ヒーバー・J・グラントの生涯と教導の業
1899年10月の末日聖徒イエス・キリスト教会総大会において,当時十二使徒定員会会員を務めていたヒーバー・J・グラント長老はこのように語った。「神が命じられ,わたしたちが従うときに,乗り越えることのできない障害はありません。」1この簡潔な言葉はヒーバー・J・グラントの生涯と教えの中で繰り返し語られるテーマとなっていた。ヒーバー・J・グラントは逆境を経験したが,信仰と従順,勤勉,熱意によってあらゆる障害に立ち向かった。
変化と進歩の時代
ヒーバー・J・グラント大管長は劇的な変化の時代に生きた。誕生した1856年には牛や馬が荷車を引き,旅は数か月を要する場合が多かった。ところがグラント大管長が他界した1945年には,自動車と飛行機の世界となり,数時間単位で旅をすることができるようになっていた。ヒーバー・J・グラントが幼いころに使われていた駅馬車郵便に,ほかの伝達手段すなわち電話やラジオ,航空便が取って代わっていた。
教会が組織されてから26年後,開拓者がソルトレーク盆地に到着してから9年後に誕生したヒーバー・J・グラントは,地上における神の王国が大きく進歩する時代を目にした。ヒーバーは生涯を通じて歴代の大管長たちと親交を深め,また自分の後継者を備えさせるために力を尽くした。ヒーバーは幼いころ,度々ブリガム・ヤング大管長の家庭を訪れている。十二使徒定員会会員として,4人の大管長すなわちジョン・テーラー,ウィルフォード・ウッドラフ,ロレンゾ・スノー,ジョセフ・F・スミスの指導の下で働いた。また,後に大管長となった3人の使徒,ジョージ・アルバート・スミス,デビッド・O・マッケイ,ジョセフ・フィールデイング・スミスとともに十二使徒定員会で働いた。大管長を務めている間に,ヒーバー・J・グラントはハロルド・B・リー,スペンサー・W・キンボール,エズラ・タフト・ベンソンを使徒職に聖任した。そして1935年に,ヒーバー・J・グラントをはじめとする大管長会は若き帰還宣教師ゴードン・B・ヒンクレーを教会の「ラジオ広告および伝道文献委員会」の責任者兼書記として採用している。
母と子の愛にあふれる関係
ヒーバー・ジェディー・グラントは1856年11月22日,ソルトレーク・シティーにおいてレーチェル・リッジウェイ・アイビンズ・グラントと,ブリガム・ヤング大管長の第二副管長を務めていたジェデダイア・モーガン・ダラントの間の唯一の子として生まれた。ヒーバーが生まれて9日後に,父親は腸チフスと肺炎のために世を去った。
ヒーバーは少年時代のほとんどの時期を,母とともに経済的に苦しい生活をしなければならなかった。「火のけもなく寒い夜を過ごし,何か月も靴も履かず,手作りの質素な服が1着しかなく,パンはそこそこあったものの,1年間にわずかなバターと砂糖しか手に入らないという貧しい食事」に耐えた。2
レーチェル自分と幼い息子が生きていくために懸命に働いた。縫い子をして働き,そのうえ下宿人を置いていた。レーチェルの実の兄弟たちは,「もし教会を離れてくれたら生活の面倒を見る」と申し出たが,彼女は自分の信仰を捨てようとはしなかった。この献身と犠牲はヒーバーに消えることのない記憶として残された。彼は後にこう回想している。
「経済的に恵まれていた母の兄弟たちは,母が信仰を捨てるならば,生活費として一定の金額を毎月与えようと言いました。一人の兄弟はこう言いました。『レーチェル,あなたはアイビンズ家の名を汚している。あの汚らわしいモルモンと一緒にいるかぎり,わたしたちは二度と顔を見たくない。』これはユタに向かって旅立つときに言われた言葉でした。『けれども』彼は続いてこう言いました。『1年後か,5年後か,あるいは10年か20年後であってもいいから帰って来なさい。いつ帰って来ても,ドアの鍵は開いているからね。安楽な暮らしが待っているからね。』
後に貧しい生活を余儀なくされたときに,もし,ジョセフ・スミスが神の預言者であり,福音が真実であることを知らなかったとしたら,母は東部に戻って,兄弟に世話してもらえばよかったのです。しかし母は,東部に住む裕福な親戚のもとへ行って,苦労して自分と子供の生計を立てる必要のない恵まれた生活を送るよりむしろ,同じ信仰を持たない親戚よりもっと強い結びつきのある人々の中で,自分の生活を切り開いていく方を望んだのです。」3
レーチェル・グラントと息子は経済的には貧しかったが,互いに対する愛と,回復されたイエス・キリストの福音に対する献身という面では豊かだった。グラント大管長はこのように回想している。「言うまでもなく,わたしはすべてのことについて母に恩を感じています。父はわたしが生後わずか9日目に他界したからです。母のすばらしい教え,信仰そして高潔さは,わたしにとって霊的な励ましとなってきました。」4
母の影響を受けたヒーバー・J・グラントは,教会中に知られることになる堅忍不屈の特質を身に付けた。彼は勤勉さと勤労精神によって生来の弱点を克服した。例えば,ヒーバーは野球が下手だったので仲間から物笑いの種にされた。彼はその冷やかしを受けて立つと,野球道具を買うお金を稼いで,家畜小屋の壁に向かって何時間もボールを投げ続けた。この粘り強さの結果,ヒーバーは後に優勝チームでプレーすることになった。学校では字が下手なためにクラスの友達にからかわれた。彼は後に次のように回想している。「もちろん悪気があったわけではなく,楽しい冗談だったのですが,そのような言葉にわたしの心は奮い立ち,新たな決心が生まれたのです。大学中の手本になるような字を書いてみせよう,書き方と簿記の先生にきっとなってみせると固く決心したのです。……わたしは余暇を利用して書き方の練習を始めました。そして何年も練習を重ねて,ついに『傑出した能筆家』との異名を頂くまでになりました。」ヒーバーは後に書き方の準州大会で第1位となり,デゼレト大学(現在のユタ大学)で書き方と簿記の教師になった。5
「金融界と産業界の指導者」
ヒーバー・J・グラントは,母を助けるために若いころから実業界に身を投じた。15歳のときに保険会社の事務所で出納係兼保険証券係として雇われた。銀行でも働き,勤務時間が終わるとカードや招待状を書き,地図を作成する仕事でお金を稼いだ。
さらなる機会を求めていたヒーバーは,「何とかして大学教育を受け,優れた大学の学位を取得したいという願望を抱いて」いた。だが,「資金がなく,夫を亡くした母の面倒を見なければならないため,実現する可能性はほとんどないと」感じていた。ところが合衆国海軍士官学校への入学が許可されたのである。当時の様子を次のように語った。
「わたしは生涯で初めて眠れない夜を過ごしました。人生の大きな望みがかなえられる喜びに,ほとんど一晩中眠れませんでした。夜明け前にやっと眠りに就き,母に起こされるまで目覚めませんでした。
わたしは母に言いました。『お母さん,ユタの青年たちと同じように立派な教育を受けられるなんてほんとうにすごいよね。うれしくて眠れなかったよ。夜が明けるころまで起きていたんだよ。』
顔をのぞき込むと,母はずっと泣いていたことが分かりました。
おぼれた人が,死の寸前に人生のすべての光景を思い浮かべるというのを聞いたことがあります。わたしは心の目で自分が艦隊の司令官になる姿を見ました。夫に先立たれた母を残して,艦船に乗って全世界を航海する自分の姿を見ました。わたしは笑って,母を抱き締め,キスをすると,こう言いました。
『お母さん,わたしに海軍の教育は必要ありません。ビジネスマンになって,すぐにも事務所に入り,お母さんの世話をします。下宿人を置かなくても生活できるようにします。』
母は感情を抑え切れずに,泣き崩れました。そして母も一晩中寝ないで,自分を残して出て行こうとする野望をわたしが捨てるように祈っていた,と言いました。」6
ヒーバーは実業界への関心を追求していくうちに,若くして特に銀行業界と保険業界で成功を収め,正直で,熱心に働く実業家としての評判を得た。ユタ州の初代州知事を務めたヒーバー・M・ウェルズはこのように語った。「彼はアメリカ最大の金融機閨や企業の重役の事務所に出入りできる人物であり,温かく,好意的に迎え入れられています。人々は友人としてまた金融界と産業界の指導者として彼を知っていることを誇りと感じています。」71921年の金融関係の雑誌には,グラント大管長をたたえた次のような記事が掲載されている。「グラント氏は真の指導者の特質を備えています。すなわち強い意志,気高い心,謙遜さ,自分が進むあらゆる道で理想を追求する熱意,たゆまず励む勤勉さです。彼は宗教の違いを超えて合衆国西部の実業人に広く知られ,また尊敬されています。」8
ヒーバー・J・グラントはすべての事業で成功したわけではなかった。例えば,1893年に合衆国の大部分を襲った経済危機によって数百の銀行,鉄道,鉱山,その他の事業が財政的な崩壊に陥った。1893年恐慌と呼ばれたこの危機は,当時十二使徒定員会の一員であったグラント長老をも突然に襲った。グラント長老は返済に何年もかかる負債を抱えることになった。この苦難の時期に,グラント家は全員で,家の財政危機を乗り切るために結束した。一人の娘はこのように述べた。「わたしたちは働ける年齢になると,すぐに働き始めました。……わたしたちは自分のことを自分ですることによって父を助けていると感じ,青年時代の中で最も大きな満足を覚えました。」9
最終的に経済的な成功を収めたヒーバー・J・グラント大管長はその資産を個人,家族,教会,地域社会を支援するために使った。グラント大管長はこのように述べている。「わたしの心の奥底にある気持ちをよく知っていた友人たちは皆理解してくれていましたが,わたしがお金のために懸命に働いていた間,お金は自分の神ではなかったし,お金に心を奪われたことは一度もありませんでした。手に入るお金を使って,正しいことだけをしました。わたしは常にこのような気持ちでいることを心から願っています。」10
グラント大管長は人々に本を贈ることを大きな喜びとしていた。贈った書物は数千冊に上るが,そのほとんどには自ら手書きで言葉を添えて贈った。彼はこれらの書物を「たばこ銭」で買ったと言っていた。それは,本を贈る習慣を続けるために必要な金額は,喫煙者がたばこを吸いたいという欲求を満たすために使う金額とほとんど同じだという理由からだった。11あまりに多くの贈り物をするために,時々自分がだれに何を贈ったかを忘れることがあった。「ある人に1冊の本を贈りました」とグラント大管長は語った。「彼はそのことにとても感謝してくれました。そしてこう言いました。『グラント兄弟,この本を下さったことをほんとうに感謝しています。同じ本をこれで3冊頂きましたから。』」この経験以降,グラント大管長は贈った本の記録を取ることにした。12
グラント大管長についてこのような言葉が残されている。「彼が与えるのは,与えることが好きだからです。偉大で惜しみない心がそのように促すのでしょう。」13グラント大管長の娘であるルーシー・ダラント・キヤノンは父親を「世界中で最も寛大な人」であって,特に夫を亡くした女性と父親のいない子供に対して特別な関心を払い,「彼らの家のローンの返済,子供たちの就職,病人の看護などに心を配っていた」と語っている。「かつて,5ドルか10ドルを上げていたときよりも,5セントを上げることの方がもっと大変だった1893年恐慌以降の時期」にさえ,「父は困っている人々を相変わらず助けていました」とルーシーは話している。14
「家族をこよなく愛する人」
グラント大管長の娘であるフランシス・グラント・ベネットはこのように語っている。「〔父が〕強い性格の持ち主であったことはよく知られていますが,父が家族をこよなく愛する人だったことを知っている人はほとんどいません。」15ヒーバー・J・グラントは教会の責任のためにしばしば旅に出なければならなかったが,何千通もの手紙やメモを書いては家族と身近に接していた。グラント大管長の孫に当たるトルーマン・G・マドセンは次のように回顧している。「度重なる旅行により家を離れるという問題に対応するため,祖父の取った方法は手紙を書くことでした。……列車の中,待合室,ホテルで,また集会と集会の間の時間に壇上で,自分の経験や感じたことを分かち合い,家族からの手紙の返事を書くためにペンを執っていたものでした。」16
ダラント大管長の娘であるルーシーは,聖徒たちを教え導くための旅から帰った父親と子供たちが一緒に楽しいひとときを過ごしたことについて,このように回顧している。
「父が家に帰って来ると,わたしたちは大喜びでした。全員が父を囲んで,話に耳を傾けました。父が子供たちを一人ずつ両足の上に乗せて部屋を歩き回ったり,ひざの上で揺らせていたりした様子が今でも心に浮かんできます。……
我が家の老馬ジョンが引く馬車に乗ったことを思い出します。二人乗りの馬車にすし詰めになって,みんなで行きました。父はわたしたちの好きなコースを取ってくれました。ウェストテンプル〔ストリート〕を下って,リバティーパークへ向かいます。ウェストテンプルにはポプラ並木がありました。ポプラが樹液を出す初春になると,父は馬を止め,柔らかい枝を取って笛を作ってくれたものです。わたしたちが興味津々で見守る中,樹皮を手際よくはがして,繊維の部分にV字を作り,再び樹皮をかぶせると完成します。ゆっくり馬を走らせながらこの笛を吹いて家に戻りました。子供たちの笛はそれぞれ音程が少しずつ違っていました。」17
グラント大管長は体罰に訴えなくても家庭内の規律を維持することができた。娘のルーシーはこのように述べている。「『鞭を加えない者はその子を憎むのである』という考え方に従って,父が強く命令するようなことは一度もなかったと思います。……わたしたちは小枝の鞭で打たれるよりも,両親を悲しませたことを知る方が余計に傷ついたと思います。」18
グラント大管長は,親は「その模範が子供たちの励ましとなるように,自分の生活を正しなさい」19と勧告するとともに,自らもこの教えに従って生活した。大管長の娘フランシスは父親の模範から学んだときのことを次のように語った。
「わたしは生涯忘れることができないほど強く心に響いた一つの出来事を経験しました。あるとき,わたしは父から禁じられていた言葉を使ってしまいました。父はそのような言葉をすべて口から洗い流さなければならないと言いました。そして石けんを使って口の中をごしごしと洗ってから,こう言いました。『さあ,これできれいになったよ。これから二度とそのような言葉で口を汚してはいけないよ。』
数日後朝食の席で,父は一つの物語を話しました。父はだれかの言葉を引用して,不敬な言葉を使いました。わたしはすぐにそれを指摘しました。
『パパ,わたしがそのような言葉を使ったときに,わたしの口を洗ったわね。』
『そうだね』と父は答えました。『わたしもおまえと同じようにこういう言葉は決して口にしてはいけないね。わたしの口を洗ってくれるかい。』
もちろんそうしました。わたしは洗濯石けんを手にすると,父の口をくまなく洗いました。
父は言い逃れをすることもできました。実際にののしったわけではないと言うこともできました。もちろん,それが事実でした。しかしそのような方法を取りませんでした。幼い子供には,引用した言葉と本人が語った言葉の区別がつきません。父はそれを知っていました。そのときから,父はわたしをどんなことがあっても公平に扱ってくれることを知りました。決して,不公平な扱いを受けたことはありませんでした。その後,たとえ引用であっても,父が不敬な言葉を口にするのを聞いたことがありません。父はいきいきと描写しながら話すのが好きでした。このように言ったものです。『ジョンは強調して何々と言った。』けれども実際の言葉は言いませんでした。父は模範によって教えることの大切さを心から信じていて,自分の行っていないことをわたしたちにするように決して求めませんでした。」20
ルーシーの母親は,34歳で亡くなった。父親が妻に示した優しい愛をルーシーは次のように思い起こしている。「長期にわたった母の闘病生活の間,父はいつも母に関心と思いやりを示していたことが,家族や親しい友人だけでなく,父の献身ぶりを目にした見知らぬ人たちからの言葉にも表れていました。カリフォルニアの病院で治療を受けていた6か月間,わたしは母に付き添っていました。父は可能なかぎりわたしたちと一緒にいました。定期的に花が届き,果物,お菓子,新しい服など父が送ってくる物はすべて母のものでした。手紙はほとんど毎日のように届いていました。何かの理由で手紙が遅れると,看護師でさえ気づくほどでした。シスター長(カトリックの病院に入院していました)は長い間看護師を務めてきて,父ほど妻に思いやりを示す男性を見たことがないと言いました。」21
ルーシーはまた,父親が祖母を絶えず気遣っていたことについても述べている。「わたしは,これほどの思いやりと愛情を示す息子を目にしたことがありませんでした。年老いた母親が幸せな気持ちでいることを気遣い,自分の持っているものをすべて彼女と分かち合い,何不自由なく生活できるように心を配ろうとする熱意は,情熱と言えるほど強いものでした。わたしたちは毎日家族の祈りを行っていました。父は自分の順番になると,耳が遠くなっていた祖母に聞こえるように祖母の傍らにひざまずいて祈りました。祖母はほかのだれかに声をかけられても聞こえませんでしたが,父の声だけは聞くことができました。……祖母は生涯の最後の7年間をわたしの家で過ごしました。父が家にいたときに,祖母を訪れて来なかった日や,電話をかけてこなかった日,祖母と話をしなかった日を思い出すことができません。祖母の優しい振る舞い,すばらしい霊性,美しく輝くような顔,満足と平安に満ちた顔を父はいつも誇りにしていました。」22
教会における献身と奉仕の生涯
ステーク会長
ヒーバー・J・グラントは24歳の誕生日を迎える少し前に,ソルトレーク・シティーを離れて,住まいをユタ州トゥーエルへ移し,そこでステーク会長として働く召しを受けた。この出来事について,ダラント大管長はこのように回想している。「わたしには経験がありませんでした。そして自分の持つ弱点を痛切に感じました。」23しかし彼はこの新しい責任に自分のすべてをささげた。後に,次のように語っている。「わたしの頭には,〔トゥーエルで〕残りの生涯を過ごすこと以外ありませんでした。それ以外何も考えていませんでした。」24
1880年10月30日,ユタ州トゥーエルステークの会員たちはまったく見知らぬ23歳のヒーバー・J・グラントが新しいステーク会長として提議されたとき,驚きの色を隠さなかった。グラント会長は短い話の中で,自己紹介をした。説教は自分が望んでいたほど長くなかったが,聴衆は自分たちの神権指導者として働く人の人柄が少し分かった。何年か後,グラント会長はそのときの話の要旨を思い起こして次のように語った。
「わたしは,7分半で終わった話の中で,トゥーエルの人々に対してわたし以上に什分の一を正直に納めるよう求めはしないと言いました。またわたし以上に,自分の持っている財産をささげるよう求めはしないし,わたし以上に知恵の言葉を守るように求めることはないと言いました。そして,シオンのステークの人々のために,最善を尽くします,と言いました。」25
グラント会長は2年間ステーク会長として誠実に務めた後,聖なる使徒職に召された。
使徒
1882年10月16日,ヒーバー・J・グラント長老は,ジョン・テーラー大管長の第一副管長であったジョージ・Q・キャノン長老により使徒に聖任された。十二使徒定員会で働いた36年間に,グラント長老は指導者,教師,実業家,宣教師として教会に貢献した。また教会の若い男性の組織の中央会長会の一員として働いたほか,教会の機関誌『インプルーブメント・エラ』(Improvement Era)の発刊に寄与した。グラント長老はまた『インプルーブメント・エラ』の実務部長を務めた。
グラント長老は十二使徒に召されてから,5年間専任宣教師として働いた。大管長会からの召しに従って,日本における最初の伝道部を組織して管理した後,イギリスおよびヨーロッパ伝道部を管理した。ともに働いた宣教師たちへの勧告の中で,グラント長老は二つのテーマについて繰り返し語った。第1に,宣教師としての標準に従い,戒めを守るよう勧告した。第2に,熱心に働くよう奨励した。イギリス伝道部でグラント長老は宣教師が一日に働く時間を延長する決定を行った。この伝道中に,宣教師の数は年々減少していたにもかかわらず,成果が急激に増大した。26
末日聖徒イエス・キリスト教会大管長
ジョセフ・F・スミス大管長は1918年11月19日に他界したが,ヒーバー・J・グラントが自分の跡を継いで大管長となることを知っていた。スミス大管長はグラント会長への最後の言葉として,次のように語った。「主はあなたを祝福しておられます。主はあなたを祝福し,大いなる責任を与えられました。これは主の業であり,人の業ではないことを,いつも忘れないでください。主は何人にも勝って偉大な御方です。主は,教会の導き手として御心にかなう人物はだれであるかを承知しておられます。主は決して間違いを犯されません。主はあなたを祝福しておられます。」27
大管長会は解任され,ヒーバー・J・グラントを会長とする十二使徒定員会に教会の指導権がゆだねられた。1918年11月23日,ダラント会長は末日聖徒イエス・キリスト教会の大管長として任命された。グラント大管長はスミス大管長に仕えた副管長,すなわち第一副管長としてアンソン・H・ランド,第二副管長としてチャールズ・W・ペンローズを引き続き任命した。
グラント大管長がその職に召されてから最初の総大会は1919年6月に開かれた。世界中に流行したインフルエンザがソルトレーク盆地を襲ったため,2か月延期されたものである。大管長として最初に行った説教には,トゥーエルステークの会長として行った最初の説教と重なる部分があった。
「わたしは今朝,皆さんから支持を頂いた職に就いて,神が与えてくださったどのような言葉でも表現できない謙遜な思いを抱いて皆さんの前に立っています。わたしが弱冠23歳でステーク会長に召された後,トゥーエルの人々の前に立って,最善を尽くすことを誓ったときのことを思い起こしています。自分に弱点があり,知恵と知識に欠けており,皆さんが支持してくださった高い職を務める能力に欠けていることを知っているわたしは,心から謙遜になっています。けれども,若いころトゥーエルでお話ししたように,今日ここで申し上げます。主の助けにより,わたしは末日聖徒イエス・キリスト教会の大管長として果たすべきあらゆる務めを能力のかぎり,最善を尽くして果たします。
神の王国を進展させるために財産をその持ち分に応じて差し出すことについて,わたしが自分の財産をささげる以上に惜しみなく差し出すよう,皆さんに求めようとは思いません。わたし以上に知恵の言葉を厳密に守るよう求めるつもりはありません。什分の一とささげ物を誠実にまた迅速に納めることについて,わたしが行う以上のことを皆さんに求めるつもりはありません。早く来て,遅く帰り,心と体のすべての力を使って,また常に謙遜に働くよう備え,喜んで行うことについて,わたしがする以上のことを皆さんに求めるつもりはありません。主の祝福を願い,祈っています。率直に申し上げると,わたしは主の祝福なしに,このように崇高な召しを成し遂げることは不可能だからです。しかし,ニーファイのように,主が命じられることには,それを成し遂げられるように主によって道が備えられており,それでなくては,主は何の命令も人の子らに下されないことを承知しています〔1ニーファイ3:7参照〕。わたしはこの知識を心に抱いて,結果を恐れることなく,この大いなる責任を受けます。もしわたしが常に謙遜で勤勉に働き,いつも聖なる御霊の導きを求めるならば,この職に就いたすべての前任者たちを支えられたように,主はわたしを支えてくださることを知っています。』28
グラント大管長は約27年間大管長を務めた。ブリガム・ヤングに次いで長い在任期間となる。その間,全世界の非常に多くの人々と同様に,教会員は第一次世界大戦の余波,大恐慌による経済破綻,第二次世界大戦の試練と恐怖を経験した。苦難に満ちた時代ではあったが,この時期は喜びの時代でもあった。末日聖徒は最初の示現100周年と末日聖徒イエス・キリスト教会の設立100周年記念行事を祝った。また,ハワイ州ライエ,アルバータ州カードストン,アリゾナ州メサで神殿が奉献されるという喜びを経験した。1924年10月から,ソルトレークタバナクルまたは周辺の建物で総大会に出席できない人々は,ラジオ放送を通じて末日の預言者の声を聞くことができるようになった。
グラント大管長は聖徒へのメッセージの中で繰り返し,戒めを守ることの大切さを強調した。大管長はこのように宣言している。「わたしは生ける神の僕として,皆さんに約束します。神の戒めを守るあらゆる男女は繁栄し,神が交わされたあらゆる約束は彼らの頭に成就し,彼らは知恵と光と知識と英知,とりわけ主イエス・キリストの証において成長し,増し加えられます。」29グラント大管長は戒めを守る必要性について話すとき,とりわけ知恵の言葉と什分の一の律法を強調することが多かった。ある大会においてグラント大管長はこのように教えた。
「悪魔はこの世のものによってわたしたちの目をくらまそうとしており,あらゆる賜物の中で最も大いなる永遠の命を喜んでわたしたちから奪おうとしています。しかし悪魔にはその力が与えられていません。神の戒めを守っている末日聖徒をだれ一人として滅ぼす力を,悪魔に与えられていないのです。わたしたちが義務を果たしているかぎり,人類の敵にわたしたちを滅ぼす力は与えられません。神に対して心底から正直でなければ,抵抗する力は弱まり,わたしたちを守っているとりでの一部が壊れて,悪魔が入ることができます。しかし,真理の知識を持っている人,自分の義務を果たしている人,知恵の言葉を守っている人,什分の一を納めている人,自分の職の召しと義務,教会の召しにこたえている人で,福音の証を失う人や道を左右にそれる人はいません。
主が自分に何を望んでおられるかを果てしなく探し求めている人や,主の御心を行うことを躊躇している人がいます。主があなたやわたし,教会のあらゆる男女に望んでおられることは,自分の職の召しと義務,教会の召しを実行することだとわたしは心から信じています。」30
1930年代に襲った大恐慌により,世界中の人々が失業と貧困にあえいでいたとき,ダラント大管長とJ・ルーベン・クラーク・ジュニア副管長,それにデビッド・O・マッケイ副管長は末日聖徒の福祉を心にかけていた。1935年4月20日,大管長会はハロルド・B・リーを事務所に招いた。この若きステーク会長は貧しい者と乏しい者に対する支援活動を成功させていた。リー会長はそのときの様子を次のように回想している。
「グラント大管長は……教会にとって最も大切なことは乏しい人々の世話をすることであって,大管長自身について言えば,民を正しく救済するために,それ以外のすべてを犠牲にしなければならないと語りました。彼らが考え,計画してきた結果として,また全能の神の霊感によって何年も前から,まさにすばらしい計画が用意されていたことを知って,わたしは非常に驚きました。それは,この教会を導き管理する者の勧告に喜んで従うだけの信仰を末日聖徒が持っていると大管長会が判断したときのために準備されていたのです。」31
1936年4月,リー会長や中央幹部,実業家,その他の人々から意見を求めた後に,大管長会は「教会保全計画」を導入した。これは現在,教会の福祉プログラムとなっている。1936年10月の総大会において,グラント大管長はこのプログラムの目的を次のように説明した。「わたしたちの第一の目的は,可能なかぎり,忌まわしい怠惰や施しのもたらす悪弊を除去し,独立心,勤勉,倹約,自尊心を再びわたしたちの間に確立する体制を築くことです。教会の目的は,人々の自立を助けることにあります。勤労が再び教会員の生活を貫く原則にならなければなりません。」32
J・ルーベン・クラーク・ジュニア副管長は次のように証した。「福祉計画は啓示に基づいています。……福祉制度の設立は聖なる御霊がグラント大管長に与えた啓示によるものです。」33グラント大管長から使徒に聖任されたアルバート・E・ボウエン長老は,福祉制度のビジョンについてこのように説明した。「福祉計画の真の長期目標は,与える側と受ける側双方の教会員の人格を築き,人の心の奥深くに眠っている最も優れたものをすべて解き放ち,内に秘められた豊かな精神を開花結実させることです。」34
1940年2月に脳卒中で倒れたグラント大管長は,話すことに障害が残り,また一時的に体の左側がまひした。しかしこれは,主の業を続けて行う妨げとなるものではなかった。グラント大管長はそれから2年間,1日に数時間働き,また以前と同様に総大会で短い説教を行った。そして1942年4月6日に総大会における最後の説教を行った。その後の大管長の話は代読によって行われた。1945年4月6日,ジョセフ・アンダーソンが代読した最後の総大会説教は次のような証で各めくくられている。
「救い主が地上に住まわれて以来,世界の歴史で起きた最も偉大な出来事は,神御自身が愛する独り子とともに地上を訪れるにふさわしい時期であると考えて,少年ジョセフに御姿を現されたことです。この永遠の真理について完全な,個人としての証と知識を持った人々は非常に大勢います。福音が純粋なままに地上に回復されました。わたしたちは一つの民としてある崇高な事柄を行わなければならないことを強調したいと思います。それは世の人々に罪を悔い改め,神の戒めに従うよう呼びかけることです。わたしたちは時間と状況が許すかぎり,国内外へ出て行って,主イエス・キリストの福音を宣言する義務があります。これは何よりも大切な務めです。福音を知らずに先に死んでいった御父の子らを心に留めて,神殿において彼らのために救いの扉を開き,儀式を執行するのはわたしたちの義務です。
わたしは神が生きておられること,神は祈りを聞いてこたえてくださること,イエスはキリストであり,世の贖い主であられること,ジョセフ・スミスは過去においても現在も真の生ける神の預言者であること,ブリガム・ヤングとその後継者たちが同様に過去においても現在も神の預言者であることを知っていると証します。
わたしは自分が持っているこの知識について,言葉に尽くせないほど神に感謝しています。神は生きておられ,モルモニズムと呼ばれるこの福音はまさしく命と救いの計画であり,それはまことに主イエス・キリストの福音です。これらの知識に対する感謝の念から,わたしは何度も心が和むのを覚え,涙してきました。神が皆さんとわたしと,福音に生きるすべての人を助けてくださるよう,真理を知らない人々がこの証を受ける助けを与えてくださるよう,わたしはいつも心から祈っています。イエス・キリストの御名によってこれを願い求めます。アーメン。」35
グラント大管長の病状は日増しに悪化し,ついに1945年5月14日,息を引き取った。葬儀は4日後に行われた。ジョセフ・フィールディング・スミス大管長はそのときの様子を次のように回想している。「延々と通りを埋め尽くし,頭を垂れた数千の人々が見守る中,棺が通り過ぎて行きました。ほかの教会の代表者が弔問に訪れ,カトリックの寺院が弔鐘を鳴らしました。……大管長に敬意を表すために遠い地から著名な人々が訪れ,市内の多くの店は扉を閉じ,偉大な人が長い波乱万丈の生涯を終えて故郷に帰るのを皆,悲しんでいました。」36
グラント大管長の第一副管長と第二副管長を務めたJ・ルーべン・クラーク・ジュニアとデビッド・O・マッケイは葬儀の席で弔辞を述べた。彼らが語る賛辞の声は,ヒーバー・J・グラント大管長を預言者として支持してきた大勢の末日聖徒の気持ちと一つになって響き渡った。
クラーク副管長は,グラント大管長が「義にかなった生活を送るとともに,神の戒めを守り,従う人々に天の御父からの祝福をもたらしてくれました」と語った。37
マッケイ副管長はこのように断言した。「物事を成し遂げるための不屈の精神,あらゆる事柄における誠実さと正直,高潔さ,前向きな言葉,活気に満ちた行動,悪には決して妥協しない姿勢,恵まれない人に対する同情,この上ない寛大さ,あらゆる信頼に対して示した信義,愛する人に対する優しい思いやり,友と真理と神に対する忠誠,わたしたちが尊敬し愛した大管長はこれらを持ち合わせた人でした。教会と全世界の人々にとって傑出した指導者であり,立派な模範でした。」38