第36章「この世の弱い者たち」 『聖徒たち—末日におけるイエス・キリスト教会の物語』第2巻「いかなる汚れた者の手も」1846-1893年 (2020年)
第36章:この世の弱い者たち
第36章
この世の弱い者たち
1887年7月29日,ウィルフォード・ウッドラフはジョージ・Q・キャノン,ジョセフ・F・スミスとともに,ソルトレーク・シティーにある教会の大管長執務室の窓際にたたずんでいました。3人はともに,ジョン・テーラーの葬列が市内の通りをゆっくりと進んで行く様子を見守っています。大勢の人々が通り沿いに並び立つ中,100台を超える四輪馬車や軽量馬車,荷馬車が通り過ぎて行きました。エメリン・ウェルズはテーラー大管長について,「人々がいつも確信をもって指導者として仰ぎ,また当然のごとく誇りに思うような人物であった」と書き記していますが,それは多くの聖徒たちの思いを代弁するものでした。1
ウィルフォードと二人の使徒が,自分たちの友人でもある預言者に敬意を表するために戸外に姿を見せようとしないのは,ひとえに逮捕される恐れがあったためです。定員会会員の大半と同様,一夫多妻や不法な同棲を理由に捕まることのないよう,ウィルフォードが人前に出ることはめったにありません。1885年,妻のフィービーがこの世を去ったとき,ウィルフォードは彼女のベッドの傍らにいました。しかし,その3日後に行われた葬儀には,捕らえられるのを恐れて参列しませんでした。今や十二使徒定員会会長であり,教会で長きにわたり指導者を務めてきたウィルフォードは,以前にも増して保安官の標的となっていたのです。
ウィルフォードはこれまで一度も,自分が教会を率いたいと望んだことはありません。ジョンが亡くなったという知らせを受けると,責任の重みが肩に重くのしかかってきました。「おお,全能の主なる神よ,あなたの道は驚くべきものです。地上で御業を推し進めるうえで,あなたは確かにこの世の弱い者たちを選んでこられたからです。」ウィルフォードはそう祈るのでした。2
葬儀の数日後,教会の今後について話し合うため,ウィルフォードは十二使徒を招集します。ジョセフ・スミスやブリガム・ヤングが亡くなった後にも,定員会が直ちに新たな大管長会を組織することはありませんでした。そうしてウィルフォードは公式声明において,大管長会が不在の間は十二使徒が教会を導く権能を有することを改めて確認しています。3
その後数か月にわたり,使徒たちはウィルフォードの指導の下で多くのことを成し遂げました。マンタイ神殿の奉献に向けた準備はほぼ整いましたが,さらに大規模で大がかりなソルトレーク神殿はというと,いまだ完成にはほど遠い状況です。ソルトレーク神殿に関する当初の計画では,二つの広々としたアッセンブリーホールを設け,それぞれが上の階と下の階の大部分を占めることになっていました。ところがジョン・テーラーは身を隠している間に,新たな間取図を検討していました。下の階のアッセンブリーホールを取りやめて,エンダウメントの部屋用のスペースをさらに多く確保するというものです。こうした計画の実現に向けて,ウィルフォードと十二使徒会は建設業者と最善の方法を協議しました。彼らはまた,当初の計画とは異なり,木材ではなく花崗岩を使って神殿の6つの塔を仕上げるという提案を承認しました。4
ウィルフォードをはじめとする教会指導者たちは,ユタを州に昇格させる試みに向けても密かに準備を進めています。この3年間というもの,教会指導者らを逮捕しようとする動きがあったために,聖徒たちはソルトレーク・シティーで総大会を開くことができませんでした。 そこで十二使徒会は地元の保安官らと交渉を重ねてきました。一夫多妻や不法な同棲により起訴されていないウィルフォードその他の使徒たちが隠遁生活から抜け出て,市内で大会を開催できるようにするためです。5
使徒たちが一堂に会する中,ウィルフォードは集会の場に不和が生じ始めたことに気づきます。10年前にブリガム・ヤングが他界して以来,モーゼス・サッチャー,フランシス・ライマン,ヒーバー・グラント,ジョン・W・テーラーといった新たな使徒たちが定員会に召されていました。ところが今や,それぞれがジョージ・Q・キャノンについて深刻な懸念を抱いているようなのです。実業家,政治家,教会指導者として,ジョージが多くの誤った決断を下してきたと彼らは思い込んでいました。
そうした懸念の一つは,最近ジョージが息子にかかわる教会宗紀の事例を取り扱った件についてでした。皆が知る教会指導者であったその息子は,姦淫の罪を犯していたのです。また,ジョン・テーラーが死に至る病床に伏している間,ジョージが単独で教会に関する決断を下したことを彼らは快く思っていませんでした。さらに,大管長会が解散したことでジョージは十二使徒会の職に戻っていたにもかかわらず,教会の業務についてウィルフォードに助言を与え続けていることも不快に思っていました。新任の使徒からすると,ジョージは利己的に行動し,決断を下す過程から自分たちを締め出しているように思えたのです。6
一方のジョージは,自分が誤解されていると思っていました。ジョージは時折小さな過ちを犯したことを認めましたが,彼に対する非難は誤りであるか,不十分な情報に基づいたものだと言います。この数年にわたりジョージが経験してきた多大な圧力を理解していたウィルフォードは,引き続き彼に対する信頼を表明し,その知恵と経験に頼っているのでした。7
総大会前日の10月5日,ウィルフォードは十二使徒らを集め,和解への道を探ります。「天の下にいるすべての人の中にあって,我々は一致しなければならない」とウィルフォードは言います。それからウィルフォードは何時間もの間,またもや不満を口にする年若い使徒たちの訴えに耳を傾けました。彼らが話し終えると,ウィルフォードはジョセフ・スミスやブリガム・ヤング,ジョン・テーラーについて語りました。いずれも自分がよく知っており,身近でともに働いた人々です。彼らは偉大な人物でしたが,ウィルフォードはその不完全さを目にすることがありました。それでも彼らが自身に対して責任を負っているわけではないとと,ウィルフォードは言います。彼らは自分の裁き主である神に対して責任を負うことになるからです。
「わたしたちは思いやりを持ってキャノン兄弟に接するべきです」とウィルフォードは口にします。「彼には彼の欠点があります。完全であるなら,彼がわたしたちとともに現世にいることはないでしょう。」
加えてジョージはこう述べました。「もし皆さんのお気持ちを傷つけたのなら,へりくだって赦しを求めます。」
集会が終わったのは真夜中過ぎでした。総大会の開会の祈りが数時間後に迫っています。ジョージが赦しを求めたにもかかわらず,モーゼス・サッチャーとヒーバー・グラントは依然として,彼が自分の過ちに対して責任を十分に果たしていないと考えており,自分たちはまだ和解する気になれないと兄弟たちに告げるのでした。
その晩のことを,ウィルフォードは日記に短く記しています。「心が痛んだ。」8
そのころ,サミュエラ・マノアは,カヌーを操りながらパゴパゴ港の青緑色の水面を進んでいました。背後には,サモアの島トゥトゥイラのゴツゴツとした山頂が空に向かってそびえ立っています。眼前の入港口には大型の帆船が停泊しており,船が岩礁を安全に通り抜けられるよう,地元の船乗りが舵取りの手助けをしてくれるのを待ち構えています。
近隣の島アウヌウの住民であるサミュエラは,この港をよく知っていました。カヌーがようやく停泊中の船のもとに到着すると,サミュエラは船長に呼びかけて助けを申し出ます。船長は船の側面に縄ばしごを投げ下ろすと,乗り込むサミュエラを喜んで出迎えてくれました。
サミュエラは船長の後につき従い,下の甲板にある船長室へ向かいました。早朝だったので,船長はサミュエラが,船を港へ案内する前に自分でハムエッグか何かを作りたいのかもしれないと思いました。サミュエラは礼を言うと,料理の火つけに使う古新聞をもらいました。
少しばかり英文を読むことのできるサミュエラは,もらった新聞の一誌がカリフォルニアから送られて来たものであることに気がつきます。新聞紙を火の中にくべると,ちらちらと燃える炎の中に,ある見出しが照らし出されました。それは,末日聖徒イエス・キリスト教会の会員に向けて,総大会の開催を告げ知らせるものでした。胸の高鳴りを覚えたサミュエラは,その新聞紙を拾い上げて火を消しました。9
大会の日付はとうに過ぎていましたが,サミュエラは大会そのものよりも,教会の名称に強い関心があったのです。その教会は,自身が属する教会です。そして今,この数年来で初めて,教会が今なお合衆国内で発展し続けていることを知ったのでした。
1850年代,年若かったサミュエラは,ハワイで末日聖徒の宣教師からバプテスマを受けました。ところが1861年,ウォルター・ギブソンがラナイに築かれた聖徒たちの定住地を管理下に置くと,サミュエラらに向かい,ユタの教会は連邦軍により壊滅させられたと告げたのです。ウォルターの偽りを見抜けないままに,サミュエラは彼を信頼し,その指導を支持してきました。1862年,ウォルターがサミュエラともう一人のハワイ人聖徒,キモ・ベリオを宣教師としてサモアへ遣わすと,彼はその召しを受け入れたのでした。10
サミュエラとキモは,サモア初となる末日聖徒の宣教師でした。二人はその地で過ごした最初の数年間に,およそ50人のサモア人にバプテスマを施しています。ところが郵便が当てにならなかったため,宣教師たちはハワイに暮らす聖徒たちと連絡を取り合うのに苦労していました。11ユタにいる教会指導者らはサモアにおける伝道の門戸を開くよう命じていなかったため,サミュエラとキモを支援する新たな宣教師が遣わされることはありませんでした。サモア人聖徒から成る会衆は減っていくばかりです。12
キモが亡くなってからもサミュエラはサモアにとどまり,その地を自身の故郷と思い定めると,結婚して事業を始めました。近所の人たちは今でも,彼がハワイから来た末日聖徒の宣教師であることを知っていましたが,中には,彼が代表していると主張する教会が果たして実在するのかと疑い始める者もいました。13
サミュエラは長い間,合衆国における教会の滅亡についてウォルターが自分にうそをついていたのではないかと疑っていました。14サモアに来てから25年がたった今,彼はついに,教会本部に手紙を書けばだれかが返信してくれるかもしれないと期待するに足る根拠を入手したのです。15
新聞を握り締めながら,サミュエラは急いで船長を探し出すと,ユタにいる教会指導者にあてて手紙を出すのを手伝ってほしいと頼みました。その手紙で,できるだけ早急にサモアへ宣教師を派遣してくれるよう要請するのです。サミュエラは自分が何年もの間待ち続けていたこと,またサモア人の中で再び福音が宣べ伝えられるのを目にしたいと心から願っていることを書き送ったのでした。16
1887年の秋には,アンナ・ウイッツォーと二人の息子,ジョンとオズボーンがユタ北部の町ローガンに住み着いてから4年近くがたっていました。同じくノルウェーで教会に加わった,アンナの妹ペトロラインもユタにやって来ており,南へ80マイル(約129キロ)の所にあるソルトレーク・シティーに暮らしています。17
現在裁縫師として働くアンナは,息子たちを養うのに足るだけのお金を稼ぐために長時間を費やしていました。息子たちには,亡き父親と同じ教師になってほしいと望んでおり,アンナは生活において教育を優先させていました。15歳になるジョンは家族の生活費を稼ぐ手助けをするために地元の協同組合の店で働いており,昼間は学校に出席できません。その代わりに,暇を見つけては代数を自習し,イギリス出身の聖徒から英語とラテン語の個人レッスンを受けています。一方,9歳のオズボーンは地元の小学校に通っており,優秀な成績を収めています。18
ウイッツォー家族が到着する数年前のこと,ブリガム・ヤングはプロボで自身が設立したのと同様の学校をその地域にも建てるべく,土地を寄付していました。そうして1878年,ローガンにブリガム・ヤングカレッジが開校します。アンナは準備が整い次第,息子たちをその学校に送り込もうと心に決めていました。そのために,今後はジョンが店で働くことができなくなったとしてもです。肉体労働よりも教育を重んじるのは間違っていると考える人々もいましたが,知性を深めることは肉体の向上と等しく重要であるとアンナは信じていました。19
アンナはまた,息子たちが教会のプログラムや集会に確実に参加するようにしていました。日曜日になると,一家は聖餐会と日曜学校に出席します。オズボーンは週日にワード初等協会に出席し,ジョンは月曜の夜にアロン神権会に参加します。ジョンは執事であったとき,夫に先立たれた姉妹たちのために薪割りをしたり,ワードが集会を開いていたステークのタバナクルの手入れを手伝ったりしていました。今や祭司となったジョンは,ビショップリックやそのほかの祭司たちと話し合い,「ワードティーチャー」として毎月幾つかの家族を訪問しています。加えてジョンは,青年男子相互発達協会の一員でもありました。
アンナは木曜日になると,扶助協会の集会に出席します。ローガンに住む聖徒たちは,合衆国やヨーロッパの各地からやって来た人々ですが,回復された福音に対する信仰によって固く結ばれていました。地元の扶助協会集会では,女性たちが母国語で話をしたり,証を述べたりするのはよくあることで,周りの人が通訳をしていました。ローガンで暮らし始めて1年になるアンナは英語を習得していましたが,その地域にはスカンジナビア人の聖徒が大勢おり,ノルウェー語を話す機会も頻繁にあります。20
教会の集会の中で,アンナは回復された福音についてさらに学び,理解を深めていきました。ノルウェーでは知恵の言葉について教えられていなかったため,彼女はユタでも相変わらず,特に夜遅くまで働く必要があるときにはコーヒーやお茶を飲んでいました。2か月の間,彼女はこうした飲み物を断とうと努力していましたが,なかなかやめられずにいました。ところがある日,アンナは颯爽と自宅の食器棚に歩み寄ると,コーヒーとお茶の包みを取り出して火の中に投げ込みます。
そうして,「二度と飲まないわ」と宣言したのでした。21
アンナと息子たちは神殿の業にも携わりました。彼女とジョンは,1884年,テーラー大管長がローガン神殿を奉献する姿を目の当たりにしました。その数年後,ジョンは神殿で父親のジョン・ウイッツォー・シニアのためにバプテスマと確認の儀式を受けています。同日,ジョンとオズボーンは祖父や曽祖父をはじめ,そのほかの亡くなった親族のためにもバプテスマと確認の儀式を受けました。その後,アンナと妹のペトロラインは神殿に行き,それぞれ自身のエンダウメントを受けました。アンナは再び神殿に戻ると,母親や亡くなった親族のためにバプテスマと確認の儀式を受けています。
ローガン神殿は,アンナにとってかけがえのない場所となりました。神殿が奉献されたその日に,天が開かれたかのように思えました。アンナはシオンへ来るために払ったあらゆる犠牲に対する報いを得たのです。22
1887年の大半,エライザ・スノーの健康状態は衰えていっていました。人々に愛される詩人,中央扶助協会会長のエライザは今や83歳になり,すでに同世代の多くの聖徒たちより長く生きています。彼女は自分の死期が近いことを悟っていました。「死ぬか生きるか,わたしには選択の余地がまったくありません。」エライザは友人たちにそう思い起こさせます。「次の世に行くか,この世にとどまるか,天の御父の望まれるままに心から喜んで従うつもりです。わたしは主の御手の内にあるのですから。」
エライザの病状は,その年の間に悪化の一途をたどりました。ジーナ・ヤングほか親しい友人たちが,絶えず彼女を見守っていました。1887年12月4日10時,祝福師のジョン・スミスが,ソルトレーク・シティーのライオンハウス内に置かれたエライザの寝台の傍らを訪れます。自分のことが分かるかとジョンが尋ねると,エライザはほほえみ,「もちろんですとも」と言いました。ジョンが祝福を授けると,エライザは感謝を述べました。そうして翌朝早くに,エライザは安らかにこの世を去ります。その傍らには弟ロレンゾの姿がありました。23
末日聖徒の女性たちの指導者であったエライザは,準州内のほぼすべての定住地において,扶助協会や青年女子相互発達協会,初等協会を組織し,教え導いてきました。また30年以上もの間,エンダウメントハウス内で執り行われる女性による神殿の業を管理してきました。こうした場それぞれにおいて,エライザは自分の才能を用い,人類を救う神の業を手助けするよう女性たちを鼓舞してきました。
「聖なる女性となることは,わたしたち一人一人の義務です。」エライザはかつて,女性たちにそう教えました。「わたしたちは自分が重要な務めを果たすよう召されていると感じることでしょう。そうした務めを免除される人は一人としていません。それほど孤立した姉妹はいないのです。影響を及ぼせる範囲は限られていても,地上に神の王国を築くうえで大いなる働きを成すことができるのです。」24
“Woman’s Exponent”(『ウーマンズ・エクスポーネント』)の12月15日付の記事において,エメリン・ウェルズはエライザを,「選ばれた婦人」および「シオンの詩人」としてたたえています。「エライザ姉妹はこれまで召されてきた職において,常に勇敢で力強く,確固として揺らぐことがありませんでした」とエメリンは書いています。「シオンの娘たちは,彼女の賢明な模範に倣い,その足跡をたどるべきです。」25
翌年4月,聖徒たちはエライザの友人,ジーナ・ヤングを中央扶助協会の新たな会長として支持します。エライザと同じく,ジーナはジョセフ・スミスとブリガム・ヤング両人の多妻結婚の妻でした。261880年,エライザは中央扶助協会会長に就任したとき,顧問としてジーナを選びました。長年にわたり,二人の女性はともに働き,旅をし,歳を重ねてきたのです。27
ジーナは,その愛にあふれる個人的な奉仕の業,力強い霊的な賜物によって知られていました。何年もの間,扶助協会による協同プログラムの一つである「デゼレトシルク協会」を管理しましたし,経験豊かな助産師であったジーナは,扶助協会がソルトレーク・シティーで運営するデゼレト病院の副院長も務めました。いささかの不安を胸に新たな召しを受けたジーナでしたが,エライザの下で前進してきた扶助協会がこれからも繁栄するよう,その手助けとなることを心に決めたのでした。28
召しを受けて間もなく,ジーナは一人娘のジーナ・プレセンディア・カードのもとを訪れるために北方のカナダへと旅をしました。ジョン・テーラーは他界する前,ジーナ・プレセンディアの夫チャールズに,カナダで定住地を築くよう依頼していました。一夫多妻にかかわり流浪の身となった聖徒たちのためです。29これまで病気や冬季のためにジーナは娘を訪問できずにいました。しかし,ジーナ・プレセンディアは出産を控えていて,ジーナは娘のそばにいてやりたいと思っていました。30
ジーナがカナダ国内の新たな定住地,カードストンに到着したのは,ちょうど野の花が咲き始めたころでした。草が揺らぐ野原に囲まれたこの町は,繁栄するのにこの上ない場所であるように思えます。31
ジーナは娘が,長年の苦労をものともせず生き生きとしている姿を目にすることができました。24歳で夫を亡くしたジーナ・プレセンディアは,数年間,独りで二人の幼い息子を育て上げましたが,その後,下の息子トミーがジフテリアのために7歳で他界します。それから3年後,彼女は多妻結婚の妻としてチャールズと結婚したのでした。32
ジーナ・プレセンディアは開拓者としての暮らしに不慣れであったものの,小さな丸太小屋で居心地の良い家庭を築いていました。粗削りの丸太小屋の内壁を,自身で織り上げた柔らかなフランネル生地で覆い,各部屋を違う色で仕上げています。また春になると,彼女は食卓の上に新鮮な花々を絶やさないようにしていました。33
ジーナ・ヤングはカードストンでおよそ3か月間を過ごし,滞在中,定期的に扶助協会の集会に顔を出しました。6月11日,ジーナは女性たちに,カードストンは神の聖徒たちのために取っておかれた町であると教えました。人々の間には一致の精神があり,主は彼らのために大いなる祝福を備えておられると語ったのです。34
集会の翌日,ジーナ・プレセンディアは産気づきました。ジーナは助産師として,また母親として,娘の傍らにいました。わずか3時間生みの苦しみを味わった後に,ジーナ・プレセンディアは丸々とした元気な女の子を産みました。彼女にとっては初めての娘です。
赤ちゃんの母親に祖母,曽祖母もが皆,ジーナと名付けられており,彼女にもジーナと命名するのがふさわしいと思われました。35
サミュエラ・マノアの手紙がソルトレーク・シティーへ届く前にも,教会指導者たちはサモアにおける伝道活動を拡大するようにという御霊の促しを受けていました。1887年初頭には,ハワイへの伝道に向けて,使徒のフランクリン・リチャーズが31歳のジョセフ・ディーンとその妻フローレンスを召します。任命の際,フランクリンは夫妻に,サモアを含む太平洋地域のほかの島々にも福音を携えて行くよう指示していました。36
ジョセフが太平洋地域に送られたのは,幾分,彼自身と家族の身を連邦保安官から守るためでもありました。10年前,ジョセフは最初の妻サリーとともにハワイでの伝道を果たしました。本土に帰還後,多妻結婚の妻としてフローレンスを娶ったジョセフは,その後,不法な同棲のために刑務所で服役しました。ジョセフとフローレンスがハワイへ旅立つまで,保安官らは引き続きジョセフをしつこく追い回していたのです。一方サリーは,ジョセフとの間に産まれた5人の子供とともにソルトレーク・シティーにとどまっていました。37
ハワイに到着して数か月後,ジョセフがサミュエラに手紙を書いたところ,サミュエラからすぐに返信が送られてきました。そこには,伝道の業を助けたいという熱い思いがつづられていました。38フローレンスがジャスパーと名付けた男児を出産してから数か月後の1888年5月,ジョセフはサミュエラに手紙を書き送り,家族とともに翌月サモアに行くことを知らせます。少しすると,スーザとジェイコブ・ゲイツがディーン一家のために送別会を開いてくれました。そうしてジョセフとフローレンス,幼い息子はサモアに向けて出発したのでした。39
最初の2,000マイル(約3,220キロ)まで,旅は順調に進みましたが,蒸気船の船長によると,サミュエラが暮らすアウヌウ島へは船が向かう予定がないと言います。それどころか,船長はアウヌウから西へおよそ20マイル(約32キロ)の所にあるトゥトゥイラ付近に寄港したのです。
トゥトゥイラには一人の知り合いもいません。ジョセフは不安げな面持ちで,船を出迎えに来た人々の中に指導者の姿がないか探しました。責任者と思われる人物を見つけると,ジョセフはさっと手を差し出し,自分が知る数少ないサモア語の一つで“Talofa!”(訳注—「こんにちは」の意)と呼びかけました。
すると驚いたことに,その男性はジョセフのあいさつにこたえてくれたのです。そこでジョセフは,ハワイ語で「アウヌウ」と「マノア」 という言葉を強調しつつ,自分たち家族の行き先を何とか彼に伝えようとしました。
すると,その男性はたちまち目を輝かせ,「マノアの友達ですか」 と英語で尋ねてきました。
「そうです」とジョセフは安堵して言いました。
この男性はタニヒーリという名で,ジョセフたち家族を見つけて無事にアウヌウに連れて来るようにと, サミュエラが送ってくれた人物だったのです。タニヒーリはジョセフら家族を小さなオープンボート(無甲板船)に案内しました。サモア人12人から成る乗組員の一団も同行しています。ディーン一家が乗船すると,10人の男たちがボートを海へと漕ぎ出し始めました。その間,ほかの2人がボートから水をかい出し,タニヒーリが舵を取ります。激しい風に苦闘しつつも,漕ぎ手たちはボートを巧みに操りながら,荒れ狂う波を乗り越えてアウヌウ港へと無事に入港させました。
サミュエラ・マノアと妻のファソポが,岸辺でジョセフとフローレンス,ジャスパーを出迎えてくれました。サミュエラはジョセフよりもはるかに年上で,幾分ひ弱そうな細身の男性です。一行をハワイ地域に迎え入れると,雨風で傷んだサミュエラの顔に幾筋もの涙が流れました。「神がわたしたちを引き合わせてくださり,ここサモアで御自分の善良な僕に会わせてくださったのは,大いなる祝福だと感じています。」サミュエラはそう口にします。
ファソポはフローレンスの手を取ると,一同が共有することになる3室から成る家へと案内しました。次の日曜日,ジョセフはサモアにおける最初の説教をしました。室内は好奇心旺盛な隣人たちで満ちています。ジョセフがハワイ語で話をすると,サミュエラが通訳してくれました。翌日,ジョセフはサミュエラに再度バプテスマと確認の儀式を施しました。当時の聖徒たちは聖約を新たにするために,時折そのようにする慣習があったのです。
儀式を見ようと集まった人々の中に,マラエアという名の女性がいました。御霊に突き動かされた彼女は,バプテスマを施してくれるようジョセフに頼みます。ジョセフは確認の儀式のためにすでに濡れたバプテスマ衣を着替えていましたが,脱いだバプテスマ衣を再び身に着けると,水の中に入って行くのでした。
その後数週間のうちに,さらに14人のサモア人がバプテスマを受けました。7月7日,希望と熱意に満ちたジョセフはウィルフォード・ウッドラフに手紙を書き送り,自分たち家族の経験を伝えました。「何千もの人々が真理を受け入れるであろうことを,主の御名によって預言するよう促しを感じました。」ジョセフはそう報告しています。「これが今日のわたしの証です。わたしは生き長らえ,その成就を目にすると確信しています。」40