総大会
「わたしはほかにはあり得ないほど麗しく,また快い喜びを味わった」
2023年4月総大会


9:58

「わたしはほかにはあり得ないほど麗しく,また快い喜びを味わった」

日々悔い改めてイエス・キリストのみもとに来ることこそが,想像を超えるほどの喜びを受ける方法です。

救い主は地上で教導の業を行われていたとき,神のすべての子供たち,特に苦しんでいる人々や道をそれてしまった人々に対して深い憐れみを示されました。罪人とかかわりがあることや食事を共にしていることについてパリサイ人から批判された際に,イエスは3つのたとえをお教えになりました。1それぞれのたとえの中で,主は迷い出た人々を探し出すことの大切さと,戻ったときに感じる喜びを強調されました。例えば,迷い出た羊のたとえの中で主は,「罪人がひとりでも悔い改めるなら……大きいよろこびが,天にあるであろう」と言われました。2

今日のわたしの願いは,喜びと悔い改めの結びつきが強化されることです。その喜びとは,より具体的に言うと,悔い改めるときにもたらされる喜びです。そしてキリストのみもとに来て,キリストの贖いの犠牲を自分の生活に受け入れるよう人々を招くときに味わう喜びの気持ちのことです。

わたしたちが存在するのは喜びを得るためである

聖文の中での喜びという言葉には概して,一時的な満足感や幸福感以上の意味があります。この文脈での喜びは神の属性であり,わたしたちが神のみもとに戻って住むときにその完全さが見いだされます。3それは,この世のどんな喜びや慰めよりも深遠で,崇高で,永続する,人生を変えるものです。

わたしたちは喜びを享受するよう創造されました。それは愛にあふれた天の御父の子供としてのわたしたちの行く末です。主は御自身の喜びをわたしたちに分かち合いたいと望んでおられます。一人一人に用意された神の計画は,「喜びを得る」ためであると,預言者リーハイは教えました。4堕落した世に住んでいるわたしたちには,永続する喜び,永遠の喜びは手の届かないものと思うことがよくあります。しかしリーハイはそのすぐ後の節で,「〔わたしたちを〕堕落から贖うためにメシヤが〔来られ〕」たと続けています。5救い主イエス・キリストによる贖いが喜びを可能にします。

福音のメッセージは希望のメッセージで,「大きな喜び〔の知らせ〕」6であり,すべての人がこの世で平安と喜びを,次の世では満ちみちる喜びを受けることができる手段です。7

この喜びは,忠実な者に与えられますが,受けるには代価が伴います。喜びは安価で手に入るものでも,何気なく与えられるものでもありません。それは「〔イエス・〕キリストの尊い血」によって買われたのです。8真の敬虔な喜びの価値をほんとうに理解していれば,この世の所有物を犠牲にすることや,その喜びを受けるために必要な生活を変えることをいとわないでしょう。

モルモン書の中の権力を有しながらも謙遜であった王は,これを理解し,「この悪い霊をわたしの胸からことごとく取り除いて,神から生まれ,神の御霊を受けて,喜びに満たされ〔るために,何をすればよいか〕」と尋ね,「見よ,この大きな喜びを得るために,わたしは持ち物をすべて捨てよう。 まことに,王位も譲ろう」と言いました。9

王の質問に答え,宣教師のアロンは,「あなたがこのことを願い,神の御前にひれ伏すならば,まことに,あなたの罪をすべて悔い改め〔なさい〕」10と言いました。悔い改めは喜びへの道です。11なぜなら,その道が救い主イエス・キリストに通じているからです。12

喜びは心からの悔い改めを通してもたらされる

悔い改めを喜びへの道と考えるのは矛盾している,と思う人がいるかもしれません。悔い改めは,時につらく,困難なものです。自分の考えや行動の一部,または信じていることの一部が間違っていたことを認めることが求められます。悔い改めには,時に不快感を伴う変化も必要です。しかし,喜びと心地よさは同じではありません。自己満足の罪も含め,罪はわたしたちの喜びを制限します。

詩篇作者は述べています。「夜はよもすがら泣きかなしんでも,朝と共に喜びが来る」と。13罪を悔い改めるとき,その後に続く大きな喜びに目を向けなければなりません。夜が長く思えても,朝は来ます。救い主の贖罪がわたしたちを罪と苦しみから解放してくださる際に感じる平安と栄えある喜びは,何と美しいことでしょう。

ほかにあり得ないほど麗しく,また快い喜び

モルモン書のアルマの経験について考えてみてください。彼は「永遠の苦痛に責めさいなまれ」,罪のために心に「ひどい苦しみを受け」ました。しかし,憐れみを求めて救い主に頼ると,彼は「苦痛を忘れることができ〔ました〕。」14

「おお,何という喜びであったことか。何という驚くべき光をわたしは見たことか。……ほかにあり得ないほど麗しく,また快い喜びを味わった」と,彼は述べています。15

悔い改めを通してイエス・キリストのみもとに来る人々には,このような喜びが与えられます。16ラッセル・M・ネルソン大管長は次のように教えています。

「悔い改めはイエス・キリストの贖いの力に手を伸ばせるようにしてくれます。……

悔い改めを選ぶとき,わたしたちは変わることを選びます。自らを救い主に委ねて,最高の自分に変えていただくのです。わたしたちは霊的に成長し,喜びを受けることを選びます。それは主による贖いの喜びです。悔い改めを選ぶとき,もっとイエス・キリストのようになることを選んでいるのです。」17

悔い改めは,聖霊の影響を受けられるように心を備えるものであり,喜びをもたらします。聖霊に満たされることは,喜びに満たされることを意味します。喜びに満たされることは,聖霊に満たされることを意味します。18御霊を生活に取り入れようと日々努めるとき,わたしたちの喜びは増します。預言者モルモンはこう述べています。「彼らは断食して祈り,ますます謙遜になり,ますますキリストを信じる信仰を確固としたものにしたので,喜びと慰めで満たされ……た。」19主は,御自身に従うすべての人に,「わたしはあなたにわたしの御霊を授けよう。わたしの御霊はあなたの思いを照らし,あなたの霊に喜びを満たすであろう」20と約束しておられます。

人々が悔い改めるのを助ける喜び

心からの悔い改めによりもたらされる喜びを感じた後にその喜びをほかの人と分かち合いたいと思うのは,ごく自然なことです。そうするときに,わたしたちの喜びは増し加わります。それがまさにアルマに起こったことです。

アルマはこう述べています。「神の御手に使われる者となって幾人かでも悔い改めに導けること,これがわたしの誇りであり,喜びである。

見よ,わたしは,多くの同胞が心から悔いて,主なる神のみもとに来るのを見るとき,喜びに満たされる。またそのとき,わたしは主がわたしのために行ってくださったこと,……まことに,わたしはそのときに,主がかつてわたしに憐れみ深い御腕を伸べてくださったことを思い出す。」21

人々が悔い改めるのを助けることは,救い主に対する感謝の気持ちを自然に表す行為であり,大きな喜びの源です。主は次のように約束しておられます。

「あなたがたは……一人でもわたしのもとに導くならば,わたしの父の王国で彼とともに受けるあなたがたの喜びはいかに大きいことか。

さて,あなたがたがわたしのもとに導い〔た〕……一人の人とともに受けるあなたがたの喜びが大きいならば,もし多くの人をわたしのもとに導くとすればその喜びはいかに大きいことか。」22

人が悔い改めるとき,主の喜びはいかに大きいことか

わたしたちが生活の中で主の贖いの犠牲による祝福を受ける度に,救い主が感じられるに違いない喜びを想像することは,助けになります。23ネルソン大管長が引用したように,24ヘブル人への手紙の中で使徒パウロは,次のような洞察を分かち合っています。「いっさいの……からみつく罪とをかなぐり捨てて……信仰の導き手であり,また完成者であるイエスを仰ぎ見〔よう〕。彼は,自分の前におかれている喜びのゆえに,……十字架を忍び,神の御座の右に座するに至ったのである。」25わたしたちはしばしばゲツセマネとカルバリでの苦痛と苦しみについて話します。しかし,救い主が命をささげられた際に予期しておられたに違いない大きな喜びについて話すことはめったにありません。明らかに,主の苦痛と苦しみはわたしたちのためで,わたしたちが神のみもとに戻る喜びを味わえるようにするためでした。

古代アメリカの人々を教えられた後,救い主は,彼らへの深い愛を込めてこう言われました。

「さて見よ,あなたがた……についてのわたしの喜びは,大きくて限りがない。また父も,……すべての聖なる天使たちも喜んでいる。……

……〔あなたがた〕のことでわたしは満ちみちる喜びを得ている。」26

キリストのもとに来て,キリストの喜びを受ける

兄弟姉妹の皆さん,最後に,神聖な賜物と思っている個人的な証を分かち合います。イエス・キリストは世の救い主,贖い主であられます。主がわたしたち一人一人を愛しておられることを知っています。主の唯一の焦点,「〔主の〕業……〔主の〕栄光」27は,わたしたちが主にあって満ちみちる喜びを受けられるようにすることです。日々悔い改めてイエス・キリストのみもとに来ることこそが,想像を超えるほどの喜びを受ける方法であると,証します。28そのためにわたしたちはこの地上にいます。その理由で,神は偉大な幸福の計画をわたしたちのために備えられたのです。イエス・キリストは確かに,「道であり,真理であり,命であ〔られます〕。」29そして,「このほかには人を神の王国に救う道も名も天下に与えられて〔いません〕。」30このことを,イエス・キリストの聖なる御名によって証します。アーメン。