第29課
安息日を聖 く保つ
目的
安息日を
導入
1930年代の合衆国は深刻な不況に見舞われ,大勢の人が失業していた。ソルトレーク・シティーのある神権者は,政府で働く仕事に就いた。給与は標準以上であり,確実な収入が約束されていた。ただ一つの問題点は,日曜日も働くように求められたことである。しかし,彼には家族の養育費が必要であった。
主は日曜日に働くことを善しとされたことはない。彼はそのことを十分承知していたが,何とか許しを得ようと主に祈った。しかし彼の場合,そのとき主から与えられた答えは,安息日に働くべきではないという気持ちだった。彼はこの仕事について妻と話し合った。その結果,日曜日に働けないことを上司に話すべきであると,二人は感じた。上司にそのことを話すと,辞めてもらうかもしれないと警告された。
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もし彼の立場にあったら,どうするだろうか。
この神権者は日曜日に働くことを断った時点で解雇された。しかし,そのすぐ後で,日曜日に働く必要のない別の仕事を見つけた。
安息日の神聖さ
創世の始めに,主は6日間で地球を造られ,7日目に休まれた(創世2:2-3参照)。そして,この日を安息日と呼ばれた。主はわたしたちに模範を示し,すべての仕事を休んで安息日を聖とされたのである。天地が据えられたときから,神はその子供たちに,7日のうちの1日を神にささげるように求めてこられた。
キリストの時代までは,週の7日目が安息日として守られてきた。しかし,キリストが復活されてからは,週の最初の日が安息日になった(使徒20:7)。その日は主が復活されたことを記念して(ヨハネ20:1参照),「主の日」とも呼ばれた(黙示1:10参照)。したがって,キリストは「安息日の主」であられる(マルコ2:27-28参照)。それゆえ,主は「わたしの聖日」として安息日を守るように命じられたのである(教義と聖約59:9-13参照)。
モーセの時代に,主は十戒の中で安息日を守る大切さを強調された。
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出エジプト20:8-11を読む。
主はイスラエルの民に,安息日は非常に重要であって,この聖日を守ることが民の忠実さのしるしになる,と言われた(出エジプト31:12-17参照)。
このほか多くの聖句の中で主が命じられるままに,人々は安息日を守り,それはキリストの時代まで続いた。その何世紀もの間に,神の導きを受けていない指導者が多くの制約を設けて,安息日にしてよいことを決めた。例えば次のようなものがあった。安息日に火をおこしてはならない。片手で解くことのできる結び目は解いてよい。1マイルまでは歩いてよい。骨折は安息日が終わったら治療してよい。
このような規則をすべて守ることは非常に難しかったので,イスラエルの民は安息日のまことの目的を忘れていった。恵みと喜びの日であった安息日が,重荷になったのである。
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今日のある人々は,どのような点で安息日のまことの目的を忘れているだろうか。
ジョージ・アルバート・スミス大管長は,安息日に対する態度について次のように説明している。「〔主〕は7日のうちの1日を聖別された。これはわたしたちに重荷を課するためではなく,生活に喜びをもたらし,家庭を家族が集まる場所にして……互いの愛をはぐくむためである。」(“Obey the Commandments,” Improvement Era,1949年1月号,9)
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安息日はわたしたちの生活にどのような喜びをもたらすだろうか。
主は,安息日を祝福してこれを聖とすると明らかにしてこられた。この日は,あらゆる重荷,心配事,仕事から離れて休む日である。また,健康,活力,慰め,霊的な喜びなど,主から与えられた多くの祝福に感謝する日である。学び,祈り,集会に出席して天の御父を礼拝し,
安息日を聖く保つ
大管長会は,安息日の活動について以下の指示を与えている。
「安息日は,単に仕事を休み,軽薄な誘いに乗って気ままに過ごすような日ではない。それは『聖なる日』『主の日』であり,礼拝と崇敬の日である。」(Church News,1959年7月11日付,3)
主は安息日について多くの規則は定めておられないが,安息日を聖く保てるように幾つかの指示をお与えになっている。
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教義と聖約59:9-13を読む。安息日を聖く保つように命じられたのはなぜだろうか。(世の汚れに染まらないようにするため。)
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「世の汚れに染まらずに自らを……清く保つ」とあるが,これは何を意味しているだろうか。
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安息日を聖く保つために何をすべきだろうか。(祈りの家へ行く,労苦を解かれてを休む,礼拝をささげる,供え物と聖式をささげる,罪を告白する,真心を込めて食物を準備する,断食と祈りを行う。)
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「礼拝」とは何か。(礼拝とは忠誠,忠実,深い愛情,崇拝を意味する)
安息日を聖く保つには,礼拝をささげ,善い行いをしてその日を過ごさなければならない。これは主の言葉から明らかである。
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「供え物」とは何か。
供え物とは,主に対する贈り物である。その中には,什分の一や献金などが含まれる。安息日はこれらのささげ物を主にささげるにふさわしい日である。
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「真心を込めて」とは,どういう意味だろうか。
「真心を込めて」とは,心からの目的を一つ持つことである。したがって「食物を真心を込めて準備する」とは,主と主の子供たちに対する愛を心に抱いて準備をすることである。
聖典や生ける預言者を通して与えられた指示のほかにも,安息日を聖く保つ方法を教えてくれるものがある。救い主の生涯について研究することである。例えば,ある安息日にイエスが会堂に入って教えておられると,手の不自由な人を御覧になった。律法学者やパリサイ人たちは,この人を
イエスは彼らの思いを知って,こう尋ねられた。「安息日に善を行うのと悪を行うのと,命を救うのと殺すのと,どちらがよいか。」そして一同を見回して,その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。その人がそのとおりにすると,その手は完全に元どおりになった。(ルカ6:6-10参照)
ほかの安息日にイエスは次のように言われた。「あなたがたのうちで,自分のむすこか牛が井戸に落ち込んだなら,安息日だからといって,すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」(ルカ14:5)このように,イエスは安息日にもしなければならない仕事があることを教えられた。スペンサー・W・キンボール大管長は次のように述べている。
「安息日でも働かなければならない人々がいることは確かである。事実,ある種の仕事,例えば病人の看護などは必要であり,安息日を聖い日とするのに役立つ。しかし,このような仕事に携わるときに考慮しなければならないのが,そのときのわたしたちの気持ちである。
富を増すために安息日に働こうとする人々は,戒めを破っている。必ずしも安息日にしなくてもよい仕事で得た金は,不浄な金だからである。」(「安息日-喜びの日」『聖徒の道』1978年7月号,5-6)
キンボール大管長が指摘するように,日曜日に働かなければならないこともある。しかしその場合,安息日の精神をもってその日を過ごすべきである。安息日を聖く保つことは,主に対する愛の表れである。また,神の慈しみに対する感謝を示すことである。安息日に行われる活動に参加するかどうか決める場合,それが安息日にふさわしいものであれ,そうでないものであれ,次の3つの質問について考えてみるとよい。
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それは善いことを行うのだろうか。
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霊的に高められるだろうか。
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イエスもなされるだろうか。
「両親がしばしば気づくことは,安息日を子供にとってすばらしい日にすれば,自分たちにとってもすばらしい日になることである。〔ある〕若い父親は……次のように述べている。『日曜日には,子供たちと一緒に過ごす時間を平日よりも多く取ります。土曜日は,いつも家の仕事に追われていますから,……子供たちをかまってやれません。でも,日曜日にわたしは妻と一緒に,子供たちのために本をたくさん読んだり,たくさん歌を歌ったりします。みんなで家の近所を散歩し,子供たちの話に耳を傾けます。……子供たちは普段よりも両親と一緒にいられるので,日曜日が大好きです。そして,わたしたち両親も,子供のためにいろいろしてやれるので,日曜日が大好きです。……』
ある母親は,多くの家族が心がけていることを繰り返して,次のように述べている。『わたしたち家族は,外部からの何ものにも家庭を乱されないようにしているだけです。日曜日には,何をするにも家族が一緒です。……
安息日を聖く保っている人はたくさんいる。
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多くの農家では,働くために与えられた6日間に作物を収穫して販売する。主の聖日には最底必要限度の雑用だけを行って,神を礼拝するという戒めを守っている。
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牛を飼っている人々は平日に牛を追い,土曜日の夜になると教会に出席するために作業を終えるか,中断する。
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繁盛している食堂の主人は,安息日に店を閉めて,教会の活動を管理している。
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食料品店の主人は,ほかの店が営業していても,安息日には休業する。
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ガソリンスタンドの主人は安息日に休業するが,平日の6日間働いて利益を上げている。
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デパートの経営者は日曜日に店を閉めて,主を礼拝する日にしている。
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薬局の主人は安息日に営業をせずに,緊急の処方
箋 だけを扱っている。 -
学生は平日に勉強している。
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工場の経営者は,安息日には仕事を休みにしている。
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猟師は平日に狩りをし,漁師は週の6日だけ漁をする。
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家族同志の集いやピクニックは平日に行う。多くの団体は,日曜日にパーティーや旅行を行わない。
これらのことを実行するには,犠牲が必要である。しかし,ほとんどすべての商売,専門職,勉学において,忠実で立派な人々が犠牲を払い,安息日を聖く保って主の戒めを守り,大きな喜びを味わっている。
レビ23:2を読む。
まとめ
主は,聖なるものを軽んじないように勧告された。主が与えてくださった最も聖なるものの一つが,主の聖日である。エズラ・タフト・ベンソン長老は次のように述べている。「安息日の目的は,霊性を高め,聖約を新たにし,礼拝し,休息を取り,祈りをささげることである。また,自身の霊を養い,神の戒めに従うことによって世の汚れに染まらないようにすることである。」(“Keeping the Sabbath Day Holy,” Ensign,1971年5月号,6)
チャレンジ
さらに霊的な安息日を過ごせるように努力する。そのために,家族を集めて,安息日の家族の行動について話し合う。安息日を聖く保つために最善の方法を探す。安息日にふさわしい行動かどうか決めるときには,以下の3つの質問について考えるように勧める。
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それは善いことを行うのだろうか。
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霊的に高められるだろうか。
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イエスもなされるだろうか。
参照聖句
ネヘミヤ13:15-21(安息目の売買)
イザヤ58:13-14(安息日に自分の楽しみを求めない)
レビ19:30(安息日を守るようにという戒め)
教師の準備
レッスンの前に以下のことを行う。
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『福音の原則』第24章「安息日」を復習する。
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レッスンの中で話や聖句を読むよう生徒に依頼する。