経歴のまとめ
以下の年表は,本書で紹介されているハワード・W・ハンター大管長の教えの歴史的な背景を簡単に紹介するものである。
1907年11月14日 |
アイダホ州ボイシで,ジョン・ウィリアム(ウィル)・ハンターとネリー・マリー・ラスマッセン・ハンターの元に誕生する。 |
1920年4月4日 |
ボイシでバプテスマと確認の儀式を受ける。 |
1923年5月 |
イーグルスカウト賞を受賞する。ボイシで二人目の受賞者であった。 |
1927年1月-2月 |
自らが結成したバンド「ハンターズ・クルーネーダーズ」とともに,2か月間アジアを航海する客船で音楽を演奏する。 |
1928年3月 |
カリフォルニア州南部に移る。 |
1928年4月 |
カリフォルニア州の銀行に就職する。 |
1931年6月10日 |
クララ・メイ(クレア)・ジェフスとソルトレーク神殿で結婚する。 |
1932年1月 |
大恐慌により銀行が倒産し,失職したため,臨時仕事で生計を立てる。 |
1934年1月 |
ロサンゼルス郡洪水防止地区の権原部門に勤め始める。 |
1934年3月20日 |
息子,ハワード・ウィリアム(ビリー)・ハンター・ジュニアが誕生する。 |
1934年10月11日 |
息子,ハワード・ウィリアム(ビリー)・ハンター・ジュニアが死去する。 |
1935年9月 |
ロサンゼルスのサウスウェスタン法科大学(現サウスウェスタン・ロースクール)に入学する。 |
1936年5月4日 |
息子,ジョン・ジェーコブ・ハンターが誕生する。 |
1938年6月29日 |
息子,リチャード・アレン・ハンターが誕生する。 |
1939年6月8日 |
ロースクールを学年第3位の成績で卒業する。 |
1940年4月 |
民間の弁護士業を開業する。始めは非常勤で働いていたが,1945年までには常勤で働くようになる。1959年に使徒に召されるまで弁護士業を営む。 |
1940年9月-1946年11月 |
カリフォルニア州エルセレノワードのビショップとして奉仕する。 |
1950年2月-1959年11月 |
カリフォルニア州パサディナステークの会長として奉仕する。 |
1953年11月14日 |
46歳のときにアリゾナ州メサ神殿で両親に結び固められる。 |
1959年10月9日 |
デビッド・O・マッケイ大管長より十二使徒定員会会員に召される。 |
1959年10月15日 |
デビッド・O・マッケイ大管長から使徒に聖任され,十二使徒定員会の会員に任命される。 |
1964年-1972年 |
教会の系図協会の会長として奉仕する。 |
1965年-1976年 |
ハワイ州ライエにあるポリネシア文化センターの所長を務める。 |
1970年-1972年 |
教会歴史家として奉仕する。 |
1974年-1979年 |
エルサレムのオーソン・ハイド記念公園の開発計画,資金集め,建設の監督を手伝う。 |
1975年11月 |
一週末のうちにメキシコシティーの5つのステークを15のステークに再組織するうえで指導的役割を果たす。 |
1979年-1989年 |
ブリガム・ヤング大学(BYU)近東研究エルサレムセンターの計画と建設を監督する。 |
1979年10月24日 |
エルサレムのオーソン・ハイド記念公園の奉献式の司式を行う。 |
1983年10月9日 |
10年以上の闘病の末,クレア・ハンターが死去する。 |
1985年11月10日 |
十二使徒定員会会長であったマリオン・G・ロムニーの健康状態の悪化に伴い,会長代理に任命される。 |
1988年6月2日 |
十二使徒定員会会長であったマリオン・G・ロムニーの死去に伴い,会長に任命される。 |
1989年5月16日 |
BYU近東研究エルサレムセンターを奉献する。 |
1990年4月12日 |
イニッシ・バニース・イーガン・スタントンとソルトレーク神殿で結婚する。 |
1994年6月5日 |
末日聖徒イエス・キリスト教会第14代大管長に任命される。 |
1994年10月1日 |
総大会において教会の大管長として支持される。 |
1994年10月9日 |
フロリダ州オーランド神殿を奉献する。 |
1994年12月11日 |
教会で2,000番目となるステーク(メキシコ・メキシコシティー・コントレラスステーク)の組織を管理する。 |
1995年1月8日 |
ユタ州バウンティフル神殿を奉献する。 |
1995年3月3日 |
87歳のときにユタ州ソルトレーク・シティーの自宅で死去。 |