中心の場所
西洋の長い歴史を通じて,あらゆる教派のキリスト教徒は新しい天国と新しい地球を待ち望んてきました。イエス・キリストが主として,また王として再び地上に降臨される道を備えるうえで,「聖なる都,新しいエルサレムが…神のもとを出て,天から下って来る」という黙示者ヨハネの息をのむような示現は,多くの人々にとって希望と大きな願望を呼び覚ますものとなってきました。1新しいエルサレムとは何のことでしょうか。聖アウグスティヌスが述べたように,それは祝福を受けて「不死不滅となり永遠に生きる聖徒」のことを暗示するものでしょうか。2あるいは,17世紀のアメリカ清教徒たちが,自分たちの植民地を宗教再生の源,すなわち「新しい」イギリスとして思い描いたときに信じていたようなもっと現実的な場所でしょうか。3
イエス・キリストの教会が回復されてからまだ6ヵ月も経たない初期の頃,末日聖徒たちは新エルサルムについて独自の考え方を思い描き始めていました。4ジョセフ・スミスが受けた初期の啓示の中で,この存在について比喩や植民地ではないことが述べられています。それは,むしろ聖徒たちが建てなければならない町であると記述されています。この新エルサレムは,シオンとも呼ばれ,避け所,平安の地,「中心の場所」となるのです。5
聖徒たちの心にすぐさま二つの疑問がわきました。最初の疑問は,主はどこに新エルサレムをお建てになるかというものでした。二つ目の疑問は,その町に誰が迎え入れらるのかというものでした。1830年8月にジョセフ・スミスに与えられた啓示により,暫定的な答えが与えられ,オリバー・カウドリー,パーリー・P・プラット他数名に福音を宣べ伝えながら西に向かうように指示が与えられました。主は,初期の聖徒たちがアメリカ・インディアンを指していた名前に言及して,次のようにお命じになられました。「あなたはレーマン人のところへ行き,わたしの福音を宣べ伝えなければならない。……そして…彼らの中にわたしの教会が設立されるようにしなければならない。」6啓示によれば,その町は,「レーマン人の中」にあるというものでした。7
カウドリーのグループはオハイオ州カートランドとその周辺で宣べ伝え,その地で多くの者が改宗しました。それから,彼らは南へ西へ何百マイルも旅をし,合衆国の西の果ての地域,すなわち,ミズーリ州とインディアン居住区との境の地までたどり着きました。彼らは数部族に宣べ伝えましたが,すぐに白人とインディアンの関係を管轄する連邦政府の役人にその居住区から離れるよう命じられました。8この知らせに落胆しましたが,ジョセフ・スミスは,神の声に裏付けを得ていたのでひるみませんでした。現在,教義と聖約52章として知られる1831年6月に与えられた啓示の中で,主はジョセフ・スミスに,〔御自分〕の民のために〔主〕が聖別〔なさった〕地」であるミズーリへ旅をするよう命じられました。9そこにおいて,シオンの町を建てる場所が知らされることとなりました。
大昔カナンの地において主がなさったように,神は御自分の聖約の民が入植する前にその地を聖別なさいました。そして,カナンと同じように,ミズーリも聖約の民が到着する以前に人が住んでいなかったわけではありませんでした。10聖徒が集合する場所となった地には,長い複雑な占領の歴史があったのです。
争いの境界線
ミズーリに到着して以来,ジョセフ・スミスは啓示を通して,シオンの町の場所がミズーリ川の曲がったところの下流の地点,ミズーリとインディアン居住地の境界線(現在のミズーリ州とカンザス州境)から東へ約10マイル(16キロメートル)ほどの場所であることを知りました。何世代もの間,ミズーリ西部のこの地は中央スー族の故郷でした。1600年代に,この言語を話すグループのインディアンがオハイオ川峡谷から南に向けて,ミシシッピ川を下り,ミズーリ州南部の西側一帯に移住し,東部の森林地帯と西部のグレートプレーンズに挟まれた豊かで肥沃な地に定住しました。11
1世紀の間先住民を苦しめたヨーロッパの疫病による混乱の後,中央スー族の人々は,異なる部族に分かれました。ワー・ハズ・ヘー(「上流の人々」)は,フランス語の略称はオーセージですが,ミズーリ川下流の主な住人として出現しました。「背が高く,頑丈で,肩幅の広い,巨人に似ている人々」として表現されるオーセージ族は,ミズーリ北部中央地域のオーセージ川と現在のインディペンデンスの近くを流れるミズーリ川の間に永住しました。12彼らの家は,一帯を見渡せる高い断崖の上に建てられていて,柱に若木を曲げて結びつけ,アーチ状の屋根を形作って建てられていました。その大きさは,ときに長さが100フィート(30メートル)の大きさのものもありました。何世紀もの間,ミズーリ川下流地域は,複雑な社会的かつ政治的体制と複雑な親族組織を持つ,この狩猟民が集まって構成された部族社会により占有されていました。13
末日聖徒にとっての「中心の地」となったため,ミズーリ州インディペンデンス近郊地域はオーセージ族にとっての「中心の地」ではありませんでした。つい1800年までは,オーセージ族はおそらく現在のミズーリ州,オクラホマ州,アーカンソー州,およびカンザス州の半分程度を占有していました。彼らの帝国の中心は,南部中央ミズーリにあり,州境の西側ではありませんでした。14
モルモンが後に新エルサレムと呼ぶ土地について,その他の部族たちがオーセージ族と争っていました。北アメリカの広大な原野は,一部のヨーロッパ諸国にとって,帝国を築く壮大な夢を膨らませるものでした。1539年にスペイン人が北アメリカの内陸全土における自分たちの権利を主張しました。そして,負けじとばかり,1682年にフランス人が東はアパラチア山脈から西はロッキー山脈までの北アメリカの全ての権利を主張しました。彼らの主張は,インディペンデンス近郊のミズーリ川沿いの離れた土地のことなど気にもかけていなかったため,オーセージ族のようなインディアン部族のことをほとんど考慮に入れていませんでした。15ヨーロッパ最大の関心は,インディアン部族たちの帝国の境界線付近,すなわち,セントローレンス川沿いの富をもたらす産業や船による輸送に便のいい場所,および後にカナダとなる場所,それにカリブ海の島々でした。
フランス人は,権利を主張した広大な土地をフランス国王の名にちなんでルイジアナと呼びました。その土地はやがてスペイン人の所有となり,その後,フランス人の所有に戻りました。そして,1803年のルイジアナ買収で,フランスは合衆国に売却しました。その買収には,将来のシオンの町の用地も入っていました。
ルイジアナ買収は,合衆国の人々がミズーリに移住したため,ミズーリへの新たな入植者をもたらすこととなりました。そしてミズーリは1821年に州となりました。16他の州と同様の政府組織形態がミズーリ州でも採用されました。州の西側境界沿いに住む市民は,ミズーリ州の州議会に郡を組織することを要望しました。そして,1827年に,州議会はジャクソン郡を制定しました。ミズーリ川のちょうど南に位置し,サンタフェ・トレイルと呼ばれる貿易道路沿いの新たな入植地であるインディペンデンスは,州の政治の中心地となりました。
ジョセフ・スミスがミズーリ西部に到着してまもなく与えれた教義と聖約57章は,聖徒たちにとってこの土地の社会的政治的情勢の中でどう行動すべきかの指針となりました。啓示では,シオンの「中心の場所」は「今インディペンデンスと呼ばれている場所」に位置することが示されました。17白人の入植者の多くは,この当時,この土地がこれまでに誰にも所有されていないと思いながら入植し,その後,郡の庁舎に所有権の申請を行いました。啓示は,この郡庁舎のことについて述べています。すなわち,神殿は郡庁舎の西側に建てられることが述べられています。この啓示が与えられた当時,この土地のほとんどが既に入植者たちによって所有権が申請されており,聖徒たちは土地の法律上の所有権について交渉する必要がありました。啓示では,末日聖徒たちに大昔のイスラエルの民がカナンで行ったように力づくで聖なる土地を求めて争わないように暗示していました。主は次のように言われました。「聖徒たちがその土地を購入することは賢明である。」18
聖なる民
何世代にも渡って,おもにスペイン人とフランス人の貿易商たちでしたが,わずかのヨーロッパ人たちがミズーリ川沿いに住むインディアンたちの間で暮らしていました。彼らはインディアンと結婚し,インディアンと取り引きを行っていました。19しかし,白人の家族たちが西へと移動し,当時インディアンたちにより占有されていた土地に入植した際,彼らはこうした文化の交流に激しく抵抗しました。白人たちは,インディアンの全ての部族が州から出ていくように要求しました。1824年から1830年の間に,何世紀にも渡ってミズーリ州の境界内に住んできたインディアンの部族は彼らの住んでいた土地を実質的にすべて明け渡しました。強力なオーセージ族は1825年に自分たちの土地を売り,さらに西のカンザスやオクラホマへと移住しました。201831年に末日聖徒たちがジャクソン郡に到着するまでには,インディアンは自分たちの入植地から退去し,新たに設定されたインディアンと白人居住区の境界線を越えて脱出していきました。
教義と聖約57章は,その新たな境界線を支持はしていませんが,その存在について述べています。その啓示では,シオンが「ユダヤ人と異邦人の間をまっすぐ走っている境界線」,すなわち,ミズーリ州と西方のインディアン居住地を分ける境界線沿いに建設されると記述されています。21しかしながら,その啓示は,まずユダヤ人と異邦人という奇妙な言葉を用いることで,一般的に用いられる分類用語を避けています。白人とインディアンあるいは白人と赤色人といったアメリカ人が当時一般的に使っていた言葉を使用すれば,人種および文化的な分断を暗示することになりました。この二つのグループは天と地ほどもかけ離れた存在でした。そして白人たちは,こうした用語を並べることでそのような不一致を強調したのです。22
しかしながら,ユダヤ人と異邦人という分類は,グループの違いを示すものであり,その不一致を強調するものではありませんでした。モルモン書によれば,ユダヤ人と異邦人は,神の次第に明らかとなる計画の中で,重要な役割を担っています。神は彼らがともに働くよう勧められました。古代において,福音はユダヤ人,すなわち神の古代の聖約の民から異邦人に伝えられ,異邦人が聖約の民の中に数えられるものでした。末日においては,この関係は正反対になります。すなわち,福音は異邦人からユダヤ人に伝えられ,ユダヤ人はイエスがメシヤであることを認めることになるのです。23教義と聖約57章は,インディアンをユダヤ人と断定してこの聖約を反映しています。そのようにして,インディアンが神の聖約の民の一つであることを認めています。24インディアンは,神により選ばれ,愛され,忘れられていないイスラエルの家の民なのです。25
インディアンの排除,すなわち,人種隔離が合衆国政府の国家方針となっていた当時,ジョセフ・スミスの啓示はそれとは別の方向を向くものでした。26インディアンたちを隅に追いやり,「文明」から遠く離れたところへ追いやるのではなく,むしろ,この啓示は,シオンを彼らにもたらし,彼らの中に神の聖なる町を建てるものでした。シオンは,ユダヤ人と異邦人の「間」,つまり,人種の間に建てられるというものでした。27このような取り決めがあれば,複数の人種の人々が,神の業において不可欠な役割を果たすことができるのです。もし喜んで行う気持ちがあれば,人々は中心から見てどのような位置にいようと,「心の清い」人となり,安全に平和にシオンで暮らすことができるのです。28
ジョセフ・スミスがまだミズーリにいたときに与えられた教義と聖約第58章から,このビジョンのさらなる広がりが伝わってきます。この啓示では,インディアンと白人について何も述べられていません。ここでは,ユダヤ人と異邦人という言葉も出てきません。その代り,この啓示は,神の全ての子供たちを一緒にして,「地に住む民」として述べています。29この啓示では,シオンは「すべての国民が招かれる」場所であると説明しています。30
国民という言葉は,1830年代の読者にとって心に響くものでした。というのは,この言葉が,インディアンと白人のどちらにとっても,政治的組織の中で最も大きなものを指す言葉であったからです。啓示は,シオンには,「富者と学者,知者と賢人」すなわち,政治的および社会的な力のある人々も含まれることについて続けて述べています。しかし,シオンにはまた,そのような力をもともと持たない人々,すなわち,忘れ去られ,追いやられた人々である「貧しい者と,足の不自由な者,目の見えない者,耳の聞こえない者」が含まれるのです。31聖約という関係でつながり,全ての者が神の神聖な場所でともに住むことになるのです。
まとめ
ジャクソン郡でこれらの啓示が与えられてから2年もたたないうちに,シオンは破壊に遭い,その住民は迫害を避けるために逃げざるを得ませんでした。ジャクソン郡から逃れた聖徒たちは,ユダヤ人と異邦人との境界に沿ってシオンを建設するという仕事からは退却せず,まず,ノーブー,そして後に,グレートベイスンの砂漠へと進んでいきました。聖徒たちは,どこに入植しようと,あらゆる人々を招き入れました。32今日でも,避け所で平和に住むために「すべての国民が招かれる」シオンの社会を建てるというビジョンは,末日聖徒を鼓舞しています。初期のミズーリでの啓示から与えられた熱い望み,約束,および希望は,今も生き続けています。