「敵の中に神の顔を見る」『リアホナ』2022年3月号
敵の中に神の顔を見る
対立を克服することについて創世記から学べるこれらの教訓は,わたしたち自身の人生の規範とすることができます。
対立の調停人として,わたしはどのように対立に変化をもたらし和解を促すかに関して,新約聖書に記されているイエス・キリストの模範と教えを調べることによって,これまでに多くの知恵を拾い集めてきました。しかし,新約聖書だけが,この仕事を続ける中でわたしを導いてくれてきた聖典ではありません。旧約聖書は,わたしたちが破壊的な対立に陥ったときに助けとなる,驚くほど深い数々の洞察を与えてくれています。
破壊的な対立とは何でしょうか。相手と協力して問題を解決することができず,相手や自分自身を傷つけてしまうことになる場合,それは破壊的な対立です。
破壊的な対立には,対立を予期して,また対立の結果として感じる痛みへの恐れ,愛してもらえないことや,自分が望むのと異なる見られ方をされることへの恐れ,さらには,わたしたちを悩ましている問題の解決策を見つけられないことへの恐れが伴います。この恐れに捕らわれてしまうと,もはや自分には直面している問題を解決する力はないと感じ,絶望,恥,無力感といった感情を覚えることも少なくありません。
大半の人はそうした対立を危険なものと感じ,対立を遠ざけるための方法として,回避,順応,競争といった,役に立たない対立の方法に頼ることになります。残念ながら,破壊的な対立において,こうした方法はどれも実際にはうまくいきません。
確かに,争いは避けるべきです(3ニーファイ11:29参照)。しかし,決して対立している相手を避けたり,見限ったり,攻撃したりしてはいけません。その代わりに,わたしたちは対立している相手を愛する方法を学ぶ必要があります。そのためには,敵に対して慈愛,すなわちキリストの純粋な愛を実践する必要があります(モロナイ7:47参照)。
イエスは,自分を愛する人を愛することは容易であると教えられました。また,次のように言っておられます。「しかし,わたしはあなたがたに言う。敵を愛し,迫害する者のために祈れ。」(マタイ5:44)救い主はわたしたちに,御自分が愛するように愛し,御自身のように完全になることを求めておられます(ヨハネ13:34;3ニーファイ12:48参照)。これは,たとえその愛が危険をはらんでいるように思われるときでも,進んで人を愛することを意味するかもしれません。人は自然と危険を回避するものですから,躊躇を感じることもあるでしょう。しかし,自分を傷つける可能性がある相手を愛そうと決めることで,わたしたちは恐れを押しのけて,慈愛に満ちた者となることができます。
このような愛においては,対立に直面しながら恐れないことが求められます。この愛はわたしたちに,対立している相手に対して次のような態度で心を開くことを求めます。「寛容であり,……情深い。……自分の利益を求めない,いらだたない,恨みをいだかない。……そして,すべてを忍び,すべてを信じ,すべてを望み,すべてを耐える。愛はいつまでも絶えることがない。」(1コリント13:4-5,7-8)慈愛とは,対立の相手が同じようにするという保証のないままに,こうした愛を示すことです。
愛があるとき,わたしたちは自分と対立している兄弟姉妹のことをはっきりと見ることができ,彼らがわたしたちのことをどう思っていようとも,彼らの必要や望みがわたしたち自身のそれと同じくらい大切になります。彼らの必要と,わたしたち自身の必要の両方を満たす解決策を見つけるために,何でもするようになります。
旧約聖書の二つの話に,この愛のすばらしい模範を見ることができます。
エサウとヤコブ
創世記第25章には,イサクの息子であるエサウとヤコブという兄弟の間で起こった家族内の対立の話が出てきます。エサウはヤコブに,1杯のあつものと引き換えに自分の受け継ぎを売り渡しました(創世25:30-31参照)。その後,ヤコブは母親の勧めに従って,エサウになりすましてイサクの最後の祝福を受けます(創世27:6-29参照)。
エサウはヤコブを憎み,弟を殺すことを誓います。ヤコブは逃れて,おじのラバンのところで暮らします(創世27:41-45参照)。最終的に,おじとの間の問題に直面したヤコブは,家に戻ることを余儀なくされます(創世31章参照)。ヤコブは,家に戻ればエサウと向き合わなければならないと知っていました。エサウは自分よりも大きな軍勢を持っています。ヤコブは自分と家族の命が危険にさらされていると感じました(創世32:7-8参照)。
いよいよ互いに顔を合わせるという日,ヤコブはたくさんのやぎ,らくだ,牛,羊,ろばを,和解のための贈り物として送りました。そしてヤコブは,7度身をかがめてから兄に近づきました。エサウの反応は,ヤコブが思ってもいなかったものでした。エサウは涙を流して弟を抱き締め,和解のための贈り物など必要ないと言いました。
ヤコブはエサウの愛に心を動かされ,こう言いました。
「『いいえ,もしわたしがあなたの前に恵みを得るなら,どうか,わたしの手から贈り物を受けてください。あなたが喜んでわたしを迎えてくださるので,あなたの顔を見て,神の顔を見るように思います。
どうかわたしが持ってきた贈り物を受けてください。神がわたしを恵まれたので,わたしはじゅうぶんもっていますから』。こうして彼がしいたので,彼は受け取った。」(創世33:10-11)
平和に暮らすために必要な3つの要素
ヤコブがこの話において体現している愛の規範は,わたしたちが不当に扱ってしまった人,あるいはわたしたちを不当に扱った人と和解するよう勧める最も効果的な方法だとわたしが考えるものです。
詩篇85:10には,和解の条件が次のように記されています。「いつくしみと,まこととは共に会い,義と平和とは互に口づけし……。」ヤコブとエサウの和解の行動は,詩篇に見られる条件を満たしています。
ヤコブとエサウにとって,互いは敵ではなく兄弟であるという真実を認めるには勇気が必要でした。互いを赦すには憐れみが必要でした。ヤコブが自分に与えられた恵みの一部をエサウに差し出すには,義,つまり自分や相手が犯した過ちを正すための公正な報いが必要でした。これら3つの要素がそろったとき,二人は平和に暮らすことができたのです。
わたしたちは自分自身の生活の中で,この規範に従うことができます。
破壊的な対立に陥っているときには,対立への恐れと相手への恐れから,わたしたちは動けなくなってしまったり,物事を良い方向ではなく悪い方向へ向かわせる行動をしてしまったりします。破壊的なサイクルを反転させるために何をしても効果はないと考えてしまうことがよくあります。冷笑的になって,相手が変わればいいと考えたりします。
しかし,ヤコブの模範は,そのような対立を抜け出す方法も示しています。ヤコブは兄への恐れと,兄と対立することへの恐れに向き合いました。ヤコブはこのとき,「自分を守る」ことよりも「自分たちを守る」ことを考えて,兄に向き合い,自分が犯したすべての間違いに対して,真実を示し,公正な報いを受けようとしたのです。かつてはヤコブを殺すことを固く決意していたエサウの心は和らぎ,再び憐れみと平安が戻ってきました。ヤコブは敵を愛する方法を見いだし,そのように愛することによって,自分を見詰め返す顔に「神の顔」を見たのでした。
こうした方法で対立に対処することに不安を感じるかもしれませんが,そのような対立を変えていくためには,ほかの何よりもはるかに効果的なのです。キリストのような愛を持つとき,自分が苦しみながら向き合っている人たちの真の姿を見る心のゆとりが生まれ,そのような見方が自分のことも相手のことも根本的に変えてくれるのです。
ヨセフと兄弟たち
ヤコブの一世代後には,ヤコブの末の息子ヨセフに,力強い愛のもう一つの模範を見ることができます。
ヨセフは幼いころ,嫉妬深い兄たちに奴隷として売られます。エサウと同じように,ヨセフの兄たちは父親がえこひいきをして,ヨセフばかりが好かれていると感じていたのです。兄たちの悪意によって,ヨセフは非常に苦しみました。ヨセフは何年もの間,家族と引き離され,ついには僕となり,一時は牢獄に入れられたこともありました。最終的に,ヨセフは主の助けを得て逆境を乗り越え,エジプトの強力な統治者となりました(創世37-45章参照)。
兄たちもまた苦しみを味わい,飢饉のさなか,飢えと敗北感にさいなまれながらエジプトにやって来ます。ヨセフに会ったとき,兄たちはそれがヨセフであることに気づかずに助けを請い願います。
ヨセフには,兄たちに公正な報いを科すために彼らを牢に入れる権利がありました。兄たちはそれほどのことをしたのです。ヨセフはしかし,恵みを働かせ,彼らを赦し,愛することを選びました。
「わたしに近寄ってください」とヨセフは言いました。「彼らが近寄ったので彼は言った。『わたしはあなたがたの弟ヨセフです。あなたがたがエジプトに売った者です。
しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも,悔むこともいりません。神は命を救うために,あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです。』」(創世45:4-5)
ヨセフは兄たちを赦しただけでなく,自分たちの対立に建設的な目的を見いだしました。ヨセフはあらゆるものの中に神の御手があることを認めて,次のように言いました。自分たち全員が苦しみを堪え忍ぶことになったけれども,「神は,あなたがたのすえを地に残すため,また大いなる救をもってあなたがたの命を助けるために,わたしをあなたがたよりさきにつかわされたのです。」(創世45:7)
繰り返しますが,わたしたちが次のことを認めるとき,同様の規範をわたしたちの人生に根付かせることができるでしょう。すなわち,もし協力して解決策を見いだそうと努めるなら,対立の痛みは実際には家族やコミュニティーを強める結果へとわたしたちを導いてくれるということです。
だれもが対立を経験します。それはつらいものです。時にはひどく傷つくこともあります。対立の渦中にある人が感じている痛みに,わたしはいつも畏怖の念を覚えます。愛する人と対立しているときにはなおさらです。しかし,その痛みと恐れが物語の結末である必要はありません。
わたしたちはヨセフと同じように,対立と,自分が対立している相手について,違った見方をすることを選ぶことができます。怒りや恨みや非難する気持ちを捨て,敵を受け入れることを選ぶことができます。
怒りよりも愛を選び,ヤコブとエサウ,ヨセフとヨセフの兄たちのように,わたしたちの敵はわたしたちの兄弟姉妹であると悟ることができます。敵との和解に努めることで,わたしたちもまた,神の顔を見ることができるのです。