ハワード・W・ハンターの生涯と教導の業
ハワード・W・ハンターは末日聖徒イエス・キリスト教会の大管長に任命された翌日の1994年6月6日,二つのことを行うよう勧めた。穏やかな口調でこのように勧めたのである。
「まず初めに,主イエス・キリストの生涯と模範,特に主が示された愛と希望と慈悲に,これまで以上の注意を払って生活するよう全ての教会員にお勧めします。わたしたちが互いにもっと思いやりを示し,もっと礼儀を尽くし,もっと謙遜で,忍耐強く,赦し合えるように祈っています。」1
何十年にもわたり,ハンター大管長は救い主の模範に従うよう勧めることに焦点を当てて教えた。その数年前,ハンター大管長はこのように述べている。「このことを忘れないでください。わたしたちの生活と信仰がイエス・キリストとその回復された福音を基としたものであれば,物事のうまくいかない状態がいつまでも続くことはありません。一方,救い主とその教えを基とした生活を送っていなければ,どんな成功も永続しません。」2
ハンター大管長が次に教会員に勧めたのは,神殿の祝福を一層完全に受けることだった。
「さらに,わたしは教会員の皆さんに,主の宮を,教会員であることの崇高な象徴とし,最も神聖な聖約を交わす至高の場所として確立するようお勧めします。わたしは全ての教会員が神殿に参入するにふさわしくなるよう心の底から望んでいます。また,全ての成人会員が神殿推薦状を受けるにふさわしく,たとえ距離的な問題ですぐには神殿に参入できなくても,あるいはしばしば参入できなくても,現在有効な神殿推薦状を所持することを望みます。……
わたしたちは神殿に参入し,神殿を愛する民となろうではありませんか。時間と金銭と個人的な状況が許す限り,しばしば神殿に足を運ぼうではありませんか。亡くなった親戚のためだけでなく,神殿の礼拝によって個人の祝福を受け,この神聖かつ聖別された建物の中で与えられる聖めと守りを受けるために参入しようではありませんか。神殿は美しい場所です。啓示を受ける場所であり,平安を受ける場所です。そこは主の宮です。主に聖さをささげる所です。わたしたちにとって聖なる場所です。」3
ハンター大管長は,大管長として在任中,この二つの勧めを強調し続けた。大管長在任期間はたった9か月だったが,これらの勧めは,もっとキリストに似た者となり,神殿の祝福を得るためにさらに献身するよう,世界中の教会員を鼓舞した。
初期の頃
1800年代半ば,4か国に住んでいたハワード・W・ハンターの先祖たちが末日聖徒イエス・キリスト教会に改宗した。母方の先祖は,デンマークとノルウェー出身で,母国から移住した後,ユタ州マウントプレザントの初期の入植者となった。この忠実な開拓者たちの子孫であるネリー・ラスマッセンは,後に預言者の母となった。
ハワードの父方の先祖は,代々スコットランドとニューイングランドに住んでいた。教会に入った先祖たちは大きな犠牲を払ったが,数年後にはほとんどの者が教会との関係を絶った。1879年に生まれたジョン・ウィリアム(ウィル)・ハンターは,ハンター家において教会との結びつきがなくなってから3世代目の最初の子として誕生した。にもかかわらず,ウィル・ハンターは後に預言者の父となる。
ウィル・ハンターが8歳のときに,家族はアイダホ州ボイシに移り住んだ。16年ほどたった頃,ウィルは,ボイシのおじ夫妻の家に下宿していたネリー・ラスマッセンと出会った。ウィルは間もなくネリーと交際を始め,2年後にプロポーズをした。ネリーは少しの間躊躇していたが,ウィルの粘り強さに負け,ついにプロポーズを受け入れた。二人はユタ州マウントプレザントで結婚し,ボイシに戻って家庭を築いた。第1子であるハワード・ウィリアム・ハンターは,1907年11月14日にボイシで生まれた。もう一人の子供である娘のドロシーは1909年に誕生した。
生活の基礎を築く
ハワードが生まれた当時,ボイシには一つの小さな支部しか教会がなかった。ハワードの母はその支部の活発な会員で,子供たちを福音の中で育てた。ハワードは母についてこのように述べている。「母は常に忠実でした。…初等協会と〔若い女性〕の会長として奉仕しました。母が召しを果たせるよう,集会の時刻よりも早く一緒に教会に行き,集会後も教会に残っていたのを覚えています。」4ハワードの父は教会員ではなかったが,家族が教会に集うことに反対はせず,時折一緒に聖餐会に参加した。
ネリー・ハンターは子供たちが活発な教会員となるよう導いただけでなく,家庭で堅固な宗教的な基盤を築けるよう子供たちを助けた。「母が率先して子供たちに福音を教えてくれました」とハワードは振り返る。「子供たちは母から祈り方を学びました。…… わたしが少年の頃に証を得たのも,母の教えのおかげです。」5
ボイシ支部は1913年にワードになった。ハワードの6歳の誕生日の数日前のことである。2年後,8歳になったハワードは,バプテスマを受けることを楽しみにしていた。「わたしはバプテスマを受けられると思い,わくわくしていました」とハワードは言っている。しかし,バプテスマを受けることを父に許してもらえなかった。ハワードはこう振り返る。「父は……自分でどのような人生を送りたいかを決められるまで待つべきだと思っていました。わたしはバプテスマを受けたいと願っていましたが,その祝福を受けることなく時は過ぎていきました。」6
ハワードはバプテスマを受けていなかったので,12歳になっても執事の聖任を受けることができなかった。「その頃には,友達は皆執事に聖任されていました」とハワードは言う。「わたしは正式な教会員ではなかったので,友達はしているのに自分はできないことがたくさんありました。」7ハワードは,聖餐を配れないことを特に残念がった。「聖餐会では他の少年たちと一緒に座っていましたが,聖餐を配る時間になると,しょんぼりと席に座っていました。取り残されたような気分だったのです。」8
ハワードはもう一度父に話しに行った。今度は妹のドロシーを伴って行った。「〔わたしたちは〕バプテスマを受けさせてほしいと父を説得し始めました。また,父の承諾をもらえるよう二人で祈りました。とうとう父からバプテスマを受ける許可をもらい,わたしたちは大喜びしました。」9ハワードが12歳になって9か月後,ハワードとドロシーは公営プールでバプテスマを受けた。間もなく,ハワードは執事に聖任され,初めて聖餐を配った。「どきどきしましたが,その特権を得たことに大きな喜びを感じていました」と言った。10ハワードはその他にも,オルガンに空気を送ったり,寒い日曜日の朝に礼拝堂を暖めるために火を起こしたりする役割を担っていた。「教会員としての責任と神権者の務めを学ぶにつれ,新しい世界が開けていきました。」11
若い男性であったハワードは,ワードのボーイスカウトの団に所属し,イーグルスカウトと呼ばれる最高の賞を獲得するために懸命に努力した。目標達成を目前に控えたハワードは,友達と切磋琢磨した。「わたしたちはボイシ初のイーグルスカウトを巡って競い合いました。」12もう一人の若い男性が最初に要件を満たしたが,ハワードは2番目に同賞を獲得したことに満足しているようだった。13
ハワードは勤勉に働くことの大切さを若い頃から知っていた。夫に先立たれた女性や隣人を助け,新聞を売り,おじの牧場で働いた。大きくなるにつれ,ゴルフコースのキャディーや電報配達,薬局や新聞社,ホテル,デパート,美術商関連の仕事もした。
妹のドロシー・ハンターは,ハワードは「やる気にあふれ」「頭脳明晰だった」と語っている。14ハワードはそのような気質に加え,思いやり深く寛大な特質も備えていた。ドロシーはハワードの思いやり深い気質を振り返り,こう言った。「ハワードはいつも善いことを行い,善い人になりたいと思っていました。面倒見のよい,すばらしい兄でした。両親に対しても思いやりがありました。」15
ハワードは動物にも親切だった。「野良猫を拾ってきては,家族に反対されても家で飼っていました」とハワードは言っている。16あるとき,近所の少年たちがハンター家のそばの用水路に猫を落として,いじめていた。子猫がはい上がって来るたびに,少年たちはまた水路に落とした。間もなくしてハワードが通りかかって子猫を救出した。「死にかけて横たわっているのを,家へ連れて帰りました」とドロシーは言う。17
子猫はもう生きられないと母は言ったが,
ハワードは「お母さん,やれることはやってみよう」と言って聞かなかった。18
ドロシーの話によると,二人は「猫を毛布にくるんで温かいオーブンのそばに置き,看病しました。」おかげで子猫は息を吹き返し,その後何年もハンター家で飼われたという。
1923年,ハワードは教師に聖任された。ボイシ第2ワードができる直前のことだった。地元の教会指導者はもう一つ集会所を探すに当たり,今後の教会の発展を見越してステーク用の集会所の建設を提案した。ボイシの聖徒たちは,この建物の建設のために2万ドルを献金するよう求められた。19集会で指導者が献金を呼びかけると,若きハワード・W・ハンターは真っ先に手を挙げて献金することを約束した。ハワードが約束した25ドルという額は,1923年当時,それも15歳の少年にとっては大金だった。ハンターは「わたしは働き,貯金し,とうとう約束の金額を全て納めることができました」と後に回想している。201925年,集会所は完成し,12月にヒーバー・J・グラント大管長が来て,建物を奉献した。21
ハワードは若い頃から音楽の分野で頭角を現し,10代の頃には数種類の楽器を演奏できるようになっていた。16歳のときに自身の楽団を作り,「ハンターズ・クルーネーダーズ」と名付けた。この楽団は,ダンスパーティーや結婚披露宴,その他ボイシ近辺で行われた行事で演奏した。
19歳のときにはアジア行きの巡航船で音楽を演奏する契約の申し出を受けた。1927年の1月から2月にかけて,5人組のハワードの楽団は,日本や中国,フィリピンなどに立ち寄りながら太平洋を横断する船の中で,夕食時やダンスパーティーのときに演奏した。この航海はハワードにとって有意義な経験となり,他の国の人々や文化を学ぶ機会にもなった。ハワードは稼いだお金のほとんどを観光とおみやげに使い果たしたが,「この経験から得た知識はそれ相応の価値があった」と結論づけている。22
大きな決断のとき
ハワードが航海から帰ってくると,家ではうれしい知らせが待っていた。ハワードの留守中に,父親がバプテスマを受けていたのだ。次の日曜日,ハワードは初めて父と一緒に神権会に出席した。愛に満ちたビショップはウィル・ハンターにバプテスマを受けるよう勧め,ハワードによれば「〔ホーム〕ティーチャーの働きかけを通して父は以前よりも教会に関心を寄せるようになった。」23
航海から帰って来たハワードは,将来の計画を決めかねていた。音楽関連の行事や他の仕事で忙しくしていたが,どれもよい職業につながりそうにはなかった。1928年3月,新たに始めた事業が行き詰まると,南カリフォルニアに住む友人を訪れることにした。1,2週間だけ滞在する予定だったが,程なくそこに留まって,ハワードは「チャンスをはらんだ仕事」を探すことにした。24その後,カリフォルニア州では仕事だけでなく,妻とも出会い,教会におけるさらなる奉仕の機会を受け,30年以上にわたって暮らすことになる。
カリフォルニア州でのハワードの最初の仕事は,靴の販売と,かんきつ類の箱詰め工場での仕事だった。工場では,数日間で40トンから45トンほどのオレンジを貨物列車に詰め込んだこともあった。「この世にこんなにたくさんオレンジがあるとは知りませんでした」とハワードは楽しげに昔を振り返った。ある「散々な日」には,レモンを色ごとに仕分けなければならなかったが,ハワードは色盲であったために黄色と緑色を判別できなかった。「1日の終わりにはノイローゼになってしまいそうでした」と振り返る。25
かんきつ工場で2週間働いた後,ハワードはロサンゼルスの銀行の仕事に応募し,すぐに採用され次々と昇進した。一方で音楽活動も継続しており,夜にはさまざまな楽団と演奏していた。1928年9月,ハワードがカリフォルニア州に移ってからおよそ6か月後,両親と妹も引っ越し,一家は再び一緒に暮らすようになった。
ハワードは若い頃,教会に出席してはいたものの,福音をそれほど深く学んではいなかった。カリフォルニア州にいる間に,福音の学習にもっと注意を向けるようになった。「福音に目覚めさせてくれたのは,アダムズワードでピーター・A・クレイトン兄弟が教えていた日曜学校のクラスでした」とハワードは振り返る。「クレイトン兄弟は豊かな知識があり,若い人たちを感化する能力にたけた人でした。わたしはレッスンを学び,出された課題を読み,割り当てられたテーマに関する話し合いに参加しました。…福音の真理をよく理解し始めたのはこの頃でした。それまでも福音に対する証はありましたが,突如理解の目が開けたのです。」26ハワードにとって,その日曜学校のクラスでの経験は,生涯にわたり福音を学習するきっかけとなった。
ハワードはロサンゼルス地区の他のヤングアダルトとの交わりを楽しんだ。ヤングアダルトたちとともに教会に集い,日曜日に2,3のワードに出席することもあり,さまざまな活動に参加した。その一つが,ハワードにとって永遠に重要な意味を持つこととなる。カリフォルニア州に到着して数か月後,ハワードは何人かの友人と,教会が主催するダンスパーティーに参加し,その後浜辺で波遊びをしていた。その晩,ハワードは友人がデート相手として連れて来たクララ・メイ(クレア)・ジェフスと出会った。ハワードとクレアは間もなく互いにひかれ合うようになり,やがて恋愛へと発展した。
1928年に数回デートを重ね,翌年にはもっと真剣な交際をするようになった。「クレアは薄茶色の髪をしていて,かなりの美人でした」とハワードは後に振り返っている。「最も印象深かったのは,彼女の強い証でした。」27出会ってから3年近くたった1931年のある春の夜,ハワードは太平洋を一望できる場所にクレアを連れて行き,結婚を申し込み,クレアはそれを受け入れた。ハワードはこう振り返っている。
「わたしたちはパロス・ベルデスまで行き,崖の上に車を止めて,満月の光に照らされた波が太平洋から流れ込んでは岩に当たって砕ける様子を眺めていました。将来の計画について話した後,わたしは彼女の指にダイヤの指輪をはめました。その晩,わたしたちは幾つものことを決心しました。自分たちの人生に関する幾つかのことを固く決意したのです。」28
このときの決心をきっかけに,ハワードは結婚式の4日前に,人生を変える決意をする。その晩,楽団の演奏が終わると楽器をケースにしまい,その後二度とプロとして演奏することはなかった。ダンスパーティーやその他のパーティーで音楽を提供することは「ある面では華やかで,報酬も良かった」とハワードは語った。しかし,そのような生活には,自分の家族のために思い描いている生活と矛盾する部分があると感じたのである。それから何年も後,「心の楽しみがなくなった寂しさはありましたが,あの決意を後悔したことはありません」とハワードは述べている。29ハワードの息子リチャードはこう語った。「深く愛していたものを,さらに大切なもののために諦めた,父の驚くべき自制心(わたしはこれを「根性」と呼んでいます)について,わたしは幾度となく考えてきました。」30
結婚して間もない頃に受けた試練と祝福
ハワードとクレアは1931年6月10日にソルトレーク神殿で結婚し,南カリフォルニアに戻って新婚生活を始めた。大恐慌のために合衆国内の景気は悪化の一途をたどっており,1932年1月にはハワードの勤めていた銀行が倒産を余儀なくされた。その後2年間,ハワードはさまざまな仕事をして生計を立てた。ハワードとクレアはできる限り自立した生活をしようと決意していたが,1年後,少しの間同居してはどうかというクレアの両親の申し出を受け入れた。
1934年3月20日,ハワードとクレアに初めての子供が誕生した。二人は息子をハワード・ウィリアム・ハンター・ジュニアと名付け,ビリーと呼んだ。その夏,二人はビリーがぐったりしていることに気づいた。医師からは貧血症と診断された。ハワードは輸血のために2度血液を提供したが,ビリーの容体は良くならなかった。さらに詳しく検査をすると腸に異状が見つかり,医者から手術を勧められた。ハワードはこう振り返っている。「手術中,わたしは同じ部屋でビリーの隣の台に横たわって血液を提供しました。手術は終わりましたが,医者の見通しはよくありませんでした。」313日後,ベッドのわきの両親に見守られ,7か月のビリーは亡くなった。「わたしたちは悲しみに打ちひしがれ,茫然としながら,夜の闇の中へ紛れるように病院を後にしました」とハワードは書いている。32「わたしたちにとって大きな試練でした。」33
ビリーが生まれる2か月前,ハワードはロサンゼルス郡洪水防止地区で仕事を見つけていた。そこでの仕事を通して,法律文書や司法手続きの手ほどきを受け,弁護士になろうと決意した。その目標を達成するには,何年もの間固い決意をもって熱心に取り組まなければならなかった。学位のなかったハワードは,ロースクールに入学する前に幾つもの単位を取得する必要があった。仕事も続けなければならなかったため,夜間授業を受講した。ロースクールに入っても,常勤で働き続けた。「日中働いて夜に学校に行き,さらに勉強の時間を見つけることは,容易ではありませんでした」とハワードは書いている。34「夜中まで勉強することも珍しくありませんでした。」35ハワードはこの厳しい日課を5年間こなし,1939年,ついに学年3位の成績で卒業した。
ロースクールに在籍中,クレアとの間に二人の息子が生まれた。1936年にジョン,1938年にリチャードが生まれたのだ。ハワードが洪水防止地区に勤めていたため,一家は小さな家を購入することができた。
エルセレノワードのビショップ
ロースクールを卒業した翌年の1940年,ハワードはカリフォルニア州にできたばかりのエルセレノワードのビショップに召された。この召しに驚いたハワードは,こう言っている。「ビショップは年輩の人がなるものだと思っていたので,32歳の若さでどうやってワードの父になれるのかと尋ねました。」ステーク会長会は,ハワードが「この責任にふさわしくなれるだろう」と答えて,彼を安心させた。ハワードは圧倒される思いだったが,「最善を尽くす」と約束し,36ビショップとして奉仕した6年余りの間,献身と霊感,思いやりの限りを尽くしてその約束を果たした。
ハワードは再び時間とエネルギーを駆使する必要に迫られたが,奉仕からたくさんの祝福を得ていると感じていた。ハワードは「多大な努力と時間を要する責任に圧倒されました」が,「その栄えある業から大きな祝福を頂きました」と言っている。37
その新しいワードで急務となったことは,集会所探しだった。ビショップリックは地元のビルの数部屋を間借りし,ワードの会員たちは集会所を建設するための資金を集め始めた。程なくして,第二次世界大戦が起きたために教会の建物の建設は保留となったが,ワードの会員たちは将来を見越して資金集めを続けた。資金集めの一環として「タマネギプロジェクト」が行われ,会員らはピクルス工場に行ってタマネギを切った。タマネギの臭いが残ったため,ハンタービショップは「聖餐会で,どの人がタマネギを切っていたかすぐに分かりました」とユーモアを交えて話した。38
資金集めとして他に,ザウアークラウト(塩漬け発酵キャベツ)工場でキャベツを切ったり,余った朝食用シリアルの袋詰めや販売などを行ったりした。「楽しい日々でした。さまざまな職業や能力の人たちが一丸となってビショップリックを支え,礼拝所を建設する資金を集めたのです」とハンタービショップは振り返る。「ワードは,幸せな大家族のようでした。」39多大な忍耐と犠牲の末,ワードの集会所を建てるという目標はついに1950年に実現した。ハワードがビショップを解任されてから4年近くたったときのことだった。
第二次世界大戦中にビショップを務めたハワードは,独特の試練に直面した。ワードの大勢の男性会員は軍務に就いていたため,家庭では夫や父親が不在だった。男性が少ないことは,教会の責任に召すうえでも問題が生じた。そのため,ハワードは一時期,ビショップの職にありながらスカウト隊長も務めた。ハワードはこう語っている。「ワードには,見過ごすことのできない優れた若い男性たちがいました。わたしは2年近くの間彼らとともに活動しましたが,彼らは大きな成長を遂げました。」40
1946年11月10日,ハワードはビショップを解任された。「この特権と,この期間に多くの事柄を学んだことにいつまでも感謝するでしょう」と語った。ビショップの経験は「多くの面で大変だった」が,ハワードとクレアは「これを通して家族にもたされた価値観に感謝した。」41ワードのある会員はハンタービショップの奉仕に感謝を述べて,次のように書いている。「ビショップは,この小さなワードの会員たちを一致団結させて,実現できそうになかった目標を達成することを教えてくれました。ワード全体がともに働き,祈り,遊び,礼拝しました。」42
ハワードは1946年に解任されたが,エルセレノワードの会員との特別なきずなは続いた。息子のリチャードはこう語っている。「父は生涯の終わりまで彼らと連絡を取り合い,彼らの居場所や状況を知っていました。昔のワードの会員の住む場所を訪れると,必ずその人と連絡を取っていました。エルセレノワードの会員に対する愛は生涯薄らぐことがありませんでした。」43
家族を養い,キャリアを積む
ハワード・ハンターとクレア・ハンターは愛にあふれた両親で,息子たちに価値観や責任,福音の大切さを教えた。教会が月曜日の晩に家庭の夕べをするよう定めるずっと前から,ハンター家は月曜日の晩に子供たちを教え,話を聞かせ,ゲームで遊び,一緒に出かけることに決めていた。一家は旅行に行くと,時折神殿を訪れて,ジョンとリチャードが死者のために身代わりのバプテスマを受けられるようにした。ハワードと息子たちは,鉄道模型作りやキャンプ,その他の野外活動を一緒に楽しんだ。
ハワードはジョンとリチャードが生まれた当時,常勤の仕事をしながらロースクールに通い,子供たちがとても幼い頃(4歳と2歳)にビショップに召された。そのため,堅固な家庭を築くにはクレアの一層の献身が必要だった。クレアは喜んで献身した。「わたしの望みと最大の願いは……よき妻,よき主婦,そしてとてもよい母親になることでした」とクレアは言った。「わたしたちは,息子たちが教会から離れないよう,とても努力しました。わたしは息子たちと楽しく過ごしました。」44ハワードは,息子たちを育てるうえでクレアが与えた影響と犠牲を何度も称えた。
家族を養い,教会の指導者として奉仕しつつ,ハワードは自身の法律事務所を繁盛させた。大半の顧客が企業や法人であったハワードは,南カリフォルニアで弁護士として高い評価を得るようになり,20社以上の企業の理事会の取締役員に選出された。
ハワードは仕事において,高潔さと明晰な頭脳,明快なコミュニケーション技術と公正さを備える人物として知られていた。「庶民派の弁護士」としても知られ,「人々の問題を解決することに常に関心を持ち,そのために時間を費やしていた。」45ある弁護士はハワードが「報酬を受け取ることよりも,依頼人が必要としている支援が得られることに強い関心を持ってい〔た〕」と語っている。46
カリフォルニア州パサディナステーク会長
1950年2月,十二使徒定員会のスティーブン・R・リチャーズ長老とハロルド・B・リー長老はカリフォルニア州を訪れ,急速に発展するパサディナステークを分割した。二人は,ステーク内の大勢の神権者と面接した。その中にハワードもいた。二人は主が誰にステーク会長として奉仕するよう望んでおられるか,祈りながらよく考えた後,真夜中近くにハワードを迎えに人をやり,召しについて伝えた。リチャーズ長老とリー長老はハワードに,よく寝るように,また翌朝早く二人に電話をして顧問を推薦するように言った。「その晩,家に帰っても寝られませんでした」とハワードは語っている。「召しに圧倒されました。クレアと長い時間話していました。」47
ハンター会長と顧問たちは支持を受けると,ステーク内のさまざまな必要を見極め始めた。新しいステーク会長会にとって優先度が高かったのは,会員が霊的な強さを築けるように助けることだった。懸念事項の一つは,家族があまりに多くの活動に関わっているために,ばらばらになりつつあることだった。指導者らはともに祈り,話し合った後,家庭の夕べについて強調し,月曜日の晩を家族のために取っておくよう勧めるべきだと感じた。ステーク内の全ての教会の建物は月曜日の晩には閉館し,「この神聖な晩に他の活動は一切行われませんでした」とハンター会長は説明している。48
ハンター会長はステーク会長になったばかりの頃,高校生向けのセミナリープログラムについて,南カリフォルニアの他のステーク会長たちとスティーブン・R・リチャーズ長老と話し合った。ハンター会長はこう振り返っている。「〔リチャーズ長老は,学校の〕授業時間以外の宗教教育について法律に規定のない地域で早朝セミナリーのクラスを試験的に行いたいと説明しました。」49ハンター会長はそのアイデアの実現の可能性を調査する委員会の長に指名された。調査が終了すると,委員会は,3つの高校の生徒たちに早朝セミナリーを導入することを提案した。当時青少年だった,ハンター会長の息子リチャードはこの試験的な早朝セミナリーに参加していた。リチャードはこう振り返る。「朝の6時に授業をするなんて,誰かの気がふれたのかと思いましたが,教会の友達と一緒に学べるその時間は大好きな時間になりました。」50程なくして,他の生徒たちもこのプログラムの対象となり,教会の青少年の早朝セミナリープログラムの先駆けとなった。
1951年10月の総大会で,大管長会は南カリフォルニアのステーク会長たちと集会を持ち,ロサンゼルスに神殿を建設したいという要望を伝えた。近くに神殿ができるという展望は大きな喜びをもたらすとともに,大きな犠牲が求められた。教会員は神殿の建設に向けて100万ドルを献金するよう求められたのだった。ハンター会長はカリフォルニア州へ戻ると,ステークおよびワードの指導者と集会を持ち,こう言った。「神殿のために惜しみなく献金することにより豊かに祝福を受ける機会を,人々に与えてください。」51南カリフォルニアの会員らは,神殿建設に向けて半年間で160万ドルを献金することを約束し,1956年に神殿が奉献された。
会員は,神殿や他の教会の建物の建設資金のために献金しただけでなく,ボランティアとして働いた。集会所を建設する際,ハンター会長は何時間もシャベルやハンマー,ペンキを塗るためのブラシを手に作業を手伝った。さらに,会員は教会福祉プロジェクトのために,養鶏所やかんきつ農園,缶詰工場などでボランティアとして働いた。ハンター会長は8年間,これらのプロジェクトにおいて12のステークの取りまとめ役を担い,自分自身も頻繁にプロジェクトを手伝った。「彼は,自分でやらないことを誰かにやるように言ったり,割り当てたりすることはありませんでした」と一人の友人は話している。52何年も後に,当時十二使徒だったハンター長老はこう述べた。
「気がめいるような福祉プロジェクトに携わったことは一度もありません。木に登ったり,レモンを摘んだり,果物の皮をむいたり,ボイラーの手入れをしたり,箱を運んだり,トラックの荷物を降ろしたり,缶詰め工場の掃除をしたり,その他数え切れないたくさんのことをしましたが,最も心に残っているのは,主の業に携わる人々の笑い声や歌声,彼らとの親しい交わりでした。」53
1953年11月,ハンター会長とハンター姉妹,それにパサディナステークの会員らはアリゾナ州メサ神殿に赴き,儀式の奉仕をした。ハンター会長の46歳の誕生日だったこの11月14日,セッションが始まる前に神殿会長はハンター会長に,礼拝堂に集まっていた人たちに話をするよう依頼した。ハンター会長はこのときの経験について後にこう書いている。
「わたしが集会で話をしていると,……父と母が白い服を着て礼拝堂に入って来ました。父が神殿の祝福を受ける準備ができていたとは考えてもみませんでした。しかし,母は長い間それを熱心に願ってきたのです。わたしは感激で胸がいっぱいになり,話を続けることができませんでした。ピアス会長〔神殿会長〕はわたしの横に来て,話がとぎれるまでのいきさつを説明してくれました。父と母は,その朝,神殿にやって来たとき,自分たちが来ていることを息子には伝えないようにと会長にお願いしていました。わたしを驚かせる,誕生日の贈り物にしたいと思ったのです。それは生涯忘れることのできない誕生日となりました。なぜなら,両親がエンダウメントを受け,わたしは二人の結び固めの儀式の証人となる特権にあずかり,さらにその後で両親に結び固められたからです。」54
約3年後,新たに奉献されたカリフォルニア州ロサンゼルス神殿でドロシーが両親に結び固められ,ハンター会長一家のきずなは永遠のものとなった。
ハワードはステーク会長として愛をもって導いた。ステークの召しを受けて奉仕していたある女性はこう言った。「誰もがステーク会長から感謝され,必要とされていると感じていました。……ステーク会長は,召しを受ける人に責任を持たせましたが,会長の意見や勧告が必要なときにはいつもいてくれました。わたしたちは,ステーク会長が全力で支え,関心を寄せてくれていることを知っていました。」55顧問の一人はこう語っている。「彼は何かを成し遂げた人に賛辞を送り,期待されている高いレベルまで人々を引き上げました。」56自分に最も大きな影響を与えた教師はハンター会長だと語ったステークのある姉妹は,「ハンター会長は,人のことを最優先し,耳を傾けて理解し,自分の経験を分かち合って人を愛し……ました」と語った。57
1959年の秋,ハワード・W・ハンターがパサディナステークを管理して9年がたった。その間,南カリフォルニアに住む何千人もの末日聖徒に仕え,祝福をもたらした。その務めの対象が広がり,世界中の教会員に祝福をもたらすようになる日が間近に迫っていた。
十二使徒定員会
「あなたは……わたしの名について証しなければならない。また、地の果てまでわたしの言葉を送り出さなければならない。」(教義と聖約112:4)
1959年10月9日,ソルトレーク・シティーで開かれた総大会の部会の合間に,ハワードはデビッド・O・マッケイ大管長が彼に会いたがっていることを知った。すぐさま教会執務ビルに行くと,マッケイ大管長はハワードを温かく迎えてこう言った。「ハンター会長,… 主が語られました。あなたは主の特別な証人となるよう召されました。明日,十二使徒評議会の一員として支持を受けます。」58この経験についてハワードはこう書いている。
「そのときの気持ちを説明することなどとうていできない。目に涙があふれ,言葉もなかった。この偉大で,優しく,思いやりのある主の預言者の前に座ったときほど,へりくだる思いに満たされたことはなかった。マッケイ大管長は,この召しによりどれほど大きな喜びがもたらされ,幹部の兄弟たちとのすばらしい交わりを得られるかを話してくださった。また,今後わたしの人生と時間を主の僕としてささげ,これからは教会と全世界の人々に仕えることになるとおっしゃった。……大管長はわたしに腕を回し,主がわたしを愛しておられること,そして大管長会と十二使徒評議会は必ずわたしを支えてくれることを断言してくださった。……わたしは〔大管長に〕,自分の時間と人生と持っているもの全てをこの務めのために喜んでささげる,と言った。」59
ハワードはマッケイ大管長の執務室を出ると真っ先にホテルの部屋に行き,クレアに電話をかけた。クレアはそのとき,プロボに住む息子のジョンとその妻と赤ん坊の元を訪れていた。最初,ハワードは言葉が出なかった。ようやく召しについてクレアに伝えると,二人とも感極まった。
翌日,総大会の土曜午前の部会で,ハワード・ウィリアム・ハンターは十二使徒定員会の一員として支持された。「世界が自分の肩に重くのしかかってきた……心地でした」とハワードは当時を振り返っている。「大会の間,わたしの心は落ち着かず,自分がこの場にふさわしいと感じる日がいつか来るのだろうかと考えた。」60
マッケイ大管長はハンター長老に,総大会の日曜午後の部会で話すよう指示した。ハンター長老は,それまでの人生を簡単に振り返り,証を述べた後,こう言った。
「今日,目にあふれる涙に何の申し開きもしません。なぜなら,ここにいらっしゃる友人や教会の兄弟姉妹たちも,福音と人々への奉仕の喜びに胸躍らせる方たちだと知っているからです。
マッケイ大管長,……わたしに課せられたこの召しをためらうことなくお受けします。また,わたしの生活とわたしの持てる全てを,この奉仕に喜んでささげます。ハンター姉妹とともにお約束申し上げます。」61
1959年10月15日,ハンター長老は使徒に聖任された。平均年齢が約66歳だった当時の十二使徒の中で,51歳のハンター長老は最年少だった。
その後1年半の間,ハンター長老はカリフォルニア州とユタ州を行き来しながら弁護士業において完遂しなければならない仕事を終わらせ,引っ越しの準備をした。顧客の中には,こんなに成功を収めている法律事務所をたたむのだから,「教会から相当魅力的な申し出があったのだろう」と言う人がいた。ハンター長老はそのことについて日記にこう書いている。
「この教会の人たちがなぜ召しに応じ,全てをささげて献身するのか,ほとんどの人は理解できない。……わたしは弁護士業を心から楽しんできたが,わたしに与えられた今回の召しは,キャリアを積むことや金銭的な報酬を得ることをはるかにしのぐ貴いものだ。」62
ハンター長老の使徒としての務めは35年以上に及んだ。その間,世界のほとんどの国々を巡り,イエス・キリストの特別な証人としての責務を果たした。(教義と聖約107:23参照)
ユタ系図協会
「ささげ物を主にささげましょう。……わたしたちの死者の記録を載せた,そのまま受け入れるに値する書を……ささげましょう。」(教義と聖約128:24)
1964年,大管長会はハンター長老を教会の系図協会会長に任命した。当時,同協会はユタ系図協会として知られていた。同組織は教会の家族歴史部の前身であり,全世界の系図情報を集め,保存し,共有することを目的としていた。ハンター長老は同協会を8年間管理し,その間に家族歴史の業の促進と改善,普及に関して,広い範囲に及ぼす改革を行った。
同組織は1969年までに,「67万巻以上のマイクロフィルムを収集した。これは,1巻300ページの本300万冊分に相当する。」また,「完成した家族の記録600万部,3600万人分のカードファイル索引,9万巻以上の文庫」も収集した。63毎週,世界各地から約1,000巻のマイクロフィルムが追加された。これらの記録を処理し,探求と神殿の業のために使えるようにするには,膨大な作業を必要とした。ハンター長老の指導の下,系図協会は最新のコンピューター技術を導入してこの業に役立てるようになった。ある作家は,同協会が「革新的な記録保存活動を行うことで専門団体に世界的に名が知られる」ようになったと書いている。64
ハンター長老は1972年に系図協会会長から解任された。ハンター長老の取り組みが与えた影響について,リチャード・G・スコット長老はこう述べている。「ハンター長老はこの業に多くの時間をささげ,基盤と方向性を築きました。教会は今でもその恩恵を受けています。」65
ポリネシア文化センター
「遠くの民よ,聴きなさい。海の島々にいる者よ,ともに耳を傾けなさい。」(教義と聖約1:1)
1965年,大管長会はハンター長老を,ハワイ州ライエにあるポリネシア文化センター管理委員会の会長兼委員長に任命した。当時,同センターは営業開始からわずか15か月で,多くの問題に直面していた。観光客の来場者数は少なく,センターの目的とプログラムについて意見が分かれていた。数週間後,任命されたハンター長老はライエに赴き,センターの長所と必要について精査し始めた。
ハンター長老の指導の下,ポリネシア文化センターはハワイで最も人気のある観光名所となり,1971年には100万人近くの人が来場した。ハンター長老はさらに,センターとそのプログラムも拡大した。ハンター長老の言葉によると,それらと同様に,センターが雇用の機会を与えることにより「〔それなしには〕自分の島を出て学校に行くことのできない南太平洋出身の生徒たちが教育の機会を得られるようになった」ことだった。66
ポリネシア文化センターを12年間管理した後,ハンター長老は1976年に解任された。ハンター長老のセンター長としての務めは,デビッド・O・マッケイ大管長が1955年に語った次の言葉が成就する助けとなった。小さな村であったライエは「伝道の手段となり,数千,数万どころか,何百万人もの人に影響を与えるでしょう。すなわち,この町とその重要性を知るために多くの人が訪れるでしょう。」67
教会歴史家
「主が任命された主の書記の義務は,歴史を記録し,シオンで起こるすべてのことについて……一般教会記録を書き残すことである。」(教義と聖約85:1)
1970年1月,デビッド・O・マッケイ大管長が死去し,ジョセフ・フィールディング・スミスが新たな大管長として聖任された。教会歴史家を49年間務めたジョセフ・フィールディング・スミスが大管長になると,ハンター長老がその割り当ての後継者に召された。「スミス大管長は長年家族歴史家を務めてきたので,自分がその職に就くことがあまり想像できませんでした」とハンター長老は述べている。68
ハンター長老はいつものように熱心にこの新しい責任に取り組んだ。「啓示を通して主から与えられたこの割り当ては,途方もなく難しいものでした。記録や書物を収集するという任務を果たすことも,それらの資料を教会員が利用できるようにすることも,困難を極めました」とハンター長老は述べた。69『チャーチ・ニュース』(Church News)によれば,教会歴史家は「議事録や神殿記録,あらゆる儀式記録,祝福師の祝福,……現在の教会歴史の編さんなど,あらゆる記録を保存する責任」を負っていた。70
1972年,十二使徒定員会の会員は,一部の重い管理責任を解かれ,使徒としての務めに注力できるようになった。この変更の一環として,ハンター長老は教会歴史家から解任された。しかし,教会歴史部の顧問としての役割は据え置かれた。ハンター長老は「これにより,わたしは指導的立場のまま,実際の業務からは解放された」と書いている。71顧問の役割は1978年まで続いた。
聖地での奉仕
ハワード・W・ハンターは1958年と1960年に家族とともに聖地を巡り,聖地への特別な愛を深めた。使徒職にある間,20回以上聖地を訪れている。「救い主が歩き,教えられた地にいたいというハンター長老の思いは,飽くことがないようでした」と十二使徒定員会のジェームズ・E・ファウスト長老は言った。72
その地域で起こっている紛争をはっきりと認識していたハンター長老は,愛と平和のメッセージを伝えた。「ユダヤ人もアラブ人も,わたしたちの御父の子供です。双方ともに,約束の子であり,わたしたちは教会として,どちらの側にも立ちません。わたしたちはどちらも愛し,どちらにも関心を抱いています。イエス・キリストの福音の目的は,最も高いレベルの愛と一致と兄弟愛とをもたらすことです。」73
1972年から1989年にかけて,ハンター長老はエルサレムにおける二つの特別なプロジェクトで主要な役割を担った。オーソン・ハイド記念庭園とブリガム・ヤング大学(BYU)近東研究エルサレムセンターの建設である。教会の初期の時代,1841年に,十二使徒定員会のオーソン・ハイド長老はエルサレム東部にあるオリブ山で奉献の祈りをささげた。1972年,大管長会はオーソン・ハイド記念庭園を建設するための候補地をエルサレムで探すようハンター長老に依頼した。1975年,エルサレム市は後にオーソン・ハイド記念庭園となる公園を建設する道を開いてくれた。
その後数年間にわたり,ハンター長老は何度もエルサレムを訪れ,庭園のための契約交渉をし,その設計や建設の監督を行った。このプロジェクトは1979年に完成し,同年スペンサー・W・キンボール大管長により奉献された。奉献式の司会を終えたハンター長老は,庭園が「教会についてよいイメージを広めるうえで大きな影響力を持つでしょう」という確信を述べた。74
オーソン・ハイド記念庭園がまだ完成しないうちから,ハンター長老はBYUの海外研修プログラムを実施する施設用地を探していた。センターは,エルサレム支部の会員の集会所の役割も併せ持つ。このプロジェクトの監督は,ハンター長老が在任中に与えられた,最も複雑で慎重を要する割り当ての一つであった。
教会指導者が用地を選定したものの,借地と建設計画の承認を得るのにおよそ5年もかかり,ハンター長老は「果てしない取り組み」だったと語った。75幅広い議論と交渉の末,イスラエル政府はセンターの建設を許可した。
1988年5月までに建設はほぼ完了し,借地契約の署名を待つばかりであった。その頃,ハワード・W・ハンターは十二使徒定員会会長代理を務めていた。前年に背中の大手術を受け,歩くことができなかったが,飛行機でエルサレムに赴き,借地契約に署名した。エルサレムに滞在中,BYUの学生とエルサレム支部の会員が感謝を込めてささやかな歓迎会を催した。同支部の歴史記録は,この感動的な場面についてこう述べている。会が始まると,「聖歌隊が「聖き町」(“The Holy City”)を歌って歓迎する中,背中の手術後で療養中のハンター会長は,〔ブリガム・ヤング大学のジェフリー・R・ホランド学長とともに中央口から車椅子に乗って入場した。」76ハンター会長の頬を涙が伝った。
1989年5月,ハンター会長はエルサレムに戻り,センターを奉献した。この奉献式は,ハンター会長をはじめとする人々がエルサレムセンター建設の夢を実現するために10年にわたり払った甚大な努力の結晶だった。「ハワード・W・ハンター会長は……,まだこの計画が夢にすぎない頃から,愛に満ちた塔の上の見張り人として終始この計画に携わってきました」とジェフリー・R・ホランド長老は語った。77奉献の祈りの中でハンター会長はこう言った。
「この建物は,…… あなたを愛し,あなたについて学ぼうと努め,御子,すなわち救い主,贖い主の足跡を歩む人々の住まいとして建設されました。あらゆる点で美しく,この建物が象徴するものの美しさを体現しています。おお,父よ,あなたの息子,娘のため,また彼らの学びのためにこの家を建てるという特権に感謝します。」78
発展する教会
「シオンは美しさと聖さを増し、その境は広げられ、そのステークは強くされなければならない。」(教義と聖約82:14)
ハワード・W・ハンターが1959年に使徒に召された当時,教会員の数は約160万人だった。その後数十年間,ハンター長老は教会が世界各地で空前の発展を遂げるうえで主要な役割を果たした。数百回に及ぶ週末に各ステークを巡り,会員を強め,新しい指導者を召した。また,多くの国家で政府関係者と会談し,伝道活動の道を開く手助けをした。
1975年までに,教会員数は約340万人に達し,特に中南米で教会は急速に発展した。その年の後半,ハンター長老と十二使徒補佐のJ・トーマス・ファイアンス長老はメキシコシティーの5つのステークの分割を割り当てられた。現地の指導者と話し合い,ステーク会長たちから集めた情報を基に,ハンター長老は,同じ週末にこの5つのステークから15のステークを組織するよう指示した。79ハンター長老はいつものように控えめにこう書いている。「こんなに大掛かりなことを教会で行ったことがかつてあっただろうか。家に戻る頃には疲れきっていた。」80
献身的な伴侶,クレア
「妻は,優しく愛に満ちた伴侶です。」811959年に十二使徒定員会に召されたときにハンター長老はこう言った。クレアは長年にわたり,ハンター長老が使徒として各地を訪れるときは決まって同行した。トーマス・S・モンソン大管長は,クレアがトンガの子供たちに愛を示す様子を見たときのことをこう振り返っている。「クレアはトンガのかわいらしい幼い子供たちを腕に抱いて膝に乗せ,語り掛けていました。そして,貴い幼子たちを教える機会を受けることがいかに祝福であり特権であるか,初等協会の教師たちに説明しました。クレアは人の価値を知っていました。」82
1974年に受けた取材の中で,ハンター長老はクレアについてこう述べている。「結婚以来,クレアは常にわたしの傍らで愛と思いやりを示し,励ましてくれました。…わたしをよく支えてくれました。」83
その取材を受けた頃,クレアはさまざまな深刻な健康問題を抱え始めていた。最初はひどい頭痛に悩まされ,時折記憶障がいと見当識障がいを併発した。その後,重い脳卒中に襲われ,話したり,手を使ったりすることが困難になった。常時介護が必要になると,ハンター長老は十二使徒定員会の責任を果たしながらできる限りのことをしようと決心した。日中は誰かにクレアの付き添いを頼んだが,夜は自分でクレアの世話をした。ハンター長老は1980年に心臓発作を起こすなど,同じ時期に自分も健康上の問題を抱えていた。
クレアは1981年と1982年に脳出血を患った。二度目の脳出血で普通に生活できなくなったため,適切な医療処置を受けられる医療センターに入院するよう医師らに強く勧められ,クレアは最後の1年半をそこで過ごした。その間,ハンター会長は教会の割り当てで出張しているとき以外は,毎日少なくとも1度はクレアを見舞った。クレアがハンター会長を認識することはほとんどなかったが,ハンター会長は愛を伝え続け,クレアが心地よく過ごせるようにした。孫の一人はこう言っている。「祖父は常に急いで祖母の見舞いに行き,祖母の傍らで世話をしていました。」84リチャード・ハンターは母の世話をする父についてこう回想する。
「母は晩年,父のおかげで望み得る最高の世話を受けました。介護人として働く父の姿を,家族は皆大きな畏敬の念を抱いて見守っていました。……医師から次のように忠告されたときに父が感じた苦悶を,わたしは覚えています。『奥さんが高度な看護施設に入らず在宅療養を続けるなら最悪の事態を招くでしょう。なぜなら,奥さんが家にいれば,あなたにも肉体的な限界があるせいで,あなたは奥さんの世話をしながら命を落としてしまうからです。そうなると,奥さんは世話してくれる人をなくしてしまいます。』父が母に尽くす姿は,わたしたち家族にとっていつまでも心温まる思い出です。」85
クレアは1983年10月8日に死去した。10年以上闘病していたクレアを世話するハンター長老の姿を見てきたジェームズ・E・ファウスト長老はこう言った。「二人の会話に表れる思いやりに心を動かされました。夫が妻にこんなに尽くす姿をわたしは見たことがありません。」86
十二使徒定員会会長
1985年11月にスペンサー・W・キンボール大管長が亡くなり,エズラ・タフト・ベンソンが次の大管長となった。マリオン・G・ロムニーは十二使徒定員会の先任会員であったため,同定員会の会長になった。ロムニー会長の健康状態が悪かったため,次の先任使徒であったハンター長老が十二使徒定員会会長代理に任命された。そして,ロムニー会長が亡くなった2週間後の1988年6月,十二使徒定員会会長となった。
ハンター会長は十二使徒定員会会長代理および会長として8年半奉仕した。その間,149の国と領土のワードおよび支部に在籍する教会員数は590万人から870万人に増加し,これに伴って十二使徒の,世界における教導の業の範囲は広がり続けた。1988年,ハンター会長はこのように言った。「今は,教会歴史上胸躍る時代です。歩いていてはスピードが間に合いません。この業のスピードについていき,業を前進させるためには駆け足で取り組まなければなりません。」87ハンター会長は,イエス・キリストの証を述べる責任と,世界中に教会を築く責任を果たすうえで,模範により導いた。ハンター会長は十二使徒定員会会長として全米各地と25か国以上の国々を巡って務めを果たした。
ハンター会長は,健康上の問題があったにもかかわらず,前進し続けた。1986年には心臓切開手術,1987年には背中の手術を受けた。背中は治癒したが,神経の損傷や他の合併症のために歩くことができなかった。その年の10月の総大会では,車椅子に座って説教した。「失礼とは思いますが,座ったままで話をさせていただきたいと思います。特に車椅子の上から話したいというわけではありませんが,皆さんが椅子に座って楽しく話を聴いておられる様子を見て,わたしもその模範に従いたいと思います。」88
再び歩けるようになろうと決意していたハンター会長は,厳しい理学療法を受け,次の総大会となる1988年4月,歩行器を使ってゆっくりと説教台まで歩いた。12月には歩行器を使って大管長会と十二使徒の月例の神殿集会に出席した。最後に車椅子を使わないで来たときから1年以上たっていた。「評議員室に来ると,兄弟たちが立ち上がって拍手をしてくれました」とハンター会長は言った。「神殿で拍手の音を聞いたのは初めてでした。…… ほとんどの医師から,二度と立ったり歩いたりすることはできないだろうと言われていましたが,彼らは祈りの力を考慮するのを忘れていました。」89
1990年4月,十二使徒定員会の集会が終わりに差し掛かったときにハンター会長はこう尋ねた。「議題に出ていないことで,何か話したい方はいますか。」誰も発言しないのを見て,ハンター会長はこう発表した。「では,…… 誰もおっしゃりたいことがないようですので,少し発表させていただきたいと思います。今日の午後,わたしは結婚します。」十二使徒の一人は,あまりに唐突な発表だったために「誰もが聞き間違いかと思った」と言う。ハンター会長は兄弟たちに,「カリフォルニア時代の知り合いにイニッシ・スタントン姉妹という人がいます。最近彼女と何度か会い,結婚することに決めました。」90イニッシは,ハンター会長がエルセレノワードのビショップを務めていたとき,同ワードの会員だった。後に,イニッシはユタ州に引っ越しして教会本部ビルの受付をするようになり,二人は再会した。1990年4月12日,二人はソルトレーク神殿でゴードン・B・ヒンクレー大管長の司式により結婚した。
クレアが亡くなってから,7年近くがたっていた。イニッシはハンター会長が十二使徒定員会会長および大管長の務めを果たすうえで,大きな慰めと力の源となった。イニッシはハンター会長とともに世界中を巡り,聖徒と集会を持った。
1993年2月7日,ハンター会長はブリガム・ヤング大学に行き,1万7千人が集うファイヤサイドで話をした。話し始めてすぐに,片手にブリーフケース,もう片手に黒い物を持った男が壇上に駆け上がって来た。「動くな!」と男は叫んだ。男は,自分が用意してきた文書をハンター会長が読み上げなければ,爆弾と称する物を爆発させると脅した。ハンター会長はその要求を断り,男が脅迫する間ずっと,説教台の前に毅然と立っていた。会場内に不安と動揺が広がる中,聴衆は「感謝を神に捧げん」を歌い始めた。緊迫した数分間の後,二人の警備員が男を捕らえ,安全のためハンター会長は床に伏させられた。会場内に秩序が戻ると,ハンター会長は少し休息を取ってから再び話し始めた。「人生にはかなり多くのチャレンジがあります」と言ってからこう付け加えた。「ただいまご覧になったように。」91
それまでの20年間,クレアの健康状態の悪化と最終的な死,自分の健康問題による幾度もの入院,大きな苦痛と肉体的な障がいなど,ハンター会長は幾つもの試練を堪え忍んできた。この間,ハンター会長は頻繁に逆境について話し,試練のときに救い主イエス・キリストを通して平安と助けを得られることについて証した。ハンター会長はある説教の中でこう話した。
「教会の預言者や使徒は 個人的な困難に直面してきました。わたしも多少なり経験してきましたが,きっと皆さんも今経験している最中か,あるいは今後経験することでしょう。これらの経験により謙遜になり,精錬され,教えと祝福を受けるとき,このような経験は主の御手に使われる強力な手段となって,わたしたちをより善い人間へと変えてくれます。わたしたちはさらに感謝と愛にあふれ,苦しんでいる人にもっと思いやりを持つことができるようになるでしょう。」92
苦難に遭っている人たちにとって,このような教えは愛情深い慰めの言葉であった。ハワード・W・ハンター会長の霊感あふれる言葉は,ハンター会長自身がそうしたように,救い主に頼るよう多くの人を促した。
教会の大管長
「ハンター大管長は,これまでわたしたちが知っている人の中で,最も愛情にあふれたキリストのような方の一人です。彼の霊性の高さは計り知れないほど高いものです。長年主の特別な証人として主イエス・キリストの導きの下で仕えてきたハンター大管長の霊性は,驚くべき方法で高められてきました。それは彼の全身にみなぎる力の源となっています。」(ジェームズ・E・ファウスト)93
1994年5月30日,エズラ・タフト・ベンソン大管長は長患いの末亡くなった。6日後,十二使徒定員会はソルトレーク神殿に集まり,大管長会を再組織した。先任使徒のハワード・W・ハンターは大管長に任命された。ハンター大管長は,ベンソン大管長の顧問を務めていたゴードン・B・ヒンクレーとトーマス・S・モンソンを顧問として召した。
翌日の記者会見で,ハンター大管長は大管長として初めて公式に語った。「わたしたちの友人であり兄弟であるエズラ・タフト・ベンソンの死後,わたしたちは心を痛めています。ベンソン大管長が亡くなってからわたしが受けた新しい責任について考えると,大管長の死の重みを特に個人的な意味で実感しています。わたしは多くの涙を流し,天の御父に熱烈な祈りをささげ,わたしに与えられた高次の聖なる召しにふさわしくあれるようにと願いました。
ここ数日間,わたしを最も支えてくれたのは,揺るぎない証でした。すなわち,これは人の業ではなく神の御業であり,イエス・キリストは権能を持った,この教会の生ける頭であり,言葉と行いにより教会を導いておられるという証です。命と力と霊の限りを尽くしてイエス・キリストに仕えることを約束します。」94
ハンター大管長は愛を伝えた後,教会員に二つの勧告を与えた。一つ目は,さらに熱心にイエス・キリストの模範に従うこと,もう一つは,さらに神殿の祝福にあずかることであった(1-3ページ参照)。ハンター大管長はさらに,傷つき,もがき,恐れを抱いている人々をこのように招いた。「わたしたちは皆さんの味方です。わたしたちに皆さんの涙を拭わせてください。戻って来てください。」95
ハンター大管長は体調の悪い中,聖徒と集まり聖徒を強めるために全力を尽くす覚悟を決めていた。大管長になってから2週間後,ハンター大管長は最初の主要な説教をした。最初は新任の伝道部会長に向けて,その次に2,200人の宣教師に向けて語った。その月,ハンター大管長はさらにイリノイ州のカーセージとノーブーを訪れ,ジョセフ・スミスとハイラム・スミスの殉教150周年を祝った。「行く先々でハンター大管長は人に囲まれていました」とゴードン・B・ヒンクレー大管長は言った。「ハンター大管長は何千人もの人と握手を交わしました。子供たちが周りに集まってきてじっと大管長の目を見て大管長の手を握ると,ハンター大管長はとびきりの笑顔を向けるのでした。」96
1994年10月1日,総大会の土曜午前の部会で,教会員は末日聖徒イエス・キリスト教会の大管長として,また預言者,聖見者,啓示者として,公式にハワード・W・ハンターを支持した。ハンター大管長は最初の説教の中で,救い主の模範に従い「主の神殿を教会員であることの崇高な象徴とするよう」繰り返し勧めた。97翌週,フロリダ州オーランド神殿を奉献するためにフロリダを訪れた際にも神殿について再度強調した。「主が明らかにされた福音の計画は,神殿なしには完全ではありません」と教えた。「なぜなら,命と救いの計画に必要な儀式は神殿で執行されるからです。」98
11月,ハンター大管長は系図協会の100周年記念の衛星放送で話した。この行事は,1964年から1972年まで同組織を管理したハンター大管長にとって特別な意味を持っていた。「振り返ってみると,神殿と家族歴史の業の前進において主の御手がそこかしこに現れていたことに驚きを覚えます」と述べて,こう宣言した。「大切なメッセージがあります。この業を速めなければなりません。」99
ハンター大管長はその年の終わりまで精力的に働き続けた。第1回目の大管長会クリスマスディボーショナルで,ハンター大管長は救い主について証し,主の模範に従うことの大切さを再度強調した。
「救い主は人々を祝福するために生涯をささげられました。…… 見返りを期待して何かをお与えになったことは一度もありません。主は惜しみなく,愛をもって,計り知れない価値のある贈り物を与えられました。目の見えない人に目を,耳の聞こえない人に耳を,足の不自由な人に足を,清くない人に清さを,衰弱した人に健康を,命を失っている人に命の息を与えられたのです。また,虐げられた人に機会を,抑圧された人に自由を,悔い改めた人に赦しを,失望した人に希望を,暗闇に光をもたらされました。主は愛と奉仕と命を与えてくださいました。そして何より,わたしたちや全ての死すべき人に復活と救いと永遠の命を下さったのです。
わたしたちは,主が与えられたように与える努力をしなければなりません。自分をささげることは,神聖な贈り物です。主から全てを与えられていることを記念して,わたしたちも与えるのです。」100
ハンター大管長はこの説教の中で,使徒に召された年に出版された機関誌の中のメッセージを言い換えて話した。
「このクリスマスに,争いを修復してください。忘れられている友を探し出してください。疑念をはねつけ,それを信頼に変えてください。手紙を書いてください。穏やかな返答をしてください。青少年を励ましてください。言葉と行いであなたの誠実さを示してください。約束を守ってください。人へのわだかまりを捨ててください。敵対する人を赦してください。謝ってください。理解するように努めてください。他の人々に対するあなたの要望を吟味してください。まず他の人のことを考えてください。親切であってください。優しくあってください。もう少し笑ってください。感謝を述べてください。見知らぬ人を歓迎してください。子供の心を喜ばせてください。地上の美しさと驚異を楽しんでください。あなたの愛を何度も言葉にして告げてください。」101
翌週,ハンター大管長はメキシコシティーを訪れ,教会の2,000番目のステークを組織した。ハンター大管長は19年前のある週末,メキシコシティーの5つのステークから15ステークを組織するのを指導した。ゴードン・B・ヒンクレー大管長は2,000番目のステークが組織されたことを「教会歴史上記念すべき出来事」と語った。102
この頃のある晩,ハンター大管長の息子リチャードはジョセフ・スミス記念館を訪れた際,案内係の女性が車椅子に乗っているのに気づいた。「車椅子にまだ慣れていないことが一目で分かりました。わたしは彼女に話し掛け,父もよく似た車椅子を持っていると伝えました。すると彼女は,大管長も自分とそっくりな車椅子を持っていて,大管長にできるなら自分もできるかもしれない,と言いました。そのことが彼女に希望を与えたのです。父は大勢の人に愛されていたと思います。その理由の一つは,人々と同じように苦しみ,重荷に耐える父の姿が,人々に希望を与えたからかもしれません。」103
1995年の初め,ハンター大管長はユタ州バウンティフル神殿を奉献した。6つの奉献の部会を管理した後,疲労のあまり入院することになった。数日後に大管長が退院すると,教会は,大管長が前立腺がんを患っており,がんが骨に転移しているという声明を出した。ハンター大管長は,生涯最後の6週間,二度と公の場に姿を現すことはなかったが,自宅で引き続き顧問と集会を持ち,教会の諸事を運営した。ゴードン・B・ヒンクレー大管長はこう述べている。「ハンター大管長が以前,教会員に『主の神殿を教会員であることの崇高な象徴とする』よう強く勧めたことを考えると,大管長が〔神殿を〕奉献する機会があったことに感謝しています。」104
ハワード・W・ハンター大管長は1995年3月3日に87歳で死去した。ベッドの周りにいた人たちに「とても静かで優しい声で」最後に語ったことは,「ありがとう」という簡潔な言葉だった。105大管長としての在任期間はわずか9か月だったが,非常に大きな影響を与えた。「世界中の教会員は,預言者,聖見者,啓示者であるハンター大管長と特別なきずなで結ばれ〔まし〕た」とジェームズ・E・ファウスト長老は語った。「会員たちは,大管長が救い主の特質を体現しているのを目の当たりにしました。そのため会員たちは,ハンター大管長の要請に見事に応えて,キリストにさらに似た者となり,神殿を礼拝の中心とするよう努力したのです。」106
ハンター大管長の葬儀で,ゴードン・B・ヒンクレー大管長は次のような追悼の言葉を述べた。
「森の壮麗な大木が倒れ,ぽっかりと穴が空いてしまいました。偉大で穏やかな力がわたしたちから離れ去りました。
ハンター大管長の苦しみについては多くが語られてきました。おそらく,わたしたちが思っている以上に,長く,つらい苦しみが続いてきたはずです。大管長は苦しみに対して大きな忍耐力を育み,不平を漏らすことはありませんでした。これほど長く生きたこと自体が奇跡です。苦しみに耐える大管長の姿は,苦しむ大勢の人々を勇気づけ,彼らの苦痛を和らげてきました。人々は,大管長が彼らの重荷の重さを理解していたことを知っています。大管長は苦しむ人々に特別な愛の手を差し伸べました。
大管長の思いやりや気遣い,親切について語られてきた多くの言葉は全て真実です。大管長は,彼の愛した主の模範に倣いました。穏やかで思慮深い人でしたが,力強い声で賢明な意見を言うこともありました。……
ハンター兄弟は優しく穏やかな人でした。しかし,力強く説得力のある話をすることもありました。…… ハンター兄弟は,問題を提起する方法を心得ていました。整然と根拠を示し,その後結論へと話を展開していきました。誰もがハンター兄弟の話に耳を傾け,その提案にはほとんどの場合従いました。しかし,自分の主張が受け入れられなくても,彼は一歩引く柔軟性も持ち合わせていました。
今まで36年間,ハンター兄弟は聖なる使徒職の外套を身にまとい,先頭に立ってイエス・キリストの福音の教えを力強く宣言し,教会の業を前進させてきました。主に仕える,有能な真の代理人として世界中を飛び回ってきました。
預言者,聖見者,啓示者であるハワード・W・ハンターは,永遠の御父であられる神が生きておられることについて,確かで確固とした証を抱いていました。ハワード・W・ハンターは,人類の贖い主であられる主イエス・キリストの神性について強い確信を込めて証を述べました。預言者ジョセフ・スミスをはじめとする,ハンター大管長より前に召された全ての大管長について愛をもって語りました。 …
神よ,ハンター大管長の模範がわたしたちの心に刻まれますよう,祝福してください。」107注