2016
子供たちが知っていると知ること以上の喜びはない
2016年11月


子供たちが知っていると知ること以上の喜びはない

自分の子供たちが救い主を知っていると知ること以上に,幸福と喜びをもたらすものがこの世にあるとは思えません。

兄弟姉妹の皆さん,わたしは最近深く考えていることがあります。「子供たちが持っている福音の知識のすべてがわたしたちから来たものであり,それが唯一の情報源であるとしたら,子供たちはどれほど知っているのだろうか。」この問いは,子供を愛し,導き,影響を与えている人なら,だれにでも当てはまります。

贖い主が生きておられるという,わたしたちの証を子供たちの心に深く焼き付けることより大きな贈り物が他に何かあるでしょうか。わたしたちが知っていることを子供たちは知っているでしょうか。また,それ以上に大事なことは,主が生きておられることを彼ら自身で知っているかどうかです。

少年のころ,わたしは母にとって一番育てにくい子供でした。エネルギーを持て余していました。母の一番の気がかりは,わたしが大人になるまで生きられるだろうかということだったそうです。わたしはあまりにもやんちゃでした。

そのころ,聖餐会で家族と一緒に座っていたときのことを思い出します。母は,ちょうど新しい聖典の合本を手に入れたばかりでした。この新しい合本には,標準聖典が全部含まれており,真ん中にノートが取れるように線の入った白紙のページがありました。

集会の間,その聖典を持っていてもよいか母に尋ねました。母はわたしの敬虔さが増すことを期待してベンチづたいに本を渡してくれました。聖典をめくっていると,ノートの部分に母の個人的な目標が書いてあることに気がつきました。母の目標についてよく分かるように,皆さんには,わたしの名前がブレットであり,6人兄弟の2番目だったことをお伝えしなければなりません。母は赤字で一つだけ目標を書いていました。「ブレットに我慢すること!」

わたしの両親が家族を育てるときに直面したチャレンジがどれほどのものであったか,皆さんが理解できるようにさらなる証拠として,我が家の聖典学習の様子をお話ししましょう。毎朝,朝食を取るときに母はわたしたちにモルモン書を読んでくれました。その間,兄のデーブとわたしは静かに座ってはいましたが,敬虔ではありませんでした。正直に言えば,聞いていませんでした。わたしたちはシリアルの箱に書いてある文字を読んでいたのです。

ついにある朝,わたしは母に分かってもらわなければいけないと思いました。そして叫びました。「お母さん,どうしてぼくたちにこんなことするの!何で毎朝モルモン書を読んでいるの!」それから自分でも恥ずかしいと思うようなことを言ってしまいました。事実,あんなことを言ってしまったことが信じられません。わたしは言いました,「お母さん,ぼくは聞いてないんだよ!」

母の返した優しい言葉が,わたしの人生を決定づけました。母は言いました。「ブレット,マリオン・G・ロムニー管長が集会で,聖典を読む祝福について教えてくださったの。もし,わたしが毎日子供たちにモルモン書を読んで聞かせるならば,子供たちを失うことはないという約束を,その集会の中で受けたの。」それから,母はわたしの目をまっすぐに見て,決然とした態度で言いました。「そして,わたしはあなたを失なうわけにはいかないの。」

その言葉がわたしの心を貫きました。その不完全さにもかかわらず,わたしは救う価値のある人間なんだと思いました。母は,わたしが愛に満ちた天の御父の息子である,という永遠の真理を教えてくれたのです。たとえどんな状態であっても,わたしは天の御父の息子として価値があるということを学びました。それは,不完全な少年が学ぶのには,完璧なタイミングでした。

天使のようなわたしの母に,そして子供たちが不完全でも完全に愛してくれるすべての天使たちに,永遠の感謝をささげます。すべての姉妹たち,わたしが「天使」と呼ぶ姉妹たちは,この地上の生活で,既婚,独身,子供の有無にかかわらず,シオンの母親であると固く信じています。

数年前,大管長会はこう宣言しました。「母親の役割は,神の役割に近いものです。それは人間が行う最も高貴で神聖な業です。その神聖な召しを敬う母親を天使の次に置くものです。」1

天の御父の子供たちに,雄々しく,愛を込めて永遠の真理を伝えてくれる教会中の天使に,感謝しています。

モルモン書という贈り物に感謝しています。これが真実の書物であると知っています。この書物にはイエス・キリストの完全な福音が載っています。毎日忠実に,誠心誠意,キリストを信じながらモルモン書を読んでいる人で,証を失ったり,道を外れてしまったりした人の話を聞いたことがありません。モロナイの預言的な約束には,すべてのことの真理を知るための鍵,すなわち,サタンの欺きを識別し,だまされない能力を含む鍵が伴っています。(モロナイ10:4-5参照)

また,愛に満ちた天の御父とその御子イエス・キリストに感謝しています。救い主は,この不完全で不公平な世をどのように生きたらよいか,完全な模範を示してくださいました。「わたしたちが主を愛しているのは,主がまずわたしたちを愛してくださったからで〔す〕。」(1ヨハネ4:19参照)わたしたちを愛する主の愛は,計り知れない愛です。主は,最も信頼できる友であります。主は,わたしや皆さんのために,「血のしたたりのよう〔な汗を〕地に落」とされたのです(ルカ22:44参照)。赦されないような人々を赦されました。愛されないような人々を愛されました。生身の人間がなし得ないことをしてくださいました。全人類の罪,痛み,病を克服するために,贖罪を行ってくださったのです。

イエス・キリストの贖罪があるので,わたしたちはどのような困難と闘っていても,常に主に希望を持って生活することができます。主は「人を救う力を備えておられる」のです(2ニーファイ31:19)。主の贖罪のおかげで,わたしたちは喜び,平和,幸福,そして永遠の命を得ることができます。

ボイド・K・パッカー会長は次のように述べました。「滅びの道を選んだごく少数の人は別として,悪習,薬物依存,反抗,背き,背教,悪行などのために,完全な赦しという約束から除外される人は一人もいないのです。……これは,キリストの贖罪がもたらす約束です。」2

人類の歴史で起こった最もすばらしい出来事の一つは,救い主が古代アメリカ大陸の住民を訪れて,教えられたことです。もし皆さんがその場に居合わせたなら,どのような様子であったかを心に描いてみてください。神殿に集まった聖徒の群れに対して,主が注がれた愛に満ちた優しい思いについて考えていたとき,何にも勝って愛する子供たち一人一人のことが思い浮かんできました。わたしたちの幼い子供たちがその場にいるのを見たら,どのように感じるかを想像してみました。子供一人一人を招く救い主を自分の目で見,救い主の広げられた腕を見,一人ずつ主の手と足にある傷跡に優しく触れていく子供たちを見,そして主が生きておられることを一人一人立って証する様子を見たなら一体どのように感じるでしょうか(3ニーファイ11:14-17参照;17:2118:25も参照)。子供たちを呼ぶと,振り返って言います。「お母さん,お父さん,イエス様だよ!」

イエスと子供たち

わたしたちの子供たちが救い主を知っていると知るとき,また「どこに罪の赦しを求めればよいかを」知っていると知るとき以上に,幸福と喜びをもたらすものがこの世にあるとは思えません。だからこそ,この教会の会員として,「わたしたちは……キリストのことを説教」し,キリストの証をするのです(2ニーファイ25:26)。

  • だからこそ,わたしたちは毎日子供たちとともに祈るのです。

  • だからこそ,わたしたちは毎日聖文を読むのです。

  • だからこそ,わたしたちは子供たちに奉仕するように教えるのです。同胞のために務めるとき,自分自身を失いますが,自分自身を見いだすという祝福を受けることができるからです(マルコ8:35モーサヤ2:17参照)。

わたしたちが弟子としてのシンプルな行動規範に従い献身するなら,サタンの激しい嵐に直面する子供たちに,救い主の愛と,神聖な導きと守りという力を身にまとわせることができるからです。

福音はほんとうに一人のためにあります。福音は,一匹の失われた羊のために(ルカ15:3-7参照),井戸端の一人のサマリヤの女性のために(ヨハネ4:5-30参照),一人の放蕩息子のためにあります(ルカ15:11-32参照)。

福音は,「聞いていないんだよ」と主張するかもしれない小さな男の子のためにあります。

それはわたしたち一人一人のためにあります。福音はわたしたちが不完全であっても,救い主が天の御父のうちにおられるように,わたしたちも救い主のうちにいられるようになっていくためのものです(ヨハネ17:21参照)。

わたしたちには愛に満ちた天父がおられ,わたしたち一人一人をその名前で御存じであることを証します。イエス・キリストは生ける神の生ける御子であることを証します。イエス・キリストは独り子であり,御父にわたしたちを執り成してくださる弁護者です。さらにわたしは,救いは主の御名を通してもたらされ,それ以外の方法では得られないことを証します。

すべての御父の子供たちが主を知り,その愛を感じられるように,わたしたちが助けの手を伸べ,心をささげることができるように祈ります。そうするならば,主はこの世と来るべき世でわたしたちが永遠の喜びと幸せを得ると約束されています。イエス・キリストの御名によって,アーメン。

  1. 「大管長会メッセージ」Conference Report, 1942年10月,12-13,J・ルーベン・クラーク・ジュニア管長が朗読

  2. ボイド・K・パッカー,「輝かしい赦しの朝」『聖徒の道』1996年1月号,20-21参照