また会う日まで
主の教会の神聖な特質
「主はまどろみも眠ることもされない」『聖徒の道』1983年7月号,8-12参照
神は,神御自身の偉大な計画に基づいて御業を進めておられます。
この御業を進める組織と指導者の召しについて,神の力が働いていることは明白です。中央幹部は皆,人間であり,それぞれ異なった人格を備えています。各人がいろいろな経験や境遇を土台にして,それぞれの責任に生かしています。教会の管理評議会において討議しなければならない事項が出てくると,それぞれが自由に自分の見解を述べます。こうした興味深い過程を通して御業が進められるのを目にする人は,聖なる御霊の力が幹部の兄弟たちに力を及ぼしているのを見て感動します。最初にあった見解の相違は決して大きなものではありませんが,やがて一つに溶け合い,一致を見るのです。「わたしの家は秩序の家であ〔る〕」と主は言われました(教義と聖約132:8参照)。御業におけるこの過程を見るにつけ,わたしはいつも自分の信仰を新たにしています。……
大管長がほとんどの場合高齢であることに懸念を示す人たちがいますが,わたしはそれに対して,「何という祝福でしょう!」と答えます。この神権時代の業は,最初,預言者ジョセフ・スミスの尽力があって進められました。当時ジョセフ・スミスは若くて精力的であり,その時代の慣習に捕らわれない考え方をする人でした。主は御業を開始されるに当たって,新しい湿った粘土のように彼の若い心を練られたのです。
ジョセフの後継者が,教会員を率いて荒れ野を渡り,新しい地を開拓するというとてつもない責任を負ったのは,比較的若いときでした。
しかし,わたしたちの教義の土台は今しっかりと据えられており,わたしたちは一つの民として揺るぎなく築き上げられています。少なくとも主が次の移住を命じられるまでは,そのような状況にあります。わたしたちには革新は必要ないのです。必要なのは神が語られた原則に従う献身です。また神から任じられた大管長に忠実であることです。大管長はわたしたちの預言者,聖見者,啓示者です。わたしたちが預言者を頂くにふさわしい生活をする限り,決して預言者が取り上げられることはありません。預言者は若くなくてもよいのです。大管長はもっと若い人たちを世界中に送って奉仕の業を進めており,今後もそのように行うことでしょう。大管長は管理大祭司であり,聖なる神権の全ての鍵を持つ人であり,神から神の民に伝えられる啓示の声となる人です。
「亀の甲より年の功」という古いことわざもあることです。
わたしは次のことを知っており,心にとても深い安心感があります。すなわち,しばらくの間,わたしたちの大管長となる人は,鍛えられ,訓練され,試練と試みを受けてきた人であり,御業に対する忠実さと大義における誠実さは奉仕という炉で鍛え上げられ,信仰は成熟しており,長い年月をかけて神に近づいてきた人であることでしょう。……
啓示された原則にしっかりとつかまっているならば,わたしたちは将来のことを恐れる必要はありません。