ジョセフ・スミスの聖書の翻訳
ジョセフ・スミスは,1820年代後半にモルモン書を翻訳していたとき,レーマン人やニーファイ人の歴史以上のことを学びました。
モルモン書には再三,聖書の「分かりやすくて大変尊い多くの部分」が失われていると示されています。11830年の夏,モルモン書が出版されてほんの数か月たったころ,ジョセフ・スミスは聖書の分かりやすくて大変尊い部分のいくつかを回復しようと,新たに聖書の翻訳を始めました。この努力は,欽定訳の崇められた文章にあるように,当時広まっていた聖書が神の誤りのない言葉であるという考えを否定するものとなりました。
ジョセフの翻訳は伝統的な方法で行われたわけではありませんでした。彼はギリシャ語やヘブライ語の原典を調べたり,新しい英語版を作るために用語集を使ったりしたのではありません。むしろ出発点として欽定訳聖書を使い,聖霊に導かれるままに追加や変更を行いました。
ジョセフは多くの小さな文法的修正やいくつかの言語を現代語にすることはしましたが,彼はこれらの技術的な改訂にはそれほど注意を払わず,啓示によって,現在の聖書にはない重要な真理を回復することに関心を寄せていました。歴史家のマーク・ライマン・ステーカーは,この翻訳は「言語というよりむしろ考え方」であると述べました。2
ジョセフ・スミスは1830年の夏から1833年の7月まで熱心に翻訳しました。彼はこの業は神から与えられた指示であり,「わたしの召しに付随するもの」であると言いました。3しかしながら,ジョセフが亡くなる前に一部は教会で印刷されましたが,存命中にジョセフ・スミス訳聖書は出版されませんでした。
それでも,この業に注いだ預言者の努力の証は,教義と聖約の中で明らかになっています。翻訳の過程が,その書物に含まれる多くの啓示の直接のきっかけとなり,翻訳の過程から直接導き出された章も10以上あります。中にはジョセフ・スミス訳聖書に関するジョセフや他の人々への指示も含まれています。4
翻訳の過程
モルモン書がE.B. ・グランディンの印刷所で印刷されていた1829年10月,オリバー・カウドリはグランディンから欽定訳聖書を購入しました。ジョセフ・スミスはそれを翻訳に使いました。
1830年6月,ニューヨーク州コールズビルでジョセフが受けた啓示を,彼は「モーセの示現」と説明し5,これがジョセフの翻訳の業のきっかけとなりました。この啓示は現在高価な真珠のモーセ書の1章です。創世記1章(現在のモーセ2章)で始まる聖書の翻訳の最も初期の原稿は,オリバー・カウドリとジョン・ホイットマーが筆記者となって約一か月後にペンシルベニア州ハーモニーで生み出されました。それから間もなくジョセフの妻エマ・ヘイル・スミスに与えられた啓示で,主はエマにジョセフの翻訳の筆記者6を務めるように指示され,彼女は確かに短期間務めました7(教義と聖約25:6参照)。それからの数か月間,翻訳は創世記から進みました。
その年の12月,シドニー・リグドンがオハイオ州でバプテスマを受けた後に,新たな信仰の指導者に会うためにニューヨーク州フェイエットに旅をしたとき,ジョセフ・スミスはリグドンが彼の筆記者として奉仕するように指示する啓示を受けました。「あなたは彼のために書き記さなければならない。そうすれば,わたしの胸の内にあるままに聖文が授けられ,わたしの選民は救われるであろう」8(教義と聖約35:20参照)。
リグドンが筆記者として務め始め,彼とジョセフがエノクの物語を記録してまもなく,ジョセフはしばらくの間翻訳の手をとめ,教会をオハイオ州に移すように指示を受けました(教義と聖約37:1参照)。このようにして,カートランドに落ち着いて間もなく,翻訳は再びジョセフの主な仕事の一つになりました。1831年2月の初旬,ジョセフは「住むためであり翻訳する」ための家を建てるように啓示を受けました9(教義と聖約41:7参照)。数日後,ジョセフが尋ねたとき,「聖文が与えられるであろう」という新たな啓示がジョセフに約束されました10(教義と聖約42:56参照)。
45章
最初に始めた翻訳は創世記に焦点を当てましたが,1831年3月7日に与えられた啓示は,すぐにジョセフの進路を変えました。教義と聖約45章として知られている啓示の中でジョセフはしばらくの間,旧約聖書をやめて,新約聖書を翻訳することに集中するよう指示されました。
「わたしはあなたがたが今それを翻訳できるようにする」とジョセフは告げられ,「あなたがたが来たるべきことのために備えられるように…大いなることがあなたがたを待ち受けている」11(教義と聖約45:61-62参照)。
その結果,ジョセフとシドニーは翌日から新約聖書の翻訳にとりかかりました。その夏にミズーリ州に出発するまでそれを続け,その後ジョセフとエマがジョン・ジョンソンの家に住むために,オハイオ州カートランドの南約30マイル(48キロメートル)のところからハイラムに移った後の秋に翻訳を再開しました。引っ越しは,一つにはジョセフが「聖書の翻訳を平和で静かに行うための」場所を見つけようとする試みでした。ジョセフ・スミスは後に,ジョンソン家に到着してからの時間のほとんどは,翻訳の業を続けるために準備することに費やされたと語っています。12
ジョセフはまた教会を管理し,その地域で福音を広めることにとりかかりますが,1832年1月には「完了するまで」再び翻訳に専念するように指示する啓示を受けました13(教義と聖約73:4参照)。ジョセフとシドニー・リグドンが翻訳に専念していた2月16日,ジョンソン家での重要な啓示を受けました。ヨハネによる福音書を翻訳しているとき,彼らの疑問は栄光の王国の示現に導かれました。それは回復されて間もない教会にとって,重要で新しい教義の源となりました。今日,この示現は教義と聖約76章になっています。
77章と86章
同様に,黙示録の一節の説明が現在の教義と聖約77章にありますが,これも聖書の翻訳から直接生まれたものです。一連の質問と答えの形式になっており,霊感に満ちた文章であるとして,初期の啓示の書に加えられました。
1832年9月にジョセフとエマはジョンソン家の農場を後にし,カートランドに戻り,それからの数か月間,今度はフレデリック・G・ウィリアムズを筆記者として熱心に翻訳を続けました。12月になると,翻訳から導かれて新たな啓示を受けました。この啓示はマタイ13章にある麦と毒麦のたとえを説明しています。この啓示は現在の教義と聖約86章であり,末日における神権組織を「わたしの民イスラエルのために救い手」としています14(教義と聖約86:11参照)。
1832年7月にジョセフは W.W. フェルプスに「わたしたちは新約聖書の翻訳を終えた」と手紙を書いています。
「偉大で驚くべき栄えあることが明らかにされました」と書き,加えて彼らが「旧約聖書を迅速に翻訳し,神の力の中ではわたしたちは神の御心によってなんでもすることができる」と記しました。15
旧約聖書の翻訳の作業は続き,ジョセフは1833年1月に次のように記しています。「この冬,わたしたちは聖文の翻訳をし,預言者の塾や,大会で過ごした。わたしは多くの栄えある心新たにする季節を過ごした。」161833年3月にジョセフは翻訳が終わったら「教会の諸事を管理」するようにという指示を受けました(教義と聖約90:13参照)。ジョセフは熱心に業を続けました。
91章
ほどなくしてジョセフ・スミスは,欽定訳聖書の外典として知られる14書を含む部分にさしかかりました。ジョセフ・スミスの時代にはほとんどの聖書にこれらの外典が含まれていましたが,当時それらを聖典とすることについて疑問視する傾向が増大していました。17この論争を受けて,ジョセフはこの外典を翻訳するべきかどうか知りたいと願い,それを主に尋ねました。その啓示が現在の教義と聖約91章で,このように答えられました。「その中には真実なことが多く載せられており,それは大部分正確に翻訳されている。しかし,その中には真実でないことも多く載せられている。それは人の手によって書き入れられたものである。まことに,わたしはあなたに言う。聖書外典を翻訳することは必要ではない。」18(教義と聖約91:1-3参照)
それらの章を訳すことなく,ジョセフは数か月間,旧約聖書の翻訳の作業を続けましたが,1833年7月2日のカートランドの大管長会(ジョセフ・スミス,シドニー・リグドン,フレデリック・G・ウィリアムズ)からシオンの聖徒に向けた書簡には次のように記されています。「今日,聖文の翻訳を終了しました。そのことにわたしたちは天の御父に感謝をささげました。」19
翻訳の遺産
ジョセフの死後,未亡人となったエマは翻訳の原稿を保管し,それらは1867年に復元末日聖徒イエス・キリスト教会から出版されました。近代の末日聖徒イエス・キリスト教会にとって,ジョセフ・スミスの翻訳は高価な真珠(モーセ書とマタイ24章)の一部を提供し,欽定訳聖書の末日聖徒版に多くの脚注を提供しています。(注:日本の場合,末日聖徒合本に幾つかの抜粋が掲載されています。)
しかし,翻訳は教義と聖約の内容を形成したという点で,教会に大きな影響を与えました。現在の教義と聖約の半分以上はジョセフ・スミスが聖書の翻訳の作業をしていた3年間の間に受けた啓示からなっています。20多くはジョセフが聖書の分かりやすくて大変尊い部分を回復しようと努力している間に,福音の理解が増して行くにつれて尋ねるよう霊感を受けた疑問から直接生じたものです。