キリストに頼る
天の北極星と同じように、将来に何が起きようと、世のい主、神の御子は、わたしたちが不死不滅の命に至るための力強い支えとして確かに間違いなく存在しておられる、ということです。
愛する兄弟姉妹の皆さん、わたしもスムート姉妹やジェンセン姉妹、デュー姉妹、そして中央管理会の姉妹たちの非常にすばらしい働きに対し、深く感謝の意を表したいと思います。これらの姉妹たちは女性のためのこの偉大なすばらしい組織で大変忠実に、申し分なく働いてくれました。扶助協会は490万人強の会員を擁する驚くべき組織です。世界中にこれと似た組織はないと思います。地上のあらゆる場所で女性の生活に影響を及ぼし、大いなる幸福へ導いています。姉妹たちの働きに感謝します。さて、パーキン姉妹と二人の副会長、そしてこれから選ばれる管理会の姉妹たちを歓迎します。
偉大な今大会も幕を閉じようとしています。わたしたちは主の食卓にあって、すばらしい霊のごちそうを堪能たんのうしました。主の規範に倣ならって主の道を歩むよう指導を受けました。
一人一人はこの有意義な経験を通してまた少し向上しなければなりません。そうでなければこの大会は、まったく無益なものとなってしまいます。
閉会に当たり合唱団がこう歌います。
主よ、われとともににとどまりたまえ
夜は近づきて、闇迫りぬ
わが`心は主を求めまつる
おお、日は暮れゆく を救い主よ
おお、とどまりたまえわれのもとに
(「主よ、われと共に」『賛美歌」94番)
この歌詞は、家に帰るときにどんな気持ちになるかをよく表しています。
主の御霊がわたしたちのそばにいて、ともにとどまりますように。わたしたちには前途に何が待ち受けているか分かりません。明日どうなるかも分かりません。わたしたちは不確かな世に生きています。ある人にとっては偉大な達成の日となり、ほかの人にとっては落胆の日となるかもしれません。喜びと楽しみ、健康、感謝に満ちた日々を送る人もいれば、病気や悲しみに見舞われる人もいることでしょう。わたしたちには分かりません。しかし一つはっきりと知っていることがあります。天の北極星と同じように、将来に何が起きようと、世の贖い主、神の御子は、わたしたちが不死不滅の命に至るための力強い支えとして確かに間違いなく存在しておられる、ということです。主は救いの岩であり、わたしたちの力、慰めであり、信仰の中心であられます。
晴れの日も雨の日もわたしたちが主に頼れば、主はそこにいて、励まし、ほほえみかけてくださいます。
主はわたしたちの礼拝のまさに中心です。生ける神の御子、御父の長子、肉における独り子であられま曳天の玉座を離れ、死すべき人間として、最も貧しい環境にお生まれになりました。その孤独な生涯についてこう言われました。「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない。」(マタイ8:20)しかし主は、「よい働きをしながら、……巡回されました。」(使徒10:38)
主は奇跡の人で、嘆く人々に手を差し伸べられました。病人を癒いやし、死者をよみがえらせられました。しかし、主が世の人々にこれほどまでに愛を注がれたにもかかわらず、主は「侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知って〔おられまし〕た。……侮られ〔まし〕た」が、尊ばれなかったのです(イザヤ53:3)。
主の比類ない生涯を振り返ると、預言者イザヤの言葉が浮かんできます。
「彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。… …
……彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。」(イザヤ53:4-5)
天で大きな戦いが起こったとき、暁の子ルシフェルはある計画を提示しましたが、却下されました。わたしたちすべての者の御父はその子どもであるわたしたちへの愛をもって、もっとすばらしい計画を与えてくださいました。その計画では、人生で歩む道を選択する自由が与えられます。御父の長子、わたしたちの長兄がその計画には不可欠でした。人は選択の自由を持ち、それに付随して責任を問われることになっていました。人は世の道を歩み、罪や過ちを犯すことが分かっていました。しかし、神の御子が肉体を受け、すべての人の罪を贖うために、犠牲として御自身をささげられることになっていました。筆舌に尽くせない苦しみを通して、主は偉大な贖い主、全人類の救い主となられることになっていたのです。
このたぐいない賜物、すなわち贖いという驚くべき賜物について少しでも理解すると、わたしたちは主の御前に愛を込めて敬虔に頭を垂れずにはいられません。
教会に対し批評する人が大勢います。わたしたちがキリスト教界で昔から信じられているキリストを信じていないと主張しています。その人々の言うことは部分的には合っています。わたしたちの信仰と知識は、古代からの伝承に基づくものではありません。また、限られた理解や、よみがえられたキリストに関して一つの定義に到達しようとする人々の果てしない議論から生み出された信条に基づいているのでもありません。わたしたちの信仰と知識は、この神権時代における一人の預言者の証によりもたらされたものなのです。この預言者は、宇宙の大いなる神とその愛子すなわち復活された主イエス・キリストにまみえました。御二方は預言者に語られ、預言者も御二方と話をしました。彼は率直に、明白な言葉で、臆することなくその偉大な示現について証しています。それは全能者と世の贈い主に関する示現であり、人の理解を超える栄光に満ちた出来事でした。しかし、この示現によって得た知識は確かで明白なものでした。その知識、すなわち、現代の啓示の結果としてしっかりと確立された知識があるからこそ、ニーファイの言葉を借りれば、わたしたちは「キリストのことを話し、キリストのことを喜び、キリストのことを説教し、キリストのことを預言し、また、どこに罪の赦しを求めればよいかを、〔わたしたちと〕わたしたちの子孫に知らせるために、自分たちの預言したことを書き記す」のです(2ニーファイ25:26)。
ですから、兄弟姉妹、これからしばしのお別れになりますが、わたしたちの確固とした揺るぎない証を繰り返しお伝えします。個人として、堅固で確かな知識を踏まえて、証します。これまで何度も語ってきたことですが、もう一度申し上げます。わたしは永遠の父なる神が生きておられることを知っています。二の神は宇宙の大いなる神であり、わたしたちの霊の御父であり、わたしたちが祈りを通して語りかけることのできる御方なのです。
イエス・キリストは神の独り子であり、世の瞭い主です。主はわたしたちが永遠の命を得られるように、御自身の命をささげてくださいました。そして御父とともに支配し、統治しておられます。御二方は別個の存在であり、互いに異なる御方ですが、それでも姿形と本質と目的において同じであられることを知っています。わたしは「人の不死不滅と永遠の命をもたらすこと」が全能者の業であることを知っています(モーセ1:39)。ジョセフ・スミスは預言者であったことを知っています。ジョセフはこの神権時代の偉大な預言者であり、彼を通してこれらの真理が明らかにされました。この教会は神の業であり、その聖なる御名を冠かんしているイエス・キリストによって管理され、導かれていることを知っています。
愛する同僚である皆さんにわたしの愛と祝福を残すに当たり、これらのことをイエス・キリストの神聖な御名によって厳粛に証します。アーメン。「神よ、また逢あうまで、共にいませ。」