2000–2009
「負傷者あり!」
2009年4月


2:3

「負傷者あり!」

神権者が忠実に奉仕するとき,その心には人に対する責任感があります。

神の神権を持つ兄弟たちに向かって話す栄誉と祝福に感謝しています。今晩わたしの話を通して,神権を使って勇ましく大胆に奉仕できるよう皆さんを助けたいと願っています。

皆さんは最後の神権時代に主の軍勢として働く特権にあずかっているのですから,勇気と大胆さを兼ね備える必要があります。今は平穏な時代ではありません。前世で,サタンはその軍勢を集結して天の御父の計画に逆らいました。それ以来,平穏な時代などありませんでした。前世での戦いがどのようなものであったか,わたしたちには詳しくは分かりません。しかし,その結果何が起こったかは知っています。サタンとその手下は地に投げ落とされました。アダムとエバが造られて以来,この戦いは続いています。そして,見てのとおり,戦いはますます激しくなっています。聖文によると,戦いはさらに激しさを増し,主の側につく者の中から多くの霊的な犠牲者が出ることになるでしょう。

たいていの人は戦場の様子を映画で見たり,本で読んだりしたことがあるでしょう。爆撃音や兵士の叫び声に混じって「負傷者あり!」という叫び声が上がります

この叫び声が上がると,忠実な味方の兵士たちは声の方に進みます。傷ついた同はら胞からのところへ危険も顧みずに移動する兵士や衛生兵もいるでしょう。負傷兵は助けが来ることを知ります。どんな危険を冒してでも,やがてだれかが姿勢を低くして走り寄り,または匍ほ匐ふく前進でたどり着いて保護し,傷の手当てをしてくれるのです。困難で危険な使命を帯びた部隊では,兵士は必ずこのようにします。どんな犠牲を払おうとも断固として果たさなければならない使命を担っているからです。部隊の兵士は,一人たりとも置き去りにしないという固い決意をもって忠実に働きます。歴史を見れば,このような話は枚挙にいとまがありません。

公式文書から一つの例を話します。11993年10月,ソマリアでの戦闘で,ヘリコプターに乗った合衆国陸軍の二人の突撃隊員が銃撃戦の最中に,近くを飛行していた2機のヘリコプターが撃墜されたとの知らせをうけました。比較的安全な高度を飛んでいた二人の隊員は,墜落したヘリコプターの隊員の救出が地上軍にはできないことを無線で知らされます。墜落現場に近づいて行く敵軍の数はどんどん増えていました。

上空から見下ろしていた二人の隊員は,地上に降りることを申し出ました。(無線で彼らが言った言葉は「自分たちをあそこに投げ込んでください」でした。)瀕ひん死しの重傷を負った仲間を保護するためです。非常に危険であったため,申し出は却下されました。隊員たちは重ねて申し出ましたが,再度却下されました。3度目にやっと,地上に降りる許可が下りました。

二人は携行できる武器のみを持って,墜落したヘリコプターと負傷したパイロットのところに向かいました。敵軍は墜落地点に結集しつつありましたから,銃弾の飛び交う中を進んだのです。二人は残ざん骸がいの中から負傷したパイロットを引き出し,自分たちの体を盾にしてパイロットを運びました。最も危険な位置に自らを置いたのです。弾薬が尽き,致命傷を負ってまでも同胞の命を守りました。彼らの勇気と犠牲が,失われたかもしれない一人のパイロットの命を救ったのです。

この二人は死後,それぞれ名誉勲章を受けました。武装した敵軍を前にして勇ましく戦ったことをたたえる国家最高の勲章です。記録には,彼らは「義務が要求する以上のことを行った」とあります。

しかし,墜落したパイロットの救出に向かった彼らに,義務以上のことをしているという意識があったでしょうか。どんな犠牲を払ってでも仲間の兵士を守る義務があると彼らが感じたのは,忠誠心からでした。しかし,彼らに行動する勇気を与え無私の務めを行わせたのは,仲間の命と幸福,安全を守らなければならないという責任感だったのです。

神権者が忠実に奉仕するとき,その心には人に対するこのような責任感があります。わたしたちの仲間は,霊的な戦いの中で傷ついています。わたしたちが仕え,危害から守ってあげなければならない人たちも同じように傷ついています。霊に負った傷は,霊の目でなければ容易に見分けることができません。しかし,救い主の弟子として仕えているビショップや支部会長,伝道部会長は,傷を負っている者を見極めることができます。

そのようなことは,昔から至る所で起きています。わたしにも覚えがありますが,ビショップだったころ,ある若い神権者の表情と態度を見て,こんな思いに駆られました。あまりにはっきりとした感覚だったため,声が聞こえたかのようでした。「彼と話さなければいけない。今すぐに。何かが起ころうとしている。彼には助けが必要だ。」

このような思いに駆られたとき,わたしは決して先送りしません。なぜなら,罪の傷というものは,初期の段階では傷ついた当人に自覚がないことが多いことをわたしは知っていたからです。サタンは時に,傷つけている最中には霊的な苦痛を感じさせないような処置を施すようです。悔い改めに導くような力が働かないかぎり,傷は悪化し深くなります。

ですから,そのような人に気づいたら,天の御父の子供たちの霊を救う責任を持つ神権者として,皆さんは救出に向かわなければなりません。「負傷者あり!」の声を待つことはできません。親友やほかの指導者,両親でさえ,皆さんが見ている危険には気がついていない場合もあるのです。

霊感を受けて警告の叫びを察知しているのはあなただけかもしれません。叫びが聞こえたように感じても,ほかの人はこんなふうに考えるかもしれないのです。「問題があるように見えたけれども,思い過ごしだったらしい。人を裁く権利などわたしにはないわけだし,これはわたしの責任でもない。本人が助けを求めてくるまでそっとしておこう。」あなたもそう考えるよう誘惑されるでしょう。

深い傷を負っていることを確認し,その傷を診断し,神から霊感を受けて必要な治療法を処方して癒いやしへの道を歩ませる力と責任は,権能を受けたイスラエルの判士にしか与えられていません。しかし,皆さんは,霊に傷を負った神の子供を救出に行くという聖約を交わしています。傷ついている者に背を向けない勇敢さと大胆さを持つ責任があります。

わたしの力の及ぶかぎり,少なくとも二つのことを説明しなければなりません。まず,皆さんにはなぜ,傷ついた友人を助けに行く責任があるのか。そして,もう一つは,どうすればその責任を果たすことができるかです。

まず初めに,先に述べたように,皆さんは聖約を交わしています。神から信頼されて神権を受けたとき,たとえどんなに困難で危険が伴うように見えたとしても,人の救いのために果たすこと,果たさないことすべてに対して責任を受けたのです。

この重大な責任を引き受けた神権者の例は数え切れないほどあります。皆さんもわたしもこのような責任を引き受けなければなりません。神聖な信頼を受けていたために,難しい状況下で同胞を助けるために行動したことを,ヤコブは,モルモン書の中で次のように説明しています。「さて,わたしの愛する同胞よ,わたしヤコブは,まじめに自分の務めを尊んで大いなるものとするという責任を神から受けており,また,わたしの衣からあなたがたの罪を取り除きたいので,今日こうして神殿に来て,あなたがたに神の御み言こと葉ばを告げる。」2

皆さんは,ヤコブは預言者であり,自分とは違うと主張しますか。しかし,皆さんは神権の職が何であろうと,それには,周りにいる者の「垂れている手を上げ,弱くなったひざを強め〔る〕」3という義務が伴っています。皆さんは主の僕です。主が行われるであろうことを,できるかぎり人に対して行うという聖約を交わした者なのです。

皆さんに与えられている大いなる機会と皆さんの責任については,伝道の書に次のように書かれています。

「ふたりはひとりにまさる。彼らはその労苦によって良い報いを得るからである。

すなわち彼らが倒れる時には,そのひとりがその友を助け起す。しかしひとりであって,その倒れる時,これを助け起す者のない者はわざわいである。」4

この聖句から,ジョセフ・スミスの的を射た厳粛な言葉が理解できるようになるでしょう。「愚か者でもないかぎり,人の命を軽々しく扱う者はいない」5ヤコブが語ったように,助けることができたかもしれない男性や女性を助けなかった場合,その人が倒れたとしたら,深い悲しみは本人のみでなく助けることを怠った人にも訪れます。皆さんの幸せと,神権者として皆さんが仕えるよう召されている人の幸せとは,表裏一体なのです。

では次に,皆さんが仕え,救うように召されている人を最もよく助けるにはどうすればよいかについて話しましょう。これは,皆さんの能力と,霊的な危機に陥っている人と皆さんがどのような神権の関係にあるかによって異なります。神権の奉仕の段階に応じて3つの例を挙げてみましょう。

まず,あなたがアロン神権の教師で,経験の浅い後輩同僚である場合から始めましょう。経験豊富な同僚と組んで若い夫婦の家庭を訪問します。訪問の用意を始めるに当たり,あなたは力と霊感を祈り求めます。家族の必要を見極め,どんな助けができるか知ることができるよう祈るのです。できれば,この祈りは同僚と一緒に,訪問先の家族の名前を挙げて行うとよいでしょう。祈るとき,あなたの心には訪問する家族への愛と神への愛がわき上がります。あなたと同僚は,これから行おうとすることについて意見が一致しているはずです。あなたたちは何を行うか計画を立てるでしょう。

どのような計画を立てたにせよ,訪問している間あなたは注意深く謙けん遜そんになって家族を観察し,話に耳を傾けます。あなたは若く,あまり経験がありません。しかし,主はその家族が霊的にどんな状態にあり,何を必要としているかをすべて御存じで,その家族を愛しておられます。それに,あなたには主の代理として遣わされているという自覚がありますから,家族を助けるためには何が必要か,自分には何ができるかが分かるはずだという信仰を持つことができます。それが知らされるのは,訪問して家に入り,顔を合わせて語るときです。教義と聖約の中で神権者に次の責任が与えられているのはこのためです。「また各会員の家を訪れて,彼らが声に出して祈り,ひそかにも祈るように,また家庭におけるすべての義務を果たすように勧めることである。」6

次に,皆さんの責任は増し加わり,さらに大きな識別の力が必要となります。

「教師の義務は,常に教会員を見守り,彼らとともにいて彼らを強めることであり,

教会の中に罪悪がないように,互いにかたくなになることのないように,偽り,陰口,悪口のないように取り計らうことであり,

また教会員がしばしば会合するように取り計らい,またすべての会員が自分の義務を果たすように取り計らうことである。」7

彼らがこの標準にどの程度従っているか詳しく知るために,あなたと同僚が霊感を受けることはまずありません。でも,経験から約束できるのですが,何が家族のためになるのかを知る賜たま物ものがあなたには与えられます。その賜物のおかげで,家族を励ませるのです。約束できることがもう一つあります。あなたと同僚は,霊の癒しの過程を家族が歩み始めるために何を変えればよいのか御み霊たまによって知ることができます。御霊に促されてあなたが家族に勧告する言葉には,主が家族に変えるよう望んでおられる事柄が確実に含まれているでしょう。

同僚が御霊に感じて生活を変えるよう家族に勧告し始めたら,同僚の行動を観察してください。御霊に導かれて同僚が語る様子を目まの当たりにして驚くでしょう。同僚の言葉には愛があります。そして同僚は,生活を変えて家族が祝福を得られるようにする方法を見つけます。生活を変えなければならないのが父親か母親であれば,それによって子供たちがどれほど幸福になるか説明するかもしれません。そのように変わることは,不幸な状態を離れて幸せで平安な生活に移ることだと同僚は説明するでしょう。

訪問中にあなたはあまり貢献していないと感じるかもしれませんが,あなたの影響力は自分が考えているより大きいのです。あなたがその家族を愛していることは,表情やしぐさから分かります。自分たちと主を愛しているためにあなたが恐れていないのだと彼らは理解します。そしてあなたは,雄々しく真理を証します。あなたの謙遜で素朴で,恐らく簡潔な証は,経験ある同僚の証よりも聞く人に感動を与えます。わたしはこれまでこのような場面を見てきました。

神権者としての訪問中に果たす役割がどのようなものであろうと,家族に主の助けがあるようにと願っているかぎり,あなたには二つの祝福が与えられます。第1に,訪問先の家族に対する神の愛が感じられるようになります。そして第2に,あなたが心から望んだ事柄に対して救い主が感謝しておられるのを感じるようになります。あなたが訪問したのは,救い主の御み心こころのままに家族を助けたいと望んだからです。

主があなたをその家族に送られたのは,あなたを信頼しておられるからです。責任感をもってその家族の心を主に向けさせ,彼らが幸せへの道を歩めるようあなたが彼らを助けてくれることを主は御存じなのです。

もう少し成長すると,あなたには,神権による奉仕のもう一つの機会が訪れます。あなたは自分の定員会の会員と親しくなります。バスケットボールやフットボールをしたり,一緒に青少年の活動や奉仕プロジェクトに参加したりしてきたのかもしれません。その中の何人かとは非常にいい友達になります。

悲しみを感じているか分かるようになります。あなたも友達も,定員会では指導者の責任を受けていないかもしれませんが,定員会の仲間に対して責任があることは自覚しています。あるとき定員会の仲間が,戒めを守れなくなりそうだとあなたに打ち明けます。それが霊に悪い影響を及ぼすことがあなたには分かっています。彼は助言を求めるかもしれません。あなたを信頼しているからです。.

経験から言うのですが,良い影響を与えて仲間を危険な道から救い出すことができたならば,その仲間はあなたにとって真の友達になります。その喜びは決して忘れることができないでしょう。それができなかった場合,仲間には悲しみ嘆く時が訪れます。あなたも同じように苦しむであろうことをわたしは約束します。しかし,助けようと努めたのであれば,その仲間が友達であることに変わりはありません。事実,何年かたって,あなたの助言に従っていればよかったと彼はあなたに言うかもしれないのです。助けようとしてくれたことに感謝するでしょう。そのときには彼を慰め,もう一度導いてください。青少年のころと同じように幸福への道に戻るよう誘うのです。贖いによってそれは可能となります。

そして,後にあなたは父親になります。神権を持つ父親です。あなたは悲しみから幸福へと人々を導いてきました。神権による奉仕を通して学んできた事柄は,必要な力を与えてくれます。人の救いのために長い年月責任をもって務めてきたあなたには,家族を支え,守る準備ができています。家族というものは,若いころには想像もできないほどいとしいものです。父親であるあなたには,愛する家族を神権の力によって安全な道に導く方法が分かっています。

生涯を通じ,また永遠にわたって神権者としての奉仕に皆さんが喜びを感じることができますように。モーサヤの息子たちのような愛と勇気をはぐくむことができますように。モーサヤの息子たちは,命の危険を冒してでもかたくなな民に福音を伝えたいと望み,それを行う許可を願い求めました。天の御父の子供たちを愛しており,勇気があったからです。彼らにこの望みと勇気をもたらしたのは,責任感でした。永遠の不幸の淵ふちに沈もうとしている見知らぬ民を永遠の幸福へと導く責任が自分たちにはあると感じていたのです。8

前世でエホバは栄光の王座から降りてわたしたちに仕え,わたしたちのために命をささげることを願い求められました。わたしたちも同様の望みを持つことができますように。主は父なる神に「わたしをお遣わしください」9とおっしゃったのです。

皆さんが神から召された者であり,神の子供たちに仕えるために送り出されていることを証します。神は一人も置き去りにされることのないように望んでおられます。モンソン大管長は全地の神権の鍵を持っています。皆さんには,イエス・キリストの贖いによって可能となった幸福への道を神の子供たちが見いだせるよう助ける責任があります。この責任を果たすために必要な霊感と力を神は皆さんにお与えになるでしょう。このことをイエス・キリストの聖なる御み名なによって証します,アーメン。