歴代大管長の教え
第6章:イエス・キリスト,わたしたちの救い主,贖い主


第6章

イエス・キリスト,わたしたちの救い主,贖い主

「わたしたちはイエス・キリストが神の御子であられると宣言します。主イエスがわたしたちの救いの唯一の源であられることを認めます。」

エズラ・タフト・ベンソンの生涯から

「イエス・キリストへの信仰を失ったような時期は,わたしの記憶を幾らたどってみても見当たりません」と,エズラ・タフト・ベンソン大管長は述べている。「主の生涯と死,そして復活は,現実のものとして常にわたしの心にあったように思います。あつい信仰を持つわたしの父と母は,キリストを心から信じ,キリストについて熱心にあかししていました。そのような両親の築く家庭で育ったことを,何よりも感謝しています。」1

このイエス・キリストについての証は,ベンソン大管長の人生の基盤であった。この証はベンソン大管長が優先順位を決め,決断の指針とし,試練を乗り越える際の助けとなった。また,この証を通して,現世の目的が理解でき,永遠の命の約束と祝福が成就することを確信できるようになった。

イエス・キリストの特別な証人として使徒の務めを果たしていた期間に,ベンソン大管長は救い主についてよく証を述べた。「時折『モルモンはクリスチャンなのですか』と聞かれることがあ〔る〕」のを認めたうえで,次のように証している。

「わたしたちはイエス・キリストが神の御子であられると宣言します。主イエスがわたしたちの救いの唯一の源であられることを認めます。わたしたちは主の教えに従った生活をしようと努力し,主が『王の王,主の主』として再びこの地上に来て治め,統治される日を心待ちにしています。わたしたちはモルモン書の預言者の言葉を借りて,……次のようなメッセージを伝えるものです。『全能の主であるキリストののほか,またその御名を通じてでなければ,どのような名も道も方法も,人の子らに救いをもたらすことはできない。』(モーサヤ3:17)」2

イエス・キリストの神性について宣言する際,ベンソン大管長はしばしばモルモン書を引き合いに出して語った。3「神はモルモン書を通して,わたしたちの時代にイエスがキリストであられることを示す明白な証拠を与えてくださっています」と大管長は述べている。4ベンソン大管長は,モルモン書の「おもな目的」は人々にこの真理を確信させることであると教えている。5「モルモン書の聖句のうち半分以上は主について述べたものです」と大管長は指摘している。「モルモン書の中で,主は実に100以上の呼び名で記され,それらの呼び名には,イエスの神性を示す特別な意味があります。」6

救い主についてのベンソン大管長の証から,大管長が主を個人的に身近に感じていたことが分かる。

「わたしは全身全霊を込めて,イエスを愛しています。

わたしはへりくだって証します。イエスは今でも,パレスチナのほこりだらけの道を歩まれたときと同じように,愛と思いやりに満ちた主です。そして地上のしもべたちと親しく交わっておられます。わたしたち一人一人のことを心にかけ,愛しておられます。これは確かなことです。

イエスは主として,救い主として,贖い主として,また神として,こんにちも生きておられます。

神の祝福があって,わたしたちがイエスを信じ,受け入れ,敬い,完全に信頼し,イエスに従うことができますように。」7

The resurrected Jesus Christ appearing to Mary Magdalene by the Garden Tomb.

「一人一人の人間や様々な国民にとって主の復活に勝る出来事はあり得ません。」

エズラ・タフト・ベンソンの教え

1

わたしたちに対する限りない愛のゆえに,イエス・キリストはわたしたちを肉体の死と霊の死からあがなってくださった

キリスト・イエスの生涯ほど地上に重大な影響を及ぼしてきたものはほかにありません。わたしたちはキリストの教えのない人生など想像できません。主がおられなければ,わたしたちは官能と物質主義が支配する,恐れやくらやみから生じた迷信と崇拝という幻想の中で迷うことでしょう。わたしたちはイエスの示された目標とはほど遠い状態にありますが,決してその目標を見失ってはなりません。また,イエスの教えとその生涯,死,復活なくして,光と完成に向かって進歩するのは不可能であることを忘れてはなりません。8

わたしたちのために〔イエス・キリスト〕がしてくださったことを理解し,感謝の念を抱くには,以下の大切な真理を思い起こす必要があります。

イエスは御父のこころを行うためにこの地上に来られました。

御自身が全人類の罪の重荷を負うことをあらかじめ承知のうえで来られました。

御自身が十字架にかけられることを知っておられました。

全人類の救い主,贖い主となるためにお生まれになりました。

イエスは神の御子であり,神の力を持っておられたので,御自分の使命を果たすことがおできになりました

わたしたちを愛しておられたので,御自分の使命を進んでまっとうされました。

死すべき人間の中には,迷い堕落した状態から人類を贖う力を持つ人や,自ら進んで命を捨て,それによってすべての人に復活をもたらすことのできる人はだれもいませんでした。

イエス・キリストだけが,そのような贖いという愛の業を行うことがおできになったのであり,主は進んでその業を全うされたのです。9

イエス・キリストは……あらかじめ定められていた時に,高貴な生得権を持つ者としてその神性を失うことなくこの地上に来られました。この世の母から受け継いだ人間の特質と,永遠の御父から受け継いだ神の特質と力とを兼ね備えておられたのです。

イエスはその比類ない受け継ぎにより,「肉における神の独り子」という誉れある称号を受けられました。そして神の御子として,後にも先にもだれ一人持ったことのない力と英知を受け継がれました。主は文字どおりインマヌエルであられました。それは「神われらと共にいます」という意味です(イザヤ7:14マタイ1:23参照)。

イエスは神の御子として地上に送られましたが,父なる神の計画に従って,この世のあらゆる苦難とかんなんをお受けにならなければなりませんでした。こうして主は,「試練……や飢え,渇き,疲労」を経験されることになったのです(モーサヤ3:7)。

御父のすべての子供たちの贖い主としてふさわしい者となるには,神のあらゆる律法に完全に従わなければなりません。イエスは御父の御心に従うことにより,「恵みに恵みを」受けて成長し,ついに御父の力の「完全を受けられ」ました。こうして,「天においても地においても,一切の権威を受けられた」のです(教義と聖約93:13,17)。10

イエス・キリストは神,まさしく神の御子でした。だからこそ,ほかの人々の罪の重荷を背負うことがおできになったのです。イザヤは,救い主が自ら進んでこのような犠牲を払われることを,次のような言葉で預言しました。「まことに彼はわれわれの病を負い,われわれの悲しみをになった。……彼はわれわれのとがのために傷つけられ,われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて,われわれに平安を与え,その打たれた傷によって,われわれはいやされたのだ。」(イザヤ53:4-5

あらゆる人々の罪を自ら進んでその身に負うというこの清く,私心のない行為こそがしょくざいなのです。一人の御方にどのようにして全人類の罪を負うことがおできになるのか,死すべき人間には理解できません。ただ,わたしは次のことを知っています。すなわち,イエス・キリストは確かにあらゆる人々の罪をその身に負われたということ,また,そうされたのはわたしたち一人一人に対する限りない愛があったからだということです。主はこう言われました。「見よ,神であるわたしは,すべての人に代わってこれらの苦しみを負い,人々が悔い改めるならば苦しみを受けることのないようにした。……その苦しみは,神であって,しかもすべての中で最も大いなる者であるわたし自身が,苦痛のためにおののき,あらゆる毛穴から血を流し,体と霊の両方に苦しみを受けたほどのものであった。そしてわたしは,その苦いさかずきを飲まずに身を引くことができればそうしたいと思った。」(教義と聖約19:16,18

このような激痛を伴う試練にもかかわらず,イエス・キリストはこの杯を受け,飲み干されました。わたしたちが苦しまなくてもよいように,すべての人の苦痛を代わって受けられたのです。不平を漏らすことも仕返しをすることもなく,迫害者からの辱めや侮辱を堪え忍ばれました。むち打ちにも,さらには十字架の刑という残酷極まりない屈辱にも堪えられました。11

ゲツセマネとカルバリで,〔イエス〕は無限にして永遠の贖罪を成し遂げられました。それは歴史上最も偉大な愛の行いでした。その後,主はお亡くなりになって,復活されました。

こうしてイエスは,すべての人々を肉体の死から,そして福音の律法と儀式に従う人々を霊の死から贖う,わたしたちの贖い主となられたのです。12

わたしたちは,イエスがその業をどのようにして成し遂げられたのか,この世で知ることはできないかもしれません。しかしなぜ成し遂げられたのかについては,必ず理解しておく必要があります。

イエスの行いはすべて,わたしたちに対する無私の,限りない愛に基づくものでした。13

Interior scene of the Last Supper.  Central figure, Jesus, wears a white robe with a cloth covering His head.  He holds a bowl in his right hand with is slightly raised.  To His left is a man in a red cap head turned and his hand covering his mouth.  In the shadows is a man in a dark robe and light head covering with his hand to his chin.  Next to him is a man with a curly dark hair with his hand to his chest.  Next to him is reclining man, older bearded with his hands to his chin.  Next to this figure are two men is shadow.  One with a dark beard sitting crossed legged with his hand in his lap;  the other barely visible.  Next is a man with a beard in a white robe, looking directly at Jesus.  The next man is lying on his stomach, wearing a white tunic with a blue over-robe.  He is bringing something to his mouth.  The next man has his back to the viewer, he has dark hair, a brown robe and a red shawl, he also wears a brown yarmulke.  Next is a man lying on his side in a green tunic with a blue sash.  He also wears a blue turban and lies on a striped blanket.  The next man has light hair and an off-white robe.  He reclines on his side and has an arm slightly raised.  The final man, is only visible in profile, wears a red robe.  He has dark hair and a beard.  Lower right corner reads, " Walter Rane '04" in red.

「キリスト・イエスの生涯ほど地上に重大な影響を及ぼしてきたものはほかにありません。」

2

イエス・キリストは墓から出て,こんにち,復活した者として生きておられる

歴史上最も大いなる出来事とは,最も多くの人々に,最も長い歳月にわたって影響を及ぼすものを指すのではないでしょうか。この基準で考えれば,一人一人の人間や様々な国民にとって主の復活に勝る出来事はあり得ません。

この世に生を受け,死んでいったあらゆる人々が文字どおり復活するのは紛れもない事実であって,確かに人はこの出来事に対して心を尽くして備える必要があります。人は皆,栄光ある復活を目指して歩まなければなりません。復活は現実のものだからです。

すべての人に公平に機会が与えられるという点において,復活に勝るものはありません。すべての生ける者は復活します。「アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように,キリストにあってすべての人が生かされる」のです(1コリント15:22)。

聖文には,イエスが十字架の刑をお受けになった後,3日目に大きな地震が起こったと記されています。墓の入り口の石が押しのけられていました。最も献身的に主に従っていた者たちのうち,何人かの女性が香料を携えて墓に行ってみると,「主イエスのからだが見当」りませんでした。

すると,天使が現れ,簡潔な言葉でこう言いました。「あなたがたは,なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは,ここにはおられない。よみがえられたのだ。」(ルカ24:3-6)「〔主〕は,ここにはおられない。よみがえられたのだ」というこの感動的な御告げに匹敵する言葉を,歴史の中に見いだし得るでしょうか。

主の復活という事実は,数多くの信頼できる証人のあかしに裏付けられています。よみがえられた主は幾人かの女性に姿すがたを現され,続いてエマオに向かっていた二人の弟子を,そしてペテロを,さらに使徒たちを訪れられました。「そののち」,パウロが記しているように「五百人以上の兄弟たちに,同時に現れ……,そして最後に,〔パウロ〕にも,〔現れられた〕」のです(1コリント15:6,8)。……

主の末日の証人の一人として,わたしも,今日主が生きておられることを証します。主は復活された御方です。わたしたちの主なる救い主であり,まことの神の御子であられます。この御方は栄光を身にまとい,復活された主として再臨されることを証します。その日はそう遠くありません。キリストを主なる救い主として受け入れるすべての人にとって,主の文字どおりの復活は,人の命は死をもって終わるものではないことを意味しています。主がこう約束しておられるからです。「わたしが生きるので,あなたがたも生きるからである。」(ヨハネ14:1914

主だけが復活の力を備えておられました。イエス・キリストは埋葬の後3日目に,生きて墓から出て来て,多くの人々にその御姿を現されました。……この現代にあって,〔主の〕特別な証人として召された者の一人として,わたしも皆さんに証します。イエス・キリストは生きておられます。復活体で生きておられるのです。わたしたちの主が文字どおり復活されたという真理ほど,わたしが確信を抱いている真理や事実はほかにありません。15

3

わたしたちはイエス・キリストのあかしに雄々しくなければならない

この教会の会員に与えられている最も貴い祝福は,イエス・キリストが神の御子であられ,この教会が神の教会であるという証です。証はわたしたちがこの世を去るときに携えて行くことのできる数少ない財産の一つです。

イエスの証を持つとは,聖霊を通してイエス・キリストの神聖な使命を知ることです。

イエスの証とは,主の降誕が神の力によるものであること,すなわち,主が実際に肉における独り子であられることを知ることです。

イエスの証とは,イエスが約束されたメシヤであり,地上におられた間に数多くの偉大な奇跡を行われたことを知ることです。

イエスの証とは,主が御自分の教義として定められた律法が真実であることを知り,その律法と儀式に従うことです。

イエスの証を持つとは,主がゲツセマネの園で全人類の罪を進んで御自身に受け,そのために体と霊の両方に苦しみを受け,あらゆる毛穴から血を流されたことを知ることです。主がこのすべてを行われたのは,わたしたちが悔い改めるならば苦しみを受けなくてよいようにするためでした(教義と聖約19:16,18参照)。

イエスの証を持つとは,主が復活した肉体を持って,勝利を得て墓から出て来られたことを知ることです。そして主が生きておられるので,全人類も生きるのです。

イエスの証を持つとは,主の福音の新しい神権時代を確立し,主が来られる前にすべての国民に救いがべ伝えられるようにするために,父なる神とイエス・キリストが預言者ジョセフ・スミスに実際に姿すがたを現されたことを知ることです。

イエスの証を持つとは,主が時の中間に建てられ,現代に回復された教会が,主が宣言しておられるように「全地の面に〔おける〕唯一まことの生ける教会」であることを知ることです(教義と聖約1:30)。

このような証を持つことは非常に大切です。しかし,さらに大切なのは,自分が持っている証に雄々しくあることです。

イエスの証とは,イエス・キリストの神聖な使命を受け入れ,主の福音を受け入れ,主の業を行うことです。また,ジョセフ・スミスとその後継者たちの預言者としての使命を受け入れ,彼らの勧告に従うことです。イエスはこう言っておられます。「わたし自身の声によろうと,わたしのしもべたちの声によろうと,それは同じである。」(教義と聖約1:38

最終的に日の栄えの王国の祝福を授けられる人々について,主はジョセフ・スミスにこう言われました。

「彼らはイエスの証を受け入れ,その名を信じ,そしてイエスの名によって水の中に沈められ,イエスから与えられた戒めのとおりにその埋葬にならってバプテスマを受けた者である。」(教義と聖約76:51

これらの人々はイエスについての自分の証に雄々しい者であり,主が宣言しておられるように,「信仰によって勝利を得,御父が正しくかつ真実な者すべてに注がれる約束の聖なるたまにより結び固められている者」です(教義と聖約76:53)。16

4

イエス・キリストを信じる信仰は,主を完全に信頼し,主の教えに従うことから成る

わたしたちの宗教の根本となる原則は,主イエス・キリストを信じる信仰です。なぜただ一人の御方に頼り,希望を持ち信頼する必要があるのでしょうか。この世で平安を得,きたるべき世に希望を持つために,なぜ主を信じる信仰がそれほど必要なのでしょうか。

この質問にどう答えるかによって,勇気と希望をもって楽観的に将来を見詰めるか,あるいは恐れと不安をもって悲観的に将来を見詰めるかが決まります。

わたしのメッセージとあかしは次のとおりです。イエス・キリストはわたしたちが世に打ち勝ち,人間の弱さを克服するために必要な希望と確信と強さを与えることのおできになる唯一の御方です。世に打ち勝ち,弱さを克服するには,主を信じ,主の律法と教えに従って生活しなければなりません。……

主を信じる信仰とは,イエスが生きておられることを単に認めることではありません。信仰を告白する以上のことです。

イエス・キリストを信じる信仰は,主を完全に信頼することから成っています。主は神として,無限の力と英知と愛を備えておられます。人間の問題で主に解決できないものは一つもありません。イエスはすべてのものの下に身を落とされたので(教義と聖約122:8参照),わたしたちが日常の問題を乗り越えられるよう助ける方法を知っておられるのです。

主を信じる信仰とは,たとえ自分はすべてのことを理解していなくても,主はすべて御存じであると信じることです。ですから,わたしたちは「あらゆる思いの中で」主を仰ぎ見なければなりません。「疑っては〔なりません〕。恐れては〔なりません〕。」(教義と聖約6:36

主を信じる信仰とは,主がすべての国と民を治める力を持っておられると信じることです。イエスはあらゆる悪を阻む力を持っておられます。万物は主のの中にあります。この地球は主の正当な領地です。それにもかかわらず,そこに悪が入ることを許しておられるのは,わたしたちが善と悪のどちらかを選べるようにするためです。

イエスの福音は,人間のあらゆる問題や社会の病癖を治すかんぺきな処方せんです。

しかし主の福音は生活に応用して初めて効果を表します。ですから,わたしたちは「キリストの言葉をよく味わう」必要があります。「キリストの言葉はあなたがたがなすべきことをすべて告げる」からです(2ニーファイ32:3)。

主の教えを実行しないかぎり,主を信じる信仰を示していることにはなりません。

「心をつくし,精神をつくし,思いをつくして,主なるあなたの神を愛せよ。……自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。」(マタイ22:37,39)この主の教えにすべての人が従ったなら,世の中はどれほど変わることでしょうか。

では,「こんにち,個人や地域社会や国が様々な問題に直面し,窮地に陥っていますが,どうしたらよいのですか」という質問に,何と答えればよいでしょうか。イエスは簡単な処方せんを与えておられます。

「神を信じなさい。神がましますことと,神が天と地の万物を創造されたことを信じなさい。神はすべての知恵を備え,また天と地の両方で一切の権威を持っておられることを信じなさい。さらに,人は主が理解される事柄すべては理解しないということを信じなさい。……

あなたがたは,罪を悔い改めてその罪を捨て,神のまえにへりくだらなければならないことを信じなさい。そして,神があなたがたをゆるしてくださるように真心から求めなさい。これらのことをすべて信じるならば,必ずそれを実行しなさい。」(モーサヤ4:9-10,強調付加)17

Christ (in white robes) walking along a seashore. He is beckoning to Peter and Andrew (who are on a fishing boat with other fishermen) to follow Him. The painting depicts Christ's calling of Peter and Andrew to follow Him as they would later be ordained as His Apostles.

「わたしについてきなさい。」(マルコ1:17

5

わたしたちはイエス・キリストに似た者となろうと努めるときに最高の祝福と喜びを受ける

わたしたちの人生の目的の一つは,「何であろうと,主なる〔わたしたち〕の神が命じられるすべてのことを〔わたしたち〕がなすかどうか」を見るために試しを受けることです(アブラハム3:25)。つまり,わたしたちは主のこころを学び,それを行わなければならないのです。そして,イエス・キリストの模範に従い,キリストに似た者とならなければなりません。

主よ,わたしに何をお望みでしょうか(使徒9:6参照)というパウロの言葉は,人生において欠くことのできない重要な問いかけです。……

わたしたちは,いつも主を覚え,主が与えてくださった戒めを守る,キリストに従う人をさらに多く必要としています。成功の度合いを測るための最も良い尺度は,一瞬一瞬をどれほど忠実に主の歩まれたように歩めるかです。18

信仰のためなら死をもいとわないと言いながら,信仰をしっかり実践して生きようとしない人々がいます。キリストはわたしたちのために生き,死んでくださいました。わたしたちは主の模範に従うなら,しょくざいによって,あらゆるたまものの中で最も大いなるものである永遠の命を得ることができます。永遠の命とは偉大な永遠の御方,すなわち天の御父と同じように生きることです。

キリストは「〔わたしたち〕はどのような人物であるべきか」と問いかけた後,わたしたちは主のようでなければならないと言われました(3ニーファイ27:27)。

キリストの模範に忠実に従って生きる人こそ,最も偉大な人であり,最高の祝福と喜びを受ける人です。それはこの世的な富,権力,名声とは無縁のものです。人の偉大さや,受ける祝福や喜びを決める唯一の真の試験は,どれだけ主なるイエス・キリストに近い生き方ができるかということです。イエス・キリストは正しい道であり,完全な真理であり,豊かな命であられます。

わたしたちが何にも増して絶えず心の中で繰り返すべき問いかけはこれです。「主よ,わたしに何をお望みでしょうか。」(欽定訳使徒9:6)この問いかけは,わたしたちの生活におけるあらゆる思いと行いに影響を及ぼすものです。この問いかけに対する答えは,キリストの光と聖霊を通してのみもたらされます。この両方に満たされて生活する人は幸せです。……

〔イエス・キリスト〕がわたしたちのためにしてくださったすべてのこと,また現在してくださっているすべてのことを考えると,その返礼としてわたしたちが主にささげることのできるものがあります。

キリストはその大いなる賜物として,わたしたちのために御自分の命をささげ,すべてを犠牲としてくださいました。そうであるとすれば,わたしたちは主へのささやかな贈り物として,今もまた将来も,自分の命をささげ,犠牲を払うべきではないでしょうか。19

キリストに率いられる人々は,キリストにすべてをささげます。……彼らの思いは主の御心にのみ込まれ(ヨハネ5:30参照),絶えず主に喜ばれる事柄を行います(ヨハネ8:29参照)。彼らは進んで主のために命をささげようとするだけでなく,さらに重要なこととして,主のために生きることを望みます。

彼らの家に足を踏み入れれば,壁にかけてある絵,棚に置かれた本,流れている音楽,彼らの言葉そして行いから,彼らがクリスチャンであることが分かります。彼らはいつでも,どのようなことについても,どのような所にいても,神の証人になります(モーサヤ18:9参照)。キリストを思い起こし,あらゆる思いの中でキリストを仰ぎ見ます(教義と聖約6:36参照)。キリストを念頭に置いて,心の愛情をとこしえにキリストに向けます(アルマ37:36参照)。

彼らはほとんど毎週せいさんを取って,進んで神の御子のを受け,いつも御子を覚え,御子の戒めを守ることを,永遠の御父に新たに証明します(モロナイ4:3参照)。

モルモン書の言葉を借りれば,彼らは「キリストの言葉をよく味わ〔い〕」(2ニーファイ32:3),「キリストのことを話し」(2ニーファイ25:26),「キリストのことを喜び」(2ニーファイ25:26),「キリストによって生かされ」(2ニーファイ25:25),「イエスを誇りとする」(2ニーファイ33:6)のです。換言すれば,彼らは主に自分自身をささげて,永遠の命を見いだすのです(ルカ17:33参照)。20

研究とレッスンのための提案

質問

  • わたしたちには救い主がどのようにしてしょくざいを成し遂げられたのかを完全に理解することはできないが,なぜ成し遂げられたのかは理解することができると,ベンソン大管長は教えています(第1項参照)。主が贖罪を成し遂げられた理由を理解することで,あなたの生活はどのように変わるでしょうか。

  • 第2項を研究しながら,救い主の復活の影響力について考えてください。主の復活はあなたの生活にどのような影響を及ぼしているでしょうか。

  • イエス・キリストのあかしが「最も貴い祝福」であるのはなぜだと思いますか(第3項参照)。あなたにとって,救い主の証に雄々しくあるとはどういうことでしょうか。

  • イエス・キリストを信じる信仰についてのベンソン大管長の言葉について深く考えてください(第4項参照)。キリストを信じる信仰はどのような点で「イエスが生きておられることを単に認めること」以上のものであると述べられているでしょうか。

  • ベンソン大管長は,「キリストに率いられる」人々は進んで「主のために命をささげようとするだけでなく,さらに重要なこととして,主のために生きることを望〔む〕」と述べています(第5項)。あなたにとって,救い主のために生きるとはどういうことでしょうか。

関連聖句

ヨハネ10:17-182ニーファイ9:20-2431:20-21モーサヤ16:6-113ニーファイ27:20-22モロナイ7:33教義と聖約19:1-3,16-1976:22-24信仰箇条1:3

学ぶ際のヒント

「福音を理解することによって喜びを感じると,学んだことを応用したいと思うようになります。理解していることと一致した生活をするよう努力してください。そうすることによって,あなたの信仰と知識と証は強められることでしょう。」(『わたしの福音をべ伝えなさい』19)

  1. 「復活祭の意義」『聖徒の道』1993年4月号,3

  2. The Teachings of Ezra Taft Benson(1988年),10

  3. 「キリストのみもとに来て」『聖徒の道』1988年1月号,90-92;「証」『聖徒の道』1989年2月号,90-91参照

  4. 「証」91参照

  5. 「キリストのみもとに来て」90。「神によって生まれる」『聖徒の道』1989年10月号,2も参照

  6. 「キリストのみもとに来て」90

  7. 「イエス・キリスト-救い主,あがない主」『聖徒の道』1990年12月号,8参照

  8. 「人生は永遠である」『聖徒の道』1992年4月号,4参照

  9. 「イエス・キリスト-救い主,贖い主」5参照

  10. 「イエス・キリスト-救い主,贖い主」4参照

  11. 「イエス・キリスト-私たちの神,救い主」『聖徒の道』1991年12月号,4参照

  12. “Keeping Christ in Christmas,”Ensign, 1993年12月号,4

  13. 「イエス・キリスト-救い主,贖い主」5参照

  14. 「復活祭の意義」3-5参照

  15. 「イエス・キリスト-私たちの神,救い主」4参照

  16. 「イエスの証をなすに雄々しくあれ」『聖徒の道』1987年6月号,2参照

  17. 「イエス・キリスト-救い主,贖い主」3-4,6,8参照

  18. 「主の歩みにならって」『聖徒の道』1989年1月号,6,7参照

  19. 「イエス・キリスト-たまものと私たちへの期待」『聖徒の道』1987年12月号,3,4参照

  20. 「神によって生まれる」6参照