エズラ・タフト・ベンソンの生涯と教導の業
1994年6月4日,ユタ州ローガンとアイダホ州ホイットニーを結ぶ幹線道路を通る旅行者は,珍しい光景を目にした。39キロに及ぶその道路沿いのあちこちに人が立っていたのである。翌日,人が集まっていた理由について,十二使徒定員会のロバート・D・ヘイルズ長老が説明した。人々は,ユタ州ソルトレーク・シティーで催された葬儀の後でエズラ・タフト・ベンソン大管長の遺体を故郷の墓地まで運ぶ葬列を待っていたのだった。そのときの光景についてヘイルズ長老は次のように語っている。
「アイダホ州ホイットニーまで続く葬列は,神の預言者への賛辞を表す感動的な光景でした。
教会員たちが幹線道路沿いに並び,幹線道路を見下ろす陸橋の上にも立っていました。土曜日の午後であったにもかかわらず,日曜日の晴れ着を着ている人や,車を止めて
人々が表した大管長への愛は,もちろん預言者を追悼するものだったが,それだけではなかった。預言者の勧告に従ったことで,人々の人生が変わったことが目に見えて分かった。そして,幹線道路沿いに集まった人々はさらに多くのことを表していた。エズラ・タフト・ベンソンはアイダホ州ホイットニーで生まれたときから,遺体がその地に埋葬されるまで,主の
家族の農場で学んだ教訓
1899年8月4日,サラ・ダンクレー・ベンソンとジョージ・タフト・ベンソン・ジュニアは,初めての子供を家族に迎え入れた。二人はその子を,十二使徒定員会の一員として奉仕した曽祖父エズラ・T・ベンソンにちなんで,エズラ・タフト・ベンソンと名付けた。
エズラは,その1年前に父親が農場に建てた二間しかない母屋で生まれた。長時間に及ぶ難産で,診察していた医師は,5,300グラムで生まれたその赤ん坊は生きられないかもしれないと思った。しかし彼の祖母たちはそのようには考えず,二つのたらいを用意し,片方を湯で,もう片方を冷水で満たした。そして,孫をそれぞれのたらいに代わる代わる浸し,やがてその子は産声を上げたのである。
家族や友人からしばしば「T」と呼ばれた幼いエズラ・タフト・ベンソンは,生まれた母屋を囲む農場で満ち足りた子供時代を過ごした。33年近くの間,十二使徒定員会や大管長会で一緒に奉仕したゴードン・B・ヒンクレー大管長は,幼いエズラが学んだ教訓について次のように語っている。
「彼は文字どおり,ほんとうに農場育ちの少年でした。オーバーオールを着た,日焼けした少年で,かなり若いうちから,『人は自分のまいたものを,刈り取ることになる』という刈り入れの律法を学んだのです(ガラテヤ6:7)。
エズラはその貧しい時代に,一生懸命に働かなければ雑草しか育たないことを知りました。収穫を得るためには,絶え間なく働き続けなければなりません。こうして,彼は秋も春も畑を耕し,汗水垂らしながら頑強な馬の後ろで
再び馬にまぐわを引かせて土の塊を砕き,種をまく苗床を畑に作らなければなりませんでした。植え付けは骨の折れる大変な作業で,そこにさらに水を引く必要がありました。ベンソン家の農場は乾燥した地域にあり,
わたしは心の中で,幼い少年がシャベルを肩に乗せて溝や畑を歩き,渇いた土地に命が育つための潤いが行き渡るように働いている姿を思い浮かべることができます。
間もなく,広大な土地の牧草を刈り取る季節になりました。馬が草刈り機につながれ,少年が古い鉄製の座席に登ると,馬が進むのに合わせて鎌が前後に素早く動いて5フィート(約150センチ)幅で草を刈っていきました。ハエや蚊が飛び交い,ほこりと
……その結果として,エズラの骨格がしっかりして,体がたくましくなったことは不思議ではありません。後年の彼を知る人々は,彼の手首の太さについてよく話しました。少年時代が基礎となった剛健さは,生涯にわたって大きな祝福の一つとなりました。最後の数年を除いて,エズラはとてつもないエネルギーの持ち主でした。
壮年期に入り,大統領や王と並んで歩いているときも,農場で過ごした少年時代の面影を失いませんでした。働く力が衰えることはなく,夜明けとともに起き夜遅くまで働こうという意欲をなくしませんでした。
しかし,少年時代に家で学んだことはすばらしい労働の習慣だけではありませんでした。農業を通して,ある強さを身につけていました。アダムとエバが園から追い出されたときに与えられた命令を絶えず思い起こさせられたのです。『あなたは顔に汗してパンを食べ,ついに土に帰る。』(創世3:19)土を耕す人々には自立の精神が培われました。当時は政府による農業プログラムはなく,助成金もありませんでした。四季の気まぐれな気候を受け入れなければなりませんでした。作物を駄目にする霜や季節外れの
アイダホ州ホイットニーの小さな家では,たくさんの祈りがささげられました。夜と朝には家族の祈りがささげられ,困難も好機も含めて生活できることに感謝し,一日の仕事を行う力があるように願い求めました。助けの必要な人々を忘れることもありませんでした。家族の祈りを終えて皆が立ち上がると,ワード扶助協会会長であった母親は困っている人々に分ける食糧を馬車に積ませ,長男を御者にして出かけました。これらの教訓はいつまでも忘れられませんでした。」2
忠実な両親から学んだ教訓
勤勉に働くこと,家族の一致,奉仕,福音に沿った生活について学んだ事柄は,エズラが12歳のある日,さらに大きな意味を持つことになった。教会の集会から帰宅した両親が予期しない知らせを持って帰って来たのだった。ベンソン大管長は後に次のように回想している。
「家への帰り道,手綱を取る父の脇で,母が郵便物を開けました。すると,驚いたことに,差し出し人住所がソルトレーク・シティーの『私書箱B』となっている手紙がありました。伝道の召しが来たのです。準備はできているか,意志はあるか,行くことはできるかといった質問は誰もしませんでした。ビショップは知っていたはずです。ビショップとは,祖父ジョージ・T・ベンソン,つまりわたしの父の父でした。
父と母は馬車の上で泣きながら,庭に入って来ました。これまでわたしたちが家族の中で見たことのない涙でした。当時7人いた子供全員が馬車に駆け寄り,周りを囲んで,『どうしたの』と尋ねました。
『何でもないよ』と両親は言いました。
『じゃあ,なぜ泣いているの』とわたしたちは聞きました。
『中に入ろう。説明してあげるから。』
わたしたちが居間にある長年使い慣れたソファーの周りに集まると,父は伝道の召しが来たことを話してくれました。すると母が言いました。『お父さんが伝道に出るのにふさわしいとみなされたということは,とても名誉なことよ。二人とも少し泣いていたのは,2年間会えなくなるからなの。お父さんとお母さんは,結婚以来,2日以上離れたことがなかったんですもの。それはお父さんが峡谷に,材木や
父が伝道に出ている間,エズラは家族の農場の仕事を大部分果たさなければならなかった。妹のマーガレットは後に,エズラは「少年ながらも成人男性並みに働きました」と回想している。「父の代わりを2年近く務めました。」4サラの指揮の下,エズラときょうだいは一緒に働き,一緒に祈り,父からの手紙を一緒に読んだ。75年後,ベンソン大管長は,父親が伝道に出たおかげで家族が受けた祝福を振り返ってこのように語った。
「伝道の召しを受け入れたのは,自分の家族をほんとうに愛する気持ちが父になかったからだ,と言う人が世の中にはいるかもしれません。7人の子供と妊娠中の妻を残して2年間も留守にするなど,どうしてほんとうの愛と言えるだろうか,と言うことでしょう。
しかし,わたしの父が抱いていた愛は,もっと大きなものでした。父は,『神は,神を愛する者たち……と共に働いて,万事を益となるようにして下さること』を知っていました(ローマ8:28)。家族のためにできる最高のことは神に従うことであると考えていたのです。
父がいない間,わたしたち家族は確かにとても寂しく,多くの困難にぶつかりましたが,父が伝道の召しを受け入れたことはわたしたちにとって慈愛の
父の手紙は家族にとって実に大きな祝福でした。子供たちは,手紙は地球の反対側から来るような思いがしたものですが,実際は,マサチューセッツ州スプリングフィールドや,イリノイ州シカゴ,アイオワ州のシーダーラピッズやマーシャルタウンからでした。ほんとうに,父が伝道に出たおかげで,我が家には伝道の精神が生まれ,その精神は二度と我が家を離れることがありませんでした。
その後,家族の人数は増え,子供は息子7人,娘4人の計11人になりました。7人の息子は全員伝道に出ました。中には2度,あるいは3度出た者もいます。二人の娘は夫とともに2年間の伝道をしました。他の二人は,一人は8人の子供の母親,もう一人は10人の母親となり,両方とも夫を亡くしたので,イギリスのバーミンガムで同僚となって伝道しました。
伝道の精神はベンソン家の3世代目,4世代目の子孫にも受け継がれ,祝福をもたらしています。これこそほんとうに愛の賜物ではないでしようか。」5
青年期に教会で行った奉仕
両親の模範に促され,また主の王国を地上に築く助けをしたいという自身の望みに駆り立てられて,エズラ・タフト・ベンソンは,奉仕の召しを意欲的に受け入れた。19歳のとき,自分の祖父でもあったビショップから,ワードの24人の若い男性を教える成人指導者として奉仕してほしいと言われた。若い男性たちはボーイスカウトアメリカ連盟の活動に参加し,エズラはスカウト隊副長を務めた。
この召しにおいて,エズラの多数ある責任の一つは,若い男性が合唱するのを助けることだった。エズラの指導の下,若い男性たちはステーク内の他のワードの合唱団と競うコンクールで優勝し,地区コンクールの出場資格を手にした。エズラは,若い男性が練習に励み最高の歌を歌えるように,彼らの意欲をかき立てようと,ある約束をした。すなわち,地区コンクールで優勝したら,皆で山の向こうの湖まで56キロのハイキングをしようと約束したのである。エズラの作戦は成功し,ホイットニーの若い男性が優勝した。
「わたしたちはハイキングの計画を始めました」とベンソン大管長は回想している。「すると,話し合いの中で12歳の小さな少年が手を挙げて,とても改まった口調でこう言いました。『……提案したいことがあります。』……わたしは『よろしい。何でしょうか』と言いました。彼はこう答えました。『ハイキングの間,髪をくしでといたり,ブラシをかけたりしなくていいように,全員丸坊主にしてはどうですか。』」
最終的に若い男性が全員,ハイキングに備えて丸坊主にすることに同意した。すると,誰かが隊長たちも髪を切りましょうと提案したため,彼らの気持ちはますます盛り上がった。ベンソン大管長は続けて次のように語っている。
「二人の隊長が床屋の椅子に座ると,床屋はうれしそうにそれぞれの髪の毛にバリカンを当てました。ところが終わり近くになって,床屋の主人はこう言いました。『もしお二人の頭を
ワードの若い男性との経験を思い出しながら,ベンソン大管長はこう述べている。「少年たちと何かを一緒にする喜びの一つは,一緒に活動している間に報いがもたらされることです。年を経て彼らがたくましい青年へと成長し,男性としてのチャレンジや責任を受け入れていく姿を見て,自分の指導の成果を毎日見ることができます。このような満足は金銭では買えません。奉仕と献身によって手に入れなければならないものです。少年たちを男に,すなわち真の男に育てることに,ほんの少しでも貢献できることは何と名誉なことでしょう。」6
ベンソン大管長はこの若い男性たちを決して忘れず,連絡を取り続けようと努めた。56キロのハイキングから何年も後,十二使徒定員会の一員としてホイットニーワードを訪問した折には,その何人かと話をした。彼らの話では,24人のうち22人が忠実に教会に来続けていた。しかし,あと二人の連絡先は分からなくなっていた。ベンソン大管長は後にその二人の男性を見つけて,彼らが教会に戻るのを助け,彼らの神殿の結び固めの儀式を行った。7
フローラとの交際
1920年の秋,エズラはユタ州立農業単科大学(現在のユタ州立大学)に通うため,ホイットニーからおよそ40キロ離れたユタ州ローガンに行った。ある日,友人たちと一緒にいたとき,一人の若い女性が目に留まった。後にこのように回想している。
「わたしたちが搾乳小屋付近にいたとき,非常に魅力的で美しい若い女性が小型の車に乗ってやって来ました。搾乳場へ牛乳を買いに来たのでした。友人たちが手を振ると,彼女は手を振り返しました。『あれは誰だい』と尋ねると,彼らは『あれがフローラ・アムッセンさ』と答えました。
そこでわたしは言いました。『ぼくはあの人と結婚する気がする。』」
友人はエズラの言葉を笑って言った。「彼女はすごくもてるんだ。田舎者の君なんか相手にされないよ。」しかし,エズラはくじけずにこう答えた。「それなら余計に闘志が湧くさ。」
このやりとりの後,間もなくフローラとエズラはホイットニーで初めて顔を合わせた。フローラがエズラのいとこの家に招待されて泊まったのである。それからすぐに,エズラはフローラをダンスパーティーに誘った。彼女は承諾し,二人はさらにデートを重ね,「すばらしい交際」をした。ところが,エズラがイギリス伝道部で専任宣教師として奉仕する召しを受けたことで,二人の交際は中断した。しかし,この召しは,様々な面で二人のきずなをますます強めた。
エズラの伝道に備えて,彼とフローラは二人の関係について話し合った。交際を続けたいと思ったが,エズラが宣教師として献身的に働くことの必要性も理解していた。「出発する前,フローラとわたしは毎月1度だけ手紙を書くことを決めました」と彼は語っている。「さらに,手紙には励ましと信頼の言葉,近況報告を書くことにし,実際にそうしました。」8
二人の宣教師
初期の末日聖徒の宣教師に多くの改宗者をもたらしたイギリス伝道部だったが,ベンソン長老と同僚たちにとっては状況が違っていた。何人かの聖職者を含め,イギリス諸島で教会に反対する人々が,反モルモンの記事や小説,演劇や映画などを発表し,末日聖徒に対する反感を広くあおり立てていた。当然ながら,ベンソン長老は回復された福音に対する人々の反感が募っていることに悲しみを覚えたが,そのような試練が彼の信仰を弱めることは許さなかった。実際,彼の日記には,現地の若者が「モルモンだ!」と叫んで彼と同僚たちをはやし立てた出来事について記されている。彼は,口には出さなかったが,「自分がその一人であることを主に感謝する」と心の中で言い返した。9
教会員でない人々に福音を伝えることに加え,ベンソン長老は,イギリスの末日聖徒の間で神権指導者,また書記として奉仕した。この様々な奉仕の機会は,しばしば味わった困難とは対照的にすばらしい経験となった。ベンソン長老は何人かにバプテスマと確認の儀式を行い,さらに多くの人が主に近づくのを助けた。例えば,忠実な教会員たちが開いた特別集会で
ベンソン長老は,福音を
ベンソン長老は人々への奉仕に積極的でなかったとき,「『モルモン書を夢中で読む』こと,とりわけモーサヤの息子たちの経験を読むことで力を得ました。」14彼はまた,家族からの手紙を「何度も何度も読み返し」,慰めと心の支えを得た。伝道を振り返って,次のように語っている。「母と父は手紙の中で心からの愛を伝えてくれて,若いわたしにとって大きな支えとなりました。フローラの〔手紙〕は御霊と励ましにあふれ,感傷的な内容はまったくありませんでした。それで,わたしは何にも増してますます彼女を愛し,彼女に感謝するようになったのだと思います。」15
ベンソン長老は1923年11月2日に専任宣教師の任を解かれた。彼はイギリスを離れることをためらった。イギリスの「愛する善良な聖徒たち」に別れを告げることは「伝道で最もつらいこと」だったと述べている。16しかし,家族と再会できることは幸せであり,フローラと顔を合わせることも楽しみだった。
フローラもエズラに会うのが楽しみだった。しかし,間もなく一緒に過ごせるようになることを楽しみに待つだけではなかった。フローラはエズラの未来と可能性に心から期待していた。10代のときから「農夫と結婚したい」と周囲に言っていたので,17アイダホ州ホイットニーにある実家の農場に住みたいというエズラの望みを喜んでいた。しかし,その前にエズラは学校を卒業する必要があると,彼女は感じた。後にこう語っている。「〔わたしは〕祈って断食し,エズラが
二人が再び交際を始めた後,フローラがハワイ諸島における伝道の召しを受けたと告げたとき,エズラは驚いた。フローラは1924年8月25日に任命を受け,翌日に出発した。彼女が出発した直後,エズラは日記にこのように記した。「二人とも幸せだった。未来にはたくさんの喜びが待ち受けており,この別れは後に埋め合わせられると感じたからである。そうは言っても,望みが砕かれるのを目にするのはつらいことである。わたしたちは時にはそれについて涙を流すこともあったが,すべてうまくいくという確信を主から受けた。」19
そして,ほんとうにすべてがうまくいったのであった。伝道部会長はフローラについて,「非常に優秀な,精力的な宣教師」20であり,「主の業のために心と霊と時間と才能を尽くして」働いたと語っている。21彼女は伝道部内の幾つかの地区で初等協会を管理し,小学校で子供に勉強を教え,神殿で奉仕し,地元の末日聖徒を強めるために尽力した。自分の母親バーバラ・アムッセンの同僚としてさえしばらくの間奉仕した。母親は夫を亡くしていて,短期伝道に召されたのだ。ある日,同僚として奉仕していたこの母と娘は,ある男性と出会った。フローラの父カール・アムッセンの働きかけによってかつて合衆国本土で教会に入った人だった。この改宗者はその後,教会から足が遠のいていたが,フローラと母親は彼に働きかけ,教会に戻るのを助けたのだった。22
フローラがいない間,エズラは忙しくしていた。弟のオーバルとともに農場を購入し,また学業にいそしんだ。一時,エズラはユタ州プロボにあるブリガム・ヤング大学(BYU)で学び,オーバルがホイットニーにとどまって農場の仕事をした。二人の計画では,エズラが卒業したら農場に戻り,今度はオーバルが伝道に出て,学校を卒業することになっていた。BYUを早く卒業するため,エズラは意欲的に授業を取った。また,ダンスやパーティーや演劇公演など,大学の社交活動にも参加した。
エズラは最後の1年に「BYUで最も人気のある男性」に選ばれたが,フローラ以外の女性に心を引かれることはなかった。1926年6月にフローラが伝道を終えたとき,エズラは彼女の帰還を「待っていた」わけではないと言い張ったものの,会えることを「熱望して」いた。23エズラはフローラが帰還する数か月前に,優等で卒業した。
結婚生活を始める
フローラが伝道から帰還して1か月後,彼女とエズラは婚約を発表した。中にはフローラの選択を疑う人もいた。彼女ほど教養があり,裕福で,人気のある女性が農家の青年と結婚する理由が理解できなかったのである。しかし,フローラは,「ずっと農夫と結婚したいと思っていました」と言い続けた。24エズラは「経験豊かで,思慮深く,堅実だ」と彼女は言い,次のように語った。「彼は両親に優しく接していました。両親を敬う人なら,きっとわたしも大切にしてくれると確信したのです。」25エズラが「ダイヤモンドの原石」であることにフローラは気づき,「この狭い地域だけでなく,全世界に彼の名前が知られ,彼の善い影響力が広まるよう,全力を尽くして支えるつもりです」と言った。26
フローラとエズラは,1926年9月10日に,ソルトレーク神殿で十二使徒定員会のオーソン・F・ホイットニー長老によって結び固めを受けた。結婚式の後に開かれた唯一の祝宴は,家族と友人のための朝食会だった。朝食の後,結婚したばかりの二人は,すぐにT型フォード小型トラックに乗り込み,アイオワ州エイムズへ向かって出発した。エズラはアイオワ州立農工大学(現在のアイオワ州立科学技術大学)で農業経済学の修士課程に入学することになったのである。
旅路のほとんどは,民家の少ない,舗装されていない田舎道だった。二人は道中,雨漏りのするテントで8泊した。エイムズに到着した後,大学のキャンパスから1ブロック離れた所にあるアパートを借りた。アパートは狭く,ベンソン夫妻は何匹ものゴキブリと同居したが,「程なくして最も居心地のよい田舎の家のようになりました」とエズラは語っている。27エズラは再び学業に専念した。研究と講義と論文作成に何時間も費やした後,1年足らずで修士号を取得して卒業した。こうして,ベンソン夫妻は最初の赤ちゃんの誕生を控えながら,ホイットニーにあるベンソン農場に戻った。
仕事の機会と教会の召しのバランスを図る
ベンソン夫妻がホイットニーに戻ったとき,エズラは搾乳,養豚と養鶏,てんさいと穀物とアルファルファなどの作物の栽培を含めて,農場での日々の作業に専念した。オーバルはデンマークで専任宣教師として奉仕する召しを受けた。
それから2年もたたないうちに,地元自治体の役人がエズラに,郡の農事指導員の仕事を引き受けてほしいと申し入れた。フローラの勧めもあり,エズラは引き受けた。しかし,それは農場を離れて近隣のプレストンの町に引っ越すことを意味した。こうして彼は地元の農夫を雇って,オーバルが戻るまで農場を任せたのだった。
エズラの新しい責任の一つは,生産力を左右する問題について地元の農夫たちに助言を与えることだった。エズラは,農夫たちには何よりもマーケティング技術の改善が必要だと感じた。大恐慌が始まるとマーケティング技術の必要性はますます高まり,農業経済学を学んでいた彼はその技術を提供することができた。経費を削減し,労働に対して最高の代価を得られるように,エズラは農夫たちに農業協同組合への加入を勧めた。28
農事指導者としての手腕により,エズラには他の雇用の機会も訪れた。1930年から1939年にかけて,アイダホ州都ボイシにあるアイダホ州立大学発展研究学科で農業経済学者兼スペシャリストとして働いた。1936年8月から1937年6月まではこの仕事を一時中断し,エズラがカリフォルニア州立大学バークレー校で農業経済学を学ぶ間,ベンソン家はカリフォルニア州に住んだ。
職場や家庭で差し迫った責任に追われながらも,エズラとフローラは,教会で奉仕する時間を取った。ホイットニー,プレストン,ボイシの各地で青少年を教え,指導する召しを受けた。29二人は「青少年は教会の未来である」ことを信じ,これらの召しを熱心に果たした。30さらに,エズラは地元の伝道活動を助ける機会も受けた。31ボイシではステーク会長会の顧問として奉仕する召しを受け,家族でカリフォルニアに住んでいた間もその責任を果たし続けた。ボイシステークは急速に発展し,1938年11月に,十二使徒定員会のメルビン・J・バラード長老はこのステークを3つに分割した。エズラ・タフト・ベンソンはステーク会長の一人として召された。
1939年1月,エズラはワシントンD.C.にある農業協同組合全国協議会の事務局長になる誘いを受けて驚いた。彼はこの機会についてフローラに相談した。わずか2か月前にステーク会長に任命されたばかりだったため,大管長会にも連絡し,助言を仰いだ。その職を受けるように大管長会から勧められ,エズラと家族は,1939年3月にボイシの友人たちに別れを告げて,ワシントンD.C.に近いメリーランド州ベセスダに引っ越した。彼は1940年6月に再びステーク会長の召しを受け,ワシントンD.C.で新しく組織されたワシントンステークを管理した。
愛ある,一致した家族
エズラとフローラは,互いとの関係,また子供たちや年老いた両親,きょうだいたちとの関係が永遠に大切であることを常に覚えていた。家族が一致し続けることを大事にした二人の思いは,義務感以上のものだった。二人は心から互いに愛し合い,この世でも永遠の世でも一緒にいたいと願ったのだった。
教会の召しと職業上の任務に伴う多くの責任のために,エズラは家を留守にすることがよくあった。幼い子供たちの言葉がこの事実をよく表している。例えば,ある日曜日,エズラが教会の集会に出かけるとき,娘のバーバラはこう言った。「さようなら,パパ。またいつか来てね。」32夫が頻繁に家を空ける中で6人の子供を育てることはフローラにとって大変で,「独りで寂しく,ちょっぴり気落ちする」こともあったと語っている。33それでも,彼女は妻として,また母親としての務めを大切にし,主と家族に対する夫の献身に満足した。エズラに宛てた手紙の中で,次のように述べている。「いつものように,あなたが出かけてから数日が数か月のように感じます。……〔しかし,〕もしすべての男性が……あなたのように自分の宗教を愛し,それに従って生活していれば,世の悲しみや苦しみはほとんどなくなることでしょう。……あなたはいつも家族を深く愛していて,しかも困っている人を助ける備えをいつでも整えています。」34
エズラは家にいるときはいつでもこの深い愛を示した。時間を取って,6人の子供とともに笑い,遊び,彼らの話に耳を傾けた。また,重要な問題について彼らの意見を求め,福音を教え,家事の手伝いを一緒に行い,一人一人と過ごした。両親が一致して彼らを愛していたことで,子供たちは安心感と強さを見いだした。(エズラ・タフト・ベンソンにとって家族が非常に重要であったため,本書にはこのテーマに関する教えをまとめた章が二つある。「神より定められた結婚と家族」「父親・母親という神聖な召し」と題されたこれらの章には,ベンソン家の子供たちが子供時代の愛に満ちた家庭を回想して語った言葉が含まれている。)
使徒の召し
1943年の夏,エズラは,農業協同組合全国協議会の仕事の一環として,カリフォルニア州の幾つかの農協を巡回するため,息子のリードとともにメリーランドを出発した。また,ソルトレーク・シティーで教会指導者に会い,アイダホ州にいる親族を訪ねる計画も立てていた。
7月26日,旅の目的を遂げた彼らは,家路に着く前にもう一度ソルトレーク・シティーに戻った。すると,エズラに会って2週間もたたないデビッド・O・マッケイ管長がエズラを探しているとの知らせを受けた。そこで,エズラがマッケイ管長に電話すると,当時教会の大管長だったヒーバー・J・グラント大管長が彼に会いたがっていることを告げられた。エズラとリードは,ソルトレーク市街から数分の場所にあるグラント大管長の別荘まで車で連れて行かれた。到着すると,「エズラは直ちにグラント大管長の寝室に案内されました。年老いた預言者はそこで横になっていました。大管長に言われて,エズラはドアを閉めて彼に近寄り,ベッドの横の椅子に座りました。グラント大管長は両手でエズラの右手を握って,目に涙を浮かべながら簡潔な言葉でこう言いました。『ベンソン兄弟,本当におめでとう。神の祝福がありますように。あなたは十二使徒定員会で最年少の会員として選ばれました。』」35
エズラは日記に,その経験を次のように記している。
「その信じられないような言葉に,圧倒されてしまいそうだった。……それから数分間,〔わたしの〕口からは,『グラント大管長,まさか』という言葉しか出てこなかった。事の次第を落ち着いて理解できるようになるまで,その言葉を何回か繰り返していたに違いない。……長い間手を握られたまま,大管長とともに涙を流した。……1時間以上,二人だけで過ごした。その間ほとんど,互いの温かい手をしっかりと握り合っていた。〔大管長の体は〕弱っていたが,思考はしっかりとしていて研ぎ澄まされていた。わたしの心の奥底を見ているかのような,大管長の優しい,思いやりに満ちた,
わたしは自分にまったく力がなく,ふさわしくないと感じていたが,大管長がその後に掛けてくれた慰め元気づける言葉に心から感謝した。中でも大管長はこう言った。『主は指導者の職に召された人々を大いなる者とする方法を御存じです。』弱気になりながらも,わたしが教会を愛していると伝えると,大管長はこう言った。『知っています。主は
この面接の後,エズラとリードは車でマッケイ管長の家に送られた。途中,エズラはグラント大管長との対話について何も語らず,リードも尋ねなかった。マッケイ家に着いたとき,マッケイ管長は一連の出来事についてリードに告げた。それからエズラとリードは抱き合った。
その夜,リードとともに列車で帰路に着いたエズラは眠れなかった。翌日,彼はフローラに電話をし,使徒職に召されたことを告げた。「妻は,すばらしいことだと思うし,必ず立派に務めを果たせると確信していると言ってくれました」とエズラは回想している。「妻と話してほっとしました。彼女はいつも,わたし以上にわたしを信頼してくれています。」37
次の数週間,エズラとフローラはユタ州に引っ越す準備をし,エズラは農業協同組合全国評議会の後任者に業務を円滑に引き継げるよう最善を尽くした。1943年10月1日,彼はスペンサー・W・キンボールとともに十二使徒定員会の会員として支持を受け,10月7日,キンボール長老に続いて使徒に聖任された。
このようにして,「全世界におけるキリストの名の特別な証人」の一人として,エズラ・タフト・ベンソン長老の教導の業が始まった(教義と聖約107:23)。
戦後のヨーロッパに食糧と衣類と希望を届ける
1945年12月22日,当時教会の大管長だったジョージ・アルバート・スミス大管長は,大管長会と十二使徒定員会を招集して特別な集会を開いた。ヨーロッパ伝道部を管理し,現地における教会の活動を監督するために使徒の一人を派遣するよう,大管長会は霊感を受けたと,発表があった。この年,しばらく前に第二次世界大戦が終わっていた。そして,ヨーロッパの多くの国々が,戦争の広範囲にわたる甚だしい破壊からまさに復興し始めていたのである。大管長会は,エズラ・タフト・ベンソン長老こそ,この務めを行うのにふさわしい人であると感じた。
この発表は,十二使徒定員会で最も新しい最年少のベンソン長老には「大きな衝撃」だった。34年前に父に届いた伝道の召しと同じように,彼はこの割り当てを果たすために家族と離れなければならなかった。現地にどれくらいの期間とどまるかは,大管長会も断定できなかった。エズラはそれでも,妻と子供たちは支持してくれるだろうと彼らに伝え,心から奉仕したいと述べた。38後年,彼は自分が受けた割り当てについて次のように語っている。
「その務めの大きさに圧倒されそうでした。大管長会から4つの指示を受けました。まず,ヨーロッパにおける教会の霊的な業務を行うこと。第2は,ヨーロッパの各地で苦しむ聖徒に食糧と衣類と寝具を提供するために働くこと。第3に,ヨーロッパにおける各伝道部の再組織を指揮すること。そして,第4は,この国々に宣教師を戻す準備をすることでした。」39しかし,スミス大管長は次の約束をしてエズラを安心させた。「あなた自身についてはまったく心配していません。あなたが自分の体を大事にしていれば,世界の他の地域にいるときと同じように安全でしょう。そして,偉大な働きを成し遂げるでしょう。」40
ベンソン長老はこのことを妻と家族に告げたときのことについて次のように述べている。「涙で清められ,妻とすばらしい感動的な語らいをしました。フローラは愛情深い感謝の言葉を述べ,心から支えると言ってくれました。夕食のときに子供たちにも話しましたが,彼らは驚き,興味を持ち,心から応援してくれました。」41
ベンソン長老と同僚のフレデリック・W・バベルは,ヨーロッパに到着したとき,至る所で病気と困窮と荒廃があるのを見て,心を痛めた。例えば,フローラに宛てた手紙に,ベンソン長老は,せっけん,縫い針と糸,オレンジの贈り物をもらって感謝していた母親たちについて書いた。彼女たちはそのようなものを何年もの間目にしていなかったのである。過去に与えられていたわずかな配給を,「自分は空腹に耐えながら,まことの母親の精神で子供たちになるべく多く与えようとしてきた」のを,ベンソン長老は知ることができた。42「爆撃で破壊された建物」や「ほとんど
ヨーロッパの各地の末日聖徒の生活に,ある奇跡が起きていたのは明白だった。現地に向かっているとき,ベンソン長老は聖徒たちがどのような顔で出迎えてくれるのか心配した。「聖徒たちは
「青白く痩せた顔でわたしたちを見詰める多くの聖徒は,ぼろぼろになった服を身に着けていました。はだしの人もいました。わたしは,この偉大な末日の業が神の業であることを
わたしたちは,教会員が驚くほどの忍耐を持ち続けていたことを知りました。彼らは信仰あつく,すばらしい献身を示し,この上なく忠実でした。辛辣な態度や憎しみはまずありませんでした。それぞれの伝道部から伝道部へ,仲間意識と兄弟愛の精神が広がっていて,わたしたちが各地を回っていると,聖徒たちは他の国の兄弟姉妹によろしく伝えてほしいと言いました。たとえその国が,つい数か月前まで敵国であっても,です。」難民でさえも「熱意を込めて……シオンの歌を歌い」,「夜も朝も一緒にひざまずいて祈り,……福音の祝福について証を述べました。」45
もう一つの奇跡は,教会の福祉プログラムの力だった。10年前から始まったこの活動は,ヨーロッパにいる多くの末日聖徒の命を救った。聖徒たちが祝福を受けたのは,彼ら自身が福祉の原則を心から受け入れたからだった。助けが必要なときは助け合い,食糧や衣服,その他のものを分け合い,爆撃で破壊された建物の庭に畑も作った。また,世界の他の地域に住む末日聖徒が支援物資を寄付したことでも祝福を受けた。寄付された物資はおよそ2,000トンだった。ベンソン長老は,現地の会員に配れる基本的な食糧が届いたのを見て教会指導者たちが泣いたことや,会衆の前に立ったとき,その場にいる人たちが着ていた衣服の80パーセントは福祉プログラムを通して送られてきたものであると思われたことについて述べている。46帰還して間もない総大会の説教で,ベンソン長老は次のように語った。「兄弟姉妹の皆さん,このプログラムの必要性とその背景にある霊感について,これ以上の証拠が必要でしょうか。……わたしは皆さんに申し上げます。このプログラムを指揮しておられるのは,神です。これは霊感によって与えられているのです。」47
ベンソン長老とバベル兄弟は,戦争の爪痕が残るヨーロッパの国々を旅する方法を主が備えてくださったとき,新たな奇跡を経験した。ベンソン長老は何度も何度も,聖徒たちに会って物資を配るため,軍の将校から特定の地域に入る許可を得ようとした。「ここで戦争があったのを知らないんですか。民間人の旅行者は入ることができません。」ベンソン長老はそのたびに軍指導者の目をじっと見詰めながら,自分の任務を穏やかな口調で説明した。こうして,彼とバベル兄弟は目的の場所へ行く許可を与えられ,主が命じられたことを成し遂げることができたのである。48
約11か月が過ぎた頃,ベンソン長老の後を十二使徒補助のアルマ・ソニ長老が引き継ぎ,妻レオナとともにヨーロッパで奉仕した。バベル兄弟はソニ夫妻を助けるために現地に残った。ベンソン長老は,ソルトレーク・シティーを出発した1946年1月29日から1946年12月13日に帰還するまでの間に,合計9万8,550キロを旅した。ベンソン長老は,任務は成功したと感じていたが,すぐさまこう語った。「わたしたちの働きに常に伴い,成功に導いたその源が何なのかわたしは知っています。全能者の力による導きがなくてもわたしや同僚たちは割り当てられた使命を果たすことができると思ったことは,一度たりともありません。」49任務が成功したことは,ヨーロッパ各国において新しく組織され,発展し始めた教会の強さから見て取れた。任務の成功は他にも,個々の聖徒の生活の中に見られた。例えば,何年も後にドイツ・ツビッカウの集会で,トーマス・S・モンソン大管長に話し掛けてきた男性もその一人であった。男性はモンソン大管長に,エズラ・タフト・ベンソンによろしく伝えてほしいと言って,このように力強く語った。「ベンソン長老はわたしの命を救ってくれました。食べ物と着る衣服をくれました。希望も与えてくれました。神の祝福がベンソン長老のうえにありますように!」50
合衆国政府における愛国心と政治的な手腕と功績
母国を離れている間,ベンソン長老は,少年の頃から大切にしてきたことを思い出した。それは,自分がアメリカ合衆国の市民だということである。父親のジョージ・タフト・ベンソン・ジュニアから,母国と母国の礎となっている原則を愛することを学んでいた。また,国の法律の規範となるアメリカ合衆国憲法が,霊感を受けた人々によって起草されたことを知っていた。選挙権を大切に考え,選挙の後に父親とともに話したときのことをいつも思い出した。ジョージはある候補者を公式に応援したことがあり,家族の祈りの中でもその人のために祈っていた。その候補者が選挙に負けたと知った後,ジョージが当選した人のために祈るのをエズラは耳にした。エズラは,どうして自分が選んでいない候補者のために祈るのか父親に尋ねた。「息子よ」とジョージは言った。「わたしが応援していた候補者以上に,この人にはわたしたちの祈りが必要になると思うんだ。」51
1948年4月の総大会で,ベンソン長老は,アメリカ合衆国について「預言者が語った使命」と自由の大切さに焦点を当てた説教をし,その後何度も同じテーマを採り上げて話した。長老は,福音がこの地で回復されるように,主が合衆国を「自由の揺り
ベンソン長老は,合衆国に,また世界中に自由を脅かす勢力があると警告した。「永遠の原則と相いれない」「人間が作った高圧的な制度」にしばしば力強く反対した。55また,不道徳な娯楽や安息日を尊ぶ気持ちの欠如,自己満足,偽りの教えを含め,自由を脅かすその他の影響力についても警告した。56全世界の末日聖徒に,各自が持つ影響力を使って,賢明で善良な人々が公職に選ばれるように働きかけることを勧めた。57ベンソン長老は次のように宣言している。「福音を効果的に
1952年11月24日,愛国心あふれる力強い言葉を語ったベンソン長老は,試しを受けることになった。母国に仕えるよう招かれたのである。合衆国大統領に当選したばかりのドワイト・D・アイゼンハワー氏に招待されてニューヨーク・シティーに赴いた。アイゼンハワー次期大統領は,ベンソン長老を内閣に入れることを検討していた。すなわち,自分の最高顧問の一人である合衆国農務長官とすることを検討していたのである。ベンソン長老は名誉に思った。しかし,後にこう語っている。「その職に就きたいと思いませんでした。……正気の人なら誰でも,このような時代に農務長官になりたいと思わないでしょう。……その職にどのようなものが伴ってくるか,わたしはある程度知っていました。議論の応酬,すさまじいプレッシャー,複雑な問題などがそれです。……
しかし,問題やプレッシャーだけが心配だったわけではありません。そのようなものは誰にもあります。多くのアメリカ人と同じように,わたしは積極的に政治に関わることに気が進みませんでした。もちろん,高い志とすばらしい人格を持つ人々が選ばれ任じられて国政をつかさどる姿を見たいと思いました。しかし,わたし自身がそこに飛び込むことはまったく別の話でした。……
何より,わたしは十二使徒定員会の一員としてすでに行っていた務めに十分満足していました。……それを変えたいと望むことも,変えるつもりもありませんでした。」59
ベンソン長老はアイゼンハワー次期大統領に会いに行く前に,当時の大管長だったデビッド・O・マッケイ大管長に助言を仰いだ。マッケイ大管長は彼にこう告げた。「ベンソン兄弟,この件に関して,わたしの考えははっきりしています。適切な方法で機会が訪れた場合,それを受け入れるべきだと思います。」60この率直な助言と,「アメリカ人として〔自分の〕信念のために効果的に戦〔いたい〕」というベンソン長老の基本的な望みから,彼は「心の葛藤」を味わった。61
アイゼンハワー氏とベンソン長老が初めて顔を合わせたとき,次期大統領がベンソン長老に農務長官に就任してほしいと切り出すまで時間はかからなかった。ベンソン長老は自分が適任者でないと思う理由をすぐさま並べたてたが,アイゼンハワー次期大統領は折れなかった。「我々にはやるべきことがあります。周りから圧力がかかり始めたとき,はっきり言って,わたしは大統領になりたくありませんでした。しかし,アメリカに仕えることを拒むことはできません。あなたもこのチームに入ってほしいのです。『ノー』とは言わせませんよ。」62
「それが決め手でした」とベンソン長老は回想している。「マッケイ大管長が助言したとおりの条件が整いました。政府が提供できるどんな名誉よりもはるかに大きな名誉を,教会から既に受けているとわたしは感じていました。大統領にもそのように伝えて,大統領が望む限り,農務長官の責任を2年以上務めることを引き受けたのです。」63
就任を引き受けるとすぐに,ベンソン長老はアイゼンハワー次期大統領とともに記者会見に出席し,就任が全国に発表された。会見が終わるやいなやホテルに戻り,フローラに電話をかけて,アイゼンハワー次期大統領から就任の要請があり,それを受け入れたことを告げた。
フローラはこう答えた。「そうだと思ったわ。そして,あなたは承諾すると分かっていたわ。」
長老は,「とてつもなく大きな責任だし,わたしたち二人にとって前途多難だよ」と言った。
「そうね」とフローラは言った。「でも,それが神の
ベンソン長老が予想したとおり,農務長官としての務めは,彼と家族にとって波乱に富んでいた。しかし,彼は「人気投票で勝とう」としているのではなく,「農業のため,アメリカのために働き」たいだけであると言い,65次の決意を貫いた。「たとえ評判が良くなくても,正しいことを擁護することは良い戦略だ。むしろ,評判が良くないときは,特にそうだ。」66エズラが自分の評判を気にしなかったことは彼にとって良いことだった。確信を揺るぎなく貫く一方で,政治家や市民の間で評判は激しく揺れた。人々は,あるときは農務長官の職からエズラを退けようとし,67また別のときは合衆国の副大統領に適任だと言った。68
政府首脳として務める中でも,ベンソン長老は,クリスチャンとしての理想や回復された福音についての証,末日聖徒イエス・キリスト教会への献身を公にした。農務省の同僚と会議をする際は,祈りでその会を始めた。69アメリカ合衆国の行く末に関して預言されているモルモン書の言葉をアイゼンハワー大統領に送ると,大統領は後に「強い興味を持って」読んだと語った。70エズラは世界の多くの指導者にモルモン書を渡した。711954年,合衆国の著名なニュースレポーターであるエドワード・R・マロー氏が「パーソン・トゥー・パーソン」という金曜日の夜の番組でベンソン家の特集をしたいと言った。初め,ベンソン長老夫妻は断ったが,すばらしい伝道の機会になるという息子リードの言葉を聞いて,受け入れることにした。1954年9月24日,全国の人々が,ベンソン家の,リハーサル抜きの家庭の夕べを生中継で視聴した。その放送で,マロー氏は他のどの回よりも多くのファンレターを受け取った。合衆国各地から様々な宗教の人々が,ベンソン家のすばらしい模範に感謝の言葉をつづった。72
ベンソン長老は,アイゼンハワー大統領が合衆国を導いていた間,すなわち8年間,農務長官を務めた。マッケイ大管長は,ベンソン長老の働きが「教会とこの国にとっていつまでも誉れとなる」だろうと語った。73ベンソン長老は国家の注目を浴びていた時期を振り返ってこう述べた。「この偉大な国を愛しています。母国に仕えることは名誉でした。」74さらに,「もしもう一度初めからやり直すことになっても,ほぼ同じ道を通るでしょう。」75その後も続く使徒としての務めについては,「さて,農業以上にわたしが唯一愛しているものにすべてをささげる時です」と述べている。76
政府におけるベンソン長老の任務は1961年に終わったが,母国と自由の原則を愛する心は持ち続けた。総大会の多くの説教で,ベンソン長老はこれらのテーマを採り上げ,アメリカ合衆国は「わたしが心から愛する国」であると語った。77また,「わたしはすべての国々における愛国心と母国愛を大切にしています」とも語った。78長老はすべての末日聖徒に,それぞれの国を愛するように勧め,次のように教えた。「愛国心とは,国旗を振ることや勇ましい言葉を語ること以上のものです。それは,公的な問題にどのように対処するかです。真実の意味で愛国者として再び自分自身をささげましょう。」79「政治的な日和見主義者とは異なり,真の政治家は人気よりも原則を重んじ,賢明且つ適正な政治信条に人々の心を向けさせるように働きかけます。」80
キリストの名の特別な証人
エズラ・タフト・ベンソン長老は,主イエス・キリストの使徒として,「全世界に出て行って,すべての造られたものに福音を
ベンソン長老は,末日聖徒に会う特権を大切にした。ある総大会の説教で次のように語っている。「わたしはステークの訪問から戻ると,時々,妻にこう言っていました。『天がどのようなものか,正確には分からないけれど,シオンのステークやワード,また地上の伝道部で指導している人々と交わることから生まれる楽しみや喜び以上にすばらしいものを天で求められるとは思えないよ。』わたしたちは実に豊かに祝福されています。」81別の説教では,次のように述べている。「教会にはまことの兄弟愛と仲間意識があります。とても力強いもので,多少漠然としていますが,実際にあります。わたしや同僚たちは,シオンのステークやワード,全世界の伝道部を訪問するときにそれを感じます。……いつも仲間意識と兄弟愛を感じます。これは教会員であることと神の王国に関連するすばらしい祝福の一つです。」82
ベンソン長老は,他の宗教を持つ人々に救い主についての
「モスクワでの最後の夜,空港へ向かう途中,わたしは……案内係の一人に,ロシアで教会に行く機会がなかったことを残念に思うと話しました。案内係が運転手に何かを告げると,通りの真ん中で車が方向転換しました。しばらくすると,車は,赤の広場からあまり遠くない,暗くて狭い石畳の横道にある,古いスタッコ(化粧しっくい)仕上げの建物の前に止まりました。そこは中央バプテスト教会でした。
雨の降る陰気な10月の夜で,とても冷え込んでいました。しかし教会に一歩入ると,人であふれ返っていました。廊下や玄関,道端にまで人が立っていました。毎週日曜日と火曜日と木曜日に同じように大勢の人が集まって来ることを,わたしたちは知りました。
わたしは人々の顔を見渡しました。多くは中高年でしたが,驚くほどたくさんの若い人がいました。5人のうち4人は女性で,そのほとんどが頭にスカーフを巻いていました。わたしたちは説教壇に近い席に案内されました。……
牧師が少し話した後,オルガンが鳴って賛美歌の演奏が始まり,会衆全員が声を合わせて歌いました。その場で1,000人から1,500人の歌声を聞いたことは,わたしの生涯で最も感動的な経験の一つとなりました。クリスチャンとしての共通の信仰によって,彼らは言語や政治や歴史の違いをすべて超えて,歓迎の言葉をもって手を差し伸べてくれました。わたしがこの感動的な場面で心の高まりを抑えようとしていると,牧師はそこに立っている通訳者を通して,会衆に話をしてほしいと頼んできました。
わたしは一瞬手間取りつつも,感動で高まっていた気持ちを何とか静めて話すことに同意し,おおよそこのように語りました。『御親切に,皆さんに挨拶する機会を下さり,ありがとうございます。
わたしはアメリカと世界各地で教会に集う何百万もの人々に代わって,御挨拶申し上げます。』突如として,わたしは,人類が知る最も神聖な真理について同じクリスチャンの仲間に話すことが,何よりも自然なことのように感じました。
『天の御父がおられる場所はそれほど遠くなく,御父はわたしたちのすぐそばにおられることがあります。神が生きておられることを知っています。神はわたしたちの御父であられ,世の
会衆のために一言一言通訳されていく間,女性たちがハンカチを取り出し,ある人の言葉を借りれば,『母親が一人息子との永遠の別れを惜しむときのようにハンカチを振り』始めたのでした。会衆は『ヤア,ヤア,ヤア!』(はい,そのとおり!)と叫び,勢いよくうなずきました。わたしはそのとき初めて,廊下までもが人でいっぱいになっており,多くの人が壁に沿って立っていることに気づきました。わたしは自分の前の年老いた女性を見ました。彼女は無地のスカーフを頭にかぶり,肩にはショールを巻いていました。年を重ね,しわの寄った顔は,信仰あふれる穏やかな表情をしていました。わたしはその女性に向かって話しました。
『現世の生活は永遠の一部にすぎません。わたしたちはこの世に来る前に,神の霊の子供として生活していました。現世を去った後に再び生きます。キリストは死の縄目を解き,復活されました。わたしたちも皆復活します。
わたしは祈りの持つ力を心から信じています。手を伸ばして求めれば,目に見えない力によって,必要なときに勇気と支えを得ることができると知っています。』わたしが一言語るごとに,年老いた女性はうなずいて賛同しました。高齢で,弱々しく,しわが寄っていましたが,美しい信仰心を持っていました。
わたしは自分が語ったすべての言葉を覚えてはいません。しかし,自分たちが愛し仕える神への信仰をしっかり固く守っている男性たちや女性たちの顔を見て,わたしの霊は鼓舞されました。
話の終わりに,わたしはこう言いました。『長年教会で奉仕してきた
わたしはそれ以上話せなくなり,即席の話を終えて席に着きました。その後,会衆全員で,わたしが子供の頃に大好きだった賛美歌『神よ,また逢うまで』を歌いました。彼らが歌っている間にわたしたちは教会を出ました。わたしたちが通路を通ると,彼らは別れの挨拶としてハンカチを振りました。去って行くわたしたちに,1,500人全員が手を振ってくれているように思えました。
わたしは世界中の多くの教会の会衆の前で話す特権にあずかってきましたが,あのときの感動は言葉で言い表せないほどでした。あの夜の出来事は,いつまでも決して忘れないでしょう。
あのときほど,人の心が一つになるのを,そして抑え切れないほど自由を渇望するのをはっきりと感じたことは,まずありません。……
わたしはこの出来事について度々話そうと決心して〔家に〕帰りました。なぜなら,この出来事は,自由の精神,兄弟愛の精神,また宗教の精神を打ち砕くためにどんな力が働こうと,それらが存在し続けることを表しているからです。」83
十二使徒定員会会長
1973年12月26日,ベンソン長老は,教会の大管長であるハロルド・B・リー大管長が突然亡くなったという思いがけない知らせを受けた。リー大管長が亡くなったことで,大管長会の二人の顧問は十二使徒定員会に戻ることになった。4日後,スペンサー・W・キンボールが教会の大管長として,またエズラ・タフト・ベンソンが十二使徒定員会会長として任命された。この責任に伴って,ベンソン会長は管理の務めも負うことになった。毎週の定員会集会を管理し,他の使徒の働きを調整するのである。これには,ステーク大会の管理,伝道部訪問,ステーク祝福師の召しに関して,使徒に割り当てを行うことが含まれる。また,他の中央幹部を管理する責任も一部負った。彼と他の使徒たちが働きを調整するのを助けるため,管理職員が実務を行った。84
十二使徒定員会の集会で,ベンソン会長は,彼らの会長を務めることについて自分の思いを次のように語った。「この大きな責任について,わたしはとても不安を抱いていました。恐れる気持ちではありません。わたしたちが最善を尽くすなら……この業において失敗することはないと知っているからです。主が支えてくださると分かっていますが,主イエス・キリストの特別な証人である皆さんの組織を管理する指導者の職に召されるのは大変なことです。」85
ベンソン会長は,この
十二使徒定員会の会員たちは,ベンソン会長が不変の原則に基づいて彼らを導いていることを知ったのである。例えば,ベンソン会長は繰り返しこう語っていた。「兄弟の皆さん,覚えていてください。この業においては,
大管長
スペンサー・W・キンボール大管長は,闘病の末,1985年11月5日に亡くなった。これで教会を指導する職は,エズラ・タフト・ベンソン会長が会長および先任使徒を務める十二使徒定員会に委ねられた。5日後に,ソルトレーク神殿において,十二使徒定員会の集会が厳かで
ベンソン大管長は,キンボール大管長の体調が不安定であることを知っていた。そのため,大管長の体力が再び活性化することを願っていた。「
教会の大管長になってから初めての総大会で,ベンソン大管長は,主の業を前進させるために第一に強調したいことは何かを述べた。「主は今,モルモン書を再強調する必要があるということを啓示しておられます。」90
十二使徒定員会会長として,ベンソン会長は,モルモン書の重要性について繰り返し教えていた。91教会の大管長になってからは,それをさらに強調するようになった。ベンソン大管長は,末日聖徒が十分にモルモン書を研究しておらず,その教えを心に留めていないために,「全教会が呪いのもとにある」と語った。「わたしたちは今もそうですが,これまで聖典の学習の中心にモルモン書を置いてきませんでした。家族に教える場合でも,人々に福音を教えたり,伝道活動を行ったりする場合もそうでした。この点について悔い改めが必要です。」92大管長は「人はその教えを守ることにより,ほかのどの書物にも増して神に近づくことができる」という預言者ジョセフ・スミスの宣言を頻繁に引用し,93その約束について詳しく説明した。「モルモン書には力があって,真剣に読み始めるやいなやその力は読む者の人生に流れ込み……ます。」94大管長は末日聖徒に,「モルモン書で地と自分自身の生活を洪水のごとく満たす」ように勧めた。95
末日聖徒は,世界各地で預言者のこの勧告に従った。その結果,個人的にも,全体としても強められた。96ハワード・W・ハンター大管長は次のように述べている。「今後生まれる世代も含めてあらゆる世代の人々は,エズラ・タフト・ベンソン大管長の管理した時代を振り返るとき,直ちにモルモン書に対する一方ならぬ愛着を思い浮かべるのではないでしょうか。預言者ジョセフ・スミス以降の大管長の中でベンソン大管長ほどモルモン書の真理を教え,全教会員に毎日モルモン書を研究するよう求め,モルモン書で『洪水のごとくに地を満たした』大管長はいたでしょうか。」97
モルモン書に対するベンソン大管長の
ベンソン大管長は,他のテーマについても,熱心に力を込めて教えた。高慢の危険性について警告し,家族が永遠に大切であることについて証した。信仰と悔い改めの原則を教え,献身的な伝道活動が必要であると強調した。
召された初めの頃ほどアメリカ合衆国について話さなくなったものの,教会の1987年10月の総大会で,合衆国憲法が署名されてから200周年を迎えたことについて述べた。また,全世界における自由と真実の愛国心に強い関心を持ち続けた。1980年代後半から1990年代の初めにかけて,ベルリンの壁が崩壊したことやロシアと東ヨーロッパの人々が以前よりも自由を得てそれぞれの政府が宗教の自由を認めたことを,非常に喜んだ。102
ベンソン大管長は,特定の教会員のグループに向けて話すことが何回かあった。1986年4月に始まり,若い男性,若い女性,母親,ホームティーチャー,父親,独身の男性,独身の女性,子供,高齢者に当てた説教を準備した。ハワード・W・ハンター大管長は次のように述べている。「ベンソン大管長はすべての人に語りかけ,関心を寄せていました。教会の女性と男性に語りかけました。高齢者に語りかけました。独身の会員に,また若い会員に語りかけました。教会の子供たちに話すのが大好きでした。それぞれの個人的な状況を問わず,ベンソン大管長は,教会のすべての会員にすばらしい,個別の勧告を与えました。これらの説教はわたしたちを支え続け,わたしたちがこの先何年にもわたってそれについてよく考えるときに,わたしたちを導くものとなることでしょう。」103
ベンソン大管長は,これらの説教の一つに影響を受けたという家族から手紙をもらい,涙を流した。その家族の若い父親は手紙の中で,彼と彼の妻が総大会をテレビで視聴していたことを説明した。彼らの3歳の息子が近くの部屋で遊んでいて,その部屋には総大会の模様がラジオで流されていた。ベンソン大管長の子供向けの話を聴いた後,母親と父親は息子が遊んでいた部屋に行った。すると幼い男の子は,「ほんとうにうれしそうな様子でこう言うのです。『ラジオの人が言ってたよ。たとえぼくたちが間違ったことをしても,それでも天のお父様はぼくたちのことを愛してくれるんだって。』」父親はこのように述べている。「大管長の簡潔な言葉が,息子の心に永遠に消えることのない深い感動を与えたのです。今でも,ベンソン大管長が何とおっしゃったか,と息子に尋ねると,あの日と同じ興奮した答えが返ってきます。息子は,優しく,愛の深い御父が天におられることを知って,心に深い慰めを得ています。」104
1988年10月の総大会のすぐ後,ベンソン大管長は脳卒中を患い,公の場で話すことができなくなった。一時期,総大会や他の公の集会に出席した。1989年の総大会では,大管長が用意した原稿を顧問が読み上げた。1990年からは,大管長が聖徒たちを愛していることを顧問たちが述べ,過去の説教から引用して話した。1991年4月の総大会に出席したのを最後に,ベンソン大管長はテレビで大会の模様を見る以外のことをするのは肉体的に難しくなった。105
ゴードン・B・ヒンクレー大管長はこう回想している。「予想されるように,ベンソン大管長の肉体は年齢とともに衰え始めました。かつてのように歩けなくなりました。かつてのように話すこともできません。少しずついろいろなことができなくなってきましたが,それでも生きている間は主の選ばれた預言者でした。」106ヒンクレー管長とトーマス・S・モンソン管長は,ベンソン大管長から委任された権能によって教会を導いたものの,教会が新しいことを始めるときには,必ずベンソン大管長に相談し,承認を得てから行われた。107
ベンソン大管長がさらに肉体的に衰弱していくのと同時に,フローラの健康も衰え,彼女は1992年8月14日に亡くなった。それから2年もたたない1994年5月30日,ベンソン大管長はフローラのもとへ旅立ち,大管長の遺体は,夫妻が愛したホイットニーでフローラの隣に埋葬された。ベンソン大管長の葬儀で,モンソン管長は次のように回想している。「あるとき,大管長はこのように言いました。『モンソン兄弟,忘れないでください。他の人がどんな提案をしようと,わたしはアイダホ州ホイットニーに埋葬されたいのです。』ベンソン大管長,今日その望みがかないます。大管長の遺体はホイットニーに帰りますが,永遠に生き続ける大管長の霊は,神のみもとへ帰りました。大管長は家族や友達,愛するフローラとともにきっと喜んでいることでしょう。……
神の預言者となった農家の少年は故郷へ帰りました。大管長と出会えたことを神に感謝します。」108