第28課
選択の自由:神よりの賜物
目的
選択の自由の原則について理解を深め,賢明な選択をすることの重要性について学ぶ。
導入
ニーファイの弟ヤコブは,『モルモン書』の中で次のように宣言している。「それゆえ,心を喜ばせなさい。そしてあなたがたは,自分の思うとおりに行動すること,すなわち永遠の死の道を選ぶことも,永遠の命の道を選ぶことも自由であるのを覚えておきなさい。」(2ニーファイ10:23)
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わたしたちに選択する力を与えるものは何だろうか。例えば,なぜバプテスマを受ける決心をしたのだろうか。また,着る物や,学校や,職業を自由に選ぶことができるのはなぜだろうか。
その答えは,神から授けられた選択の自由という
選択の自由-永遠の律法
選択の自由は永遠の律法である。ブリガム・ヤング大管長は,選択の自由について次のように教えている。
これは永遠の過去から永遠の未来にわたって常に存在する律法である。すべて英知を有する生命は,選択する力を持たなければならない。」(Discourses of Brigham Young, sel. John A. Widtsoe,1954年,62)
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一人の生徒に,モーサヤ4:1-4を読ませる。
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この出来事が起こったのはいつか。何が起こったのだろうか。
わたしたちはこの地上に来る前に,天上の会議に参加した。その会議で,わたしたちの前に重大な事柄が提示された。それは,選択の自由という永遠の原則に関するものであった。ルシフェルと呼ばれたサタンは,わたしたちの選択の自由を奪おうとした。しかし,イエス・キリストは御父の
ウィルフォード・ウッドラフ大官長は,次のように述ベている。「この選択の自由は,神の支配と統治の下で人類に受け継がれてきた生得権である。主は創世の以前より最高の天においてそれを有しておられ,ルシフェルと彼に従う者どもの攻撃から守ってこられた。……この選択の自由の効力によって,わたしや皆さんをはじめ全人類が自分の行動と,生活と,行く末に対し責任を持つ者となった。」(Discourses of Wilford Woodruff, sel. G. Homer Durham,1946年,8—9)
選択の自由の行使
この生涯で選択の自由を行使するには,ある事柄が必要である。第1にわたしたちは善悪に関する知識が必要である。第2に選ぶ自由がなければならない。第3に選択の自由を行使した後には,選択の結果がなければならない。
それぞれについて話し合いながら,黒板に次のように書く。「善悪の知識,選ぶ自由,選択の結果」
善悪の知識
救い主の公正な裁きを受けるためには,わたしたちは考え,推論し,選ぶことができなければならない。善悪を識別し,自分の行動の結果を認識して,自分が行っていることを理解することが必要である。もし年若いなどの理由で善悪を識別できなければ,識別できる人と同じ規準で裁かれることはない。
そういうわけで,子供は8歳になるまで自分の選択に対する責任を問われないと,主は述べておられる。わたしたちは8歳で責任を負う年齢となる(教養と聖約68:25-27参照)。すなわち8歳以上になると,精神的な障害があって自分の行動に責任を持てない場合を除き,すべての行いに責任を負わなければならない。
預言者モルモンは次のように説明している。「幼い子供たちは,罪を犯すことができないので健康である。……幼い子供たちは悔い改めることができないので,幼い子供たちへの神の清い
また,モルモンは「律法のない者たち」は「キリストによって生きている」と,述べている(モロナイ8:22)。すなわち,福音を教えられなかった人々や,理解する能力がなかった人々は,福音に従って生活するようには求められない。そのような人々は,福音が教えられるまで,あるいは理解できるまで責任を問われないのである。
選ぶ自由
選択の自由を行使するには,選ぶ機会が必要である。選ぶ能力があっても選ぶ事柄が何もなければ,選択の自由はあり得ない。言い換えればわたしたちの前に選択の機会がないかぎり,選ぶことはできないのである。選択の自由を使う最も大いなる機会は,善と悪の間の選びである。そのために神はサタンが善に反抗するのを許された。わたしたちがサタンの誘惑に従うと,選択の範囲が狭められる。悪を選ぶ度に,何らかの自由が失われていく。自由は善を選ぶことによってのみ拡大されるのである。
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視覚資料28-a「危険,遊泳禁止」を見せる。
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割り当てておいた生徒に,「危険,遊泳禁止」の標識について話をさせる(「教師の準備」参照)。
主は,わたしたちが選択するときに善悪両方の影響を受けることを知っておられた。善と悪の間の衝突がなければ,選択する機会はなく,選択の自由は存在しないであろう。そこで,主は従うべき原則と,律法と,戒めとを授けられた。一方サタンは,わたしたちを誘惑し,不従順な道を歩ませようとする。
主はこう言われる。「心をつくし,精神をつくし,思いをつくし,力をつくして,主なるあなたの神を愛せよ。」(マルコ12:30)そして,サタンは詰まるところ,このように暗示する。「なぜ神を愛するんだ?なぜ神を無視しないんだ?」サタンは,神などいないとほのめかすことさえある。
「安息日を覚えて,これを聖とせよ。」(出エジプト20:8)これは主の言葉である。それに対してサタンは次のようにささやきかける。「安息日はレクリエーションの日としなさい。この日に仕事をしないで教会へ行くことに,どれほどの価値がある。」
主は言われる。「あなたの父と母を敬え。」(出エジプト20:12)サタンは両親に従わないように誘惑して言う。「自分の人生なんだから,好きなように生活することだ。親がくれそうなものは何もかも手に入れておけ。やがて年老いた両親は,だれかが面倒を見てくれるさ。」(カール・W・ブーナー,“Who’s on the Lord’s Side?” Improvement Era,1961年6月号,402)
スペンサー・W・キンボール大管長は,宗教に関する決断を下せずに思い悩む一人の青年に手紙を書いた。キンボール大管長は,この青年が選択の意味することをはっきりと認識するように望んでいた。
「愛するジョンヘ,
あなたが福音の真理に反対していることを,わたしは非常に心配しています。
あなたの意志に反してあなたを説得することはできません。……わたしは仮にお手伝いができるとしても,あなたの考えを無理に変えさせようなどというつもりはありません。なぜなら選択の自由は神の基本的な律法であり,一人一人が自分の選びに責任をとらなければならないからです。しかし一方,助けを必要としている人によい感化を与えるために各人がその本分を尽くさなければならないことも確かです。」(「絶対的な真理」『聖徒の道』1979年7月号,1)
選択の結果
わたしたちは自由に選ぶことはできても,行動の結果を選ぶことはできない。正しい選択は良い結果を生み,誤った選択は悪い結果をもたらす。『モルモン書』の預言者サムエルは次のように述べている。
「神はあなたがたが善悪をわきまえられるようにしてくださり,また,あなたがたが生でも死でも選べるようにしてくださった。あなたがたは善を行って,善であるものに回復される。言い換えれば,あなたがたに回復された善であるものを持つことができる。また,あなたがたは悪を行って,あなたがたに回復された悪であるものを持つこともできるのである。」(ヒラマン14:31)
この選択の自由の原則は,刈り入れの律法に似ている。人は何であれ自分のまいたものを刈り取るのである(ガラテヤ6:7-8参照)。農民はこの律法に従って生活している。選んだ種の種類が,収穫する実を決定する。小麦の種子をまけば,トウモロコシではなく小麦を刈り取る。植えておいた種の世話をしないで,豊かな収穫を望むことはできない。
人生においても,農業と同じように,結果は様々な選択と直接結びついている。選択をするときは,その選択の結果を受け入れなければならない。中には神の裁きを受けるまで,自分の選択がもたらす総体的な結果に気づかない人もいる。しかし,多くの場合,選択の影響はすぐに表れてくる。例えば,わたしたち教会員はバプテスマを受け,聖霊の賜物を授かっている。聖霊を
青年が知恵の言葉を破った場合,その行為のもたらす結果は何だろうか。(神権の昇進を受ける資格がなくなる,御霊が退く,伝道に出る資格がなくなる,人体に有害なものを常用するようになるかもしれない。)
父親が子供に福音を教えることを怠った場合,どのような結果がもたらされるだろうか。(家庭の中の愛が冷える,子供たちが善悪を正しく区別できなくなる,父親は自分の子供を失う,子供たちの進歩が遅れる)
結果がすぐにもたらされるか,あるいは将来においてもたらされるかにかかわらず,選択の自由をどう使うかがわたしたちの生活に影響を与えている。正しい選択をするときに受ける祝福は,そのときまたは将来における結果を何ら恐れる必要がないということである。これは賛美歌「正しかれ」の主題である。
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賛美歌「正しかれ」151番を歌う。
わたしたちは自分の選択に責任がある
ジョセフ・F・スミス大管長はこのように述べている。「神はすべての人に選択の自由を与え,神に仕えるか仕えないか……いずれをも選ぶ特権をわたしたちに与えてくださった。……しかし神は,わたしたちがこの選択の自由をどのように行使したか,その責任を将来厳格に問われることだろう。カインに言われたように,わたしたちにも次のように言われることだろう。『正しい事をしているのでしたら,顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら,罪が門口に待ち伏せています。』(創世4:7)(『福音の教義』47)
リーハイは息子のヤコブに,選択の自由についてこう説明している。「そのため,人は……すべての人の偉大な
やがてその日が来ると,わたしたちは一人一人神の前に立って裁きを受ける。そこで,自分の行った選択と管理の職について報告し,それから神の裁きを受ける。その裁きは神の愛と天の律法に基づくもので,正義と憐れみとに満ちている。アルマは次のように述べている。
「人々が自分の行いに応じて裁かれること,そして現世での彼らの行いが善く,心の望みも善かったならば,彼らが終わりの日に善なるものに回復されることは,神の正義にとって必要である。
また,彼らの行いが悪ければ,それらの行いは災いとして彼らに回復される。」(アルマ41:3-4)
わたしたちは自由に行動できるが,その行動に対して責任を取らなければならない。行動は選択の結果であるから,正しい選択をすることが重要である。それには,イエス・キリストと義にかなった
エジプトに連れ去られたヨセフは,パロの役人で侍衛長であったポテパルに仕えることになった。ヨセフは主に従う道を選んだので,主の恵みを受けた。ポテパルは,ヨセフのすることがすべて栄えるのを見て,持ち物をすべてヨセフにつかさどらせた。主はヨセフのゆえにポテパルの家を恵まれたので,主の恵みは彼の家と畑とにあるすべての持ち物に及んだ。
しかし,この間にポテパルの妻がヨセフに言い寄るようになった。彼女はヨセフを誘惑して
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ヨセフは姦淫に関する神の律法を知っていただろうか。ヨセフはどのような選択ができただろうか。実際にどのような選択をしただろうか。
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一人の生徒に,創世39:7-12を読ませる。
この誘惑を受けたときに,ヨセフは自分に大きな信頼を寄せている主人について考えたが,さらに大切なことは,主に従うという約束と救い主を心に思い浮かべたことである。ヨセフは,終わりの日に神に対して申し開きをすることを知っていた。この知識が,ポテパルの妻の誘惑をはねつける力となった。ヨセフは神に従う方を選んだのである。
ヨセフを誘惑しようとする彼女の試みは,一度はねつけられてもやまなかった。彼女は毎日言い寄ったが,ヨセフは聞き入れなかった。試みがことごとく失敗に終わって怒ったポテパルの妻は,自分の犯した罪でヨセフを訴えた。その結果,ヨセフは獄に捕らえられた。
しかし,「主はヨセフとともに」おられた。ヨセフが主に従ったからである。結局,ヨセフは獄から解放されて,エジプト全国のつかさとなった(創世39-41章参照)。
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誘惑を受けたときに,ヨセフは何を思い浮かべただろうか。選択の自由を正しく行使するうえで,ヨセフの模範はどのように役立つだろうか。
まとめ
デビッド・O・マッケイ大管長は次のように述べている。
「生命それ自体に次いで,神から人に授けられる最大の賜物は,人生を思うがままに生きる権利である。選ぶ自由は,この世のいかなる財産にも勝る宝である。それは,人が霊において生得する権利であり,すべての正常な人に与えられる神の賜物である。……人類は,ほかのいかなる生物にも与えられなかった特別な賜物を受けている。神が選択の力を与えてくださったのである。創造主は人類に対してだけ次のように語られた。『あなたは自分で選ぶことができる。それはあなたに任されているからである。』(モーセ3:17)神より授けられたこの選択の力なしには,人類の進歩はあり得ないのである。」(“Man’s Free Agency–An Eternal Principle of Progress,” Improvement Era,1965年12月号,1073)
進歩成長するためには選択の自由が必要である。しかし,その選択の自由は正しく行使しなければならない。自分の選択に対する責任を神から問われるからである。わたしたちは賢明な選択をしなければならない。そのためには,日々の生活の中で天の御父に従順になれるよう努力することである。また,祈りを通して天の御父と交わり,預言者の声に耳を傾け,聖霊の導きを受けるにふさわしく自身を保つことである。
チャレンジ
毎日行う数々の選択について考える。これまでに下した最も大切な決断とその結果について考察する。生活の中で改善したいと思う分野を一つ選び,望ましい結果をもたらす決断を幾つか下す。
参照聖句
2ニーファイ2:11(すべての物事には反対のものがある)
2ニーファイ2:27(自由と永遠の命を選ぶか,束縛と死を選ぶかは,人間の自由である)
教義と聖約58:26-29(すべてを命じられることはない)
教義と聖約101:78(罪に対する責任)
教師の準備
レッスンの前に以下のことを行う。
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『福音の原則』第4章「選択の自由」を復習する。
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一人の生徒に,あらかじめ次の話をする割り当てを与える。「サタンの誘惑に屈すると,選択の自由が制限される。次の例がそのことをよく表している。海岸に次のような看板が立っていたとする。〔『危険,遊泳禁止』〕これは自由の拘束だと考える人がいるかもしれない。しかし,ほんとうにそうだろうか。わたしたちにはまだたくさんの選択の余地が残されている。ほかの場所で泳ぐこともできるし,砂浜で貝殻を集めることもできる。夕陽を眺めることもできれば,そのまま家に帰ることもできる。また,警告を無視してその場所で泳ぐこともできるのである。しかし,〔警告を無視する方を選んで,おぼれてしまったら〕どうであろうか。そこにはもう選択の余地はわずかしかない。逃れようともがくか,助けを呼ぶかのどちらかである。しかし,十中八九おぼれてしまうことだろう。」(『福音の原則』20)
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賛美歌「正しかれ」151番を歌う準備をする。
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レッスンの中で話や聖句を読むよう生徒に依頼する。