2016
主イエス・キリストは祈るように教えておられる
2016年11月


主イエス・キリストは祈るように教えておられる

皆さんの祈りは心からの祈りですか。それとも,口先だけの祈りですか。

1977年,わたしはペルーのクスコで専任宣教師として働いていました。同僚とわたしはクスコゾーンの宣教師を壮大なマチュピチュ遺跡に連れて行く許可を得ました。

遺跡の見学が終わりに近づいたころ,何人かの宣教師が山道の途中にあるインカ橋に行きたいと言い出しました。その瞬間,そこに行かないようにと御霊がわたしを制するのを心に感じました。その道は高さ600メートル以上もの断崖絶壁にありました。一度に人が一人しか通れない狭い所が数か所ありました。同僚とわたしはインカ橋に行くべきではないと彼らに言いました。

しかし,その宣教師たちは行こうと言い張りました。ますます熱心になる彼らの主張に,わたしはついにその圧力に屈しました。御霊のささやきに反して,十分気をつけるなら橋まで行ってもよいと伝えたのです。

インカ橋へ通じる山道に入ると,わたしがいちばん後ろを歩きました。初めは約束したとおり,皆,ゆっくり歩いていましたが,しだいに宣教師たちは,とても早足で歩いたり,走ったりさえし始めました。ゆっくり歩くように頼んでも,聞こうとしません。彼らに追いついて,引き返すように言わなければ,と思いました。彼らのずっと後ろにいたので,追いつくために速く走らなければなりませんでした。

二人並んで通ることができないほど狭い曲がり角に差しかかったとき,一人の宣教師が岩肌を背にしてじっと立っているのが見えました。わたしは彼がなぜそこに立っているのか尋ねました。彼は,その場所で待って,わたしを先に行かせるべきだと感じたからだと言いました。

わたしは先に行った宣教師たちに急いで追いつかなければと感じました。彼が道を譲ってくれたので,その道を少し先まで進むことができました。地面には植物がびっしりと生えていました。右足を地面に下ろしましたが,植物の下に地面がないと気づいたときには,もう落ち始めていました。わたしは必死に,山道の下に生えていた枝をつかみました。一瞬,600メートルほど下にインカの聖なる谷を流れるウルバンバ川が見えました。力が抜けたような感覚になりました。つかまっていられなくなるのは時間の問題でした。そのとき,わたしは必死に祈りました。とても短い祈りでした。口を開いてこう言ったのです。「天のお父様,助けてください!」

枝にはわたしの体重を支える強さはありませんでした。自分の最期が近づいていると分かりました。落ちようとしたちょうどその瞬間,だれかがわたしの腕をしっかりとつかみ,引き上げてくれるのを感じました。そのおかげで,わたしはもがき続け,山道に戻ることができました。わたしを助けてくれたのは,後ろで待っていた宣教師でした。

しかし,実際に助けてくださったのは天の御父でした。御父はわたしの声を聞いてくださったのです。わたしはインカ橋に行かないようにという御霊の声を3度聞いたにもかかわらず,その声に従いませんでした。わたしはショック状態で,顔は青ざめ,何も言えませんでした。それから,わたしは先に行った宣教師たちのことを思い出し,彼らを見つけに行き,自分に起こったことを彼らに伝えました。

わたしたちはとても慎重に,無言でマチュピチュに戻りました。帰りの道中,わたしは黙っていました。そして,主がわたしの声に耳を傾けてくださったのに,わたしが主の声に耳を傾けていなかったことに気づきました。わたしは主の声に従わなかったことに対して心に深い痛みを感じると同時に,主の憐れみに対して深い感謝の念を感じました。主はわたしに御自分の正義を行使されることなく,深い憐れみによって,わたしの命を救ってくださったのです(アルマ26:20参照)。

その日の終わり,個人の祈りの時間にわたしは心から「あわれみ深き父,慰めに満ちたる神」に祈りました(2コリント1:3)。「キリストを信じながら,誠心誠意」祈ったのです(モロナイ10:4)。

その日の朝,わたしは口先だけで祈り,そして自分が死にそうになったとき,心から主に祈りました。わたしはそれまでの人生を振り返りました。そして,多くの場面で天の御父が深い憐れみをかけてくださっていたことに気づきました。主はその日,ペルーのマチュピチュとクスコで,わたしに多くの教訓を与えてくださいました。わたしが学んだ最も大切な教訓の一つは,「いつもキリストを信じ〔る信仰を働かせ〕ながら,誠心誠意」常に祈る必要があるということです。

あるとき,主イエス・キリストは「ある所で祈っておられ」,そして「それが終ったとき,弟子のひとりが言〔いました〕,『主よ,……わたしたちにも祈ることを教えてください。』」(ルカ11:1)そこで主は弟子たちに祈ることを教えられました。主はゲツセマネの園で,「しかし,わたしの思いではなく,みこころが成るようにしてください」(ルカ22:42)と祈られました。その主の姿を思い描くとき,主は今日もわたしたちに祈るよう教えておられるのです。祈るときに,ほんとうに心から「わたしの思いではなく,みこころが成るように」願っているでしょうか。

パウロはイエスが「肉の生活の時に」,特にゲツセマネの園で祈られたときの様子をこのように描写しています。「激しい叫びと涙とをもって,ご自分を死から救う力のあるかたに,祈と願いとをささげ,そして,その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。」(へブル5:7)皆さんの祈りは心からの祈りですか。それとも,口先だけの祈りですか。表面的な祈りになっていないでしょうか。

イエスは切に祈り,御父と語られました。「さて,民衆がみなバプテスマを受けたとき,イエスもバプテスマを受けて祈っておられると,天が開け〔た。〕」(ルカ3:21)皆さんは祈るとき,天が開けたと感じるでしょうか。天とつながっていると最後に感じたのはいつでしょうか。

イエスは大事な決断に備えるために,御父に祈られました。

「イエスは祈るために山へ行き,夜を徹して神に祈られた。

夜が明けると,弟子たちを呼び寄せ,その中から十二人を選び出し,これに使徒という名をお与えになった。」(ルカ6:12-13

皆さんは大事な決断に備えるために,天の御父に祈っているでしょうか。祈りの時間のために自分を備えているでしょうか。

イエスはアメリカ大陸に来られたとき,人々に祈るよう教えられました。「また,イエスは彼らに,『祈り続けなさい』と言われた。しかし,実は彼らはまだ祈るのをやめていなかった。」(3ニーファイ19:26

イエスは「常に祈」るように勧めておられます。(教義と聖約10:5)イエスは天の御父がわたしたちの祈りを聞き,最善のものを与えてくださると知っておられます。なぜ,時にわたしたちはそれを受け取りたくないと思うのでしょうか。それはなぜでしょうか。

わたしたちが「天のお父様」と言った瞬間,御父はわたしたちの祈りを聞き,わたしたちとわたしたちの必要に敏感になられます。御父の目と耳がわたしたちに向けられるのです。御父はわたしたちの思いを読み,心をくみ取られます。御父に隠し事をすることはできません。さて,すばらしいことに,天の御父は皆さんを愛と憐れみの目で御覧になります。わたしたちの理解を超える愛と憐れみです。しかし,「天のお父様」と言った瞬間に御父はその愛と憐れみを持たれます。

そのため,祈りの時間はきわめて神聖な時間なのです。天の御父は,「あなたは問題があるときにだけ祈るので,今はあなたの祈りを聞きません」と言われるような御方ではありません。そのように言うのは人間だけです。御父は,「わたしがどれだけ忙しいか分かっていないでしょう」とは言われません。そのように言うのは人間だけです。

イエスが祈られたようにわたしたちも祈ることができますように。主イエス・キリストの御名により,アーメン。