欠かすことのできない福音の栄養素
2024年6月CES宗教教育者大会
愛する兄弟姉妹の皆さん,この世界規模の放送で宗教教育者である皆さんにお話しできる機会に感謝します。皆さんが時間を割いてくださっていること,また,皆さんが主の業を前進させるために行ってくださっているすべてのことに感謝します。皆さんの成功は「おもに,キリストの忠実な弟子となるように神の子供たちを助けるためにどれほど献身したかによって測られ〔る〕」ことを知ってください。 皆さんの成功は,何人の生徒が救い主の忠実な弟子になるかによって決まるのではなく,生徒が皆さんのレッスンや招き,親切な行いにどう応じるかで決まるのでもありません。皆さんの責任は,生徒が情報に基づいて自分に祝福をもたらす選択ができるよう,はっきりと力強く教えることです。 各個人に選択の自由があります。預言者ジョセフ・スミスが,この神権時代の教会の最初の宣教師たちに語った言葉を引用します。「もしあなたが自分の義務を果たすなら,すべての人が福音を受け入れるのと同じように,あなたにとって良いこととなるでしょう。」
1916年にデビッド・O・マッケイ長老はこう述べました。「人に与えられている責任の中で,神の子供たちの教師となること以上に大きな責任はありません。」 それは今日も同じです。信仰を持って,信仰について教える教師は,末日聖徒イエス・キリスト教会の,特に若い世代にとってきわめて重要です。
少ししたら,ジェフリー・R・ホランド会長の引用を読みます。そこからつながりが見えてくるでしょう。その前に,数人に助けていただくようにお願いしてあります。リース夫妻とアシュトン夫妻に来ていただき,一人一人にトゥインキーを渡します。ご存じのとおり,トゥインキーとはクリームが入ったバニラケーキです。それを開けて食べ始めていただきます。ナプキンを配ります。そして,わたしがここから話のつながりをお見せします。
ジェフリー・R・ホランド会長は,1998年に福音に欠かすことのできない要素を教える重要性を強調し,こう教えました。「預言者から,神の御言葉を聞き,さらに信仰を増すよう呼びかけられたら,家庭,説教壇からの話,……そしてもちろん各クラスで学ぶ,教会の優れた教えについて改めて認識し,尊んでください。
……人生に危機が訪れるとき,少々の聖句と詩を織り交ぜて形成した人間の哲学は,そのような影響はもたらしません。わたしたちは〔生徒〕に対し,生活で困難に陥ったときに支えとなるような方法で,ほんとうに養っているでしょうか。神学的な嗜好品のように,霊的に栄養価のない内容で済ませてはいないでしょうか。」
では,トゥインキーを一部食べたことと思いますが,リース会長。トゥインキーに食物繊維は何グラム含まれていたと思いますか。実は,ゼロです。
リース姉妹,カルシウムは何ミリグラム入っていると思いますか。実は,ゼロです。
アシュトン姉妹,ビタミンAは何マイクログラム入っていると思いますか。実は,ゼロです。
アシュトン兄弟,ビタミンCは何ミリグラム入っているでしょうか。パターンが見えますね。ビタミンCもゼロです。
わたしは幼いころ,トゥインキーが大好きでした。親が許してくれれば,ほかに何も食べず,朝食にも,昼食にも,夕食にもトゥインキーを食べていたでしょう。両親がわたしにそうさせていたら,どうなっていたでしょうか。壊血病で,便秘と骨粗しょう症で,失明していたかもしれません。あまり見られたものではありません。
ご協力ありがとうございました。今日は,栄養不足が身体的な健康に及ぼす影響について話し合うためにここに来たのではありません。トゥインキーはおいしいかもしれませんが,栄養素が含まれていません。今日は,皆さんが生徒に提供している霊的な栄養素についてお話しするために来ました。
目の前に熱心な生徒がいるとき,わたしたちは彼らを神の善い言葉で養う必要があります。霊的な栄養素に欠ける霊のトゥインキーでは,だめです。霊のトゥインキーで養われた人々は,主にあって成長し,「聖霊の全き」を受けた,生涯にわたるイエス・キリストの弟子となる見込みはあまりないでしょう。 霊のトゥインキーで養われた人々は逆に,霊的にかたくなになり,信仰に欠け,戸惑いがちになるでしょう。
霊的な栄養失調と闘うため,わたしたちの生徒には少なくとも比喩的な4つの豊かな栄養素が必要です。1つ目は,天の御父と御父の計画,イエス・キリストと主の贖い,そしてこの末日におけるキリストの完全な福音の回復に対する証です。 彼らが証を得られるように,わたしたちは回復された真理を教え,それらの証を述べなければなりません。
例を紹介します。何年も前,グレースという中国人医師が,18か月間ソルトレーク・シティーの医療機関の視察に来ました。心臓移植の医学的側面を学びに来ていました。わたしの家族は彼女と親しくなり,様々な活動に彼女を呼びました。クリスマスが日曜日に当たったので,わたしたちは彼女を聖餐会に招待しました。イエス・キリストについて教え,クリスマスを祝う理由が強調されるメッセージが話されることを願いました。わたしはステーク会長だったため,壇上に座っていました。妻と娘がグレースと座っていました。
聖餐の儀式の後,最初の話者が,四人目の博士という有名な架空の話をしました。見事なお話は,涙を誘いました。次の話者は,擬人化された三本の木の話に基づくお話をしました。1本目の木は,美しい宝石箱になることを望んだものの,家畜の餌を入れる箱,ベツレヘムで生まれた赤ん坊を寝かせる飼い葉おけになりました。2本目は,立派な船になることを望みました。しかし,ガリラヤの海で普通の漁師が使う,特徴もない船になりました。激しい嵐が来たとき,人々が「先生」と呼ぶ男が「静まれ」と言うと,嵐が収まりました。3本目の木は,遠くからでも分かるくらい立派なものになることを望みました。しかし,カルバリという丘で十字架につけられた男の梁になりました。これも感動的なクリスマスの物語ですが,架空の物語です。
わたしは集会の内容に失望し,グレースのためにこのような形で終わらせたくないと思いました。時間が無いにもかかわらず,ビショップにこのように尋ねました。「この集会をあなたが修正しますか,それともわたしにしてほしいですか。」ビショップは,自分がすると言いました。彼は説教壇に立ち,5分間で,ベツレヘムで生まれた赤ん坊がどなたであり,この御方が何を成し遂げられたのか説明しました。そして全人類の救い主であるイエス・キリストについて力強い証を述べたのです。そして閉会の賛美歌と祈りについて知らせ,座りました。
閉会の賛美歌を歌っていると,グレースが妻にこう言ったそうです。「ルース,ビショップが話したとき,この集会の何かが変わったわ!」まさにそうでした。話者の方々は善意でお話をしましたが,神学的なトゥインキーを提供しただけで,霊的なカロリーがなく,信仰と証が述べられず,神の御言葉の力と御霊が欠けていました。
ビショップの心からの証は,聖文で教えられている真理と主の預言者の教えに基づく真理であり,集会に御霊を招くものでした。わたしは,架空の物語の真実を証することは,御霊には難しいと結論付けました。教える時に,わたしたちがほかに何を行おうとも,イエス・キリストと主の贖い,天の御父と御父の計画,福音の回復に常に話を戻す必要があります。もちろん,生徒の注意を引くために架空の物語を用いても構いません。わたしは注意を引くためにトゥインキーを使いました。しかし,一度生徒の注意を引いたら,彼らの人生を変える養いを提供する必要があるのです。わたしもトゥインキーだけでなく,人参やブロッコリー,フムスを出したら良かったかもしれません。
使徒パウロはこう宣言しています。「なぜなら,『主の御名を呼び求める者は,すべて救われる』とあるからである。」 その後パウロは,この不可欠な要素を教える権能を授けられた教師の重要性を理解する助けとなる一連の質問をしました。「しかし,信じたことのない者を,どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を,どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては,どうして聞くことがあろうか。つかわされなくては,どうして宣べ伝えることがあろうか。」 そしてこう結論付けています。「したがって,信仰は聞くことによるのであり,聞くことはキリストの言葉から来るのである。」 生徒がイエス・キリストと,御父の計画における主の中心的な役割への信仰を育むために,御父とキリストについて教えることは最も重要です。本大会のテーマがすべてを物語っています。「預言者たちと使徒たちが書き記してきたイエスを求める」です。
有名なスコットランド人の宗教改革者であり,牧師であったトーマス・チャーマーズは,この原則を学んだ経験について書きました。チャーマーズは,1780年から1847年に生きていました。人生の終盤で,説教を通して計画していなかったある実験をしてきたことに気づきました。何年も,あらゆる不道徳や性格上の欠陥に反する説教をしてきました。人々の外面的な振る舞いに焦点を当て,特に十戒について説きました。結果はがっかりするもので,自分の言葉が「道徳的習慣の上では羽のように軽い」と悟ったのです。 盗まないようだれかを説得しても,その人の魂は変わらないこと,悪い行いを控えたとしても心の内に違いは生まれないことに気付きました。言い方を変えれば,生徒の心を変えることなく,振る舞いは変えられるのです。
チャーマーズは,神との和解と,キリストの血によって罪が赦されることを説き始めました。このように教えるまで,人々は生活を変えませんでした。彼が学んだすばらしい教訓は,「キリストについて説教することは,道徳について教える唯一の効果的な方法だ」ということです。 彼は,心ではなく振る舞いを変えようとしていたという当初の過ちに気付きました。それから彼は心を変えるために働き,振る舞いは自然に,それに不随して変わりました。
イエスがキリストであられ,救い主,贖い主であられると知ることは,わたしの人生と心を変えました。この知識が,ほかの何をもが成し遂げられない方法で,わたしの振る舞いを変えたのです。主の無限の贖いの犠牲から恩恵を受けていると知っています。この知識は,確かに人生を変えます。
生徒のための豊かな栄養素の2つ目は,皆さんとの個人的な関係です。皆さんとの個人的な関係は,生徒が救い主に近づくのを促すからです。主は,常に霊的な栄養素の確かな源となります。教師と生徒の関係は,生徒が救い主の御言葉に心を開く助けとなります。皆さんが生徒を正式に教え終わった何年も後でさえ,彼らとの関係は続き,人生に良い影響を及ぼし続けます。永続する影響力は,皆さんの生徒への深い愛と,彼らの幸福を願う気持ちから生じ,彼らを主と主の教義に向けさせます。
わたしはそれを経験しました。初等協会の教師の一人のベッキーは,そのような影響力を持った人でした。子供のころ,わたしの明らかな失敗をくどくどと言う代わりに,ベッキーはわたしの良い行いを捉え,わたしの頬をつまみ,頭をなでてこう言うのです。「デール,あなたはほんとうにいい子ね。」ばかにされたという思いは一切なく,むしろ,わたしはそうされることを期待していました。青少年になって,フィンランドとスウェーデンで何年も過ごした後にこのワードに戻ってきました。聖餐を配り終えると,ベッキーが近づいてきて,頬をつまみ,頭をなでてこう言いました。「デール,あなたはほんとうにいい子ね。」伝道から帰還し,聖餐会で伝道の経験について話した後も,ベッキーが近づいてきて,頬をつまみ,頭をなでてこう言いました。「デール,あなたはほんとうにいい子ね。」その後の何十年,わたしは良い選びをしてきました。それは,ベッキーがわたしを救い主の方へ導いてくれたからであり,彼女を失望させたくなかったからです。
十二使徒に召された後のある日曜日,わたしは育ったワードへ戻りました。ベッキーはまだあのワードにいます。わたしは壇上の端に座り,聖餐会で短く話し,着席しました。閉会の祈りが終わると,80代半ばになったベッキーがそっと近づいてきました。わたしの後ろの聖歌隊の席に来て,わたしの頬をつまみ,頭をなでてこう言ったのです。「デール,あなたはほんとうにいい子ね。」
各生徒の人生に,一人かそれ以上のベッキーが必要です。生涯にわたって関係を持ち,救い主に目を向けさせ,考えや振る舞いに影響を及ぼす,生徒が失望させたくないと思えるような,そんな教師が必要です。間違いなく経験する危機によって生徒が傷つくとき,彼らが愛や安心を求めて頼れる安全な場所を提供することができます。正直なところ,知り合おうとする皆さんの試みを拒む生徒もいるでしょう。しかし,それは彼らを愛する妨げにはなりません。反抗的な生徒に対しても,思っている以上に大きな影響力があります。
生徒に必要な豊かな栄養素の3つ目は,教会について彼らが抱くであろう疑問や懸念について話す能力です。8年前,M・ラッセル・バラード長老が,宗教教育者に向けてこのように勧告しました。
「生徒が質問をし,教師が『それについては心配しないでください』と答える時代は終わりました。生徒が心からの懸念を述べるときに,教師がその問題を避けようとして自分の証を述べる時代は終わりました。教会を攻撃する人々から生徒が守られる時代は終わりました。……
〔生徒を〕世に送り出す前の段階で,生徒に予防接種を行ってください。それは,福音の教義,聖文,教会の歴史,時折誤解されるテーマについて,信頼できる,思慮に富んだ,正確な解釈を提供することです。」
教師の皆さん,学ぶときに研究と信仰を結合するとはどういう意味かを生徒に教えることで,生徒を助けてください。クラスでこの技術と方法を実際に示すことで,教えることができます。
イエス・キリストの福音は,啓示によってわたしたちの時代に回復されました。わたしたちは天の家へ戻る方法を知ってはいますが,答えが欲しいと心から願う疑問や懸念がまだあるかもしれません。生徒は,難しい質問に皆さんがどう答えるか見ています。率直な疑問をはぐらかしたり無視したりすると,さらに疑問を生むでしょう。答えを探している人々を導く備えが必要です。主と神聖な真理の源を信じる信仰を築けるよう助ける備えが必要です。ディーター・F・ウークトドルフ長老はこのように教えています。「尋ねることは弱さの現れではなく,成長の前触れなのです。」 そのために,教会は,自らの疑問の答えを見いだそうとする個人や,そのような人を助けようと努めている人への,信頼の置けるすばらしいリソースをまとめています。わたしたちの目標は,イエス・キリストを信じる信仰を強めるのを助け,複雑で時に難しいトピックに取り組む方法を提案することです。
このリソースは,ChurchofJesusChrist.orgのウェブサイトと「福音ライブラリー」アプリにあります。これらのリソースになじみがない方のために,「福音ライブラリー」アプリで見つける方法を説明します。まず「福音ライブラリー」アプリを開きます。ホーム画面からライブラリーに移動します。「トピックと質問」をタップします。すると,「質問に対する答えを探し求める」というセクションが見えます。もう一つは「疑問を抱えた人を助ける」というものです。そして,興味があるかもしれない様々なトピックが並んでいます。
「質問に対する答えを探し求める」では,信仰や教義,教会歴史などの質問への答えを熱心に探し求めるときに,研究の導きとなる原則を教えています。このセクションの「はじめに」では,質問が霊的な成長に重要であり,答えを探し求めることは生涯の課題となり得ることを説明しています。このセクションの原則は,イエス・キリストを人生の中心に据えるよう励まします。主の上に信仰の土台を築かなければならないからです。また,神の救いの計画が,疑問に対する新たな視点を与えてくれることを思い起こさせます。こうした視点は,福音の核となる真理と,それほど重要でない事柄を区別する助けとなります。信仰を育むために,信仰を持つことを選ぶ必要があります。信仰によって行動し,知っている事柄を固く守らなければなりません。すると,イエス・キリストへの理解と信仰が深まります。
このセクションのそのほかの原則は,自分やほかの人,さらに主のタイミングに対して忍耐強くあるよう励まします。啓示はしばしば,疑問から始まるプロセスであり,教えに教えという形でもたらされ,得るのが困難な場合もあることを覚えておく必要があります。答えを探すとき,聖霊からの導きを求め,背景に応じて物事を整理することによって過去を理解するべきです。
「疑問を抱えた人を助ける」セクションは,疑問を抱えた人々と接するときに導きとなる原則を提案しています。たとえ何があろうと,敬意をもって語り,共感を持って耳を傾け,キリストのような愛を示すべきです。耳を傾け,愛をもって答えましょう。理解しようとし,彼らが経験していることを認め,否定的になったり裁いたりするのを避けます。そうしながら,限界があることを認めます。わたしたちは完全な福音を享受しているものの,すべての疑問の答えは持っていないことを覚えておいてください。さらなる啓示が必要なものもあります。疑問や,疑問を抱く人に対し,わたしたちは生徒を完全に満足させるほど主の御心や教会の教義を十分に知っているわけではありません。このような状況では,論理や理由を重ねて納得させようという試みは何の助けにもならないかもしれません。
多くの教師が陥る罠は,主が与えておられない理由や説明を加えることです。それをすると,自分の言った理由や答えはやがて破綻し,生徒の信仰が弱まるかもしれません。理由や説明を作り上げるより,「分かりません」と言う方が適切です。信仰は結局,選びです。主イエス・キリストや,主の福音の回復を信じる信仰に頼り,主が明らかにされるまで主からの答えを忍耐強く待つことが,唯一の答えの場合もあるのです。 主を信頼し,人々が助けを求めて頼る安全かつ信頼の置ける情報源になりましょう。
御父の愛やイエス・キリストが贖ってくださったことに対する霊的な証を育むよう生徒を励ますことができます。生徒が福音のすべてを受け入れていないときでさえ,彼らはイエス・キリストの言葉を信じ,忠実であるかもしれないことを心に留めてください。 教会のある点について悩んでいても,御父が彼らを愛し,彼らにとって最善を望んでおられること,イエス・キリストが救い主であられるという確固とした証を持つことができます。
疑問を抱えた人を助ける提案の多くは,一対一で実践するのが最も効果的であることに気付くでしょう。それが最善だとわたしは信じています。一人の重要な質問に答えるために,教師がクラスの時間をすべて使うのは賢明ではありません。生徒の疑問によって,信仰を築くことを意図して計画された教科課程を変更すべきではありません。皆さんの目的は,クラス全体の信仰を築くことであり,数名の声によって妨げられるべきではないことを常に覚えておきましょう。すべての教えることと同様,疑問に対処するには,御霊の導きが必要です。
このセクションの内容は,人々を助けると同時に,わたしたちの信仰を養うことも思い起こさせます。タマラ・W・ルニア姉妹は,「愛する家族が道をそれても追いかける」ことのないよう助言しました。その代わり,命の木の示現のリーハイのように,「今いる場所を動かずに,彼らを呼ぶのです。木の所へ行き,そこにとどまり,笑顔で木の実を食べ続け,愛する人たちを手招きし,木の実を食べると幸せになるということを模範によって示すのです!」
「トピックと質問」の中の,特に「質問に対する答えを探し求める」と「疑問を抱えた人を助ける」で教えられている原則は,わたしの疑問に対する答えを探し求める助けとなり,主への信仰が強まり,主と主の業に対する理解が深まりました。これらの原則は,懸念や疑問を解決しようとする人々を支援する上で助けとなっています。特定の疑問やトピックの助けとなるコンテンツが今後追加されるので,度々アクセスし,「もう読んだ」と決して思わないようにしてください。皆さんも,わたしと同様に,これらのセクションやテーマが役立つと感じる自信があります。これらの資料を活用することが,皆さんやほかの人々の救い主を信じる信仰を深める助けとなるよう祈ります。
4つ目で最後の,すべての生徒に行き渡ってほしい豊かな栄養素は,柔軟な心を作り,維持することです。柔軟な心とは,御霊に繊細な心を意味します。柔軟な心の反対であるかたくなな心は,霊的に致命傷と言えます。聖文では頻繁に,かたくなな心を持つ人々に待ち受ける危険について描写されています。ニーファイはこう学びました。「〔命の木の示現で見た〕あの暗黒の霧は悪魔の誘惑である。それは人の子らの目をくらまし,心をかたくなにし,広い道に踏み込ませて,彼らが滅び失われるように仕向ける。」
固い心臓だと,血液で満たすのが難しくなります。心臓が満ちて,収縮に備えるとき,固い心臓は血液を入れるために広がるのが難しくなります。このような状態は,収縮における機能障害から深刻な心不全を引き起こしかねません。固い心臓に血液を満たすのが難しいように,霊的にかたくなな心を御霊で満たすのは難しいことです。
2ニーファイ33章で,ニーファイは心をかたくなにした人々が,神の御言葉を彼らの心に伝える聖なる御霊を受け入れないことを明確にしています。こうあります。「人が聖霊の力によって語るときには,聖霊の力がそれを人の子らの心に伝えるからである。」さらにこう続けます。「しかし見よ,聖なる御霊に対して心をかたくなにする人が大勢いる。彼らには聖なる御霊は宿りたまわない。そのために,これらの人々は,書き記されている多くのことを捨てて,これらを価値のないものと見なす。」
デビッド・A・ベドナー長老はこう指摘します。「注目するべきは,御霊の力は教えを心に伝えるのですが,それが常に心に入るとは限らないということです。……結局は生徒の側で心に取り込もうとしなければ,教えの内容も,聖霊による証も彼らの心にしみ込みません。」
生徒が柔軟な心を持っていなければ,こう言った人々と同じようになるでしょう。「『わたしたちは受けているので,もうこれ以上は必要ない……。もうこれで十分〔である。〕』」彼らに対して,「主なる神はこう言われる。『わたしはここにも少し,そこにも少しと,教えに教え,訓戒に訓戒を加えて,それを人の子らに与えよう。わたしの訓戒を聴き,わたしの勧めに耳を貸す者は,知恵を得るので幸いである。わたしは受け入れる者にさらに多く与え,「もう十分である」と言う者からは,彼らが持っているものさえも取り上げる。』」
かたくなな心を持つと,もっと神の言葉や祈りの答えを受けられる道を遮断してしまいます。生徒もわたしたちも,なすべきことをすべて教える御霊を進んで受け入れる必要があります。アルマが教えたように,「また,心をかたくなにする者はわずかな御言葉しか与えられず,ついに神の奥義をまったく知らない有様となる。 その後,これらの者は悪魔に捕らえられて,悪魔の意のままに滅びに引き込まれる」のです。 柔軟な心は,救い主が約束された結果へ導きます。「神の戒めを守る者は真理と光を受け,ついに真理によって栄光を受けて,すべてのことを知るようになる」のです。 かたくなな心は,「邪悪な者が来て,……光と真理を取り去る」のを可能にしてしまいます。
ベニヤミン王は,柔軟な心を作り,維持するための,栄養豊富で比喩的な霊的な栄養の構成要素をまとめています。こう宣言しました。「今後も神の偉大さと自分自身の無力さ,……あなたがたに対する神の慈しみと寛容,これらを覚えて,いつも記憶にとどめておくようにしてほしい。また,心底謙遜にへりくだって,日々主の御名を呼び,……将来の出来事を確固として信じ続けてほしい。」 つまりこうです。贖いはイエス・キリストによってのみもたらされ,主無しでは希望がないといつも覚えておくこと。心底へりくだらせ,日々祈る動機を与え,イエス・キリストと主の贖いを信じる信仰に確固として立つこと。当然の結果として,わたしたちは「いつも喜びを感じ,神の愛で満たされ,またいつも〔わたしたちの〕罪の赦しを保てる〔でしょう〕。また,〔わたしたちを〕造られた御方……をますます知るようになる〔でしょう〕。」
生徒に,キリストを信じて「神と和解するように」,また,「わたしたちが自分の行えることをすべて行った後に,神の恵みによって救われることを知〔る〕」ように熱心に説き勧めるとき,皆さんは生徒が神の偉大さを常に覚えていられるよう助けているのです。 だからこそ,皆さんやわたしは,「どこに罪の赦しを求めればよいかを,わたしたちの〔生徒〕に知らせるために」,「キリストのことを話し,キリストのことを喜び,キリストのことを説教……〔する〕」のです。 この知識が彼らを謙遜にさせ,日々神の御名を呼ぶよう促し,信仰に確固として立つよう助けるのです。聖霊に満たされる備えのできた柔らかい心を維持するのを助けます。
これまで話した4つの豊かな栄養素は,重複するところもあり,補強し合うものです。今日は,自分のレッスンについて自己評価する良いタイミングです。以下のことを自問してみてください。
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わたしのレッスンは,イエス・キリストを中心としているだろうか。
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証と愛を持って教えているだろうか。
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生徒と生涯にわたる関係を育もうとしているだろうか。
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生徒が疑問の答えを見つけるのを助けているだろうか。ほかの疑問を持ったままにしていないだろうか。
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柔軟な心の模範を示しているだろうか。神に感謝を表し,信仰に確固としているだろうか。
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自分のレッスンや模範から,生徒は何を学んでいるだろうか。
兄弟姉妹の皆さん,天の御父の子供たちが忠実なイエス・キリストの弟子となり,柔軟な心を維持し,御霊が心に入るようにし,世の贖い主であるイエス・キリストに目を向けるのを助けるために皆さんがしてくださっている事柄に感謝しています。歌にあったように,わたしたちは皆,さまよいやすく,愛する神から離れやすいです。主の慈しみを思い起こす必要があります。それが枷のようにわたしたちのさまよう心を神に結びつけます。だからロバート・ロビンソンもこう書きました。「我が心はここに。どうぞ導き,天の御国に結びつけたまえ。」彼は,歌う気にならないときも,贖いの愛の歌をなぜ歌う気持ちになれたのか覚えていたかったのです。わたしたちもその道において生徒を助ける必要があります。
神は皆さんの行いを祝福し,皆さんの善良さ,信仰,忠実さ,証のために祝福を与えてくださいます。皆さんが主に仕えてくださっていることに感謝します。親切で賢い天の友である主と友人になってくださっていることに感謝しています。それが真実であることを,わたしは知っています。イエス・キリストの御名により,アーメン。