2000–2009
だれも主とともにいなかった
2009年4月


18:21

だれも主とともにいなかった

カルバリでの出来事のおかげで,たとえ孤独を感じることがあっても,決して独りではなく,助けの手が差し伸べられるという真理をわたしたちは知っています。

トンプソン姉妹,ありがとうございます。この教会のすばらしい姉妹たちに感謝します。兄弟姉妹,復活祭の季節に当たり,今日のわたしの話はすべての人に向けたものですが,特に孤独な人,孤独を感じている人,さらには見捨てられたと感じている人に向けて話します。その中には,結婚を待ち望んでいる人,伴侶を失った人,子供を亡くした人,そして子供に恵まれない人たちが含まれるかもしれません。またわたしたちは,夫に見捨てられた妻,妻が去ってしまった夫,親のどちらか一方を,あるいは両親とも失った子供たちのことも思っています。故郷を離れている兵士,伝道を始めてまだ数週間でホームシックにかかっている宣教師,失業し,不安な気持ちが家族に知れることを心配している父親など,こうした人々は実に様々な状況に置かれています。つまりこの話は,人生で色々な経験をするわたしたち全員に当てはまるのです。

このような気持ちを抱いているすべての人に向けて,わたしは人類史上最も孤独な旅について,またそれによって人類家族のすべてにもたらされた尽きることのない祝福について話します。それは,わたしたちの救いという重荷を御一人で背負われた救い主の孤独な務めのことです。この孤独な務めについて,主はこう言っておられます。「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。もろもろの民のなかに,わたしと事を共にする者はなかった。……わたしは見たけれども,助ける者はなく,怪しんだけれども,〔わたしを〕ささえる者はなかった。」1

先ほどのウークトドルフ管長のすばらしいお話にもあったように,聖文には,4月の第1週,過ぎ越しの前の日曜日,つまりまさに今日の朝と同じ日に,イエスがメシヤとしてエルサレムに入られたのは広く知られた偉大な出来事であったと記されています。しかし,イエスとともに歩み続けようとした人々の熱意はすぐにしぼんでしまいました。

間もなくイエスは,当時のイスラエル人指導者の前で訴えられました。最初に,先の大祭司アンナス,次に当時の大祭司カヤパのところへ連れて行かれました。イエスをすぐにも裁こうとした人々と議会は早々と判決を下し,怒りを込めて宣言しました。「どうしてこれ以上,証人の必要があろう。」そして叫んで言いました。「彼は死に当あたるものだ。」2

それからイエスは,その地の異邦人支配者のもとへ連れて行かれました。ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスはイエスを1度尋問し,ユダヤのローマ人総督ポンテオ・ピラトは2度尋問しました。ピラトは2度目の尋問の後,群衆に向かって次のように宣言します。「おまえたちの面前でしらべたが,訴え出ているような罪は,この人に少しもみとめられなかった。」3不当なうえに不合理でありながら,ピラトは「イエスをむち打ったのち,十字架につけるために引きわたした。」4水で洗ったピラトの手は,これ以上ないほどの汚れにまみれていたことでしょう。

宗教と政治の両方の指導者に否定されたイエスは,通りに群がる市民からも敵視されます。イエスとともに投獄されていたのが,「父の息子」5を意味するバラバの名で知られた人物であったのは,歴史の皮肉でしょう。バラバとはアラム語の名前または肩書きです。暴動を起こしたバラバは,まさしく神を冒瀆する者,殺人者でした。過ぎ越しの際に囚人を一人解放するという伝統に基づいて,ピラトは民衆に尋ねました。「ふたりのうち,どちらをゆるしてほしいのか。」民衆は「バラバの方を」と言いました。6つまり,神を信じない「父の息子」が解放された一方で,天の御父の真の御子が十字架の刑へと歩を進められたのです。

イエスの近くにいた人々も試練の時を迎えていました。その中で最も理解し難いのはイスカリオテのユダです。神の計画においてイエスが十字架におかかりになることが必要であったことをわたしたちは知っています。しかし,イエスの足もとに座り,祈りを聞き,病人を癒いやされるのをその目で見て,主と触れ合った特別な証人の一人が,銀貨30枚でイエスを裏切り,キリストの役割や存在を裏切ったということは,考えても胸が痛みます。これほどわずかな金銭でこれほど恐ろしい汚名を買った例は,この世界の歴史のどこにもありません。わたしたちはユダの行く末を裁く立場にありませんが,イエスは御自身を裏切った者についてこう言われました。「その人は生うまれなかった方が,彼のためによかったであろう。」7

もちろん,ほかの信者たちも難しい局面に立たされていました。最後の晩餐の後,イエスはペテロ,ヤコブ,ヨハネに待つように言い,ゲツセマネの園へ一人で入って行かれました。うつ伏せになって祈られたイエスは「悲しみのあまり死ぬほど」8でした。この耐え難い残酷な杯さかずきを過ぎ去らせてくださるよう御父に願ったとき,その汗が血の滴したたりのように地に落ちた9と記録されています。しかし,もちろん杯を過ぎ去らせることは不可能でした。苦悩に満ちた祈りから戻られたイエスは,弟子の中でも高い地位にある3人が眠っているのを見て,こう尋ねられました。「あなたがたは……,ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが,できなかったのか。」10同じことがさらに2度繰り返されました。そして3度目に戻られたとき,御自身は休息を取ることができないにもかかわらず,彼らに,今は眠り,休息を取りなさい11と優しく言葉をかけられました。

その後,イエスは捕らえられ,裁判にかけられます。イエスを知る仲間の一人であると訴えられたペテロは,1度ならず3度までも訴えを否定しました。わたしたちはそこで起きたことをすべて知っているわけではありませんし,使徒たちを守るために主がひそかに与えておられたかもしれない助言についても知りません。12しかしわたしたちに分かるのは,この特別な人たちでさえ最後には主とともにいないであろうことをイエスが御存じであり,このことについてペテロに警告を与えておられたということです。13鶏が鳴きました。「主は振りむいてペテロを見つめられた。そのときペテロは,……主のお言葉を思い出した。そして外へ出て,激しく泣いた。」14

このように,神聖な必要性から,イエスを支持する人々の輪は次第にとても小さくなり,マタイの言葉のとおりになりました。「弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。」15ペテロは周囲の人から自分の存在を認識され,とがめられるほどまで近くにいました。ヨハネはイエスの母とともに十字架の木の傍らに立ちました。救い主の生涯に登場した,特別で,常に祝福されていた女性たちは,できるかぎりイエスの近くにいました。しかし,御父のみもとへ戻られるイエスの孤独な旅路のほとんどにおいて,慰めはなく,連れ添う者もいなかったのです。

さて,贖いへの孤独な旅で最も困難だったと思われる瞬間について,これから非常に慎重に,また敬虔に話します。それは,イエスが知識面と物理面では準備ができていても,感情面と精神面においては応じる用意が完全にはできていなかったと思われる最後の瞬間,すなわち,神が離れて行かれるという恐るべき絶望に身をゆだねることです。このとき,イエスは極限の孤独にあって叫ばれました。「わが神,わが神,どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」16

イエスは世の人から見捨てられることは予期しておられましたが,神が離れて行かれることは悟っておられなかったと思われます。そうでなければ,弟子たちに次のように言われることはなかったでしょう。「見よ,あなたがたは散らされて,それぞれ自分の家に帰り,わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。……しかし,わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。」「わたしは,いつも神のみこころにかなうことをしているから,わたしをひとり置きざりになさることはない。」17

わたしは自らの確信に基づいて,イエスが完全に御父の御心にかなっておられたこと,完全な御方である御父はその瞬間に御子をお見捨てにはならなかったことを証します。実際,わたしは,キリストが地上で教え導かれた間を通じて,恐らくこの最後の苦悩のときほど,御父が御子の近くにおられたことはなかったと信じています。それでも,御子の至高の犠牲は,それが自発的であればあるほど,また孤独であればあるほど完全なものになるという理由から,御父は短い間,御父の霊がもたらす安らぎと,御父御自身の存在による支えをイエスから取り去られたのです。それは贖いが要求するものであり,確かに贖いの意義に欠かせないものでした。つまり,悪口を言ったことがなく,過ちを犯したことがなく,汚れたものに触れたことのないこの完全な御子は,人類,すなわちわたしたち全員がこれらの罪を犯したときにどのように感じるかをお知りにならなければならなかったのです。無限にして永遠の贖罪を成し遂げるために,イエスは肉体だけでなく霊が死ぬということがどのようなものかを実感し,神の霊が退き,独り残されてこれ以上ないほどの悲惨極まる,絶望的な孤独を感じることがどのようなことかを御自身で理解される必要がありました。

しかし,イエスは堪え忍び,使命を果たし続けられました。極限の苦悩の中にあっても,御自身に備わる至善のために,勝利への信仰を持ち続けられたのです。御子は信仰に頼っておられました。御子が味わっておられた気持ちにもかかわらず,その信仰は,神の哀れみは決して消えず,神は常に誠実であられ,わたしたちのもとを去ったり,見捨てたりなさることはないということを御子に告げていました。そして最後の1コドラントが支払われ,忠実であるというキリストの決意がまったく揺るぎのないものであることが証明されたとき,ついに,安堵あんどとともに苦しみが「終おわった」のです。18あらゆる困難に立ち向かい,助ける者も支える者もなしに,生ける神の生ける御子ナザレのイエスは,死が支配していた肉体の命を回復し,罪と地獄の暗闇と絶望から,喜びあふれる霊の贖いをもたらされました。神を信じ,神が支えてくださると知っておられたイエスは,勝利のうちに「父よ,わたしの霊をみ手にゆだねます」19と言うことがおできになったのです。

兄弟姉妹,この復活祭の季節に得られる大きな慰めの一つは,イエスがただ御独りでそのような長く孤独な道を歩まれたおかげで,わたしたちはそうする必要がないということです。イエスの孤独な旅は,その縮小版であるわたしたちの旅路に大いなる同伴者,すなわち天の御父の憐あわれみ深い御手みて,常に近くにいてくださる愛子あいし,聖霊の大いなる賜物,天使たち,幕の両側にいる家族,預言者と使徒,教師,指導者,友人を与えてくれました。イエス・キリストの贖いと主の福音の回復により,これらだけでなく,さらに多くの同伴者がこの世の旅路をともに歩んでくれるのです。カルバリでの出来事のおかげで,たとえ孤独を感じることがあっても,決して独りではなく,助けの手が差し伸べられるという真理をわたしたちは知っています。全人類の贖い主は確かに,わたしたちを慰めのないままにせず,御父とともに来て,わたしたちとともにいてくださると言われたのです。20

復活祭の時期に当たり,わたしにはもう一つの願いがあります。それは,拒絶され,見捨てられ,少なくとも一度はまったく裏切られたキリストの孤独な犠牲が,わたしたちのせいで,再び繰り返されることが決してあってはならないということです。主は一度,御独りで歩かれました。わたしたちが助けたり支えたりすることもないままに,主が二度と罪と向き合われることのないようにしましょう。現代における主の「悲しみの道」にいる皆さんやわたしを主が御覧になるとき,そこにいるのは何もしない傍観者だったということがもう決してないようにしてください。過ぎ越しの子羊に象徴される過ぎ越しの木曜日,十字架に象徴される贖いの金曜日,そして空になった墓に象徴される復活の日曜日を迎えるこの聖なる週を控え,わたしたちは言葉だけでなく,また人生が順調なときだけでなく,行いにおいて,勇気において,信仰において主イエス・キリストの忠実な弟子であると心から公言できますように。孤独を覚えながら道を歩むときも,十字架が肩に重くのしかかるときにもそうできますように。この復活祭の週の間,そして常に「いつでも,どのようなことについても,どのような所にいても,死に至るまでも」21キリストのそばに立つことができますように。わたしたちのために死なれたとき,そして究極の完全な孤独に置かれたとき,キリストはわたしたちのそばに立っておられたのです。イエス・キリストの御名により,アーメン。