「ぬかるみにはまって:悔い改めについての教訓」『For the Strength of Youth―青少年の強さのために』2021年2月号,14-15
わたしに従ってきなさい
ぬかるみにはまって
悔い改めについての教訓
天の御父とイエス・キリストに頼ることを選ぶとき,御二方がそこにおられ,わたしたちをあらゆる厄介な状況から抜け出せるよういつでも助けてくださることが分かります。
悔い改めについて話すのは難しいと感じることがあります。悔い改めるとはどういう意味か,分かっていないこともあります。赦しを受けられるのはほかの人たちだけだと思っていたり,悔い改める必要があるのは大きな罪を犯したときだけだと思っていたりすることもあるかもしれません。こうした考えに耳を傾けてはいけません。
天の御父は,悔い改めのほんとうの意味をあなたに知ってほしいと思っておられます。悔い改めは罰ではなく祝福であることを理解してほしいと望んでおられます。悔い改めとは,内なる変化です。わたしたちの思い,望み,行い,本質の変化です。よりキリストのようになることの一部です。悔い改めることによって,今,もっと喜びを感じられるようになります。
喜びに満ちた悔い改め
悔い改めはどのように喜びをもたらすのでしょうか。
イエス・キリストは,「わたしがあなたがたを癒すことができるように,……わたしに立ち返り,自分の罪を悔い改め〔なさい〕」(3ニーファイ9:13)と言っておられます。悔い改めることで,「わたしたちは救い主の助けを頂く喜び〔を〕感じる」ことができます。*
サタンは,わたしたちが過ちを犯すときに自分は独りぼっちだと思うことを望んでいます。これは真実ではありません!悔い改めは,天の御父とイエス・キリストが常にそこにおられることに気づかせてくれます。しかし,御二方に頼るかどうかはわたしたち次第です。御二方に頼るとき,自分は赦され,やり直せることを知って,わたしたちは愛と慰めと喜びを見いだします。
泥だらけの午後
わたしは,ある日の午後,妹のことを見た後に,この悔い改めについての教訓が思い浮かびました。我が家の裏庭に面した土地は建設用の空き地になっていました。豪雨があると,その土地はぬかるみになりました。普通のぬかるみではありません。ぞっとするような,べとべとした深いぬかるみでした。はまったら最後,抜け出すのはピーナツバターの中を走るのと同じくらい大変でした。
ある日のこと,妹が戸外で遊びたいと言いました。母は,家屋のそばのコンクリートのテラスにいるように,妹に注意しました。ところが,妹は空き地に入り込んだのです。
しばらくして,だれかの泣き声が聞こえ,わたしは外を見ました。信じられませんでした。ぬかるみの真ん中に妹がいました。ぬかるみに完全にはまり,泥だらけで泣いています。抜け出そうともがき続けていましたが,抜け出せません。もがくたびに,気味の悪い泥の中にさらに深く沈み込んでいきます。もちろん,わたしも母もすぐに妹を助けに行きました。
わたしは母を手伝って,ぬかるみにはまらずに妹のいる所まで歩けるように板を何枚か敷きました。泥はべったりとねばついていて,妹を引っ張り上げたときには,靴と靴下が脱げてしまったほどです。
キリストを通して清められる
人生はこのぬかるんだ空き地にとてもよく似ていると言えるかもしれません。注意を怠ると,罪や,この世の影響や,不適切な決断に足をとられ,身動きができなくなる可能性があります。これらのものは,わたしたちの霊にこびりつき,わたしたちの内面を苦しめて嫌な気持ちにさせる霊的な泥のようなものです。
天の御父とイエス・キリストに頼ることを選ぶとき,御二方がそこにおられ,わたしたちをあらゆる厄介な状況から抜け出せるよういつでも助けてくださることが分かります。わたしたちは赦され,再び清くなることができます。これは救い主イエス・キリストの贖罪の犠牲のおかげです。どんなときも「悔い改めを選ぶ喜び」を見いだせます。*