Jonathan Napela to E. O. Hall, Oct. 23, 1873, Board of Health Incoming Letters, Hawaii State Archives; Kekuaokalani [Peter Kaeo] to Emma [Kaleleonalani], Oct. 23, 1873, in Korn, News from Molokai, 139; Woods, Kalaupapa, 39.

  34. Congressional Record [1874], volume 2, 7–8; Bitton, George Q. Cannon, 93–103, 117–25, 171–72, 184.  テーマ:ジョージ・Q・キャノン

  35. George Q. Cannon, Journal, Dec. 1, 1873.

  36. George Q. Cannon to George Reynolds, Apr. 24, 1872, George Reynolds, Papers, Brigham Young University; Congressional Record [1874], volume 2, 3599–600; George Q. Cannon, Journal, Feb. 5 and 6, 1873; May 5, 1874; Bitton, George Q. Cannon, 187–88.

  37. Fanny Stenhouse, Tell It All (Hartford, CT: A. D. Worthington, 1874); T. B. H. Stenhouse, Rocky Mountain Saints (New York: D. Appleton, 1873); George Q. Cannon, Journal, Feb. 21, 1873; “Home Again,” Salt Lake Daily Tribune, May 8, 1873, [2]; “Anti-polygamy Lecture,” Salt Lake Daily Herald, July 3, 1874, [3]; “Lecture by Mrs. Stenhouse,” Salt Lake Daily Herald, Nov. 19, 1874, [3].

  38. “Mrs. Young,” Boston Post, May 2, 1874, [4]; “Ann Eliza’s Life,” Daily Rocky Mountain News, Dec. 10, 1873, [4]; “The Divorce Suit,” Salt Lake Daily Tribune, Aug. 1, 1873, [2]; “The Ann Eliza Divorce Case,” Salt Lake Daily Tribune, Aug. 23, 1873, [3]; Young, Wife No. 19, 553–58; see also “Mormonism,” National Republican, Apr. 14, 1874, 8.

  39. [Kane], Twelve Mormon Homes; Grow, Liberty to the Downtrodden, 262–70; George Q. Cannon to Brigham Young, George A. Smith, and Daniel H. Wells, June 15, 1874, Brigham Young Office Files, CHL; George Q. Cannon, Journal, May 5–June 21, 1874, especially entry for June 19, 1874; An Act in relation to Courts and Judicial Officers in the Territory of Utah, June 23, 1874, in Statutes at Large [1875], 18:253–56.  テーマ:トーマス・L・ケインとエリザベス・ケイン

  40. “Got Home,” Salt Lake Daily Herald, July 2, 1874, [3]; “Third District Court,” Salt Lake Daily Herald, Oct. 22, 1874, [3]; Reynolds, Journal, Oct. 21–26, 1874; “Genuine Polygamy Indictment,” Deseret Evening News, Oct. 26, 1874, [3]; Wells, “Living Martyr,” 154; Whitney, History of Utah, 3:45–47; Van Orden, Prisoner for Conscience’ Sake, 37; 65, note 11.  テーマ:一夫多妻禁止法