愛の腕の中に抱かれて
理解を超えることが起きたとしても,ニーファイのように,神がわたしたちを愛しておられることが分かりますし,神の愛というこの……事実さえ確信していれば多くの困難を乗り切ることがでまます。
頻発する危機と地球きもうの区悪事件のさなかにあっても、まことの弟子は、啓示と愛の神とのすべての業の源である神の子どもたちの贖いの計画について,信仰を揺るがすことがありません(モーセ1:39参照)。さらに,啓示された神の属性から言えることは,神は無限の能力を有する御方なので,その広大な業は「間違いなく」行われるということです(2ニーファイ27:20-21参照)。
まことの弟子はまた,瞭いの御子イエス・キリストへの信仰を保ち,「主に帰依」するので(3ニーファイ1:22),幸福に至る「大きな変化」を遂げていきます(モーサヤ5:2;アルマ5:12-14参照)。
兄弟姉妹の皆さん,いずれにしてもイエスはすでに最大の戦いに勝利しておられるのです。「あなたがたは,この世ではなやみがある。しかし,勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ16:33,強調付加)主が達成された腰いのおかげで,ばく大な数の人々に無条件の復活がもたらされました。いつ,どうして死を迎えたかにかかわりなく,すべての人が等しく墓から解き放たれます。晴れた夜に輝く星々の寿命は人知では計り知れないものですが,星は不滅ではありません。しかしありがたいことに,わたしたちは不滅なのです。
同じように,「まことの信剤は(4ニーファイ1:36),権能を授けるための訪れを含む末日の回復の業,預言者と使徒,そして「分かりやすくて貴い」聖文についても信仰を保ち続けます(1ニーファイ13:29)。福音の第一の原則は,確かに終わりの時において適切なものです。
皮肉なことに,回復された教会が「暗黒から」出て世に知られるようになるにつれ(教義と聖約1:30),一見過酷に見えた数々の問題が,実は教会の特色を肯定的に強調するものになっていくのです。いずれにしても,行動をさらに信仰に調和させていくとき,主の弟子として常に課せられている義務を強く思い起こさずにはいられません。
回復された福音は,啓発的かつ包括的で深く,わたしたちの理解できる域を超えています。宇宙に関する計画にせよ,個人的な純潔と貞節の大切さを強調する教えにせよ,福音は多くのことを教えてくれます。このような大胆な神学は,確かに柔和な弟子にしか手に負えないものです。
わたしたちは聖文をよりどころとし,「…神に頼り……なさい。そうすれば,神は苦難のときに〔わたしたちフを慰めてくだざる」との言葉から安らぎを得ることができます(モルモン書ヤコブ3:1,強調付加)。
また,「試練や災難や苦難の中にあって支え5れ,……神はこれからも〔わたした右をク救い出してくださるであろう」との言葉から慰めを受けています(アルマ36:3,27参照,強調付加)。
なぜなら主は次のように言われたからです。「わたしはあなたがたの中におり」(教義と聖約49:27),「あなたがたを導いて行くからである。」(教義と聖約78:18)
さらに神は聖霊を通して,貴重な個人的な確信をわたしたちに与えてくださいます(ヨハネ14:6;教義と聖約36:2参照)。平穏な時代か激動の時代かに関係なく,わたしたちにとって慰めの最良の源は慰め主御自身です。
エノクは世の悪事のために涙を流しましたが,最初は「慰められるのを拒」みました(モーセ7:4,44参照)。しかしその後,エノクは啓示を通して,イエスの世の贖(あがな)い末日の福音の回復,そして主の再臨を順次示され,「心を高めて喜」ぶように命じられました(モーセ7:44)。同様にわたしたちも,たとえ「戦争と戦争のうわさ」のさなかにあっても(マタイ24:6;マルコ13:7。1ニーファイ12:2;モルモン8:30;教義と聖約45:26も参照),教義と啓示によって高められることが可能です。「疲れ果てて意気そそう」する必要はないのです(ヘブル12:3;教義と聖約84:80参照)。
イエスの弟子であるというわたしたちの特質は,失意や太陽の暑さによって枯れてしまったり,「まともに仕掛けられる」この世的な対立など,人を愕然とさせるような社会悪を目にして「打ちひしがれ」(モロナイ9:25)たりするようなものであってはなりません(アルマ32:38参照)。わたしたちはこの世にあるとき,時には恐れて身を引くことがあるかもしれません。しかしイエスは,ゲッセマネでもカルバリでも身を引こうとはなさいませんでした。「人の子らのために……備えを終え」られたのです(教義と聖約19:19)。
信仰や忍耐をはじめとする試しについても同じことが言えます。試しはだれにもあります。種類が違うだけです(モーサヤ23:21参照)。この霊的な意味での柔軟体操には,幸せになるための,また人に仕えるためのわたしたちの力を増し加える目的があります。忠実な人であっても,この世での出来事から完全に逃れることはできません。だからこそ,危機に瀕したシャデラク,メシャク,アベデネゴの勇気ある態度は,わたしたちが見習うべきものだったと言えます。彼らは神が自分たちを助け出してくださることを知っていました。しかし,「たとえ〔助け出され〕なくても」,神に仕える気持ちに変わりはないと彼らは誓ったのです(ダニエル3:16-18参照)。同様に,時代遅れながらも必須の第1と第7の律法を守ることが,古代においてあの3人のおとめが示した勇気を再現するものと言えましょう。彼女たちは命をかけて「いいえ」と言いました(アブラハム1:11参照)。
ですから,たとえ四方から艱難が押し寄せても,わたしたちをキリストの愛から引き離すことはできないのです(2コリント4:8:ローマ8:35-39参照)。この世的な不安は,「熱心に……携わ〔っている〕」ことの一部ではありません(教義と聖約58:27参照)。たとえそうだとしても,神は確かにわたしたちを顧みてくださるのですから,ペテロの勧告のように,思い煩いは主にゆだねることができますし,そうすべきです(1ペテロ5:7参照)。ああ,兄弟姉妹の皆さん,主を信頼し,すべてをゆだねることほどわたしたちを束縛から解き放ってくれるものはありません。
個人の過ちを正すことに関して言えば,悔い改めという道に交通渋滞はありません。その道は無料の高速道路でなく有料道路ですが,キリストの順いを生かせば,さらにスピードを上げて走ることができます。
わたしたちにも,モーセの義父エテロのように遠慮なく話して成長を助けてくれる人が必要かもしれません(出エジプト18:14-24参照)。そうでなければ,古代の十二使徒のように,「主よ,わたしたちは,だれのところに行きましょう。永遠の命の言ことばをもっているのはあなたです」と(ヨハネ6:68),突然気づくことになりかねません。
それに,しっかりとした決意がないならば,マーチンズコープやスウィートウォーターの英雄たちに何と言うのでしょうか。「皆さんを尊敬するが,わたしたちには試練という名のいてつく川を渡る気はない」とでも言うのでしょうか。
兄弟姉妹の皆さん,「すべてのことは時節にかなって起こる」のですから(教義と聖約64:32),今が御心に従って与えられた「〔わたしたちの〕時代」なのです(ヒラマン7:9)。さらに言えば,わたしたちは失敗続きの世に生きていますが,失敗するためにここに送られたのではありません。
ベツレヘムでの主の降誕を知らせた新しい星を思い起こしてください。あの星は,輝くずっと前からその目的を果たすために軌道に乗せられたのです。同じようにわたしたちも,ふさわしい時に輝くように人間の軌道に乗せられたのです。神の計画は,宇宙だけでなくこの星にも及んでいます。モルモン書の金版がベルギーに埋められ,何世紀もたってからジョセフ・スミスが遠く離れたボンベイに生まれるということはありませんでした。
アメリカの卓越した憲法の権利と保護は「すべての人」に与えられたのであり,それを制定した「賢人」,建国の父たちは,決して偶然に集められたのではありません(教義と聖約101:77-78,80参照)。ある歴史家は建国の父らを称して,「合衆国で,いや世界で最も優れた公人の世代」と呼びました(アーサー・M・シュレジンガー,The Birth of the Nation〔1968年〕,245)。別の歴史家は「わずか250万人という人口ベースから,これだけの数の才能が生まれた理由が分かれば,貴重な発見になるだろう」と語っています(バーバラ・W・タックマン,The March of Folly: From Troy to Vietnam〔1984年〕,18)。
しかし,中には非力な神や矛盾だらけの神を甘んじて受け入れている人たちがいます。例えばレーマンとレムエルは,古代イスラエルがパロの軍勢から奇跡的に救われたことを知っていながら,地元の有力者にすぎないラバンに脅されて信仰を失い,つぶやきました。人は何と偏狭で利己的になれるのでしょう。銀河や星,そして多くの世界を統括しておられる神が,個人の生活における神の業を認めるようにわたしたちに求められるのは当然です(教義と聖約59:21参照)。すずめも,髪の毛1本さえも,神に知られずに地に落ちることはないと言われているではありませんか(マタイ10:29-30;教義と聖約84:80参照)。神は細部にわたってその存在を示しておられます。神はその広大な業をすべて御存じであると同様に,群衆の中の一人一人をすべて知っておられ,愛してくださっています。主はわたしたち一人一人,そして全人類を御存じであり,愛しておられるのです(1ニーファイ11:17参照)。
人に語りかけられる主の優しい言葉について考えてください。まずはモーセで曳「わたしはあなたを名前で知っている。あなたはまたわたしの前に恵みを得た。」(欽定訳出エジプト33:12から和訳)次はジョセフです、「これはわたしの愛する子である。彼に聞きなさい。」(ジョセフ・スミス—歴史1:17)
人は主が理解されることのすべては理解できません。そのこどを信じるようにベニヤミン王がわたしたちに懇願するのも,もっともなことです(モーサヤ4:9参照)。神の驚異的な能力についての啓示を無視することは,シェークスピアの14行詩が同じアルファベットで成り立っていることに気づかずに,アルファベットの積み木に満足して当てもなく遊んでいるようなものです。
父祖アブラハムは子孫が増えるとの主の約束を「疑うようなことはせず」に生涯を送りました。なぜなら,「神はその約束されたことを,また成就することができると確信した」からです(ローマ4:20-21)。わたしたちも同様に確信することができますように。
次のアンセルムスの言葉もとても良い教訓となります。「理解するために信じなさい。信じる〔ために〕理解するのではなく。」(St. Anselm,シドニー・ノートン・デイーン訳〔1903年〕,7)
兄弟姉妹の皆さん,混乱の時代に生きるわたしたちも,聖なる場所に立って動かされないことが可能です(教義と聖約45:32;87:8参照)。暴力の時代にあっても,人知で、はとうてい計り知ることのできない内なる平安を手に入れることができます(ピリピ4:7参照)。理解を超えることが起きたとしても,ニーファイのように,神がわたしたちを愛しておられることが分かりますし,神の愛というこの至福の根本的な事実さえ確信していれば,多くの困難を乗り切ることができます(1ニーファイ11:17参照)。
どうしたら,神がわたしたちを心にかけ,愛しておられることが分かるのでしょうか。神は聖文を通して語りかけられます。また,生活の中で受けている祝福と恵みを誠実な心で数え上げることも助けになります。そして何よりも,神は御霊の静かな細い声を通してその愛を伝えられるのです(アルマ34:38;教義と聖約78:17-19参照)。
弟子であるために必要な「大きな変化」は,ローラーコースターのように思えるかもしれません。啓示によって高められ,その結果得た展望によって低くへりくだるという繰り返しだからです。次のように叫んで「地に倒れた」モーセも同じでした。「人は取るに足りないものであることが分かった。このことは,思ってもみないことだった。」(モーセ1:9-10)しかしその後に彼が主から受けたのが,次の重大な真理でした。「見よ,人の不死不滅と永遠の命をもたらすこと,これがわたしの業であり,わたしの栄光である。」(モーセ1:39)
「大きな」変化を遂げることは並たいていのことではありません。生まれながらの人が持つ衝動に絶えず影響され,じゃまされるからです。この世の雑事に煩わされ,自分の可能性をつぶしていることがあまりにも多いので曳わたしたちを飛躍させてくれるような啓示を受けても,準備ができていることはまれです。しかし,考えてみてください。たしたちの霊の部分は実際に永遠の存在です。そして,わたしたちは初めに神とともにいたのです(教義と聖約93:29,33参照)。
もちろん,このすべてを直ちに,完全に理解することはできません。今すぐ,すべての意味を理解することが無理なことも,当然です。しかし,神がわたしたち一人一人を御存じで愛しておられることを知るのは,今すぐできます。
それでは兄弟姉妹,神をもっと知り,愛することを妨げているものは何なのでしょうか。それは,すべての罪を捨てようとせず,とりあえずわずかな悔い改めだけで十分だと考えることです。同様に,神の御心に自分の意志をのみ込ませる,つまり完全に従わせようとせず,神の御心を認めるだけで十分だと考えることです(モーサヤ15;7参照)。
預言者ジョセフ・スミスはこう宣言しました。神は「この地上のすべての出来事を,〔地球〕が存在するようになる前に,……すでに考えておられた。……〔神〕は……人類家族に関係のある罪悪の深さ,人々の弱さと強さ……についてよく知っておられた。……すべての国々の状況と……その行く末を熟知しておられた。……そのうえで〔神〕は〔人類の〕救いのために十分な備えをしてくださったのである。」(Teachings of the Prophet Joseph Smith, ジョセフ・フィールディング・スミス選〔1976年〕,220)
皆さんやわたしのような不完全な人間も,神の「愛の腕の中に抱」かれていることを知りつつ(教義と聖約6:20),それぞれ与えられた軌道の上で光り輝いて奉仕しようと決意するとき,神の「十分な備え」の一部となれるのです。
イエス・キリストの御名により申し上げます。アーメン。